第46話

 冷えた空気に、カビの臭いが入り混じっている。思わず顔を顰めそうになるほど、異質な空気だった。


 リーンハルトさんの魔法で転移した先は、薄暗い地下牢だった。石畳の一本の通路に面するようにいくつかの牢が並んでいる。どこからか響き渡る水滴の音が、一層冷え冷えとした印象を与えた。


「寒くない? レイラ」


 リーンハルトさんは自分の纏っている外套を脱ごうとしているようだった。私にかけてくれるつもりなのだろう。その優しさに微笑みながら、外套を脱ごうとするリーンハルトさんの手に触れた。


「お気遣いありがとうございます。ですが、私は大丈夫です。ドレスの生地は意外にしっかりしていますのよ」


 私はドレスの下にもいろいろと着ていることだし、恐らくリーンハルトさんよりは温かい装いのはずだ。


「寒くなったら言うんだよ」


「はい」


 リーンハルトさんは私の頭を一度だけ撫でると、薄暗い通路を見据えた。光源は小さな窓から差し込む月明かりだけなので、遠くまでは見渡せない。この付近の牢には、ローゼの姿は無いようだった。


「妹さんを探そうか」


「ええ……」


 地下牢は、文字通り城の地下にある。王城の大体の構造は把握しているつもりだったけれど、流石に地下牢のことまでは分からなかった。石畳に、私とリーンハルトさんの足音だけが響き渡る。


 ローゼは、今頃どうしているだろう。彼女と顔を合わせたのは殿下から取引を持ち出されたときのあの一度きりだから、この2週間の間にどう変化しているか想像もつかない。


 それに、ローゼの様子は妙に気にかかる部分があった。初めはまるで譫言のように殿下との結婚式の話をしていたのに、私に2年前の事故の真相を告白したときのローゼは私の良く知っている彼女だった。殿下の手前、弱っている姿を演じていただけの可能性はあるが、それにしてはあの虚ろな目は違和感がある。


 ローゼが今どんな状態であるのかは分からないが、改めて彼女と対峙することにどこか緊張を覚えている私がいた。思わずそっと胸に手を当てて、考え込んでしまう。


 私は、ローゼの前で正しい道を選べるかしら。ローゼの涙に流されず、自分の意思を貫くことができるかしら。


 あの走馬灯の中で、きっとやり遂げてみせると決心したのはいいものの、不安が完全に消え去ったわけではない。今までそれが出来なかったから、私たちアシュベリー公爵家は罪人の家に成り下がったというのに。私はきちんと、ローゼと向き合えるだろうか。


