第45話
ゆっくりと開かれた扉の先に姿を現したのは、やはりモニカだった。片手に銀のトレーを持っているから、ティーセットを片付けに来たのだろう。モニカは、そのままテーブルの方へと向かおうとしていた。
「モニカ」
そっと呼びかければ、モニカが小さな微笑みと共にこちらを向く。だが、私の隣にいるリーンハルトさんに驚いたのか、トレーを床に落としてしまった。無理もない。気遣いが足りなかったと反省し、慌てて彼女に駆け寄る。
「ごめんなさい、驚かせてしまいましたね」
軽く屈んでモニカの手を引き立ち上がらせる。モニカは私とリーンハルトさんを見比べるようにして、視線で説明を求めていた。
「モニカ、紹介します。こちらは、私の……恋人の魔術師様です。転移魔法で、私に会いに来て下さったのですよ。……信じられないかもしれませんが」
魔術師は一般的には伝説上の存在に過ぎない。モニカの表情に明らかな動揺が広がる。私を否定しようという視線ではなく、魔術師という存在を受け止め切れていないような素振りだった。
私は私で、自分で行ったことなのだけれども、リーンハルトさんのことを「恋人」と表現したことに戸惑いを覚えていた。プロポーズを私が延期させてしまった以上、リーンハルトさんとの関係に他に相応しい言葉が見つからなかったのだ。もっとも、言葉で恋人とはっきり確かめ合ったわけではないのだけれど、第三者にその微妙な関係性が伝わるはずもない。対外的には恋人と説明したほうがよさそうだ。
「初めまして、レイラの小さなご友人。リーンハルト・ルウェインです」
リーンハルトさんはモニカに視線を合わせるように軽く屈むと、ぱっと魔法でアネモネの花を一輪取り出した。モニカのヘーゼルの瞳が大きく見開かれる。
「ふふ、驚きましたか。無理もありませんね」
リーンハルトさんはモニカにアネモネの花を手渡して、安心させるように微笑んでいた。モニカの頬が僅かに赤く染まるのが分かる。その反応も散々私が通ってきた道なだけに、気持ちはよく分かった。こんな綺麗な人に花を差し出されて、赤面しない女の子の方が少ないだろう。
「リーンハルトさん、こちらはこの2週間、私に付き添ってくれていたメイドのモニカです。没収されていたリーンハルトさんから頂いたペンダントを、こっそり私に届けてくれたのも彼女なのですよ」
「それは感謝してもしきれないな。こんなに小さいのに、君はこの逃走劇の立派な立役者だね」
リーンハルトさんはモニカに向ける笑みを深めた。
「ありがとう、レイラを助けてくれて」
リーンハルトさんはとても優し気な声音で礼を述べた。彼にとっては何でもないことなのだろうけれど、モニカは可哀想なくらい真っ赤になってしまって、その微笑ましい様子に私は思わずくすくすと笑ってしまった。
こんな状況下でも、穏やかな時間を過ごせるなんて思ってもみなかった。怯えずに過ごすことはあまりにも久しぶりで、安らぎを感じることにまだ慣れない。幻の王都では、毎日のようにこんな日々を過ごしていたのに。
ひとしきり笑い合った後、私は改めてモニカのヘーゼルの瞳を見つめた。私を支えてくれた小さな友人に、この先の計画を打ち明けなければ。
「モニカ、よく聞いてください。……私は、リーンハルトさんに手伝って頂いて、今からルウェイン教の修道院へ行きます」
モニカの小さな肩に手を乗せて言い聞かせるように告げれば、赤面していたモニカの表情に真剣味が帯びる。
私が修道院に入った後、モニカはどうなるだろう。彼女もこの建物から出られない身の上のようだったが、私を逃がした疑いをかけられることは無いだろうか。どうしても気にかかってしまう。
「……モニカは、大丈夫でしょうか。あなたをここに残して、殿下に罰を与えられないか心配です」
王城勤めのメイドを勝手に連れ出すことは許されないが、彼女の命が懸かっているなら話は別だ。私が罪を被ってでも、モニカの安全を確保したかった。
だが、モニカはにこりと微笑むと私の手を取って、手のひらを指でなぞり始めた。きっと、文字を書いてくれているのだろうと思ったが、くすぐったい感覚になかなか慣れず、何度か書いてもらった上でようやく読み取ることが出来た。
