第28話

 お屋敷に戻るなり、リーンハルトさんと私はテーブルを挟んで向かい合うように座った。部屋の中は、リーンハルトさんが淹れてくださった紅茶の香りに満ちていて、いつもならこの上なく幸せに思うはずなのに、私は今も怯えたままだ。リーンハルトさんがわざわざ紅茶にお砂糖まで入れて用意してくださったのに、今はとても飲む気になれない。


「ハイノのことは悪かったね。あれでも僕の友人なんだけど……少し思い込みが激しいところがあって」


「構いませんわ。それよりも、アメリア姫のお話を聞かせてくださいませんか」


 我ながらどこか棘のある言い方をしてしまったかと思ったが、今はこれが精一杯だった。テーブルの向こう側でリーンハルトさんが寂し気に笑ったのを見て、私は膝の上に揃えた手をぎゅっと握りしめる。


「レイラは……ルウェインの呪いについて知っているかい?」


「……はい、以前、シャルロッテさんに教えていただきました。知っていることを黙っていたことは、申し訳なく思っております」

 

 リーンハルトさんの目をまっすぐに見られない。軽く俯くようにして、私はこの言い知れぬ不安に耐えた。


「……そうか、いや、いいんだよ。いずれは知ることだったし、僕がもっと早く伝えるべきだった。ただ、レイラと過ごす穏やかな時間があまりに楽しくて……」


 リーンハルトさんは不意に口を噤むと、どこか自嘲気味な笑みを浮かべた。いつも優し気な表情ばかり見ているだけに、やけに目に焼きつく笑みだった。


「……ハイノが言っていたアメリア姫というのはね、今から二百年ほど前に存在した、王国アルタイルの第三王女だよ。……ルウェイン教の修道院に入った王女様と言えばわかりやすいかな」


「……お名前こそ存じ上げませんでしたが、修道院に入った王女様のお話は聞いたことがあります」


 リーンハルトさんは外套のポケットから、例の古びたロケットを取り出すと、開いてから私に手渡した。そこにはやはり、あの小さな肖像画がはめ込まれており、絵の中で私によく似た姫君が微笑んでいる。


「この人が、王女アメリアなんだ。……僕の、恋人だった。とても短い間だったけれどね」


 恋人。その言葉に、深く深く、痛いほどに心が抉られるのが分かる。嫌な予感が当たってばかりいる。ルウェインの一族が恋人を得るということは、「運命の人」を見つけたも同義ではないか。


「結婚の約束もした。でも、アメリアは王国アルタイルの第三王女。まさか大々的にルウェインの、それも直系の子孫である僕と結婚するなんてできない。だから、ルウェイン教の修道院で落ち合うことにしたんだ。今思えば、殆ど駆け落ちに近い話だね」


 好きな人の前の恋人の話を聞かされることほど、つらい話があるだろうか。ぎゅっと握りしめた手が震えだす。それでも、聞きたいと言ったのは私なのだから、最後までちゃんと聞き届けなければ。


「でも、結局落ち合えなかった」


 一瞬だけ、リーンハルトさんの瞳から一切の光が消える。大好きなリーンハルトさんの目であるはずなのに、思わずぞわりと身震いしてしまった。


「アメリアは……修道院で殺されたんだ」


「殺された……?」


「そう。王家の血が無闇に広がることを恐れた、国王の手の者にね」


 リーンハルトさんは再びどこか自嘲気味に笑ったけれど、その瞳にはあまりにも深い寂しさが映し出されていた。それだけアメリア姫のことが大切だったのだろう。愛情深い彼のことだ、恋人なんてそれはもう溺愛に溺愛を重ねるくらいの愛情を向けたはずだ。


 それが、私には羨ましくてならない。羨ましくて妬ましくて、醜い感情で一杯になってしまいそうになる。


「……それで、『運命の人』であるアメリア姫と結ばれなかったリーンハルトさんは、今もこうして生きておられる、というわけですね」


 これではリーンハルトさんの呪いは永遠に解けないではないか。私では、やはり彼を救えないのか、と絶望に近い苦い感情を味わう。


「それは一理正しいことではあるし、現に僕が今もこうして生きているのは確かにアメリアと結ばれなかったからだけど……でも、僕の『運命の人』はアメリアであり、レイラであると言うべきなんだ」


