第31話

 あの後、殿下はただ「おやすみ」とだけ告げて部屋を後にしてしまった。一応扉が開かないか試してみたけれど、予想通りびくともせず、大きな窓はそもそも開くような仕組みではなかった。


 ガラス張りのこの窓がどれだけの強度であるか分からないが、割ろうと思えば割れないことも無いだろう。ただし、窓越しに地面を見下ろせば、それはもう恐ろしいほどに高く、地面に咲き乱れた薔薇の輪郭がぼんやりとしているくらいなのだから、飛び降りて助かるようなものではないことだけは確かだった。


 結局どうすることも出来ず、私は不安な気持ちを抱えたまま、ベッドで眠らざるを得なかった。ただでさえ、あまりにも色々なことが起こり過ぎた一日だったのだ。リーンハルトさんのこと、アメリア姫のこと、殿下のこと、どれも考えたところで解決しない問題ばかりだったが、それらについて悶々と考えているうちに気づけば私は夢の中にいたのだった。






 ふわふわとしたベッドの上で、ゆっくりと目を開く。見慣れない天蓋が、ふと公爵家を思い浮かばせて複雑な気持ちになった。リーンハルトさんのお屋敷では、天蓋付きのベッドを使っていなかったせいかもしれない。


 せめて夢の中だけでも、リーンハルトさんにお会い出来ればよかったのに。リーンハルトさんは、自分勝手な私の夢の中などには現れてくれなかったようだ。私はシーツをぎゅっと握りしめて、心の中に浮かぶリーンハルトさんの笑顔に縋った。


 起きたところで、まだ状況はつかめないままだ。ただ、殿下がどうやら私に並々ならぬ執着を抱いているようだということが分かっただけで。


 ふと、天蓋から降ろされた絹のカーテンが揺れる。殿下かと思い慌てて顔を上げたが、そこにいたのはメイド服を着た小さな少女だった。


 癖のある赤毛とヘーゼルの瞳が可愛らしい少女だ。恐らく10代前半くらいだろう。ここがどこだか知らないが、彼女の纏っているメイド服は王城勤めのメイドが着ている物と同じだった。その年齢で王城勤めが出来るなんて、ものすごく優秀な少女なのかもしれない。


「……おはようございます、えっと……あなたは?」


 私が問いかければ、赤毛の少女は少しだけ眉尻を下げて微笑み、やがて自分の喉元に手を当てた。そしてゆっくりと首を横に振る。


「……もしかして、声が出せないのですか?」


 少女はにこりと微笑んだまま、ゆっくりと頷いた。ここが幽閉されている部屋だということも忘れさせるくらいに、可愛らしい笑顔だ。


「では、文字は書けるでしょうか。あなたのお名前が知りたいですわ」


 私はベッドから立ち上がり、テーブルの上に置かれていた羽ペンと羊皮紙を少女の前に差し出す。だが、またしても少女ははにかんだまま首を横に振る。


「そうですか……」


 この王国の識字率は近年上昇しているが、誰もがみんな必ず読み書きが出来るかと言われるとそうでもない。王都に暮らすような住民たちは読める場合が多いが、王都を出ると一気に識字率が下がると学んだことがある。この少女は王都の外からやってきたのかもしれない。


「あなたは、殿下に言われてここにいらっしゃったのですか?」


 頭一つ分小さい少女になるべく穏やかに話しかける。少女はこくりと頷いて見せた。


「そう、じゃあ後で殿下にあなたのお名前を聞いてみなくちゃいけませんね」


 ひとまず、私はこの少女に手伝ってもらいながら、朝の支度を整えることにした。ここから出る手段を探すにせよ、殿下と話合いをするにせよ、寝起きの姿のままでは事が進まない。




