第48話

 私たちはなるべく物音を立てないよう細心の注意を払いながら、お父様の書斎へ向かった。窓から差し込む月明かりのお陰で、思っていたよりもずっと移動しやすかったのは救いだ。


 この屋敷で18年間暮らしていた私だが、お父様の書斎になど入ったことが無い。会話さえも、ほとんどしてこなかったのだ。血の繋がった親子であるのに、心の繋がりは間違いなく、私付きのメイドたちよりもずっと希薄なものだった。


 やがてお父様の書斎の前について、私は小さく息を整える。他の部屋とそう変わらない扉であるのにどことなく物々しく感じるのは、ここが未知の領域だからなのかもしれない。一度だけ胸に手を当てて、深呼吸した。そんな私の背を、リーンハルトさんが摩ってくれる。


「……勝手を申し上げるようで心苦しいのですが、この部屋には私一人で入らせてください。私は、ここで公爵家と決別しなければなりませんので」


 数々のお別れを告げてきた私だったが、緊張という意味では今が最高潮だった。18年間囚われ続けた公爵家から、私は本当の意味で解放されることが出来るだろうか。報われない愛に執着して、間違いを犯した自分自身に別れを告げることが出来るだろうか。


 お父様に会いに行くというだけなのに、何だか大袈裟だ。でも、それくらい私の中では大きな試練だった。一度だけ目を瞑って、お父様の書斎のドアをじっと見つめる。


「分かったよ。僕のことは気にする必要ない。ここで待っているから」


「……ありがとうございます」


 リーンハルトさんが待っていてくださる。そう思うだけで、不思議と扉を開く勇気が湧いてくる気がした。


「では、行って参りますね」


「うん、ごゆっくり」


 夜の気配に冷え切ったドアノブに手を乗せて、そっと力を込めた。僅かに軋んだ音を立てて開いたドアを潜り抜け、未知の領域に足を踏み入れる。


 



 お父様の書斎は、ちょっとした図書館と呼べるくらいの蔵書が揃っていた。王太子妃教育の一環で一般的な令嬢よりは本を読んできた自負のある私だったが、この数には敵わない。


 ……お父様は、ここにある本を全てお読みになったのかしら。


 地理、経済、王国の歴史、果てには薬草学なんかの専門書から、有名な文学作品まで何でも揃っていた。読んだことのない本がたくさんあるのを見ると、不思議と心が躍る。もう少し早く、これらの本の存在を知りたかった。


 もっとも、知っていてもお父様に本を借りたいなんてお願いする勇気は無かったでしょうけれど。


 本当に親子とは思えない関係の薄さに、思わずふっと笑みが零れてしまう。そんなお父様が、私のこの手紙を読んだらどう思われるだろう。どれだけ考えてもやはり予想がつかなくて、却って恐怖は薄れていた。


 そのまま月明かりを頼りに部屋の奥へと進んでいくと、ふと、橙色の光が漏れていることに気づいた。そこで机に伏せるようにして佇む人影を認めて、咄嗟に本棚に体を寄せる。


 ……お父様が、いらっしゃるわ。


 お父様に会いに来たというのに、その姿を見ただけで妙に緊張してしまう。そっと胸に手を当てて呼吸を落ち着かせる。書斎にいてくださったことにまずは感謝しながら、どのように姿を現すべきか考えた。


 だが、お仕事をしているにしては妙に静かな部屋に違和感を覚える。ペンを走らせる音も書類を捲る音も聞こえない。それに、一瞬だけ見たあの姿勢からして、もしかするとお休みになられているのかもしれない。


 意を決して、本棚から少しだけ顔を出してお父様の様子を窺う。規則正しく上下する背中から判断するに、お仕事中にお休みになってしまったのだろう。お父様を驚かせないよう、物音を立てないように気を付けながら、私は執務机の方へと向かった。


 お父様を間近で見ると、3か月前より白髪が増えたような気がした。私が逃げ出したことで、ご迷惑をおかけしてしまっただろうか。一般的な家族らしい深い情はないとはいえ、申し訳ない気持ちが込み上げた。


 ふと、執務机に飾られている小さな肖像画が目に留まる。そこに描かれていたのは、この世のあらゆる祝福を受けたかのように美しく微笑むお母様の姿だった。


 これには少し驚いた。正直に言って意外だ。当然、私の肖像画などないだろうと思っていたが、ローゼの肖像画はあると踏んでいたのに。あれだけ溺愛していたのだから、何枚か飾られていても不思議はないと思っていた。


 思わず辺りを見渡して、壁に飾られていないか探したけれど、やはりローゼの絵は無かった。代わりに、棚の中にお母様の若い頃の肖像画を見つける。ローゼにそっくりだが、やはりお母様の方が気品のある佇まいをなさっていた。


 あまりにお父様との関係は希薄だったから、お父様がお母様をどう思われているかもよく分かっていなかったけれど、このご様子では随分愛していらっしゃるらしい。いつも無愛想で無口なお父様にも、情熱的な部分はあったのだ。


 だからこそ余計に、お父様はお母様似のローゼが可愛くて仕方なかったのかもしれない。18年間の謎の一部が解けたような気がした。


 一連の騒動の真相を書き記した手紙を机にそっと置き、改めてお父様の姿をじっと眺める。どのようにお声がけすべきか迷っていると、不意にお父様は身じろぎをして顔を上げた。


