第44話
決意を新たにしたところで、早速動き出そうとしたのだが、思ったよりも先ほどの傷の出血が堪えているらしく、立ち上がろうとすると眩暈を覚えてしまった。私が倒れていた場所にはそれなりに血だまりが出来ており、本当に危なかったのだと思い知らされる。
もう少しだけ休憩しようというリーンハルトさんの言葉を受け入れて、今は彼に背後から抱きしめられるようにしてソファーに座っていた。何とも安心する体勢ではあるのだが、微妙な気恥ずかしさが付きまとう。だが、嬉しそうに私の髪を梳くリーンハルトさんを見てしまった以上、離してほしいとは言えなかった。
「それで、これからどうする?」
リーンハルトさんは私の肩に頭を預け、にこりと笑って私を見上げた。
「君を蔑ろにした人たちに復讐したければ、何でもしてあげるよ。君が望むなら、この国を業火の海に変えてもいい」
普段と変わらぬ穏やかで端整な笑みを浮かべながら、さらりと物騒なことを言ってのけるリーンハルトさんに、曖昧な笑みを返す。
「……ふふ、随分怖いことを仰るんですね」
多分、リーンハルトさんなら本当に何でもやってのけるのだろう。実際、それだけの力を彼は持っているのだし、その強大な力を発揮することを厭わない程度には私を愛してくれているのだと思う。
だからこそ、私は絶対に間違えるわけにはいかない。心優しいこの人に、人の道を外れるようなことをさせてはならない。
「レイラ、僕は本気だよ。この国の連中は君を傷つけすぎた」
リーンハルトさんは私の体に回した腕を緩めて、私と向き合った。紫紺の瞳は至って真剣だ。
「確かに、そうかもしれませんね。……でも、復讐したいとは思いませんわ。私も、常に正しかったというわけではありませんから」
「君の首を絞めた王太子のことも憎くないの?」
「はい、とは言い切れませんけれど……殿下を傷つけたいという気持ちはありません」
今でも殿下のことは怖い。怖くて怖くて仕方がない。思い出すだけで、息が詰まってしまうほど苦しい。きっと何年経っても、姿を見るだけで怯えてしまうだろう。
でも、私は彼に向き合わなければならないのだ。私の気持ちを正直に話して、9年間のこのすれ違いに決着をつけなければいけない。円満に話し合えるとは思えないけれど、それを恐れて殿下の心に向き合わないのは、きっと卑怯だ。
とはいえ、この部屋で殿下と対等に話をすることは不可能に近い。囚われている身の上では、どうしたって殿下の力には敵わないのだから。
殿下と、対等にお話が出来る場所が必要だ。出来れば二人きりで、身分など関係なく話し合えたら理想的なのだけれど。
まともに考えれば不可能に近いかもしれないが、実はそんな場所を一つだけ、思いついている。だが、リーンハルトさんを前に口に出すのは少しだけ勇気が必要だった。下手をすれば、彼の心の傷を抉りかねない。
「……どうかした?」
リーンハルトさんはどこか心配そうに私の顔を覗き込む。黙り込んでいるから不安にさせてしまったのだろう。私は息を整えて、リーンハルトさんの紫紺の瞳を見上げて告げた。
「リーンハルトさん……私、修道院に入ろうと思います」
「……え?」
「お父様にローゼの罪を明らかにした上で、修道院に入ります。そうすれば、必ず殿下が私を追ってくるはずです。そこで、彼と話し合いたい。彼とちゃんと話し合った上で、リーンハルトさんの手を取りたいんです。全てを清算したあとに、修道院で落ち合いましょう」
「ちょっと待ってレイラ。そんなのは駄目だ、危険すぎるよ……」
リーンハルトさんの瞳に深い悲哀の色が浮かぶ。分かっている、この提案はリーンハルトさんにとってこの上なく受け入れがたいもののはずだ。二百年前のアメリア姫との駆け落ちと同じ手順を踏もうとしているのだから。
