第49話

「……一度だけ、レイラの教育が厳しすぎないか、とリディアに指摘したことがあった。だが、リディアは納得しなかった。レイラはもっと完璧な令嬢になれるのだ、とただその一点張りで聞く耳を持っていなかったというべきかもしれない」


 お父様が、私を気遣うようなことをお母様に仰っていたなんて。知らなかった。知り得るはずが無かった。


「私もそれ以上何も言わなかった。リディアがそうしたいのであれば、そうすればいい、としか思わなかったんだ。それに、教育を施すこと自体は悪いことではない。多少過酷だったとしても、リディアの望む教育によってレイラが公爵家にとって有用な令嬢になるのなら、それで良かったんだ」


「……お父様はお母様をよほど愛しておられるのですね」

 

 お父様とお母様の馴れ初め話の一つも知らない私だが、こんな様子のお父様を見ていれば嫌でも分かる。お父様はかなり深い愛情をお母様に向けておられるのだと。 


「そうだな。リディアがいれば、何もいらない。そう思って結婚したくらいだ」


 お父様は小さな肖像画にそっと触れて、ぽつり、と昔話を始めた。


「……リディアとは、恋愛結婚なんだ。貴族社会では珍しい話だろう。彼女は伯爵家の出身だから、アシュベリー公爵家に嫁ぐことに、当時は謂れの無い非難を受けていたりもした。どれも根も葉もない噂ばかりだったが、リディアはかなり心を痛めて塞ぎこんでしまったんだ」


 あの、いつも毅然としているお母様が? 


 とてもじゃないが想像できなかった。誰にだって弱い部分はあると思うけれど、お母様が塞ぎこむ姿なんて考えたことも無い。


「だからこそ、リディアが公爵家に嫁いできた暁には彼女を尊重しなければ、と思っていた。よほどのことでない限り、彼女のすることに口を挟まないようにしようと決めたんだ。彼女には、出会った時のような自信を取り戻してほしかった」


 確かに、お父様がお母様の行いを咎めている場面など見たことが無い。私に対する教育に一言物申したことが信じられないくらい、お父様はお母様に寛容だった。


「レイラを立派な令嬢に育て上げることが、リディアの何よりの悲願のようだった。それくらい、リディアはレイラに期待していたんだ。レイラへの教育の過酷さは知っていたが、リディアが自信を取り戻してくれるのなら、それでいいと思っていた」


「……私の存在は、お母様より優先すべき事柄ではなかった、ということですね」


「端的に言えばそうだな。私は、お前やローゼよりもリディアを愛している。もちろん、お前たちに何の情もないというわけではないが、リディアを引き合いに出されると、どうしたってリディアが優先になる」


 お父様は私を見上げて淡々と告げた。


「……私は、リディアの良き夫でありたかった。そのためならば、お前たちにとって良き父親でなくてもいいと、そう思っていた節は否めない」


 ここまできっぱり言われると、却って諦めがつくというものだ。愛されたいと願っていた18年間がひどく滑稽なものに思えて、何だか笑えてくる。


 お母様の仰ることを全て鵜呑みにすることだけが、お母様にとっていいことであるとは限らないのに。道を間違えそうなときには、隣でそっと手を差し出して正しい方向へ導くのが、世間でいうところの愛ではないのだろうか。


 でもきっと、お父様のことだからそれは充分に理解した上で、それでもお母様の意思を尊重していたのだろう。私やローゼの親としては間違えた方向に進んでいるかもしれないと分かった上で、お母様と同じ道を進むことを選んだ。お母様のなさることが、公爵家の不利益にならない程度であればそれでいい、と私たちを見限った。


 それはそれで紛れもないお母様への愛の形なのだろうし、否定する気もない。自分がすべて正しいと考えているお母様の性格を考えれば、お父様がその発想に至るのも無理はない気がした。


