第32話
衝撃の告白の後、殿下は私に朝食を摂るように言ったが、とても喉を通らなかった。しかし、何も食べないと部屋から出してくれなそうな気配だったので、仕方なくスープを少しだけ飲んで、殿下のお許しを得る。一流のシェフが作っているスープのはずなのに、何の味もせず、無理やり流し込んだ温度が吐き気を催しただけだった。
それから間もなくして、数人の殿下の護衛騎士が、鎖に繋がれたローゼを私のいる部屋に連れてきた。護衛騎士たちはローゼを乱雑に床に放り出すと、さっさと退室してしまう。見るからに質の悪そうなワンピースを纏ったローゼは震えており、人形のように美しかった手足には生傷が痛々しく刻まれていた。決して仲が良いとは言えない妹だとは言っても、思わず憐れみを誘うような姿だ。
かしゃん、と乾いた金属の音が響き渡る。ローゼに繋がれた鎖が、彼女が動くたびに音を立てているのだ。粗末な布で目隠しをされているせいか、ローゼはここがどこだか分かっていないようだった。
「っローゼ!」
思わず駆け寄ろうとするも、殿下に腕を掴まれて止められてしまった。私と殿下で床に座り込むローゼを見下ろすような構図になる。
素足のまま床の上に座るのはきっと冷たいだろう。だからこそ、思わず駆け寄ろうとしたのだが、殿下に痛いほど腕を掴まれたままなので、それも叶わない。
「っ殿下」
抗議の意を示して殿下を見上げれば、殿下は恐ろしく冷たい笑みを浮かべて、私に言い聞かせるように告げる。
「駄目じゃないかレイラ、あんなのに触ったら、レイラの綺麗な手が穢れる」
「お姉様……? お姉様なの……?」
目隠しをされているせいで確信には至らずとも、私の声で分かったのだろう。ローゼが不安げに顔を左右に揺らして私の姿を捜していた。
非礼を承知で殿下の手を振り払い、私はローゼの傍に膝をついた。すぐに目隠しを外してやると、眩しかったのかぎゅっと目を瞑ったローゼの素顔が露わになる。相変わらず、私の妹とは思えないほど可愛らしい顔立ちをしている。だが、少し痩せただろうか。以前のような、健康的な頬の赤みは薄れていた。
「ローゼ……あなた、何てことを……」
「あ、ああ、お姉様、お姉様なのね!」
ローゼは不意に私の両腕を掴むと、どこか安心したような笑みを見せた。
「よ、よかった……生きていらしたのね、私、私……」
「……勝手にいなくなって悪かったわ。でも、まさか、あなたが心配するなんて……」
今までのローゼの様子からして、私を心配してくれるなんてことは考えにくかった。殿下の前だから、姉想いの少女を装っているだけなのだろうか。ローゼの行動は、いつまで経っても演技なのか本当のことなのかわからないから戸惑ってしまう。
「レイラ、その女の戯言に惑わされるな」
「……しかし」
「お姉様、どうしてここにいらっしゃるの? お姉様が王太子妃になるの?」
ローゼは震えながら私に縋りつくようにして尋ねてきた。その行動に以前のようなプライドの高さや美しさはかけらもなく、あまりにも不憫な姿だった。
「違うのよ、ローゼ……これには、色々あって」
「ふふ、ふふふ、そうよね、だって、殿下の花嫁は私だもの。そう、結婚式を挙げたのよ、お姉様、みんなに、みんなに祝ってもらったの。お姉様にも見せて差し上げたかったわ……」
「そ、そう……」
空色の目を見開いて、嬉々として結婚式の様子を語りだすローゼに、私は恐怖を感じてしまった。少し、おかしくなっているのではないだろうか。苛立ちだとか憐みよりも、ローゼを怖いと感じてしまう。
「ローゼ、余計な口を利くな。この場で斬り殺されたいか」
殿下が無理やり私とローゼを引き離すと、ローゼは途端に目に涙を浮かべて指を組んで許しを請い始めた。