 用意されたドレスは見るからに一級品で、菫色の生地にレースがあしらわれた清楚なものだった。悔しいが、不覚にもときめいてしまうくらいに気に入るデザインだ。


 このドレスを用意したのは殿下なのだろうか。この部屋の調度品といい、刺繍の小物といい、昨夜から私の好みの物ばかり見ている気がする。


 そのまま少女に案内されて、私は昨夜殿下が出ていったドアとは別のドアの前に案内された。まさか、続き部屋まであるとは思わなかった。少女が規則正しいノック音を鳴らすと、ゆっくりと扉が開かれる。


 扉の先には、白いテーブルクロスの上に湯気の立つ豪華な朝食が並び、殿下が座って私を待っていたようだった。窓から差し込んだ陽の光に輝く銀髪を見て、ようやくまともに殿下の顔を見たような気がした。以前、お見舞いに来てくださったときよりも、僅かに痩せたような気がする。


「よく眠れたようだな」


 相変わらず感情の読めない表情で、殿下は私を見上げた。テーブルを挟んで殿下の向かいに設置された椅子は、私のために用意されたものなのだろう。すかさず少女が椅子を引いて私に座るよう促した。


「……おはようございます、殿下」


「そのメイドは気に入ったか?」


「え、ええ……きちんとお仕事をしてくれましたわ。声が出せないようですので、このメイドのお名前を伺ってもよろしいでしょうか」


 殿下はその質問を受けて、じっと私を見つめた。一晩明けても、やはりその蒼色の瞳には執着が宿っていて、見つめられるだけでびくりと肩が震えてしまう。


「……レイラは、使用人のことも名前で呼ぶのか」


「そう、ですわね……。いつも一緒にいるのですし、私的な場ではなるべくお互いに居心地が良い方がいいかと思いまして……」


 これは、教えてくれなさそうだ、と何となく察する。それどころか、殿下の機嫌を損ねた気がして、朝から胃が痛くなりそうだった。


「僕のことは名前で呼ばないのにか」


「そ、そんな恐れ多いですわ……。2年前ならいざ知らず、今となっては婚約者の立場でもなんでもありませんし……」


 殿下を名前呼びなんてしたら、ローゼに睨まれてしまいそうだ。もっとも、幽閉されているこの状況で、ローゼに会えるかどうかも分からないのだけれども。


「なんでもない、か……」


 やけに意味深に復唱する殿下に、私は怯えてばかりいた。こんな態度、失礼だとは分かっているが、未だに状況が掴めないのだ。気丈に振舞っているだけ、むしろ褒めてもらいたいくらいだが、思えばこの王国にはそんな風に私を甘やかしてくれる人などいない。途端に幻の王都が恋しくなって、早くここから脱出する手段を探さなければ、と考えてしまった。


「まあいい、朝食にしよう」


 その言葉を合図に、少女は部屋から姿を消してしまう。ぱたり、と完全に閉じられた扉が何だか新鮮だった。今までは殿下と二人でお茶をするときも、誰かが控えていたり、少しだけドアが開かれたりしていたのだから。


 当然のように朝食を摂り始める殿下を前に、私は思わず尋ねてしまう。


「……ご朝食は、ローゼ――……いえ、王太子妃殿下とお摂りになられなくてよろしいのですか。それに、殿下はご結婚あそばされたとはいえ、私と二人きりではよろしくない噂を立てる者もおりましょう」


 もっとも、昨夜の時点で、騒ぎ立てられてもおかしくない状況ではあるのだが、それで流されていいわけではない。この国では、一応私は名門公爵家の令嬢なのだから。


 殿下は手に持った銀のナイフをそっと置くと、どこか自嘲気味に微笑んだ。殿下の笑みは見慣れていないけれど、昨日からずっとこのような笑みばかりだ。決して愉快な気持ちから生じる笑みではないだろうと予想されるだけに、見ていてこちらまで息苦しくなる。


「……君のその慎ましさと聡明さが、ほんの少しでもローゼにあれば良かったんだがな」


 やけに不穏な言葉に、さっと血の気が引く。


「……王太子妃殿下と、何かおありになったのですか」


「あんな奴のことを王太子妃などと呼ばないでくれ……! それも、君の口から……」


「……殿下?」


 珍しく――いや、昨夜からの様子から考えればもう珍しくもないのだけれど――取り乱す殿下を前に、嫌な予感が収まらない。王太子一家は、今はそれこそ幸せいっぱいな時期ではないのか。


