第43話
誰かが部屋に近付けば、リーンハルトさんは気配で気付くとのことだったので、私たちはソファーに並んで座って腰を落ち着けた。何から話せばいいのかと迷ったが、結局、殿下に捕らえられたあの日のことから、ローゼを救うための取引を持ち掛けられたこと、この部屋で起こった殿下にまつわる出来事の全てを、順を追ってリーンハルトさんに打ち明けた。
正直、想い人を前にして、殿下に額に口付けられたことまで話すのは忍びなかったが、このまま隠してもやもやするよりはいい。
リーンハルトさんは私が過ごしたこの2週間をどう思われただろうかと、ちらりと横目で彼の表情を伺ってみる。だが、その紫紺の瞳に映し出された想像以上の憎悪に、思わずびくりと肩を震わせてしまった。穏やかで心優しいリーンハルトさんには似合わぬ感情に、何だか戸惑ってしまう。
「……本当に、この国の王家は救いようがないな」
そのあまりにも深すぎる憎悪には、今回の私のことだけでなくアメリア姫の件も含まれているのかもしれない。リーンハルトさんの大切なアメリア姫の命を奪ったのもまた、王家という説が挙がっていたはずなのだから。
「何より自分が情けないよ。こんな残酷な場所で、レイラを2週間も待たせてしまったなんて……。こんなことならば、躊躇わずにもっと早く迎えに来ればよかった」
「……私がここにいることを、ご存知だったのですか?」
それは本当に意外だった。リーンハルトさんが素晴らしい魔術師であることは知っていたけれど、私の前に姿を現さないからには、この場所が把握できていないのだと思っていたのに。
「うん、レイラがいなくなった翌々日くらいには分かってた。ペンダントの僅かな魔力を頼りに、王国中を駆け回ったからね」
私はそっと胸元のペンダントを見つめる。今回は、この小さな星空の石に救われてばかりだ。
私がいなくなった二日後には居場所を把握しておられたなんて、流石はリーンハルトさんだ。だが、それと同時に、僅かにもやもやとした感情も覚えてしまう。
「……居場所が分かった上で、私の前に姿を現してくださらなかったのは、やはり、あの日のことをお怒りになっていたからでしょうか……。本当に、自分勝手に泣きわめいてしまって申し訳ありませんでした」
座ったままだが、思わず頭を下げて謝罪した。これで許されるとは思わないが、せめて誠意は示しておきたい。
「僕が、怒る? レイラに?」
リーンハルトさんの手が私の肩に添えられ、そっと顔を上げるよう誘導される。殿下とは対照的なその優しい仕草一つにも、思わず安心してしまって涙が出そうだった。
「さっきも言った通り、あれは僕が悪かった。確かに少しショックだったけど……レイラにあんなことを言わせてしまったのは僕のせいだ。それに、その……」
真剣な眼差しのリーンハルトさんが、僅かに視線を泳がせたのち、再び真っ直ぐに私の目を射抜く。
「……無理に口付けて、ごめん。我ながら最低だったと思う」
リーンハルトさんは真剣に謝って下さっているというのに、ふと、リーンハルトさんと口付けたときのことを思い出して頬に熱が帯びた。恥ずかしくて目を合わせられない。
「リーンハルトさんが謝られることではありませんわ。それに……多少強引でしたけれど、後から考えたら私、嬉しかったのです。リーンハルトさんに、く、口付けていただけて……」
駄目だ。言葉にすると余計に顔が熱くなってしまう。今はそんな風に照れている場合じゃないというのに、一度帯びた熱はなかなか冷めてくれない。
「……前も言ったけど、不意打ちは反則だよ……レイラ」
こんな愛らしいレイラに手出さなかったのだけは褒めてやってもいいな、あの王子、と独り言のように呟きながら、リーンハルトさんはぐしゃりと前髪を握りしめるようにして顔を手で覆ってしまった。月明かりに照らされた耳の端が僅かに赤く染まっているのを見て、何だかこちらまで恥ずかしさが倍増しそうだ。
思わず、先ほど殿下と飲んでいた冷めた紅茶の残りを飲み干して、何とか心を落ち着かせようと試みる。ただでさえ出血して眩暈がするというのに、2週間ぶりの甘い感情に酔ってしまいそうだった。
「そ、それで……リーンハルトさんが姿を現してくださらなかったことには何か理由がおありなのですか?」