「っ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ……。殿下、次からは、ちゃんと、ちゃんとしますから、ローゼを許して……」
どの口が言っているのだ、というのがもっともな感性なのだが、これがローゼの見事なところだ。涙を流せば、自然と相手の方が悪く感じてしまう。私はそれに抗えるつもりでいたのだが、思わず殿下を睨むように見上げてしまった。
「……こんなの、あんまりですわ。ローゼは、これでも公爵家の令嬢……いえ、今では王太子妃殿下なのですよ。処刑なさるおつもりならば、ローゼが弱り切る前に執行なさってくださいませ!」
「ローゼは処刑されない」
「え……?」
「……ローゼが不義の子どもを産んだという事実は、王家と出産に立ち会った医師団しか知らないからな。公には死産だったことにして、子どもは使用人に引き渡し、今は療養の名目でローゼの姿を隠している」
「……まさか、お許しになるのですか?」
王家を欺き、殿下に睡眠薬を盛った大罪人を許すというのか。それほどまでに、殿下はローゼに夢中になっていたのだろうか。
いや、それにしてはこの扱いはあんまりだ。殿下の考えていることが、まるでわからない。
「先ほど話したような側室ならまだしも、ローゼは正式な王太子妃だからな。処刑というのは外聞が悪い。アシュベリー公爵家には何らかの処分が内々に言い渡されるだろうが、公には隠し通すつもりだ」
「……国王陛下も納得されているのですか?」
殿下がお許しになっても、陛下もそうとは限らない。あまりに問題の多すぎるこの件を、勝手に処理することはいくら王位継承者である殿下でも許されないだろう。
「僕が王太子としての責務を果たすのなら、この件は自由にしていいと仰せつかっている」
こんな、上手い話があるだろうか。いくら王家と近いとはいえ、王家がここまでしてアシュベリー公爵家を守る理由が見当たらなかった。
裏がありそうで怖いが、それにしたって寛大な対応には変わりない。ここは感謝の意を示すのが妥当だろう。私はそっと正式な礼を取り、軽く視線を伏せたまま口を開いた。
「……寛大な御沙汰、アシュベリー公爵家を代表して心より感謝を申し上げ――」
「――ローゼを生かしておくとは言ってないぞ」
不意に殿下が、私の腕を引っ張るようにして私を立ち上がらせる。鈍い痛みに思わず顔を歪めたが、それよりも物騒な殿下の言葉の方が気にかかった。
「……どういうことですの?」
「ローゼを公には処刑せずとも、内密に殺したっていいんだ。それだけのことを、あの女はしでかしているのだからな。公には、産後の肥立ちが悪く、亡くなったとでも説明すればいい。むしろ、僕も王家も今、その方針で動こうとしている」
「っ……」
何も、言えなかった。むしろ公に処刑する辱めをローゼと公爵家に負わせないだけ、異例と言えるほど充分に寛大な処置なのだ。
「――でも、君が僕のものになるというのなら、ローゼを殺さないでおいてやってもいい」
「……私が、殿下の、ものに?」
それは、どういう意味だろう。側室として? いいえ、ローゼが王太子妃の立場にいる以上、ローゼの実の姉である私を側室に置くなんて真似は出来ないはずだわ。
では、公には隠された妾として、ということだろうか。思わず、殿下の蒼色の瞳をまじまじと見つめてしまう。
「ああ。君が僕のものになるのなら、ローゼの命だけは保証しよう。もっとも、療養を名目にして姿を隠し、二度と表舞台には出られない身の上になるだろうが……それでも、公爵閣下と母君を、悲しませたくないだろう?」
「あ…………」
あれだけ溺愛していたローゼが殺されてしまったら、お父様とお母様はどれだけ悲しまれるだろう。それこそ、もう生きていられないほどかもしれない。お父様とお母様にとっては、ローゼは命に代えても守りたい宝物のはずなのだから。ローゼを失い、更に内々に処分を言い渡され、公爵家が断絶するようなことになったら、お父様とお母様があまりにも不憫だ。