「一体どうなさったのです? 何か事情があるにしても、今は……ローゼと御子とお過ごしになられた方がいいかと思いますわ……。もう、お生まれになったのでしょう? お姫様ですか? 王子様ですか?」


「ああ、生まれたさ。性別がどっちだったかなんてもう覚えてない」


「……そんな、それはローゼがあまりにも――」


「僕の子じゃなかった」


「え?」


「ローゼが産んだ子は、僕の子どもじゃなかったんだ」


 息が、止まるかと思った。いや、一瞬だけ確かに呼吸を忘れていたかもしれない。

 

 ローゼの生んだ子が、殿下との子ではない? まさか、そんなことってあるのかしら。


「……失礼ですが、どうしてそのようにお思いになったのですか?」


「『王家の直系子孫は必ず銀髪蒼瞳を持つ』……。レイラなら、この法則を知っているだろう?」


「え、ええ……」


 それは、アルタイル王家にまつわる有名な話だ。ルウェインの一族と革命軍の戦争が終わり、新たな王国を作り上げることとなったそのときから、一度の例外もなくその法則通りになっている。国王の子どもは必ず銀の髪、蒼の瞳であり、その形質は次の国王の子どもにまた引き継がれる。ただし、王位を継がなかった王位継承者の兄弟たちの子どもには、銀の髪、蒼色の瞳という形質は受け継がれないのだ。


 実際、現在の国王陛下の弟君も銀髪蒼瞳を持つが、弟君のご子息やご息女にその形質は現れていない。その話を聞いた時には何とも不思議な話だとは思ったが、偶然に偶然が重なっているのだろうと思うしかなかった。


 殿下は、話す調子を変えることなく淡々と告げる。


「ローゼが産んだのは、茶髪に鳶色の瞳の子だった」


「……それだけで、殿下の御子ではないと?」


 絶対なんてない、突然変異だって有り得るはずだ。それだけでローゼの不貞を疑われるのは、同じ公爵家の者としては黙っていられなかった。彼女を庇うというよりは、体に染みついた公爵令嬢としての発言と言ってもいい。


「……王家に代々伝わる話によれば、王家の始祖、ルーカス・ルウェインは、アルタイル家に婿入りするとき、戦争という悲劇が二度と繰り返されぬよう、自らの魔力を封じることにした。その際に、最後の魔法をかけたんだ。王家への贈り物として」

 

 殿下は私の目を見ることなく、淡々と昔話を語り始めた。聞け、ということなのだろう。本当は追及したい気持ちだったが、仕方なく昔話に耳を傾ける。


「その最後の魔法こそが、『王家の直系子孫は必ず銀髪蒼瞳を持つ』というものだった。ルーカス・ルウェインの銀髪と、彼の愛する妻の蒼色の瞳が、いつまでも王家に残るように、そして、彼らの子どもたちが醜い権力争いや、出自を疑われて貶められることのないように、と」


 魔法。その言葉に、どくん、と心臓が跳ねた。少し前の私ならば、お伽噺程度にしか聞いていなかっただろう。でも、今の私はその超常的な力が存在することを知っている。


「それ以来、国王や国王となる者の子どもは必ず銀髪蒼瞳で生まれてきた。一度の例外もなく、だ。次第に銀髪蒼瞳こそが、王の子どもたる証とされるようになり、逆を言えば、王や王位継承者に心当たりがあり、その上で銀髪蒼瞳の子どもが生まれれば、予定外に授かった子どもであっても認めることになっていた。それくらい、これは絶対的な慣習なんだ」

 

 ……まるでルウェインの血の呪いと一緒だわ。御伽噺の時代からこんなに時間が経っても、まだ魔法が解けないなんて。


 少し前の私なら、納得できないと食い下がっただろう。けれども、今の私は魔法の存在を知っている。膝の上で握った手が、がたがたと震えていた。


「実際、数代前の王の側室が金髪で琥珀色の瞳を持つ子供を産んだとき、その側室は処刑されたんだ。調べれば、かつてから懇意にしていたある貴族と密会を重ねていたという証言も出て来て、状況証拠も揃っていたからな」