何とか話を元に戻して、先ほどからの疑問をぶつけてみる。リーンハルトさんは、軽く咳払いして少しだけ真剣な表情に戻った。
「そうだね……。本当は僕も、すぐにレイラを迎えに行こうとしていたんだ。この塔で働く使用人たちから情報収集をしたり、記憶を覗かせてもらった上で、なるべく穏便にレイラに会えるタイミングを探っていた」
さらりと記憶を覗くなんて言葉が出てくるあたり、リーンハルトさんはやはり魔術師なのだなと実感する。記憶を覗かれた使用人は気の毒だが、本人たちはきっと覗かれたことにも気づいていないのだろう。
「僕はレイラが攫われたものだと思っていたから、一刻も早く迎えに行こうと思っていたんだけど……ある情報に巡り会ったときに躊躇ってしまったんだ」
「ある情報、ですか」
リーンハルトさんが私を迎えに来ようとしてくれていたことを喜ぶと同時に、その情報とやらが気になってしまう。興味津々にリーンハルトさんの話に耳を傾けていると、彼は不意に私から目を逸らしてしまった。
「……約2週間後……日付で言えば明日に当たる日に、王太子は愛する人をようやく手に入れるのだ、と。そんな内容だった」
「……え?」
あまりに予想外な言葉に唖然としてしまった。返す言葉もなく、視線を逸らしたままのリーンハルトさんを見つめてしまう。
「王太子は、心から愛している女性と結ばれるのだと、レイラの名前こそ知らないようだったが、使用人たちはそう言っていた。それを聞いて、本当にレイラを迎えに行ってもいいのかと躊躇ってしまったんだ。レイラは初恋の人と結ばれて、これでようやく幸せになれるのではないか、と……」
リーンハルトさんはどこか切なそうに眉を寄せ、小さく息をついた。
「僕が迎えに行ったら、二人の仲を引き裂くことになりかねない。ペンダントの魔法が発動したときだって、レイラが傷ついていると思うと居ても立っても居られずこの部屋に転移したけど、初めは遠目に見守っていたんだ。でも、いつまで経っても誰も来ないから、慌ててレイラに駆け寄ったんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいませ」
理解が、追い付かない。あの殿下が、私を愛している? それこそ、何かの勘違いではないだろうか。
「そんなはずありませんわ……。だって、殿下は私を傷つけてばかりでしたのよ……。それに、私を蔑ろにするような取引まで持ちかけて……」
あれが、本当に愛する女性に対する行動だと言えるだろうか。信じられるはずがない。不器用だとかそういう域を通り越して、恐怖を抱いた。
「まあ、僕も人のこと言えないけど……彼は、相当歪んでるみたいだね」
殿下の目に宿るあの執着は、愛情から来るものだった?
いくらリーンハルトさんにそう言われても、なかなか信じることが出来なかった。思わず、何度も締められた首筋に触れてしまう。
あんなにも苦しかったのに。痛かったのに。首を絞められ、涙目になって抗う私を見て笑っていた殿下が、私を愛しているなんてことがあるかしら。それともあれは、アシュベリー公爵家に対する憎しみが入り混じった結果だったのかしら。
駄目だわ。どうしても殿下という方が理解できない。痛みと恐怖ばかりが蘇って、殿下の気持ちを思いやるまでに至らない。
「……怖かったね。王太子がこんなにも歪んだ奴だと知っていたら、君を彼の下に2週間も置いておかなかったのに……」
リーンハルトさんは悲痛な目で私を見ると、そっと頬を撫でてくれる。
「僕が甘かった。王太子がレイラを愛しているのなら、この2週間は君に無体な真似はしないだろうと思ってしまったんだ。ここにいる限り、君は安全なのだと思い込んでいた。……ごめん、ごめんね、レイラ」
謝罪の言葉と共に、リーンハルトさんは私を引き寄せると、ぎゅっと抱きしめてくれた。それだけで、ぐちゃぐちゃに混乱していた心の中が静まっていく。心の中を支配していた痛みも恐怖も、すっと消えて行くのが分かった。
「僕が今日まで君の許へ姿を現さなかったのは、他にも理由があるんだ」
リーンハルトさんは私の髪を指で梳きながら、囁くように告げた。
「君が、初恋の人の手を取ると言うならばそれもいい。僕にとってはレイラの幸せが一番だから、レイラが王太子と共に生きて行きたいというならば、無理にレイラを連れ去ろうとは考えていなかった」