「リーンハルトさんにとって辛い記憶を呼び起こす行動になってしまうことは申し訳なく思っております。ですが、殿下と向き合うためには、身分も関係なく話し合える修道院が最善だと思うのです」
「……そこまでしてあいつと向き合わないと駄目なの? 君の首を絞めた男だよ?」
「だからこそ、です。私と殿下の間には言葉が少なすぎました。きちんと話し合わないと、私と殿下の関係は一生拗れたままですわ」
「拗れたままじゃ駄目?」
「……ええ、リーンハルトさんと幸せになるためには、ちゃんと決着をつけなければなりませんから。それに、人の感情にも自分の心にも、出来る限り誠実であろうと決めたのです」
リーンハルトさんの瞳には、明らかな迷いが生じていた。心優しいこの人に動揺を与えてしまった事が申し訳なくて、そっと彼の頬に触れる。
「我儘を言ってごめんなさい。……でも、アメリア姫のときとは状況が違いますわ。私は誰に命を狙われているというわけでもありませんのよ」
リーンハルトさんは不安そうに私を見つめ、私が首から下げたペンダントに触れる。
「……この先は、絶対にこれを外さないでくれ。修道院に入る前に、もっと強力な魔法をかけるから」
「約束します。殿下との決着がつくまで、肌身離さずつけておきますね」
リーンハルトさんを見上げて微笑めば、彼は私の肩口に顔を埋めるようにして私を抱きしめた。
「……傷ついたら、嫌だよ、レイラ」
「細心の注意を払います。……そんなにご心配なさらなくても、大丈夫ですわ。最後には必ず、あなたの許へ参ります」
「約束だよ」
「ええ、約束です」
リーンハルトさんの黒髪をそっと撫でると、彼はどこか弱々しく微笑んだ。どこか可愛らしいと思うような表情なのに、目元にはやはり色気があって、間近で見るには心臓に悪い。頬に熱が帯びるのを感じて、思わず視線を逸らしてしまう。
「……そんなに見つめないでくださいませ。緊張してしまいます」
「このくらいは、そろそろ慣れてほしいんだけどなあ……」
リーンハルトさんはふっと笑いながら、私から手を離した。良かった。抱きしめられている状態では、早まった心臓の音まで伝わってしまうのではないかとひやひやしていたのだ。
「……だいぶ気分も良くなってきたみたいだね。少し安心した」
「あ……そうですわね。先ほどよりはずっと体が楽です」
やはり、リーンハルトさんの言う通りに休息を取って正解だった。そろそろ行動を起こせるだろう。
殿下には、私が修道院へ行く旨を手紙に書き残そう。リーンハルトさんのことも打ち明けるつもりだから、ここから脱出する手段の種明かしはそのときにすればいい。
私が殿下に手紙を書くことを伝えると、リーンハルトさんはその間に血だまりと割れた花瓶を処理すると言ってくださった。確かに、このまま立ち去っては余計な混乱を招くだろう。この部屋は、いつも通りにしておかなければ。
私はモニカに文字を教えていた際に使っていた羊皮紙と、羽ペンを手に取った。封筒なんてものは当然ないから、手紙というよりは書き置きになるだろう。殿下には、一週間後の夜、二人で見学したことのある王都の修道院で待つ旨を書き記した。王族に対して呼び出すような内容を書くと考えたらあまりに不敬だけれども、これはルイス自身に当てた言葉だ。
羊皮紙の下にサインをして、テーブルの上に置いた。多分、私の筆跡だと気づいてくださるだろう。殿下が私のことを愛してくださっているというのが本当ならば、婚約者時代に私が送っていた手紙にも目を通してくださっているはずなのだから。
あっという間に片づけを終えたらしいリーンハルトさんは、私が手を休めたのを見て、再び傍に戻ってきた。
「妹さんの罪を明らかにするってことは、まずは公爵家にでも行くの?」
「ええ。……でもその前に、ローゼに会うことは出来るでしょうか」