「浮かない顔をしているね」


「え?」


 私の手を取りながら、エスコートするように一歩先を歩いていたリーンハルトさんが私の顔を覗き込む。もやもやと考えていたことが、表情に出てしまっていたのかもしれない。


「大丈夫、レイラは一人じゃないよ」


「……はい、ありがとうございます」


 リーンハルトさんの優しい言葉に思わず頬を緩ませた。リーンハルトさんが傍にいるだけで、随分心持ちは違う。


 そんなとき、ふと、リーンハルトさんが足を止め、遠くを見据えた。私も彼に倣って足を止めると、微かに歌声のようなものが響き渡ってくる。


「聴こえる?」


「ええ……この歌は……」


 これは、この王国でよく歌われる子守歌だ。あの走馬灯の中で、お母様がローゼに歌っていたものでもある。


「……ローゼの、声?」


 どちらかと言えば気の強い印象を持たせるローゼの声にしては、哀愁に満ちていた。いつもは大輪の薔薇を思わせるローゼなのに、この歌声は今にも消え入りそうなほど儚い。


 ……ローゼは、こんな声も出せたのね。


 姉妹だというのに、お互い知らないことばかりだ。それが今回の騒動の一端であった気がして、どこか悔やまれるような気持ちが拭いきれない。


「行ってみようか。レイラに危害を加えられても嫌だし、僕が先に様子を窺うよ」


「ええ……ありがとうございます」


 再びリーンハルトさんにエスコートされるようにして、私は歩き出した。一歩進むごとに、歌声は一層近くなる。


 そして、それから程なくして私たちは目的の場所に辿り着いた。


 月明かりの差し込む、ある一つの牢の中に、彼女はいた。


 以前見たときよりもいくらか質の良さそうな白いワンピースを身に纏い、ローゼは、天井付近の窓から差し込む月明かりを浴びていた。彼女の自慢の白金の髪は多少傷んでいるようだったが、それを感じさせないほど彼女はどこか幻想的だった。まるで、一枚の絵画のように印象的な光景だ。


 ……本当に、妹とは思えないくらい綺麗ね。


 彼女の性格や罪はともかくとして、見目に関しては彼女の右に出る者はいないだろう。大罪人になってもこれだけ美しいなんて、アルタイルの秘宝の名も伊達じゃない。それだけに、その美しさを正しい方向に活用できなかったことだけが、どうしても悔やまれた。


「ローゼ」


 鉄格子に触れて、そっとローゼに呼びかけてみる。大した広さの牢ではないから当然私の声は届いているはずなのに、彼女は何の反応も示すことなく歌い続けていた。その様子に、嫌な予感が当たった気がして胸騒ぎがする。


「……中に入る? 鍵はすぐに閉めるよ」


「……そう、ですわね」


 ここまで来て、ローゼと話しが出来ないのではどうしようもない。もっとも、傍に寄ったところで彼女が私たちを認識できる保証もないのだが、試せるものなら試してみたかった。


 リーンハルトさんは鉄格子にそっと触れると、魔法でほんの僅かな間に開錠して牢の中に足を踏み入れた。彼はそのまま私を招き入れると、再び鍵を閉め、私に先行するようにしてローゼの傍に歩み寄った。そこまで近くに来てようやく、ローゼはリーンハルトさんの存在に気が付いたようだ。地下牢に響き渡っていた子守歌がぴたりとやむ。


「……まあ、天使様かしら」


 ローゼは零れんばかりの笑みを浮かべて、リーンハルトさんを見上げた。その笑顔は、まだローゼが幼かった頃に見せていたものととてもよく似ていて、懐かしさに胸の奥が焼きつくように痛んだ。まだ、私たちの関係が拗れる前によく見ていた笑みだ。


「綺麗ね……私、綺麗なものは大好き」


 ローゼの空色の瞳はどこか翳っているのに、綺麗な笑みは崩れない。その不安定さに思わず目を逸らす。やはり、ローゼはかなり心を病んでしまっているようだ。いざ突き付けられた現実を前に、脈が早まっていくのが分かる。


「僕を死神と言った人は2人いたけど、天使と言われたのは初めてだよ。……余程、幸せに生きてきたんだろうね、君は」


 どこか皮肉気なリーンハルトさんの言葉に、ローゼは美しい笑みを深めた。それはまるで、この世の醜いものなど何も知らない子供のような、そんな純粋さを思わせる微笑みだった。


「ええ……私、幸せですもの。誰よりも、お姉様よりも、ずっとずっと……」


 そう告げるなり、ローゼは再び子守唄を歌い出してしまった。晴れやかな表情で歌っているのに、やはり歌声は今にも消え入りそうなほど儚い。それでいて、聴く者の心を惹きつける何かがあるのだから不思議だ。大罪人になっても尚、彼女は人を魅了することに長けているらしい。


 私もそっと牢の中に足を踏み入れ、ローゼの傍に歩み寄る。月明かりを見上げて歌い続ける彼女の横顔に、静かに話しかけた。


「ローゼ……私よ、レイラよ」


 私の名前に反応したのか、ぴたりと子守歌が止む。そしてローゼは私のほうへ向き直ると、翳った空色の瞳に私を映し出した。だが、それも一瞬のことで、私の姿を認めるなり即座にローゼの瞳に光が戻る。2週間前の時と同じ反応だ。


