第51話

「へえ、そんなことがあったのか……。レイラの演技は僕も見てみたかったなあ」


 日付が変わるころ、今日も約束通りリーンハルトさんは修道院のバルコニーに姿を現してくださった。いつも、異変はないか確認した後は、30分ほど他愛もない話に花を咲かせるのだ。


 今夜も、私は昼間にあったことをリーンハルトさんにお話したところだった。リーンハルトさんはいつだって、慈しむような表情を浮かべて私の話に耳を傾けて下さる。


「リーンハルトさんにお見せするわけにはいきませんわ。ヘレナさんにも笑われてしまいましたし……」


「グレーテは喜びそうだよ。そういえば、今日もレイラに会いたいって駄々こねていたなあ……」


「ふふ、私も早くお会いしたいです。もちろん、シャルロッテさんにも」


 シャルロッテさんには、リーンハルトさんから今回の騒動のことは伝えていただいている。いきなり私が姿を晦ましたせいで、相当なご心配をおかけしてしまっただろう。再会したときにはきちんと謝らなければ。


 ふと、リーンハルトさんが私の手を取ると、痛々しいものを見るような目で私の手に視線を落とした。このところ、掃除やお皿洗いで少し手が荒れてしまっているのだ。幻の王都で家事をしていた時とは桁違いの作業量だから、無理もない。


「痛そうだね、治そうか?」


「いえ、急に治っていたら皆さんに不思議に思われてしまいますし、大して痛くありませんもの。心配してくださってありがとうございます」


 手が荒れていると言っても、指先が少しだけささくれていたり、乾燥気味であるというだけなのだ。ヘレナさんの手はもっと細かな傷がついていた。このくらいで嘆いていられない。

 

「じゃあ、2日後には綺麗に治してあげるよ」


 リーンハルトさんは私の手を包み込むようにして握ると、穏やかな笑みを浮かべた。その手の温かさに、心が安らいでいく。


「レイラは幻の王都へ帰ったら何をしたい?」


「そうですわね……。お花畑やお店にも行きたいですが、まずはリーンハルトさんとゆっくりお茶をしたいです」


 久しぶりに、リーンハルトさんが淹れてくださった紅茶が飲みたかった。修道院で自分で淹れる練習もしてみたが、やはりあの味には敵わない。もっとも、私が淹れた紅茶でもヘレナさんは喜んでくれたのだけれども。


「確かに、レイラにはまず休息が必要だね。準備をしておくよ」


 リーンハルトさんはそう言いながら、風になびいた私の髪をそっと耳にかけてくれる。本当に、彼が私に触れる手はいつだって優しい。彼が深い愛を向けてくれているのだといつでも実感できた。


 私も早く、その想いに応えたい。私の耳に触れたリーンハルトさんの手に頬を寄せながら、彼を見上げた。銀色の三日月を背にして私を見下ろすリーンハルトさんの姿は、いかにも魔術師という雰囲気が醸し出されていて、思わず見惚れてしまう。


「……そんな目で見られると、このまま連れ去りたくなるな」


 リーンハルトさんの手が私の頬を撫でる。その心地よさに頬を緩めながらも、心臓は早鐘を打っていた。甘い、あまりにも甘い時間だ。リーンハルトさんと出会って3か月が経つというのに、この甘さには未だ慣れなかった。


「私も、リーンハルトさんのお屋敷に帰るのが待ち遠しいです」


 そのままどちらからともなく、ぎゅっと抱きしめ合った。リーンハルトさんの香りと温もりは、どうしてこんなにも安心するのだろう。いつまでもこうしていたい。そんなありきたりな言葉が浮かぶほどに、私はリーンハルトさんに恋い焦がれていた。

 

 少し冷たい夜風が、酔ってしまいそうなほどの甘さを誤魔化してくれる。


 駄目だ。これ以上一緒にいると本当に離れたくなくなってしまいそうだ。その想いはリーンハルトさんも同じだったのか、視線が絡むなりお互い腕の力を弱めた。


「今日はこのくらいにしておこうか。レイラは明日も早いんだよね」


「……ええ。今夜も遅くまでお付き合いいただいてありがとうございます」


 リーンハルトさんはどこか名残惜しそうに私の髪を撫でると、ふっと優しく微笑んだ。その表情に明らかな寂しさが滲んでいるのを見て、胸の奥がきゅっと締め付けられる。そのくらい、私の存在は彼に求められているのだと感じて何だか恥ずかしくなってしまった。