あらゆることと向き合うと決めたからには、ローゼのことも例外ではなかった。私がお父様にローゼの罪を明かし、修道院に行くと決めた以上、ローゼの命の保証は無くなるのだ。ろくな話もしないままに、ローゼとの因縁を終わらせるわけにはいかない。
「もちろん。……でも、会いたいの? 君から初恋の人を奪った張本人だろう」
「ふふ……でも、私たちが出会うきっかけを作ってくれたともいえますのよ」
殿下の真の想いを知った今、ローゼの策略が彼の気持ちも踏みにじったことを踏まえると許せない気持ちが増すのは確かだった。だが、ローゼがあの事故を起こさなければ、私はリーンハルトさんと出会えなかったのも事実だ。もちろん、だからといって感謝という言葉が浮かぶほど晴れやかな気持ちではないのだが、理性で押さえきれる程度の負の感情に留まってくれていた。
「どういうことだい?」
「私が馬に蹴られたのは、ローゼの策略だったのです。私と殿下の婚約を、白紙に戻すための」
「……ちょっと待ってくれ、それは、君を殺そうとしていたってことじゃないのか?」
「そういうことになるかもしれませんね」
リーンハルトさんの瞳に、明らかな憎悪が宿る。この話をしたのは失敗だったかと思ったが、この際だから隠し事は無い方がいい。
「……そんな人間は死ぬべきだ、レイラが王太子との取引に悩む必要もなかったじゃないか」
「それでも、私はローゼと公爵家を救いたかったのです。もっとも、今となっては自己満足でしかない動機でしたけれど」
「……君の周りには、君を一方的に消費しようとする人間が多すぎるよ」
まあ、僕もその例に漏れない時期があったことは確かなんだけどね、とリーンハルトさんはどこか申し訳なさそうに呟く。その苦し気な表情にたまらず彼の腕に触れて、そっと寄り添った。リーンハルトさんはそんな私を見て、一度だけ頭を撫でてくれる。
「僕はとても妹さんのことは好きになれそうにないけど……レイラのためなら何でもすると言った手前、今更引き下がれないからね、協力するよ」
リーンハルトさんはどこか納得いっていないようだったが、私をローゼに会わせてくれるようだ。私の痛みを自分のことのように怒ってくれるこの人の存在は、私にはやっぱりまだ珍しくて、そして愛しいと思ってしまった。
「ありがとうございます。リーンハルトさんはやはりお優しいですね」
「……優しくはないと思うよ。多分、君に嫌われたくないってだけ――」
その瞬間、リーンハルトさんが扉の方を睨むように見つめ、手で軽く私の口を塞いだ。すぐにその手は離されたが、リーンハルトさんはそのまま私を引き寄せて、耳打ちする。
「人が来る」
「……殿下ですか?」
「いや……王太子の気配じゃないな。レイラより幼い子だ。すぐ転移しようか?」
私より年下で、この部屋に訪れる人は一人しかいない。モニカだ。きっと、このティーセットの片付けにでも来たのだろう。
ちょうどいい。お別れを言う機会だ。このまま書き置きだけを残して去るよりは、直接会って言葉を交わした方がいいだろう。そう思い、私は首を横に振って、リーンハルトさんを見上げた。
「いいえ、大丈夫です。きっと、私に良くしてくれたメイドですわ。最後にお別れを言わせてください」
「君がここから出て行くとばれても平気な相手?」
「ええ、大丈夫です」
モニカはきっと、リーンハルトさんの存在に驚いてしまうだろう。何と説明しよう、魔法の存在を信じてくれるだろうか。純粋なモニカのことだから、頭ごなしに私を否定するような真似はしないだろうけれど、少しだけ緊張してしまう。規則正しく響いたノックの音を聞きながら、私は扉が開かれる様子を見つめた。
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