「……ああ、お姉様? どうしてこんなところにいらっしゃるの?」


 心底嫌そうな声からして、ローゼは本当に私が嫌いなのだろう。こんな状態になっても尚、私のことは認識できるくらいに私を憎んでいるのだ。それを幸いと言っていいのか分からないが、どうにか話は出来るかもしれない。


「……あなたと、話がしたくて」


「話? 今更お姉様に話すことなんて何も無いわ」


 睨むような目で見つめられるも、何とか目を逸らさずに彼女を見つめ続けた。たとえその目に宿る感情が深い憎悪であったとしても、もう、逃げることは許されない。空色の瞳の奥を見据え、私は告げた。


「ローゼ……私ね、今までのことを全てお父様に伝えようと思っているの。あなたの一件のことも、私の事故のことも、全部」


 走馬灯の中で決意したことを、目の前のローゼにはっきりと告げる。私たちは、あまりに罪を重ねすぎた。これ以上の不誠実はきっと、命を救うことはあっても誰の心も救えない。


 もっとも、それは私個人の考えに過ぎないのは確かだ。逃げ出した私に、アシュベリー公爵家の行く末を決める権利などない。だからこそ、せめて私の知っている一連の騒動の真相をお父様に託そうと決めたのだ。その上で、お父様がどのようなご決断をなさるかは今はわからなかった。


 仮に私が修道院に入ったことで、すぐに公爵家に処分が下るのだとしても、事前に真相を伝えておいた方が衝撃は少ないだろう。これは、公爵家と決別すると決めた私の、公爵令嬢としての最後の役目だと言ってもいい。


 ローゼには敢えて結論から伝えたから、すぐに受け入れられる話ではないだろう。ローゼは私と違ってお父様やお母様と親しかったことを踏まえると、私のこの考えに反対するのは想像に難くない。冷静に説明するつもりでいるが、もしも泣きつかれたとして、私はこの決意を歪めることなく貫き通せるだろうか。


 思わず、息を呑んでローゼを見つめる。水滴の音だけが響く地下牢に流れる時間は、まるで永遠のように長かった。


 だが、ローゼの空色の瞳は少しも揺らぐことは無く、彼女は静かに口を開いた。


「……勝手にすればいいじゃない。私がいつ、お父様に内緒にしてほしいと言ったのよ」


 そのあまりに淡泊な返答に驚いていると、ローゼは粗末なベッドから立ち上がり、一歩私の前に歩み寄ってくる。彼女は嘲笑に近い笑みを浮かべていた。


「お姉様は、いつもそう。自分が犠牲になれば誰かを救えるのなら、命だろうが心だろうが尊厳だろうが、踏みにじられることは厭わないなんて……本当に女神様にでもなったつもり? 私がいつ、命を救ってくれって言ったのよ。牢の環境を改善してほしいって言ったのよ」


 ローゼは更に一歩踏み出し、間近で私の目を睨み上げた。その目に宿るのは確かに憎悪なのだが、一種のもどかしさのようなものも垣間見えた気がして、何も言えなくなってしまう。

 

「お姉様の命を奪おうとした私のために、お姉様が好きでもない人に体を許すですって? 本当に馬鹿じゃないのかしら。清廉だけが取り柄のお姉様からそれを奪って何が残るのよ。それでお姉様は優越感でも得られるの? 可哀想な妹を救ってやったって気持ちにでもなれるの?」


 質問に質問を重ねるローゼの声は、先ほどまでの幻想的な歌声とまるで正反対で、年下とは思えぬ気迫があった――もっとも、人生経験という意味で言えば、2年間眠っていた私より、彼女の方が1年長く経験を積んでいると言えるのだけれど。思わず、一歩後退りそうになる。ローゼは私のそんな動揺に構うことなく続けた。


