第33話
「あの……最後にもう一度だけローゼと話をさせてください」
「君も物好きだな」
私は殿下の元を離れ、ローゼの傍に再び膝をつく。ローゼは可哀想なくらい震えていた。いや、同情すべき相手ではないとは分かっている。王家を欺き、公爵家を危機に晒しているのだ。厳しく接するのが正解なのだと分かっているのだが、私の人間としての甘さが出ているのか、どうしても、弱っているローゼを更に追い詰める気にはなれなかった。
あの誇り高かったローゼがこんな仕打ちを受けているのだ。この状況も既に、一種の罰だと言ってもいい。
それに、ローゼは浅はかな思考しか出来なかったというだけで、根はいい子なのだと信じていたい。姉としての甘さだと言われれば、それまでなのだけれど。
「ローゼ……今の話を聞いていたかしら。今日からもう少しちゃんとしたものを食べさせてもらえるわ。力をつけて、気を確かに持つのよ」
「お姉様……私、私……」
縋るような目で見つめてくるローゼに、私はなるべく優しく微笑みかける。
「大丈夫……きっと私が何とかするわ」
「お姉様、私、どうしても、どうしても言いたいことが……」
「何かしら?」
その瞬間、不意にローゼは私の胸元のドレスを掴むと、自分の方へ引き寄せて嘲笑うような声で囁いた。
「――あの日、馬を暴れさせたのは私の指示なのよ、お姉様」
それは、先ほどまで震えていたローゼのものとは思えないほど、はっきりとした声だった。ローゼの言葉に理解が追い付かず、そのまま固まってしまう。
あの日、あの日? 何のことかしら?
思わず、呆気にとられるようにしてローゼを見つめる。だが、悪戯っぽく輝いている空色の瞳を見て、さっと血の気が引いていくのが分かった。
……まさか、私が馬に蹴られて額を怪我した日のことを言っているの? あれは、王家の白馬で、でも、どうしてローゼが――。
「……ふふ、そのお顔が見たかったのですわ。善人面ばかりなさるお姉様でも、そんな風に驚かれるのですね」
知らなかった。私が、ローゼにそこまで憎まれていたなんて。
殺したいほど、嫌われていただなんて。
「どう、して……?」
私が王太子妃では困る者に頼まれたのだとか、誰かに脅されたのだとか言ってほしかった。信じたくない、ローゼが、私を殺そうとするなんて。
「姉様が傷物になれば、殿下とお姉様の婚約は白紙になるかと思いまして」
まさか、そんなことで?
一瞬、頭の中が真っ白になる。それはあまりにも短絡的で単純な動機だった。
私を傷物にしたいがために、いや、殿下の隣に立ちたいという欲望を叶えるためだけに、私はあんな事故に巻き込まれたのか。
……ああ、馬鹿みたいだわ。それでは幼少期から繰り返してきた血の滲むような努力は、一体何だったの。
目覚めた瞬間から完璧な令嬢であることを求められたあの朝は何だ。嫌に厳しい家庭教師たちに、完璧な回答を出せるようになるまで折檻された昼は何だ。丈夫な靴のヒールが折れ、踵の赤い肉が見えるまでダンスのレッスンを繰り返したあの夕暮れは何だ。年齢に相応しくない高度な専門書を押し付けられて、内容をきちんと理解するまで眠らせてもらえなかった夜は何だ。
ローゼは起きるなりお母様に甘え、日中は自分の好きなことをして自由に過ごし、夕暮れはお母様と小さなお茶会を開いて、夜にはお父様とお母様の間に座って御伽噺を読んで貰っていたのに。私が欲しいと思っていた何もかもを持っていたのに。
あまりに馬鹿馬鹿しい真相に、涙も出なかった。代わりに、手が小刻みに震えている。今となっては殿下の婚約者という立場を追われたことよりも、私が必死に積み重ねてきた努力をいとも簡単に、こんな浅はかな妹に打ち砕かれたことが悔しくてならなかった。
私は目の前のローゼの空色の瞳をじっと見つめる。きっとこの子は分かっていないのだろう。自分の行いのせいで水泡に帰した私の努力に、どれだけの犠牲が払われていたかなんて。
本当ならば、頬を叩いてやりたいくらいだ。実際、私がそれを実行に移したところで、それを止める者はここにはいない。
そうすれば、いくらか胸がすくのだろうか。私のそんな姿を見れば、ローゼはようやく満足するのだろうか。
……悔しいわ、本当に、悔しくて悔しくて仕方がない。
私は自分の手を自分で握りしめるようにして、何とか震えを抑え込もうとした。
だが、ここで感情的になってしまっては、私が積み重ねてきた公爵令嬢としての教養はきっと本当の意味で無駄になる。逃げ出した私にも残るたったひとかけらの誇りまでもが、泡沫のごとく消えてしまう。