『モニカ だいじょうぶ やくそく あるから』
「……約束?」
モニカはこくりと頷くと、指の動きを再開した。
『モニカ 母さん でんか うば』
乳母、というつづりを思い出すのに暫く戸惑っていたようだが、モニカはそんな単語の羅列を書き上げた。これは意外な事実だ。
「……モニカのお母様は、殿下の乳母を務めていらっしゃったのですか? では、モニカには殿下と年の近いお兄様かお姉様もいるのですね」
確か、殿下の乳母はもう何年も前に亡くなっていたはずだ。面識はなかったけれど、幼い殿下を支えてくださったお優しい方だという話を聞いたことがある。
『姉さん いた でも しんだ』
モニカは表情一つ変えず、淡々とそう書き記した。悪いことを聞いてしまった。
「……そうでしたか、不躾な質問でした」
モニカははにかんで首を横に振る。そのまま私の掌をなぞり続けた。
『母さん でんか やくそく モニカ よろしく』
モニカは私の表情を窺うようにこちらを見上げた。伝わっているか不安だったのだろう。私は指で記された単語を思い出して、モニカに確認する。
「モニカのお母様は、殿下にモニカのことを頼まれたのですね? モニカのことを大切に扱うように、と」
モニカは伝わったことが嬉しかったのか、何度も頷いて見せた。癖のある赤毛が揺れる。モニカのお母様も彼女のような綺麗な赤毛だったのだろうか。
『でんか レイラ いじわるした でも でんか やくそく まもる』
「……そうですわね、殿下は約束を破ったことは一度もありませんから。それは私もよく存じております」
婚約者時代に、彼が約束を破ったことは無い。月に一度の顔合わせの時も、約束の時間に遅れることは一度も無かった。今回の取引にしたって、期限を守って下さった。監禁という手段自体は不当だが、約束を守るという誠実さは確かにあって、その不均衡さこそが私への想いの証なのだろうかと思うと、少しだけ、胸が痛む。
胸に湧き起こった僅かな感傷と、自分の心の甘さの象徴であるかのような罪悪感を慌てて振り払う。ともかく、殿下は約束を守る方なのだ。その律儀なところは紛れもなく殿下の長所というべきで、私は今も忘れていない。
『だから モニカ だいじょうぶ レイラ にげて』
モニカは真剣な眼差しで私を見つめていた。彼女の言う通り、きっと殿下はモニカのお母様である乳母との約束を破ったりはしないだろう。少なくとも、モニカが私を逃がしたという証拠もなしに彼女を罰するような真似はしないはずだ。彼に虐げられた今でも、そのわずかな信頼だけは残っていた。
「モニカは、ここにいたいですか?」
『モニカ ここ すき ともだち』
いくつか単語を書いて混乱してしまったのか、モニカは口元に手を当てて考え込んでいた。何となく意味は伝わったので、そっとモニカの赤毛を撫でる。
「伝わりましたよ。モニカのお友だちが、ここにはいらっしゃるのですね。使用人の皆さんですか?」
モニカは何度も頷いて、私の手をぎゅっと握った。その可愛らしい笑みに、心が癒される。寂しいが、モニカとはここでお別れのようだ。
「そういうことであれば、少しだけ安心しました」
それを告げると同時に、そのままそっとモニカの小さな体を抱きしめる。
「……あなたがいてくれたおかげで、私はこの2週間、心を壊さずにいられました。モニカには、感謝してもしきれません」
モニカの存在が、どれだけ癒しになっていたか。モニカがいてくれなければ、私はどこかのタイミングですべてを諦めてしまっていたかもしれない。
その感謝を込めてモニカを抱きしめ続けていると、やがてモニカも私の背中に手を回した。始めこそぎこちない仕草だったが、次第にその力が強くなる。
やがてモニカは私から体を離すと、私の右手を取って掌を指でなぞり始めた。再び指で文字を書いてくれているのだろうと思い、その一つ一つの動きに注意を払う。
『どうか おげんきで』
本当に、モニカは聡明な子だ。少し前まで文字が書けなかったとは思えない。彼女の成長に思わず涙ぐみながら、私は大きく頷いた。
「ありがとう、モニカ。モニカも、頑張りすぎないでくださいね。文字は殆ど書けるようになりましたから、あとは単語の綴りを覚えて行けばすぐに使いこなせるようになるはずです」