「そんな感情すら抱かずに、本当に私と公爵家だけを救いたいって気持ちで動いていたのなら……やっぱり私はあなたが嫌いだわ、お姉様。あまりに人間味が無さすぎて、気持ち悪いもの」


 言葉の一つ一つは辛辣なのに、なぜか害意は感じない。代わりに、酷く拗れた葛藤のようなものを強く感じ取った。


 ローゼは、私が思っているよりもずっと、私のことを見ていてくれたのかもしれない。お互いに知らないことばかりだなんて宣っていたのは私だけで、ちゃんと相手を見ていなかったのはもしかすると私の方だったのではないだろうか。


「お姉様は……救われる者の気持ちなんて少しも分かっていらっしゃらないのだわ。私が、今までどれだけ惨めだったか分かる? 大罪を犯して死ぬべきなのに、大嫌いなお姉様の情けで生かされ続けることが、どれだけ辛かったか……!」


 ローゼは不意に私の髪を一房掴むと、軽く引っ張るようにして私との距離を詰めた。ローゼの言う大罪を犯したのは他でもない彼女自身なのだから、こんな風に詰め寄られる筋合いなどないはずなのに、私は何も言い返せなかった。


 それくらい、ローゼは痛々しかったのだ。空色の瞳はいつの間にか潤んでいたが、いつものように人を惑わせるものではない。初めて見る、ローゼの心からの涙なのだと気づいて、茫然と彼女を見つめることしか出来なかった。


「本当に、お姉様なんて大嫌い、大嫌い、大嫌いよ! この亜麻色も、自分の痛みに鈍感なところも、自己犠牲の精神も全部全部憎くて仕方が無いわ! お姉様は……どれだけ私を惨めにさせれば気が済むの……」


 ぽたり、と零れ落ちたローゼの涙を見て、私は一瞬思考を停止させていた。


 本当に、私はどうしようもない。傍にいるローゼのここまで深い憎しみと嫌悪を読み取ろうともせずに、私はのうのうと生きていたのか。いつだって自分のことだけで精一杯だったせいで、周りの気持ちに疎すぎた。


 ローゼと私の間に足りなかったものもやはり、言葉だったのかもしれない。自分の気持ちを曝け出す覚悟を持って、関わり合うことを恐れていなければ、きっと私たちはもう少しまともな姉妹でいられたはずだ。


「ローゼ――」


 ――ごめんなさい。


 そう言いかけた口をふと閉じて、軽く唇を噛む。ルイスとお茶を飲んでいた時に噛んだ傷が少し痛んだが、却って気持ちをはっきりとさせてくれた。


 多分、ここで謝るのは甘えに過ぎない。謝って、ただ許されたいだけだ。自分の心が楽になる道ばかり選んでいたから、私たちはここまで拗れてしまったのではないのか。


 意を決して、真っ直ぐにローゼの空色の瞳を見つめる。言葉通りの憎悪が滲んだその瞳は、負の感情が宿っていても尚美しく、私との圧倒的な差を感じた。


 その目を見る度に、私はお父様とお母様に愛されない空しさを思い知らされていた。全部無意識の内だったけれど、ローゼのことを苦手に思っていたのは、きっと彼女が押し付ける理不尽から逃れたかったからという理由だけじゃない。私がどれだけ求めても与えられなかったお父様とお母様からの愛を、平然と享受しているローゼが妬ましかったのだ。

 

「……私も、あなたが苦手だわ、ローゼ。嫌い、かどうかは正直分からないけれどね。嫉妬していたのも確かだわ。あなたはお母様に似てとても綺麗で、みんなから愛されていたから……。でも、お互い、無いものねだりに過ぎなかったのね」