「……どういうことですの?」


 下手な慰めなら、聞きたくない。そんな気持ちが強かったせいか、僅かにリーンハルトさんを睨むように見つめてしまう。


「ルウェイン一族の『運命の人』がこの世界に生を受けても、僕らは『運命の人』が一生を終える間に、その人を見つけられるとは限らない。それに、アメリアみたいに結ばれることが叶わず命を落とす人も少なからずいる」


 リーンハルトさんの紫紺の瞳と、ぴたりと目が合う。いつの間にか先ほどまでの翳りは消え、夕闇を切り取ったような美しい瞳に戻っていた。


「だから……『運命の人』は何度も生まれ変わるんだ。いつか、ルウェイン一族と結ばれるまでずっとね」


「生まれ変わる……?」


「そう……ここまで言ってしまえば、レイラはもう気づいているかもしれないけど……」


 その言葉の先を察して、どくん、と心臓が跳ねる。


 やめて、その先は聞きたくない。


 幸せなこの恋が終わってしまいそうで怖い、怖いの。


「――君は、アメリアの生まれ変わりだ。アメリアと、同じ魂を持っている」


 穏やかな調子なのに、どうしてか婚約破棄を言い渡されたときよりも深く鋭く、私の心を抉り取る言葉だった。


 ふと、リーンハルトさんに初めて会ったときのことを思い出す。


 ――こんな姿になっても、私は気高く見えますか。


 ――それはもう、他のどの魂よりも気高く美しいよ。


 あのときは、魂なんて妙なことをいう人だ、もしかして死神かしら、と呑気なことを考えていたものだが、そう、結局はそういうことだったのね。


 リーンハルトさんにとって、私の魂が美しくないはずがないのだわ。愛してやまなかったアメリア姫の魂と同じなんだもの。


「ふ、ふふ……」


 幸せだ、と思っていたのに。


 リーンハルトさんは、肩書も何もない「レイラ」としての私を愛してくれていると思っていたのに。


 大粒の涙が、頬を伝って流れて行く。それなのに、口元では笑みが止まらなかった。


「そうだったんですね……今までの優しさも、愛も、何もかも全部……私がアメリア姫の生まれ変わりだから……」


「っレイラ! それは違う、確かに言葉が悪かったかもしれないけど――」


「――何が違うのです? 私は……所詮、あなたの『運命の人』の魂の繰り返しの一部に過ぎない。私が死ねば、また次を待てばいいのでしょう? リーンハルトさんにとって、私が私でなければならぬ理由など、どこにも無いではありませんか!」


 思わず椅子から立ち上がり、リーンハルトさんを糾弾するように声を荒げてしまう。リーンハルトさんの紫紺の瞳が見開かれ、絶望に近い色が浮かんでいた。


「レイラ、それは違う、違うよ……」


「では、私に求婚したあのときに白百合を渡したのは? きっと、アメリア姫が白百合を好んでいらっしゃったからでしょう? 私に初めて用意してくださった紅茶のお砂糖の数も、アップルパイを召し上がるときにひどく懐かしむような目で私を見たのも、全部、アメリア姫を思い出してのことではないのですか? それは結局、リーンハルトさんが私をアメリア姫の生まれ変わりとしてしか見ていない何よりの証でしょう」


「レイラっ!」


 リーンハルトさんは椅子から立ち上がると、泣き叫ぶ私の肩を掴む。いつもよりも乱暴に思える仕草だったが、その分、彼の必死さが滲み出ていた。だが、そんなリーンハルトさんの姿を見ても、次から次へと言葉が溢れ出す。


「私が倒れたときにあれ程気遣ってくださったのも……結局のところ、アメリア姫の魂の入れ物である私の体が壊れてしまったら、また次を待たなければならないからに過ぎないんですね」