こうなれば、もう意地だ。ローゼの前でだけは、死んでも完璧な令嬢として振舞ってみせる。それは、姉としてではなく、ローゼに貶められた一人の人間としての決意だった。
私は瞬時に、公爵令嬢として相応しい行動を考えた。腸が煮えくり返るくらいの怒りをぐっと静めて、ローゼの両肩に手を添える。粗末なワンピースから僅かに露出した彼女の肩は冷え切っていた。
「ふふ、これには流石のお姉様もお怒りに――」
「――ローゼ、このことは絶対に殿下に言っては駄目よ」
「え?」
囁き声で告げた私とは反対に、ローゼはきょとんとした目で私を見つめた。
殿下は、私に執着を見せている。私を大切にしているのとはまた違うとは思うが、それでも先ほどまでの殿下の態度を見る限り、殿下と私の婚約が白紙に戻ったあの事故がローゼによって引き起こされたものだと知ったら、ローゼはただでは済まされないだろう。私に持ち掛けた取引すらも解消して、その場でローゼを殺してしまうかもしれない。
そうなれば、危機に晒された公爵家を救う手段が無くなる。ローゼが生きていることで、せめて書類の上だけでも王太子妃でいてくれたのなら、少なくともお父様の代の間は公爵家が取り潰されることは無いと私は踏んでいた。だから、何としてもローゼには生きていてもらわなければならない。
それに、この件は王家の御者が責任を取って職を辞退し、王家が私の治療費を払うことで不運な事故として丸く収められていたはずだ。御者のこと思うと不憫でならないが、余計なことを言わなければ再調査が行われることも無いだろう。
「いい? これは、私とローゼだけの秘密よ」
「……どう、して……」
ふと、ローゼは鋭い眼差しで私を睨みつけてくる。初めて見るローゼの激しい感情を前にして、思わず息を飲んだ。
「……どうして、お姉様はそうも簡単に許せるのよ……っ。悔しくないの!? 悔しい、私が憎いって泣いてみせなさいよ!」
殆ど掴みかかるようにして飛びついてきたローゼを受け止めきれず、私は床に押し倒される形になった。見上げるローゼの空色の瞳は、先ほどまでの弱々しい姿など想像もできないほどに強い憎しみに染まっていて、一瞬怯んでしまうほどだった。
「……悔しいわ、本当に。あなたのことなんて妹だと思いたくないくらいには」
一瞬だけ、睨むように強い視線でローゼを射抜く。私のその表情が予想外だったのか、僅かにローゼは怯むように肩を震わせた。
「でも、あなたを憎みはしないわ。……不思議とね、逃げてからというもの、私は幸せだったのよ。公爵家にいた頃よりもずっと、ずっとね」
ローゼのことは、心の底では許せない。でも一つだけ、ローゼには感謝しなければならないことがあるのも確かなのだ。
ローゼがあの事故を引き起こしてくれたおかげで、私は最愛の人に巡り会うことが出来たのだから。
……リーンハルトさん、あなたに会えたから私は幸せを知ったのよ。
その言葉は口に出来なかったけれど、リーンハルトさんを思えば自然と頬が緩んだ。ローゼは、そんな私を信じられないものでも見るような目で見下ろしている。
「っレイラ!!」
慌てて駆け寄ってきた殿下が、ローゼを突き飛ばすようにして私から引き離す。殿下は私の上体を起こし抱きしめたまま、ローゼを睨んだ。
「っ……ローゼ、レイラは実の姉だろう。なぜここまで憎む……?」
「っ大嫌いですわ、そんな女。……姉と思いたくありません!」
「成程、そんなに殺されたいのか……」
殿下が殆ど衝動的に剣に手を伸ばすのを見て、思わず私は殿下の腕に縋りつくようにしてそれを止めた。
「っルイス!」
私の声に我に返ったのか、殿下の蒼色の瞳が私を見つめる。
「ここでローゼを殺せば、私は一生手に入りませんわよ」
「……レイラも意外と言うじゃないか」
「ふふ、今まで猫を被っておりましたもので。お嫌いでしたら、どうぞここから逃がしてくださいませ」
「いいや、どんなレイラでも逃がす気はないな」
絶対に、あの事故の真相だけは殿下に知られるわけにはいかない。無理にでも、話題を逸らさなければ。
殿下の蒼色の瞳と、私の目がお互い譲らないとばかりにぶつかり合った。
かつてないほど不穏な2週間が始まる。そんな予感を感じながら、私は殿下に腕を引かれるようにして歩き出したのだった。
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