 これが、ローゼに対して口にする、最初で最後の感情かもしれない。優しさとは程遠い言葉だったけれど、それでも、何も言わなかった今までよりはずっとマシな気がしていた。


 お互い、自分の持っている物に自信を持って、それぞれの良さを伸ばし合う関係を築けたのなら、私たちは仲のいい姉妹でいられたのかしら。どちらかと言えば勉強が得意な私と、華やかで社交的なローゼの二人で、アシュベリー公爵家を支えていくことも出来たのかしら。


 今となってはどう足掻いても実現しようのない関係だったけれど、歩み寄る努力さえしていれば、ありえない未来ではなかったのだと思い知らされて、心の底に少しの切なさが滲んだ。


 そんな感傷を覚えたと同時に、一瞬だけローゼの瞳が揺らぐ。垣間見えた感情は、僅かな切なさと安堵だった。もっとも、それは本当に僅かな間のことで、空色の瞳にはすぐに憎悪の色が宿る。


 そのままローゼは私を突き放すように肩を押した。突然のことに対処しきれず、軽くよろけた私の肩をリーンハルトさんの手が支えてくれる。


「もう、二度と姿を見せないで。私に構わないで頂戴。お父様に報告でも何でも好きにして。早くここからいなくなって。……もう、解放されたいの、私はお姉様の呪縛から解き放たれたいの。それはきっと、お母様も同じはずよ」


「お母様も?」


 ローゼはどこか皮肉気にふっと笑うと、自分の白金の髪を摘まんで告げた。


「結局は、お母様も私と同じってことよ。お姉様への劣等感に狂わされた、憐れな人間の一人に過ぎないわ」


 ローゼは目の淵に溜まっていた涙を拭うと、私の肩を支えるリーンハルトさんに視線を向けた。


「……どうやってお父様に報告に行くのか知らないけれど、お姉様をお母様に会わせない方がいいわよ。お姉様を取られちゃ嫌なんでしょう?」


「よくわかったね。話を聞いてる限りでは馬鹿なのかと思ってたけど、意外に鋭いじゃないか」

 

 リーンハルトさんにしてはどことなく棘のある物言いに、内心彼がローゼを良く思っていないのが伝わってきた。やはり、私の事故の件を根に持っているのだろう。あんな話を聞かされた後で好意的に接する方が難しいだろうが、穏やかなリーンハルトさんばかり見てきただけに、物珍しく思ってしまった。


「恋愛経験なら、お姉様なんかよりずっと豊富だもの。分かるわよ」


「ああ、それは間違いなさそうだ」


 ローゼは小さく息をつくと、粗末なベッドに腰かけて私を見上げた。


「お姉様はその人と生きていくことにしたのね?」


「……ええ、そうよ」


 そう答えると、ローゼは「その人も何だか厄介そうね……」と呟きながら、再び尋ねてきた。


「殿下から逃げる算段はついてるの?」


「詳しい説明は省くけれど、私は修道院へ行くわ。そこで殿下と話し合えないかと思っているの」


「……ああ、そう。逃げるならそのまま逃げればいいのに、本当に甘いというか、何というか……」


 ローゼは盛大な溜息をついたが、その後でぽつりと小さな呟きを零す。


「……私たちは、あの方を傷つけてばかりね。――いえ、お姉様からすれば傷つけられているのはお姉様の方でしょうけれど。それでも、あの方と向き合おうとしてくれたのだから……」


 ローゼは、殿下の真意に気づいていたのか。皮肉になってしまうが、やはり恋愛面では彼女に適いそうにない。


「……あまり殿下と交流の無かったローゼでさえ気づいていたのに、殿下の想いに気づけなかった私は愚か者ね」


「お姉様って本当に馬鹿ね。殿下のあのご様子だけで察するのは無理よ。私だって、気付いたのはお姉様の事故の後だもの。病んでいくあの方を見てようやく気付いたわ」


「病んでいく……って、殿下が?」


「当たり前でしょ」


 お姉様を監禁してる時点でまともではないじゃない、とローゼは呆れたように言い放つ。それはそうなのだけれども、私の2年間の眠りの間に殿下がそれほどまで深く私のことを考えてくださっていたとは思わなかった。