その控えめな愛の深さが、もどかしいような、それでいてリーンハルトさんらしいような気がして、思わずくすりと笑ってしまう。リーンハルトさんは私の頭を撫でながら続けた。
「でも、君が王太子のものになる前に、たった一度でいいから君に会いに行こうと決めた。もう一度だけ、チャンスが欲しかったんだ。僕が、レイラにアメリアを見ているから君が好きなのではなく、君を、レイラ自身を愛しているのだと伝えたかった」
ふと、リーンハルトさんは私から手を離すと紺色の外套から銀細工で出来た小さな箱を取り出した。銀が月明かりを反射してとても綺麗だ。その見事な細工に見惚れていると、彼はゆっくりと小箱を開く。
その箱の中には、ペンダントと同じ、星空を切り取ったかのような石が埋め込まれた銀の指輪があった。
「今度は、この石の意味通りにレイラに贈りたいと思って。もし君が王太子と生きていくことにするのだとしても、これだけはどうしても受け取ってもらいたかったんだ」
思わず、口元に手を当てて息を飲む。自然と目が潤み始めた。
――昔から、ルウェインの一族が結婚相手によく贈る石なんだ。
リーンハルトさんがペンダントを贈って下さったときの言葉が蘇って、何と返せばよいのか分からなかった。
「この石がなかなか曲者でね。10日間、月の光に当てなければこんな風に輝かないんだ。今日が10日目の夜だから、完成したら日付が変わる前にレイラに渡しに行こうと思っていたんだけど、少し予定が狂っちゃったな」
リーンハルトさんは穏やかに微笑みながら、軽く指を鳴らすと次の瞬間には花束が彼の手に握られていた。それは色とりどりのアネモネの花で、菫色のレースのリボンで綺麗に纏められている。
「本当はね……僕は君に出会ったとき、殺したいと思っていたんだ」
「え……?」
突然の物騒な言葉に、思わず眉を顰めてしまう。心優しいリーンハルトさんが人を殺したいほどの衝動に駆られる姿など、到底想像できない。
「君が、あまりに鮮烈だったから。僕は、きっと君を好きになるだろうと予感したんだ……。これではアメリアに、申し訳が立たないと思ってしまった」
アメリア姫の名前が出ると、やはり少しだけ胸の奥が痛む気がした。私がリーンハルトさんを愛している以上、たとえ彼が私にアメリア姫を見ているのだとしてもそれでいいと思うようにしていたが、痛むものは痛むらしい。
「僕がレイラに心を奪われているのは、アメリアの生まれ変わりだからだと、そう思い込むことでしか心の平静を保てなかった。……君にはとても酷いことをした。アメリアの面影を押し付けてばかりで、本当に……」
その悲痛そうな表情を見ると、彼が知らないところで苦しんでいたのだということが伝わってくる。私が呑気にリーンハルトさんに恋い焦がれている間に、きっと相当な葛藤があったのだろう。それも知らずにリーンハルトさんのことを傷つけてしまった2週間前のあの日を、やはり強く後悔してしまった。
「レイラ、僕が何を言っても言い訳にしか聞こえないかもしれない。でも、これだけは信じてほしいんだ」
リーンハルトさんは私にアネモネの花束を握らせながら、真剣な眼差しで私を射抜いた。
「君を、アメリアの生まれ変わりとして見たことは、一度も無い。そう思い込もうと思った時期は確かにあったけれど、結局あの日々さえも、僕は自分自身を欺き切れていなかった。それくらい、僕はレイラに惹かれているんだ。きっと、出会ったあの瞬間に、僕は君自身に心を奪われたんだよ。……怖いと思うくらいに、君が焼きついて離れなかったんだ」
リーンハルトさんの手が、アネモネの花束を握る私の手を包み込む。彼の温もりが、手に、心に、体中に、広がっていくようだった。
「君こそが、僕の唯一だ、レイラ。呪いが選んだんじゃない。僕の心が君に惹かれてやまないんだ」
リーンハルトさんは優しい紫紺の瞳で私を見つめながら、甘くとろけるような微笑みを浮かべた。
「……愛しているよ、レイラ。レイラの笑顔も、可憐な声も、芯の強さも、優しさも、何もかもが好きだ。レイラがレイラであるからこそ、僕はこんなにも君に夢中になったんだよ。……どうか、信じてほしい」
その言葉は、とても誠実に、そして何より甘く響き渡った。少し緊張するように震えるリーンハルトさんの指先や、真剣な眼差しを見ればわかる。これは、彼の心からの言葉なのだと。
