第30話

「……っ」


 いつの間にか、私は眠ってしまっていたらしい。久しぶりに馬車に乗り込んだあたりまでは覚えているのだが、その後の記憶が無い。いくら体が限界を迎えていたとはいえ、私の命を狙っているであろう殿下の目の前で眠るなんて、我ながらあまりの無防備さに身震いした。


 目の前は妙に薄暗く、ふわふわとした質の良さそうなベッドが背中に当たっている。そのままベッドに両手をついてゆっくりと体を起こすと、全力で走った名残なのか両足が引き攣るような感覚があり、手の指先には鈍い痛みが走った。そういえば、素手で土を抉って爪がはがれたのだっけ。


 嫌に静まり返った部屋は随分と広く、青白い月の光が差していた。その光を背負うようにして、ベッドサイドに腰かける青年と目が合い、思わずびくりと肩を震わせる。


「起きたのか」


 心地の良い少し低い声は、紛れもなく殿下のものだ。逆光でその表情はよく見えないが、どうしてか笑っているような気もした。不思議だ。殿下は滅多に笑わない人なのに。

 

「……ここは……一体どこなのでしょうか。私は何の咎で捕らえられているのですか」

 

 起きたばかりだったが、眠る前に起こった逃亡劇の恐怖がまざまざと思い起こされて、おかげですぐに状況を把握することが出来た。恐らく、私は捕らえられたのだ。何らかの、心当たりなど全くない罪で。


 衣服は、罪人に着せるにしてはやけに質の良い純白のワンピースに替えられていた。指先や怪我をした部分には手当てが施されている。


 だが、何よりもリーンハルトさんにいただいたペンダントが無くなっていることが気がかりだった。近頃は、眠るとき以外はずっとつけていたものなので、ペンダントが無いと何だか落ち着かない。


「ここがどこかなんてどうでもいいことだ。でも、後者の質問には答えてやってもいい」


 相変わらず感情を感じさせない、淡々とした調子で殿下は言う。私は何を言い渡されるのだろうかと、逆光でよく見えない殿下の顔を見上げて続きを待った。


「君の罪は、僕を捨てて逃げたことだ」


「え……?」


 瞬時に言葉の意味を理解できず戸惑ってしまう。殿下は、そんな私を嘲笑うかのような冷たい瞳でこちらを見つめると、ベッドの上に手をついて僅かに距離を詰めた。


「どこへ行くつもりだった? 国外か? 海を渡ろうとしていたのか? それとも恋人のもとにでも行くつもりだったか?」


 質問攻めにされて、どう答えればよいか分からず視線を彷徨わせてしまう。


「私が……殿下を捨てた、というお言葉からご説明を願えませんか?」


「ああ、それすらも分かってないのか。それくらい、僕は君にとってどうでもいい存在だったってことだな」


 やけに憎しみのこもった声だった。感情こそ読めないけれど、いつも毅然として冷静沈着だった殿下からは考えられない。


「……殿下?」


「まあ、いいか、もう……。君にとって僕がどうでもいい存在だったとしても、どうせ君はこの部屋から出られないんだ」


「どういうことです?」


「君は知らなくていいよ」


 改めて、今自分がいる部屋を見渡してみる。やはり、罪人を捕えておくには相応しくない、豪華で広々とした部屋だった。公爵家の私室より広いのではないだろうか。壁と言っても差し支えないようなガラス張りの大きな窓のお陰もあって、決して閉塞感は感じない造りになっている。


 揃えられた調度品は遠目から見てもどれも一級品で、新しいものばかりだと分かった。しかも所々に飾られた刺繍作品やレースの掛け布などは、見事に私の趣味に合うものばかりで、まるで私のために用意された部屋のように思えてしまう。


 それなのに、どうしてこんなに息苦しく感じるのかしら。


 私は恐る恐る殿下の様子を窺った。その瞳に宿る強い感情が何から来るものなのかも、私には分からない。殿下の御心の中が読めないのは昔からだけれど、これほど殿下のことを分からないと思ったのは初めてだ。


殿下は、私が殿下から逃げたことが罪だと仰った。それはつまり、私が王家への忠誠も忘れて、公爵令嬢の責務を放り出し逃亡したことをお怒りになっているという意味だろうか。


 もっともそれは建前で、可愛いローゼの実の姉が出奔しただなんて外聞が悪いから、私を連れ戻したという可能性の方が濃厚だけれども。


 そう考えれば、色々と疑問は残るが一応の納得はいくだろうか。


 私と親しくしてくださったご令嬢たちは、ローゼのことを良く思っていないだろう。加えて私が行方を眩ましたとなれば、ご令嬢たちがローゼに嫌味の一つでも言うのは想像に難くない。それを面白く思わなかったローゼが、殿下に頼んで私を連れ戻すよう仕向けたのかもしれない。あまりに子どもじみているが、ローゼの今までの行動を思うとやりかねない、と思うのが本音だった。