「冗談じゃない……そんなに僕が信じられないのか、レイラ。君と過ごした時間が全部嘘だったと、全て君の魂だけを見て起こした行動だと……本気で思っているのか?」


 リーンハルトさんの指が、肩に食い込むようで痛かった。そんなに強い力で押さえつけられていることに、本能的な恐怖を覚える。リーンハルトさんを怖いと思ったことなんて、これが初めてだ。


 やがて、リーンハルトさんはどこか自嘲気味にふっと笑うと、翳った瞳で私を見下ろした。思わずびくりと肩が跳ねる。


「そうか、僕が我慢しすぎたのが裏目に出たのかな……。もっとちゃんと、君を、君自身を愛しているのだと、行動で伝えるべきだった」


 唐突にリーンハルトさんの手が私の顎に添えられたかと思うと、そのまま上を向かされ、キスで口を塞がれた。生まれて初めての感覚にこんな状況下でも頬に熱が帯びるが、同時に涙も伝っていく。


 あれほど憧れたリーンハルトさんとの口付けは、こんな形で迎えたいわけじゃなかった。深くなっていく口付けを遮るように、私は無理矢理リーンハルトさんから離れ、彼を突き放すように体を離す。


「っ……」


 涙が止まらない。視界がぐちゃぐちゃになる。気づけば私は、リーンハルトさんの前から逃げるように走り出していた。


 お屋敷の扉を開け、扉が閉まったかどうかも確認することなく無我夢中で走り続ける。涙が横に流れて行くのが分かった。泣いているせいで上手く呼吸が出来ないのに、走ることで余計に息苦しくなったが、それすらもどうでもよかった。

 

 外の世界はいつの間にか夕焼けに染まっていて、家路につく街の人々が、走り抜ける私を振り返るのが分かった。

 

 自分がどこに向かって走っているのかも分からない。ただ、とにかく人の目の無い場所へ行きたかった。全力で走り続けるのは苦しかったが、立ち止まることもできず私は走り続けた。





 随分走って、小さな森のような場所を抜けたところで、私は地面にへたり込んだ。吐息に血の味が混じっている。思わず胸を押さえて大きく咳き込んでしまった。もう、足は動きそうにない。


 私は、大馬鹿者ね。


 地面に着いた手を、土を抉りながら握りしめる。僅かに爪がはがれるような感覚があったが、指先に走る痛みが却って私の意識をはっきりさせた。じわりと赤が土に混じる様子を見て、私は少しずつ冷静さを取り戻し始める。


 ……あんなにひどいことをリーンハルトさんに言って、私はどうするつもりだったのかしら。


 リーンハルトさんの絶望に近い悲し気な瞳が思い出されて、一層涙が零れた。


 分かっている。たとえ、私が彼にとって、アメリア姫の魂の繰り返しの一部に過ぎないとしても、それでも諦められないくらいに私は彼を愛してしまっているのだと。


 ただ、悲しかっただけだ。私を夢中にさせた彼の優しさが、愛が、温もりが、本当は私自身に向けられたものではないかもしれないということが。それがどうしようもなく悔しくて、アメリア姫が羨ましくて、そうやって募っていった黒い感情を、リーンハルトさんにぶつけてしまっただけなのだ。


 リーンハルトさんが私ではなく、アメリア姫の魂を見ているだけに過ぎないのかもしれないと分かった上で、それでもリーンハルトさんから離れられないほどに彼を愛しているのなら、言うべきではなかった。あんなに酷い言葉を。彼がくれた愛の全てを否定するような、残酷な言葉を。


 私はただ、自分勝手にリーンハルトさんを傷つけただけだ。


 そう思うと、再び大粒の涙が溢れだした。涙は血の混じった土の中へと消えていく。


「っ……ごめんなさい」


 震える声で、私は一人呟いた。


「ごめんなさいっ、リーンハルトさんっ……」


 声を上げて、私は泣いた。見上げた空は紺色に染まりつつあって、それがどうしてもリーンハルトさんの瞳を思い出させるから余計に涙が溢れてくる。


「ごめん、なさいっ……」


 恋は、こんなにも痛いものなのか。


 私はこの日、初めて恋の苦さというものを知った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る