「……ローゼを可愛がっていたのも、お母様に合わせた結果ですか?」


「そうだ。さっきも言った通り、お前とローゼに向ける愛情に差は無い」


 その愛情自体酷く希薄なものに思えたが、きっと嘘はないのだろう。全てはお母様次第だったということか。


 18年間の執着の正体が、こんなにもあっけないものだったなんて。幼少期から抱え続けた空しさが、いっそ馬鹿馬鹿しく思えてくるくらいだ。


 きっと、たとえ公爵家が取り潰されるような事態になっても、お父様はお母様がいれば幸せなんだろう。お母様がどう思うかは知らないが、献身的なお父様がいればきっと心を病むようなことはない。

 

 本当に、お父様を含めこの王国の男性陣は、何もかも極端すぎて時折嫌になる。思わず、小さな溜息をついてしまった。


「よく言えば一途ですけれど、依存といえば依存ですわね……。そういう血なのかしら……」


 お父様はその言葉にふっと可笑しそうな笑みを見せると、肖像画を元あった場所に丁寧に立てて口を開いた。


「王家の始祖、ルーカス・ルウェインが大層一途な方だったようだな。その気質を受け継いでいるのか、確かに王家や王家に近い家の人間には依存体質の人間が多い。国王陛下もそうだろう。エイムズ公爵家の当主だってそうだ。……話を聞いている限りでは、王太子殿下もその例に漏れないようだな」


 これもある種の血の呪いなのだろうか。魔法の存在を知っている以上、そんな想像が膨らんでしまう。依存体質の人間ばかりが治める国で、ここまでの発展を遂げたのは奇跡的なのではないだろうか。思わず、そんな皮肉気なことを考えてしまった。


「お前たちが過ちを犯したことも、結局は私たちが育て方を間違えたせいなのだろうな……。いや、あの事故さえなければ、お前は立派に王太子妃を務めていたのかもしれないが」


 実の親から言われる「育て方を間違えた」という言葉ほど心に深く刺さるものはない。それはどんな罰よりも重く鋭く、私に消えない傷を残していった。


 でも、私はこれを受け止めなければ。その言葉を言われて当然のことをしたのだ。この痛みを受け止めて初めて、私はお父様と向き合えたと言えるのだろう。


「……今となっては、どこかで明らかになる歪みだったと思いますわ。私は、『完璧』なんてものからは程遠い、視野の狭い人間ですから。ローゼともども親不孝な娘で、本当に申し訳ありません」


「自虐的な物言いだな」


「いいえ、事実として受け止めているだけです。後悔が無いと言えば嘘になりますし、今も胸は痛みますけれど……」


 言葉をなぞるように、そっと胸に手を当ててみる。確かに今も痛む。でも、不思議とお父様の書斎に入る前よりずっと心が軽い気がしていた。


「……それでも、少しだけ気が晴れたような気がします。ようやく、公爵家への執着を終わらせることが出来そうです」


 お父様の亜麻色の瞳を見つめて、私はふっと微笑んで見せた。


「……本当は私、ずっとお父様とお母様に愛されたかったのですよ」


 最後の最後に自分の感情を正直に打ち明ければ、お父様は軽く視線を伏せるように私から目を逸らしてしまった。


「……こんな親で申し訳ない」


 それは、緩やかな拒絶だった。最低限の情はあっても、愛しているわけではないのだと宣言されたことに等しい。


 それを受け入れつつも、やはり悲しいと思う自分もいた。この先どれだけ沢山の人と出会って愛を知ったとしても、親としての愛をくれる人はお父様とお母様しかいないのだから。


 私は一生、両親の愛は得られない。それが確定してしまえば、寂しいけれど、愛を求めていたときよりも不思議なほど心は安らかだった。もう、公爵家にしがみ付く理由も無くなる。


「ふふ……愛されていなかったとしても、私はお父様とお母様が好きでしたわ」

 

「そうか。……いっそ嫌味だったらいいんだが」


「本当に嫌味なんて言おうものなら、お母様が聞いたらお怒りになりそうですわね」


 お母様は、今回の件を知ったらどうなさるだろう。「公爵令嬢として、殿下に誠心誠意お仕えするのです」と告げるお母様の姿が目に浮かぶようだ。ある意味、お母様だけは、自分の感情を押し殺してでも、どこまでも貴族であろうとした人だったのかもしれない。軽く目を瞑って、ふ、と息をついた。