 しかし、それにしては殿下の言葉には不穏な部分が多々あった。まるで私をこの部屋に捕らえたかのような発言まである。それに、私に向けるあの異様なまでの強い感情は何だろう。思わず身が竦んでしまう。


 これはもしかすると、私が考えているより悪い事態になっているのではないかしら。


「……やはり、私がこの部屋から出てはいけない理由だけでも、お聞かせ願えませんか」


 殿下のお言葉に逆らうようで心苦しいが、それが分からないことには身の振り方を決めようがない。たとえ誰かに嵌められた上で何らかの罪を負わされ、既に逃げ場などないのだとしても、心の準備をしたかった。


「君を二度と逃がさないためだ」


「その……私が逃げると殿下に何らかの不都合がおありなのでしょうか……? 公爵令嬢としての責務を放棄したことは大変申し訳なく思っておりますが、もし、そのことについてお怒りなのでしたら一度公爵家の方へ戻らせていただいて話を――」


「――そんなどうでもいいことのために、君を捜していたわけじゃない」


 相変わらず淡々とした声だったが、長年傍にいる者であれば分かる。その声に確かな苛立ちが含まれていることを。だが、殿下の苛立ちの理由を察するにしたって、手掛かりが少なすぎる。


 殿下は、私に一体何を求めているのだろう。訳も分からずに無駄に豪華な部屋に連れて来られ、ある種の不気味さしか感じない。


私に護衛騎士の剣を向けさせるほど、私のことを憎んでおられるはずなのに、なぜ何も仰らないのかしら。


「……訳をお聞かせ願えなければ、この先どうすればよいのか分かりませんわ」


「ただ、ここにいてくれればいい」


「何もせず、ここにいるように、と仰るのですか?」


「そうだ」


「それほどまでの罪を犯した覚えはございません」


「……そんなにここが嫌か?」


「訳も分からず連れて来られ、罪状さえも誤魔化されて幽閉され、喜ぶ者がどこにおりましょうか」


 思わず皮肉気に返してしまった。3か月の平穏な幻の王都生活で、随分と感情的になったらしい。以前なら殿下に皮肉気な言葉を返すなんて、とても考えられなかったのに。


「罪状ならもう言った」


 ふと、殿下の右手が私の手首に伸ばされ、そのまま押し倒されるようにバランスを崩してしまう。あまりに突然のことに、目を見開いて殿下を見上げてしまった。決して強い力ではないのだが、状況が飲み込めず、抵抗するに至っていない。


「……レイラはそんな風に驚くんだな。綺麗な亜麻色の瞳がよく見えて、悪くない」


 私の手首に添えていない方の手の指先で、殿下は私の目の淵をなぞった。私を捕まえたときもそうだ。それが癖なのだとしたら随分悪趣味だと思う。ローゼにも似たようなことをしているのだろうか。


 いや、可愛いローゼを怯えさせるような真似はしないだろう。恐らく、私が憎いからこその横暴だ。


「君の罪は、僕から逃げたこと。それがすべてだ」


 目の淵に添えられていた指先が、私の顔の輪郭をなぞるように滑る。その感触に息を飲んで耐えながら、何度となく繰り返した疑問を口にする。


「……それがどうして、幽閉されるほどの罪になるのです?」


 殿下は、その蒼色の瞳に得体の知れない強い感情を宿したまま、ふっと端整に微笑んで見せた。それはもう、恐ろしいほどに。


「……何故なら君が、僕のものだからだ」


 そう告げるなり殿下は、私の亜麻色の前髪を掻き上げて、うっすらと残る傷跡に口付けを落とした。その仕草は本当に丁寧で、2年前の私であれば舞い上がるほどに喜んでいたことのはずなのに、今はただただ衝撃しか覚えない。


 殿下の瞳に宿るその感情は、執着だ。


 それに気づいたとき、私は何も言えなくなってしまった。私は、一体どこで間違えたのだ。常に冷静沈着な殿下にここまでの執着を覚えさせるほどの何かを、私はしてしまったのだろうか。殿下はローゼを愛しておられるのだから、この執着が愛情のはずもない。そうなれば、私に心当たりなどあるはずもなかった。


 ただ、私の予感は当たっていたらしい。

 

 私は、考えていたよりも、ずっとまずい状況にあるようだ。

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