「……処刑」


 王家を欺こうとしたのだから、それも当然かもしれない。だが、今はその言葉を聞きたくなかった。


 まさか、ローゼは、もう。


「……迷信に縋る愚かな王家だと笑うなら、それもいい。だが、ローゼはあらゆる男と逢瀬を重ねていたからな。そもそもこの話が無くとも、周囲からの疑いの色は随分濃かった」


「……まさか、ローゼが?」


「レイラは知らなかったのか。まあ、女神様と呼ばれる君に伝えるには、あまりに汚らわしい話だからな。レイラのご友人方も遠慮したんだろう」

 

 そんな、そんなことあるはずが無いわ。確かにローゼは男性に大変人気があったけれど、お父様やお母様に言えないようなことはしないと信じていたのに。超えてはいけない一線があることを、理解していると思っていたのに。


 ローゼがそこまで浅はかな子だなんて、思いたくなかった。だが、今は自らの認識の甘さを恥じる時間ではない。ローゼのことを訊かなければ。


「ローゼは……ローゼはどうしているのです? まさか、もう……」


「……この話を聞いても、君はまだあの女の心配をするのか。あいつのせいで、僕らは婚約を結び直せなかったのに。君にとってはそんなこと、あの女よりどうでもいいことなんだな」


 何を言っているのだ、この方は。思わず呆れるような目で殿下を見つめてしまう。


 結果的にローゼの産んだ子は殿下の子ではなかったが、ローゼが身ごもったときに反論しないということは、殿下に心当たりがあったということだろう。殿下とローゼの間に子供がいると聞かされたときの私の絶望も知らずに、よくもそんなことを言ってのけるものだ。初恋の人を前にしているとはいえ、隠し切れない苛立ちが言葉に滲み出してしまう。


「……殿下がローゼの話を受け入れたのは、お心当たりがあったからでしょう? ローゼが罪を犯した今はともかく、かつてはローゼを愛していたときがおありだったのに……それを棚に上げて、私を薄情な女だと思われるのはあんまりではありませんか」


「その心当たりすら、捏造されたんだ。ローゼが酒に睡眠薬を盛ってそれを僕に飲ませ、そのまま眠る僕と共に朝を迎えた、それだけのことだ」


「ローゼが、殿下に薬を?」


 本当に、何をやっているのだあの子は。再び血の気が引いて、気を抜けば倒れてしまいそうだった。今聞いた話だけで、二回は処刑されていてもおかしくない。


「……証拠はあるのですか?」


「少し責め立てたら、すぐに自白した。睡眠薬を用意した使用人からも話は聞いている」


 何も、言えなくなってしまう。身内でも庇いきれない事実ばかりが明かされていく。本当に、一瞬目の前が真っ暗になった。

 

 まさか、ローゼがここまで愚かなことをしていたなんて。


 自然と、公爵家にいるお父様とお母様の顔が浮かぶ。アシュベリー公爵家は、一体どうなってしまうのだろう。


 思わず、両手で顔を覆った。こうなってしまっては、私に出来ることなどもう何もないではないか。妹は、王家を欺き薬まで持った大罪人なのだ。公爵家は破滅の一路を辿るしかない。


「ローゼは……ローゼはどうしているのです?」


 顔を覆ったまま、自分の声とは思えないほど弱々しい声で尋ねた。今の話を聞く限り、もう処刑されていたって文句は言えない。


「地下牢に入れてある。……会いたければ、会わせてやってもいい」


 まだ、命はあるのか。それを喜んでいいのか分からなかったが、そうなれば選択肢は一つだ。


「……どうか、会わせてください。姉として、ちゃんと話を聞きたいですわ」


 弱々しい私のその言葉に、殿下はどこか面白そうに口元を歪めたのだった。

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