「……お母様は今、どうされているのです?」


「お前を死に物狂いで捜している。お前が帰ってくると信じて疑わないようだ」


「……お母様は、決して私をお許しにならないでしょうね」


「そうだろうな」


 随分とはっきりした言葉だったが、却って気持ちはすっきりした。お母様にとって、私は信じられないほど親不孝な娘なのだろう。でも、私にとってもお母様は母親としては信じられないほど冷淡な人だった。


 愛されなかったことを逆恨みするほどの熱は無いが、それでもお母様の全てを肯定できるかと言われると、正直に言って頷くのは難しい。18年間かけて出来上がってしまったこの溝は、多分、もう埋まることは無いのだ。話し合ったところで平行線であるのは目に見えていた。


 恨むなら、恨めばいい。全ての元凶はローゼとはいえ、私だって常に正しかったわけではないのだ。お母様が私を呪うことで心の均衡を保てるのなら、公爵家から姿を消したこの先も、私は「恩知らずな娘役」を謹んでお受けしよう。


 我ながら皮肉気な物言いだったが、言い得て妙な気がする。結局はこの18年間も、私はお母様にとって「完璧な令嬢役」でしかなかったのだろう。この先は、少し役柄が変わるだけだ。悲劇にも程がある舞台だけれど、私たちにはお似合いな気がしていた。


「……それで、お前は、今までどこにいたんだ?」


 愛していなくても、娘がどこにいたのかくらいは気にかかるらしい。私はふっと微笑みながら正直に告げた。


「幻の王都ですわ、お父様」


「幻の王都?」


 お父様の目が訝し気に私を見つめる。御伽噺の存在を、お父様が信じるはずもない。それどころか、ルウェイン一族を崇めるこの国の宗教を知っている者が聞けば、神の御許に召されたと捉えられなくもない表現だ。


「でもこれから、ルウェイン教の修道院へ入ります。そこでやるべきことがありますので」


 なるべくにこやかに微笑めば、お父様は小さく溜息をついて頬を緩めた。どことなく冷ややかにも取れる笑みだが、お父様は今日はいつになく表情が豊かだ。


「……公爵家にいたときよりも随分幸せそうだな」


「ええ。どうぞ、この先は私のことはご心配なく」

 

 きっと、ローゼのことで対応に追われて、私のことを考える余裕などなくなるはずだ。お父様もお母様を支えるので精一杯だろう。


 私はお父様の前で改めて姿勢を正すと、ドレスを摘まんでゆっくりと礼をした。18年の人生で見ても、五本の指に入る出来栄えだ。最後に、令嬢らしい姿をお父様にお見せできてよかった。


「それではお父様、御機嫌よう。お母様といつまでもお幸せにお暮らしになりますよう、遠い幻の中で祈っておりますわ」


 数秒間の沈黙が、二人の間に流れる。これで最後だ、お別れなのだ。


「見事な礼だ。……いつの間にか、こんなに大きくなっていたんだな」


 哀愁の混じったその声は、恐らく父親としての最初で最後の言葉だった。礼を続けていたせいで、その表情を窺うことは出来なかったのが少しだけ残念なような気がする。でも、親子とは思えないような細い繋がりの私たちには、似合いの終着点かもしれない。


 やがて顔を上げ、お父様のお顔を一瞥した後に、今度こそ踵を返した。本の海に飛び込めば、すぐにお父様の気配は遠ざかっていく。


 さようなら、お父様、お母様。


 心の中でお二人に別れを告げる。これで、本当に終わりだ。罪悪感や感傷的な気持ちが無いとは言い切れないけれど、今となってはこの道を選んでよかったと思える。結果的に、私はローゼやお父様の気持ちを知ることが出来たのだから。


 私は書斎のドアに手をかけて、月明かりに満ちたひやりとした廊下に足を踏み出した。その先で待つ、愛しい人が紫紺の瞳で微笑みかけてくれる。


「さっぱりした顔をしているね」


「ええ、随分心が軽くなったような気がします」


 執着を取り払った部分に、私はこの人への愛を積み上げて行こう。そんな決意を心に刻みながら、リーンハルトさんの手を取って頬を緩めるのだった。

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