 ……私が考えているより、殿下の想いは大きなものなのかしら。


 駄目だ、実感が湧かない。殿下のあの冷たい眼差しと私に好意を抱いていらっしゃるという話が、どうやっても結びつかないのだ。ローゼの言う通り、本当に殿下が心を病まれていたというのなら、申し訳なさとある種の悲しみを覚えるのは確かなのだけれども、それはまるで本の中の人物に同情するときのような、痛みを伴わない感情だった。


 リーンハルトさんやローゼから伝え聞いているだけでは限界がある。何より、殿下のお気持ちを推し量ろうとしても、首を絞められたときの苦しみと恐怖ばかりが蘇って、上手く頭が働かないのも事実だった。


「……私はもう、あの方に向き合うことすら許されない罪を犯してしまったけれど、お姉様なら間に合うかもしれないわ」


 そう呟いたローゼの表情には、一片の切なさが滲んでいた。大罪人であることに変わりはないローゼだけれど、彼女が殿下を慕っていたその想いだけは本物だったのかもしれない。


 やはり、私は、向き合わなければならない。殿下が私に向けられる感情と、そして、この9年間のすれ違いとも。 


「レイラ、人が来る」


 決意を新たにしたところで、ふと、リーンハルトさんが牢の外を見据えて呟いた。見回りが来る時間なのだろう。すぐにここから出て行かなければまずい。


「ねえ、お姉様……。私の産んだ子はどうしているかしら。死んでしまった?」


 不意に、ローゼがそんな何の脈絡もないことを尋ねてきた。だが、その表情に浮かんだ憂いを見て、一瞬言葉に詰まってしまう。


「……詳しいことは分からないけれど、使用人に引き取られたと聞いたわ」


 情報源は殿下の言葉だけだが、恐らく嘘はついていないだろう。言葉が足りなかった私たちだけれど、殿下が私に嘘をついたことは一度も無いのだから。


「そう、生きてるのね……。それを聞けてさっぱりしたわ」


 ローゼはどこか吹っ切れたような笑みを浮かべると、私とリーンハルトさんを見上げた。


「人が来るんでしょう? じゃあ、もう行って頂戴。大嫌いなお姉様の顔なんて、長いこと見ていたくないもの」


 相変わらずの物言いだが、この瞬間だけはそんな言葉すらも惜しく思ってしまう。これでローゼと顔を合わせるのは最後なのだ。どうしても躊躇ってしまう自分がいた。


 だが、そんな私の躊躇を見抜いたのか、ローゼはふっと鼻で笑ってみせる。


「大嫌いなお姉様から、陳腐な別れの言葉なんていらないわよ。この期に及んでどこまでも甘い人ね。せいぜい華やかに散ってみせるわ」


 その笑みは、社交界で何度も見たアルタイルの秘宝らしい高飛車な笑みだった。何ともローゼらしい表情に、思わず私もいつも浮かべていた公爵令嬢としての微笑みを取り繕う。


「ええ、それもそうね。……御機嫌よう、ローゼ」


「ええ、御機嫌よう、お姉様。……私たちがどうなっても、下らない罪悪感に苛まれて、悲劇に酔うのは止めにしてよね」

 

 ――お姉様は別に、悪くないのだから。


 ローゼはふっと微笑んで、そんな台詞を言ってのけた。ローゼのものとは思えぬほど柔らかなその表情に、思わず目を見開いて彼女をまじまじと見つめてしまう。


 ……転移魔法が発動しかけてからそんなことを言うなんて。相変わらずの性格の悪さね。


 心の中でそんな悪態をつきながら、私も思わず微笑んだ。瞬間、両目に滲んだ涙を隠すように、リーンハルトさんの転移魔法が完全に発動する。


 最後に見たローゼの表情は、幼い頃によく見たあの笑顔と同じ、無邪気で澄んだ笑みだった。

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