変なの、私は私を愛してくれない人を心配してばかりだわ。
「すぐに結論を出せとは言わない。2週間だけ待ってやる。それまでに答えを出すんだ」
「……もし、私がお断りしたら?」
「そのときは、君はこの部屋で生きていくだけだ。昨夜と同じような日々が、死ぬまで続くと思ってくれればいい」
「……つまり、私が体を許せばローゼの命を助けてくださるということですか」
「驚いたな、レイラがそんな品の無い言い方をするなんて」
殿下は私の腕を掴んだまま、くすりと笑ってみせた。以前は少しでも微笑んでくださったら胸が高鳴ったものなのに、今はその端整な笑みが憎らしくて仕方がない。この方は、どれだけ私を蔑ろにすれば気が済むのだ。大罪人であるローゼの罪を揉み消してまでも、私を貶めて笑いたいのだろうか。
「要はそういうことでしょう。殿下が私に何をお求めになっているのか、まるで分かりませんわ……」
殿下のお相手を務めたい女性など、星の数ほどいるだろうに。こんな問題の多いアシュベリー公爵家の令嬢である私に拘らずとも、家柄も見目も一流のご令嬢はこの王国にごまんといる。それなのに、どうしてこうもまどろっこしいことをしてまで私に執着するのだろう。
「……ああ、分からないだろうな、君には」
そう言って、私の前髪を掻き上げて傷跡に口付けを落とす。その仕草は言葉とは裏腹に妙に丁寧で、ますます混乱してしまった。
「……たとえ答えがいいえでも、これだけは許してくれよ」
「っ……」
何も言い返せなかった。この人は、どこまで私を振り回せば気が済むのだ。思わず睨むように見上げれば、殿下はそれすらも嘲笑うような調子で私の頬を撫でる。
「さて、レイラはあまり朝食を食べていなかったから早めの昼食にでもするか。……ああ、その前に、あの女に触られて汚れてしまったドレスを替えないとな」
殿下は私の肩を抱くようにしてエスコートする素振りを見せる。今も震えているローゼのことなど目に入らない様子で。
「っお待ちください、殿下。おこがましいとは重々承知ですが……どうか、私が答えを出すまで、ローゼの環境をもう少し整えてはくださいませんか。ローゼは子供を産んだばかりなのでしょう……? このままでは、本当に死んでしまいますわ」
「それは王家としては願ったり叶ったりなんだが……そうだな」
殿下は私の喉元に手を添えると、不敵に笑ってみせた。
「レイラが、僕のことを名前で呼ぶなら、ローゼにもう少しマシな食事と衣服を与えてやってもいい」
「殿下を、お名前で……?」
ふと、朝食の時に交わした会話が蘇る。思えば殿下は私が殿下を名前で呼ばないことが気に食わないご様子だった。私の立場からすれば当然のことなのに。
だが、名前を呼ぶくらいのことでローゼの環境が改善されるならば躊躇うことは無い。
「……ルイス王太子殿下」
「敬称は無しだ」
殿下を、敬称なしでお呼びする? そんなことが許されるのは、国王陛下と王妃様くらいだ。そもそも、殿方を呼び捨てで呼んだことなど、今まで一度だってないのに。
そう、恋焦がれているリーンハルトさんのことでさえも、だ。
リーンハルトさんのことを思い浮かべると、不思議と開きかけた唇が震えた。別に名前を呼び捨てにするくらい、なんてことないはずなのに。
「……ルイス」
殿下を見上げて躊躇いがちにそう口にすれば、殿下はふっと満足そうな笑みを浮かべた。それは珍しく負の感情が含まれていない穏やかな笑みで、ますます戸惑ってしまう。私を蔑ろにするようなことを言ったかと思えば、名前を呼んだだけでそんな表情をするのか。本当に、殿下という方は良く分からない。
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