 早く、この心優しい魔術師様を安心させて差し上げたいわ。


 愛しい人の寂し気な表情を見るのは、やはり切ないものがある。彼にはいつでも穏やかに笑っていてほしい。そのために私が必要だと言うのならば、私は何でもできるような気がした。


「おやすみ、レイラ。良い夢を」


「ええ、おやすみなさいませ、リーンハルトさん」

 

 リーンハルトさんは私の指先にそっと口付けると、すぐに手を離し転移魔法を発動させた。一瞬で彼の姿が目の前から消える。転移魔法の名残なのか、ペンダントの石によく似た紺色や金、銀の光が僅かに舞っていた。三日月の浮かぶ夜空を背景にしたその景色は、目に焼きつくほどに美しい。


 リーンハルトさんが口付けてくださった指先をそっと握りしめ、彼の熱の残りを追う。そのまま切なさを沈めるように一度だけ深呼吸をして、私は一人、修道院の中へと戻ったのだった。

 




 真夜中の修道院は当然ながら静まり返っている。一応、消灯時間はあるのだが、修道院の中では基本的に自由に過ごすことが出来た。熱心な修道女は礼拝堂で祈りを捧げていることもあるし、翌日の料理の仕込み当番で夜更かしをする者もいる。そうかと思えばのんびりとお茶を嗜んだり、読書をしたりとゆったりとした時間を過ごす修道女もいた。


 礼拝と日々の仕事をきちんとこなしていれば、ここはそれほど厳しい場所ではないのだ。常識的な範囲の行動であれば、誰も咎めたりはしない。


 私が夜中に部屋を抜け出すのも、そういった自由な行動の一環だと思われているようだった。一度だけヘレナさんに、真夜中に何をしているのか訊かれたことがあるが、まさか「私たちが崇めている魔術師様に会いに行くのです」とは言えないので、星空を見ているのだと誤魔化した。ヘレナさんはそれで納得したようで、「寝不足にならないようにね」とやはり妹に対する助言のような言葉をかけてくれた。


 バルコニーから降りると、朝昼晩と礼拝を行うメインの礼拝堂に出る。色とりどりのステンドグラスが月明かりに透けていてとても綺麗だ。色のついた影を辿るようにして広間の中心に躍り出れば、大きなルウェインの家紋を見上げることが出来る。苦労して刺繍したことがあるだけに、細部まで記憶しているそれは、こうして礼拝堂で見るとやはり神聖なもののように思えてならない。


 不思議だわ、さっきまで抱きしめ合っていたリーンハルトさんの家の家紋だというのに。


 礼拝をしていると、ルウェイン一族はとても遠く神聖なものに感じてしまうが、実際の幻の王都の人々は皆、気さくで温かい人たちばかりなのだ。そんなイメージの食い違いに慣れないまま、5日目の夜を終えようとしている。


 そんなとき、ふと、広間の傍の廊下で足音が響いた気がして、何気なくそちらを見やった。


 この修道院は王国の中でもかなり大きいので、目的別に礼拝堂がいくつかある。私たちが使うのは基本的にこのメインの主礼拝堂なのだが、この礼拝堂の左右には、通称「氷の礼拝堂」と「花の礼拝堂」と呼ばれる二つの小さな部屋がある。今は氷の礼拝堂の方で足音がした。


 修道女たちが履いている柔らかい革靴が響かせる足音にしては、やけに固い印象を覚えるその音に、僅かな違和感を抱いた。修道院は夜も開放しているには開放しているのだが、祭りや宗教的に特別な期間でない限り、真夜中に外部の人が訪れることは稀なのだ。来るとすれば怪我人が殆どだという話をヘレナさんから聞いていたので、妙に嫌な予感がする。ヘレナさんの話通り、怪我人だったら大変だ。


 ただ単に信者が祈りに来ているだけだとしたら申し訳ないが、怪我人が助けを求めてここに来ているのだとすれば、このまま見過ごすわけにいかない。軽く様子を見るつもりで、私は氷の礼拝堂に向かった。






 ステンドグラスで色づいた影をくぐり、月明かりを頼りに氷の礼拝堂の前まで足を運ぶ。僅かに開かれた金属製の扉の隙間から、そっと中の様子を窺った。


 氷の礼拝堂は、その名の通り床も壁も天井も、まるで氷でできたかのように光沢のある一風変わった礼拝堂だった。真っ白な床はまるで雪のようで、冬の澄んだ空気感を思わせてくれる。どこか幻想的なこの部屋は、私のお気に入りだった。規模としてはメインの礼拝堂の半分もないために、個人や家族が祈る場所として用いられることが殆どだ。


