第29話

 ひとしきり泣き終えた私は、しゃくりあげながら沈みゆく太陽を眺める。そろそろ帰らなければ、道が分からなくなってしまいそうだ。リーンハルトさんにどんな顔で会えばいいのか分からないけれど、とにかくお屋敷の方まで戻らなければ完全に日が暮れてしまう。


 私はがくがくと震える足でその場に立ち上がり、辺りを見渡した。どうやらここは小高い丘の上のようだ。


 ふと、眼下に映し出された見慣れた光景に思わず息を呑む。


 あれは……王国アルタイルの王都だわ。


 どくん、と心臓が跳ねた。以前、リーンハルトさんと王都へ出掛けたときには転移の魔法を使ったから、幻の王都との距離感はよく分かっていなかったのだが、こんなにも近かったのか。


 そして、恐らく私は幻の王都の外に出てしまったのだろう。幻の王都から外を臨める場所なんて、シャルロッテさんから借りた地図にはどこにも無かった。


 ……私一人で、幻の王都に帰ることが出来るのかしら。


 そんな不安を感じた直後、不意に背後で聞き覚えのある声が響いた。


「……やっと見つけた。――レイラ」


 そう、心地の良い、澄んだ少し低い声が。


 はっとして振り返れば、そこには今となっては最早懐かしいと言うべき人がいた。


「……王太子殿下?」


 王家の証である銀髪が、夕焼けの名残を反射して煌めいている。夕闇の仄暗さのせいで、瞳の蒼色まではよく見えなかった。相変わらず威厳のあるたたずまいをなさる殿下の背後には、数人の護衛騎士が控えているようだった。


「一体、どうされたのです? どうして、このようなところに……」


 目の前の光景が信じられなくて、思い浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまう。王都のはずれと言ってもいいようなこの丘は、殿下がお忍びで来るにしてはあまりにも何も無い。


「見回りの護衛騎士が君を見つけたというから急いで来たんだ。それに……それはこっちの台詞だ、レイラ。何も言わずに私の前から消えるなんて……許されるとでも思った?」


「……殿下?」


 ゆっくりと、それでいて着実に、殿下との距離が縮まる。こんな状況とはいえ、相手は王族だ。正式な礼を取ろうと思ったのだが、殿下の背後で響いた金属音に妙な胸騒ぎがしてならない。


 どうして、殿下の護衛騎士たちが剣を構えているの。


 殿下を狙っているわけがない。彼らは、それはもう王家に忠誠の厚い選りすぐり騎士たちだ。


 そうなれば、彼らの狙いは一人しかいないじゃない。


「殿下……? その、これは一体……」


 じりじりと近づいてくる殿下と護衛騎士たちから、少しでも距離を取ろうと後退ってしまう。こんな真似は無礼に値すると分かっていても、本能的な恐怖がそうさせた。


「大丈夫だ。おとなしくしていれば、痛い目には遭わせない」


 殿下はあくまでも冷静にそう言い放ったが、裏を返せば私を狙っているのだと宣言したも同義だ。やはり、護衛騎士たちの剣は私に向けられているのだ。そう思うと、夕焼けに光る銀色が、ただただ恐ろしくてならなかった。


「っ……」


 これは、まずい。いいえ、かなりまずい。


 それを察した瞬間、私は全速力で殿下の前から逃げ出した。案の定、すぐに護衛騎士たちが私を追いかけてくる。私は既に走り疲れて痺れるような足に鞭打って、全力で逃げ出した。


 殿下の目的は分からないが、私の命を狙っている可能性が高い。なぜだろう、殿下に恨まれるようなことは何もしていないはずだ。婚約破棄もあっさり受け入れたし、私の治療費以外は慰謝料だって請求しなかったと聞く。これ以上ないくらい、わだかまりなく綺麗に引いたはずなのに。


 それとも、ローゼだろうか。ローゼを疑いたいわけじゃないが、あることないことを殿下に伝えて、私を抹殺するように仕向けた可能性は無くはない――実の妹に、そこまで恨まれているとは考えたくないけれど。


 それに、あの美しい妹にお願いごとをされて抗える男性がいるとは考えにくかった。殿下ほどの権力があれば人の一人くらいは簡単に消してしまえるだろう。それが、たとえ名門公爵家の令嬢であってもだ。


 その瞬間、芝生の中に隠れていた木の枝に躓いて情けなくも倒れ込んでしまう。革靴の片方が脱げ、頬に土がついたが、靴を拾うことも土を拭うこともなく、再び走り出した。殿下と護衛騎士たちは、もう目と鼻の先まで近づいて来ているのだ。ただ、力の限り逃げるしかない。