モニカはどこか嬉しそうにはにかんで、もう一度頷いてくれた。長い時間教えられたわけではなかったけれど、彼女のためになったのならよかった。読み書きができるようになれば、将来の選択肢も広がるだろう。
「へえ、レイラはこの子に文字を教えていたのか」
「はい。教えるとはいっても、とても拙いものですが……」
下手するとリーンハルトさんは手放しに褒め称えてくる気がして、なるべく何でもないことのように微笑んで誤魔化した。だが、モニカは首を横に振って私の掌を取り、指先で文字を描いた。
『レイラ おしえる じょうず』
モニカの言葉は素直に嬉しかった。人に何かを教えるというのは初めてのことだったけれど、こうして喜んでもらえたのなら何よりだ。思わずモニカの赤毛を撫でて、ヘーゼルの瞳に笑いかける。
「ありがとうございます。モニカにそう言ってもらえると、自信が持てましたわ」
そう述べてから、私は朝にモニカが結い上げてくれたハーフアップの髪を解き、菫色のリボンを手にする。光沢のある菫色の生地の端に細やかなレースの付いた可憐な代物だ。
「……使ったもので申し訳ありませんが、どうかこれを私の忘れ形見に受け取って頂けますか」
モニカの掌の上にリボンを乗せると、彼女はぱっと表情を明るくさせて頷いてくれた。彼女がメイドの業務中に着けるには少々派手かもしれないので実用的ではないが、私とモニカを繋ぐ品と言えばこれだった。
モニカは大事そうにリボンを握りしめると、再び私に抱きついてきた。それに応えるように、もう一度だけ私もモニカを抱きしめる。
「どうかお元気で、モニカ」
その言葉を合図に、私たちは離れた。多分もう二度とこの温もりに触れることは無いのだと思うと、寂しさは拭いきれない。だが、ここで泣いているようではこの夜を明かせないだろう。別れの切なさを誤魔化すように微笑んで、私はその場に立ち上がった。
「……そろそろ参りましょう、リーンハルトさん。夜が明ける前に、修道院へ辿り着いた方が安全ですものね」
そう言いながらすっと立ち上がれば、リーンハルトさんが私の腰に手を回してそっと引き寄せてくれる。
「レイラは妹さんのところへ行きたいんだよね?」
「ええ、お願いできますか? 彼女は地下牢に囚われているはずです」
「……他でもないレイラの望みだからね。なんだってすると言ったのは僕だ」
そのまま「準備はいい?」と私を見つめたリーンハルトさんを見上げ、一度だけ頷いて見せる。
「はい、よろしくお願いします」
「ちゃんと手を握っているんだよ」
「ええ、リーンハルトさんの手ですもの、離したりしません」
「相変わらず、レイラは可愛いことを言うね」
最後の最後に、2週間を過ごしたこの部屋を見渡した。リーンハルトさんをお呼びする際に流した私の血は、既にリーンハルトさんの魔法によって片付けられているので、一見すれば何の異変もない部屋だ。
もう二度とここに戻ってくることは無いだろう。良い思い出と言えば、せいぜいモニカに文字を教えたあの穏やかな時間くらいで、殿下に首を絞められたときの閉塞感や痛みばかりが蘇る。可愛らしいモニカの存在を差し引いても尚、出来ればあまり思い出したくない部屋だ。
私が殿下宛てに残した書き置きは、月の光に照らされていた。テーブルの真ん中に置いてあるから、見逃すことは無いだろう。
……殿下は、修道院に来てくださるかしら。
出来ることなら、このすれ違いを紐解きたい。この2週間はともかく、本来冷静沈着な殿下だから、きっと感情を言葉にして話し合えば分かり合えるはずだ。少なくとも私は、そう信じている。
最後に改めて、こちらを見つめているモニカに微笑みかけ、小さく手を振る。モニカもまた愛らしい笑みを見せて手を振り返してくれた。
「さようなら、モニカ」
私のその言葉に応えるように、モニカは丁寧に礼をしてみせた。まるで「行ってらっしゃいませ」と見送ってくれているかのような温かさを感じる。そして、そんなモニカの姿を見届けたのと同時に、私はリーンハルトさんの転移魔法に飲み込まれていたのだった。
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