もやもやとした感情が、彼の言葉で全て綺麗に溶けて行くのが分かった。思わず、晴れやかな笑みを浮かべてしまう。
……ああ、リーンハルトさんはずっと、私自身を見ていてくれたのね。
あれ程葛藤していたというのに、誠実に気持ちを打ち明けてくれたリーンハルトさんの前では、信じられないくらいすんなりと受け入れることが出来た。誤解していた、というには語弊があるかもしれないけれど、彼はずっと私自身を見ていてくれたのだ。
「……嬉しい、とても嬉しいです、リーンハルトさん」
アネモネの花束を膝に起き、銀色の小箱を乗せた彼の手を両手で包み込むようにして、私は満面の笑みを向けた。涙目になっているせいで、少しだけ視界が歪む。
「私も、あなたが好きです。あなたと一緒に生きて行きたい」
「……レイラ」
リーンハルトさんが甘い笑みを浮かべる。そんな表情を見ると、このまま流されてしまいたい気持ちが湧き起こるが、先ほど密かに決意した想いが私を踏みとどまらせた。私には、まだやるべきことがあるのだ。
「でも……だからこそ、今はリーンハルトさんの言葉の続きを聞かせていただくわけには参りません。私には、どうしてもやらなければならないことがあります」
あの走馬灯のような夢が、私に気づかせてくれた。逃げ出した私が最後に出来る、誠実な行いが何なのかということを。
私は、あらゆる因縁に決着をつけなければならない。殿下の執着、ローゼの罪、そして公爵家に囚われた私の心、その全てと向き合わなければ、きっと本当の意味で幸せにはなれない。
このまま私が殿下に身を捧げることで、事態を丸く収めることはとても簡単だ。殿下との取引に応じれば、あらゆるすれ違いと執着を放置したまま、見せかけだけの安寧が訪れるだろう。それも悪くないのかもしれないが、殿下の想いを知った今、それが彼の心を満たすとはとても思えなかった。
それに、走馬灯の中で私は思ったのだ。アシュベリー公爵家にとっての令嬢としてではなく、この王国の貴族令嬢として、最後に誠実な行いをしたかった、と。この18年間は偽物だったけれど、最後にたった一つだけ、この王国に対して正しい行いをしたかった、と。
そう、私に出来る最後の誠実な行いは恐らく、ローゼの罪を明らかにし、殿下と向き合うことだ。それはもしかすると、アシュベリー公爵家を見捨てることに繋がるかもしれない。そう思うと正直なところ、怖くて辛くて仕方が無いけれど、それでも私は、公爵家への執着と決別すると決めたのだ。
震える手を握りしめるようにして、祈るように指を組んだ。
殿下と向き合い、ローゼに別れを告げ、公爵家との因縁を断ち切る。途方もなく難しいことのように思えるけれど、私はこれをやり遂げなければいけない。
しかしながら、ここに囚われている身の上では一人で出来ることに限りがある。私はリーンハルトさんをまっすぐに見つめ、口を開いた。
「ですから……どうか、お手をお貸しくださいませんか」
人を頼るというのはどうにも慣れていない。迷惑をかけてしまうのでは、という不安は今もつきまとう。
でも、自分一人で抱え込んで感情を隠した結果が、今の私だというならば、変わらなければ。
言葉を惜しむのは、もうおしまいにしよう。感情を口にして傷つくことを恐れているばかりでは、愛を囁く言葉に重みなんて生まれない。
「……何か、吹っ切れたって顔してる」
「え?」
「いや、相変わらず君は鮮やかだなあって話」
リーンハルトさんは銀色の小箱を外套に仕舞うと、そっと私の手を取り手の甲に口付けた。紫紺の瞳がどこか悪戯っぽく輝く。
「レイラのためなら喜んで手を貸すよ。君の望みなら何だって叶えたい」
いちいち言葉に甘さが漂うのは、私が彼に恋をしているせいなのだろうか。僅かに頬に熱が帯びるのを感じながら、私は彼に微笑みを返した。
「ありがとうございます、リーンハルトさん」
月明かりが、私とリーンハルトさんの影を映し出す。妙に幻想的なこの夜に、あらゆる感情から逃げてばかりの私はきっと死んだ。身分も後悔も何もかもを打ち破って、本当の意味で自由を得るために今、動き出すのだ。
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