 ひどく咳き込みながら走り続ける中で、脳裏に浮かぶのはリーンハルトさんの笑顔だった。ここで諦めたら、あの微笑みをもう二度と見られなくなる。確信に近いその予感が、既に限界を迎えた私の体を走らせ続けた。


 だが、その瞬間、背後から伸びてきた手に思いきり右腕を引かれる。肩が抜けるかと思うほどの強さだった。


振り返れば、殿下が私の腕を掴んでじっとこちらを見下ろしている。その瞳に宿るのが怒りなのか憎しみなのかは分からなかったが、そう浅い感情ではないことは確かだった。


 私がいつ、あなたにそれほどの憎しみを抱かせたの。


「っ……私を殺すおつもりですか。せめて理由だけでもお聞かせ願えませんこと?」


 息も絶え絶えに、殆ど挑発するような目で殿下を見上げてしまう。もう、いい。本当に殺されるのだとしたら、不敬罪も何もないだろう。


「ああ、レイラ。君はそんな目も出来るのか。……綺麗だ」


 殿下の指先が目の際に添えられる。生きたまま眼球を抉られるような拷問を受けるほどの心当たりはないのだが、殿下がその気ならばせめて自死を願い出よう。


 一応、私はまだ公爵令嬢のはずだ。高貴な家柄の罪人には、罪状にもよるが大抵処刑か自死の選択肢が与えられる。これだけ証人がいる中で、まさか自死を願い出た公爵令嬢を拷問にかけるなんてことはしないだろう。


「殿下、私の命がお望みでしたらどうか剣をお貸しくださいませ。アシュベリー公爵家に生まれた娘として、せめて最期は高潔に死にとうございます」


 覚悟は決めた。死にたいわけではないけれど、こうなってしまったらもう仕方がない。きっと、あの優しいリーンハルトさんを傷つけた罰が当たったのだ。


 ……リーンハルトさんには、また次の生まれ変わりを待っていただく形になりそうね。


 殿下は、相変わらず強い感情を宿した目をしていたが、やがてどこか面白そうに口元を歪ませた。そしてくすくすと小さく声を上げて笑い出す。


「私がレイラの命を、ね。……やっとのことで見つけ出したのに、そんな勿体ないことするわけがないだろう?」


 殿下はにこりと笑むと、私の目の淵に添えていた指先で頬をなぞった。どうしてだろう、リーンハルトさんにされる時は心地よくすら感じるその行為が、今は悪寒しか呼び起こさない。


「……私を、捜しておられたのですか?」


「当たり前だろう」


 殿下の指先が私の首筋に伸び、頸動脈の辺りで爪の先を押し付けるように抉った。そのまま、殿下は今まで私に見せたことも無い幸せそうな笑みを見せる。


「――だってレイラは、僕の物だから」

 

 ……殿下の一人称が「僕」なのは初めて聞いたわ。


 言われていることに理解が追い付かず、そんなあまりにも場違いな感想を抱いてしまった。きっと、私は間の抜けた顔をしていただろう。


 そうしている間に、背後から口を覆うように布を当てられた。慌てて声を出したが、もごもごとした響きになって遠くへは届かない。


 それどころか、遂に足が限界を迎えたのか、思わずその場に崩れ落ちてしまう。殿下に腕を引かれたままなので、肩が抜けそうなほどに痛んだが、それでももう立ち上がれないほどに私は体力を消耗していた。


「そんな華奢な体で無理をするからだ」


 殿下はそう呟きながら、私の背中と膝裏に腕をあてがうと、そのまま私を抱き上げた。ただでさえ力の差があるというのに、既に手も足も動かないほどに疲れ切ってしまった私には、それに抗うことすらできない。殿下を睨むように見つめることで抗議の意を示すが、それすらも嘲笑うかのような笑みを彼は浮かべた。


「……戻るぞ。誰にも見られるなよ」


「はっ」


 殿下が護衛騎士たちに淡々と指示を下している光景が、どうしてか現実のものに思えなかった。


 このまま、私は一体どうなるの。殺されてしまうの?


 命の危機を覚えながら、こんな訳の分からない状況の中で、自分勝手だと分かっていながらも、心の中に思い浮かべるのはやはりあの人だった。


 ――助けて、助けてください、リーンハルトさん。


 言葉の代わりに零れ落ちた涙は、音もなく地面に吸い込まれていく。


 紫紺の空は、もう見えなくなっていた。

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