「……誰だ?」


 僅かに警戒の色が混じるその声を、一瞬懐かしんでしまう。たった3か月離れただけなのに、随分長い旅に出ていたような、そんな錯覚を覚えた。


 戸惑いと共にお父様の姿を眺めていると、すぐにお父様の亜麻色の瞳と目が合った。同じ亜麻色でも、私より少し深い色で落ち着いた印象を与える目だ。その目が揺らいだところなど見たことが無い。そしてそれは、この状況でも例外ではなかったようだ。


「……レイラ?」


「……お久しぶりです、お父様」


 令嬢らしい微笑みを崩さないよう気を付けながら、私は小さく礼をした。お父様はしばらく無言で私を見つめていたが、軽く目の間に手を当てて溜息をつく。


「……嫌に明瞭な夢だな」


 夢、そうか、そう思ってくださっているのか。書斎で寝てしまった状況と、私がここにいるという不自然さからその判断に至ったのかもしれない。あるいは、夢という体で私と話してくださることにしたのかもしれないが、お父様とお話が出来るのならどちらでも構わなかった。


 私はふっと微笑んで、お父様の言葉を肯定するように頷いて見せた。


「お父様に、どうしてもお伝えしたいことがございまして」


「伝えたいこと?」


「……言葉でお伝えするには荷が重いので、そちらの手紙を読んでいただけますか?」


 感情を交えずに伝えるのなら、口で言うよりも文字の方が確実だ。お父様を前に、言い訳がましい言葉が混じらないとも言いきれない。私はお父様が手紙の封を開けるのをじっと見守りながら、震えだしそうになる指先をぎゅっと握った。


 お父様は何も言わずじっと手紙を見つめていた。ローゼが身ごもった子どもの父親が殿下ではないこと、ローゼが殿下に睡眠薬を盛ったこと、私が馬に蹴られたあの事故はローゼが引き起こしたものであること、そして事故の真相を私が隠そうとしたこと、その全てが書き連ねられている。


 沈黙が、やけに重苦しかった。お父様の反応が予想できない。予想できるほどお父様のことを知らないのだから無理もないのだけれども。


 置時計が規則正しく針を進める音に、耳を澄ませる。妙に居心地の悪い時間が続いていた。


「ローゼ……」


 今も地下牢にいる彼女の名前を呼ぶお父様の声は、悲哀と驚きに満ちていて、それ以上の言葉が出て来ないのだと悟った。そのまま再び沈黙が訪れる。


「……これは、全て事実なんだな」


 永遠にも思える数分間の後、お父様は静かな声で尋ねた。ローゼはこんな子じゃない、とか、こんなことになったのは、お前が姉としてきちんと見守ってやらなかったからだ、とか思っていたとしても言わないのがお父様だ。その静かな一言の裏に隠されたあらゆる感情を推し量りながら、私は軽く視線を伏せ、小さく頷いて見せる。


「はい。……申し訳ありません」


 こんな言葉一つで許されるはずがないことは分かっている。それでも口にせずにはいられなかった。


「……本当は、公爵家を救う道もあったのです。私が殿下に身を捧げれば、ローゼの命を救い、公爵家を守ることが出来ました」


 お父様がお怒りになる姿など見たことは無かったけれど、これには叱られる覚悟を決めた。アシュベリー公爵家からすれば、私は立派な裏切り者だ。


「……王太子殿下もなかなか品の無い取引をなさるな」


 思わず目を瞑って、殴られるくらいのことは覚悟していたのというのに、お父様の言葉は酷くあっさりとしていた。思わず訝し気な眼差しを向けてしまう。


「……お怒りにならないのですか?」


「お前に対して怒りをぶつけたところで、今更どうしようもないだろう」


 お父様は諦念の滲んだ深い溜息をついて、手紙を机の上に置いた。その反応はあまりにも意外過ぎて、戸惑いを隠しきれない。


「……お父様は私に対してお怒りになると思っておりました。公爵家を救う道があったのに、なぜ選ばなかったのか、と」


「殿下に身を捧げるのが嫌だったんだろう。お前が縋っていた公爵令嬢としての立場を投げ出すくらいには」


 何から何まで予想外過ぎて、ついに返す言葉も無くなってしまった。お父様は私を見上げて、表情を変えずにぽつりと呟いた。


「……一人で抱えるには大きな秘密だっただろうな」


「そんな……ことは……」


 ここが夢の中だと思っているからか、お父様はやけに饒舌だ。もう既に、言葉の数だけで言えば2,3年分の会話をしている。

 

「心底意外だという顔をしているな」


「え、ええ……お父様は私の存在にご興味が無いものだとばかり思っておりましたから」


 嫌われている、というわけではないだろうが、興味が無いのは確かだと思っていた。そんな私の言葉に、珍しくお父様はふっと笑ってみせる。


「まあ、そう言われても仕方がないな。あの態度では」


「実のところは違うと仰りたいのですか?」


 私がどれだけ空しさを抱えて幼少期を過ごしたと思っているのだ。つかみどころのない言葉ばかり口にするお父様を前に、どんな表情をするべきか分からなくなる。


「そうだな、私にとってはレイラもローゼも変わらないよ。同じくらい愛しているし、同じくらい興味がなかったといってもいい」


「……失礼を承知で申し上げますが、私とローゼを対等に扱っていたと思われているのなら、認識を改められた方がよろしいかと思いますわ。あまりに偏っておりますもの」


「対等に扱っていたとは思わない。明確な差別があっただろうな。リディアは、レイラにはあまりにも厳しかった」


 お父様は小さく溜息をつくと、机の上の小さな肖像画を手に取った。絵の中のお母様を見つめる視線はいつになく優し気で、お母様への想いの深さが窺える。

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