 そんな、氷のような冷たささえ感じる礼拝堂の中で、真夜中の客人は一人佇んでいた。天井付近の大きな窓から差し込む月明かりに照らされ、中央に掲げられたルウェインの家紋を見上げている。


 だが、その人が僅かに動いた瞬間にきらりと煌めいた銀の髪を見て、私は息を飲んだ。思わず、扉に背をつけるようにして、相手から姿を隠す。


「っ……」


 一瞬、目の前が真っ白になった。それくらいの衝撃だ。限界まで急加速する脈を何とか静めるように、思わず胸に手を当てた。


 どうして、殿下が、ここに。


 ばくばくと、耳の奥で響く心臓の音を聞きながら何とか状況を把握しようと試みた。書き置きで残した約束の日は2日後のはずだ。真摯に向き合おうと考えて起こした行動だったけれど、こうも急な訪問だと心の準備がまるでできていない。


 来てくださるだろうかと危ぶんだことはあったけれど、約束の日よりも早くいらっしゃるなんて。しかも、日付も変わるようなこんな真夜中に、だ。


 思わず、服の中に忍ばせたペンダントをぎゅっと握りしめた。想定外の事態だが、リーンハルトさんに言われた通り、ちゃんとペンダントを身に着けていたことは幸いだった。


 ご多忙な殿下だから、もしかすると今夜しか時間を取れなかったのかもしれない。殿下の姿を見てしまった以上、わざわざここまで足を運んでくださった彼に会わないという選択肢は無かった。何度か深呼吸を繰り返して、動揺する心を落ち着かせようと試みる。


 だがその瞬間、背の高い二人の人影が視界に映り一気に詰めよってきた。思わず声を上げそうになったが、詰めよって来たうちの一人の手に口を押さえられて、それは叶わずに終わる。


 彼らが詰めよって来たことで、月明かりに照らされてようやく分かったのだが、どうやらこの二人は殿下の護衛騎士のようだ。以前、私に剣を向けた騎士たちだ。あのときの恐怖が蘇って、怯えるような目で彼らを見上げてしまう。


「失礼いたします、アシュベリー嬢。騒がれては困りますので。……お部屋にいらっしゃらないと思ったら、こちらにいらしていたのですね。ちょうどよかった。王太子殿下がこの先の礼拝堂でお待ちです」


 囁くような声で、騎士の青年は告げた。いつの間にか修道院の部屋まで把握されていたらしい。王家の内通者でもいるのだろうか、と考えながらも、私は頷いて騒ぎ立てない意を示した。


 どうやら今回は私を捕らえる気はないようで安心した。いや、それももしかすると早計な判断なのかもしれないが、今回は私の居場所がリーンハルトさんに伝わる指輪もあるのだ。たとえ連れ去られたとしても、すぐにリーンハルトさんが気付いて下さる。この間のような心配はいらない。


 当初の計画通り、リーンハルトさんが傍にいらっしゃらないことだけが懸念されるが、この際仕方がない。騎士の手が口から離されると同時に、もう一度だけ深く息をついて呼吸を整えた。


「……分かりました。今、参ります」


 騎士を見上げてなるべく毅然とした態度でそう答える。そして少し開いたままの冷たい金属の扉に触れて、氷の礼拝堂へと足を踏み入れた。


 柔らかい革靴を履いているから、足音はあまり響かない。けれども殿下は気配でお気づきになったようで、ゆっくりとこちらを振り返った。それと同時に背後で扉が閉まる金属音が響く。


 殿下は月の光を背に負って、端整に微笑んで見せた。逆光でその蒼色の瞳をはっきりと見ることは出来なかったが、視線が合ったという直感だけでびくりと肩が震えそうになる。


 駄目だ、気を強く持たなければ。私は、この方と向き合うことに決めたのだから。


 殿下の微笑みに応えるように、私も令嬢らしい微笑みを浮かべ、白い修道服の裾を摘まんでゆっくりと礼をした。指先が震えてしまうのを誤魔化すように、ぎゅっと強く手を握りしめる。


 伏せた視線をそっと殿下に戻せば、二人の視線がかち合った。思わず息を飲んで、覚悟を決める。


 これが、私がこの王国で成し遂げるべき最後の仕事だ。殿下と――否、ルイスと、きちんと向き合わなければ。これを果たさなければ、私も彼も前に進めないのだから。

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