第19話(リディア視点)
だが、そんな完璧な日常は、ある事故をきっかけに崩れ去る。
レイラが16歳の初夏、彼女は外出しようとした際に、興奮した馬に蹴られるという不幸な事故に遭ったのだ。
その知らせを聞いた時は、真っ先にレイラに傷が残らないだろうかということを案じた。蹴られたのは額だという。上手く前髪で隠せば、たとえうっすらと跡が残ったとしても何とかなるだろうか。
困るのだ。ここまで手塩にかけて完璧に育ててきたというのに、今更それが台無しになるなんて。呆気なく馬に蹴られたレイラを僅かに恨めしく思いながら、私はレイラが運ばれたという彼女の寝室を目指した。
レイラの寝室に入るのなんて、久しぶりだ。壁一面に設置された本棚と机の上に溜まった羊皮紙の束を見ると、何だか令嬢の部屋というよりも、殿方の部屋のように殺風景だと思ってしまう。申し訳程度に飾られたアネモネの花だけが、ここが令嬢の部屋なのだと主張しているようだった。
「……レイラの様子はどうなの? まさか、傷が残ったりしないわよね」
「あ……奥様、奥様っ……」
部屋に入るなり近くにいたメイドにレイラの状態を訪ねてみたが、メイドは泣きじゃくるばかりでまともな返事を返さない。なんて大袈裟なんだろう。レイラ付きのメイドはレイラを甘やかしすぎるところがあるからいけない。
医者やら看護師やらが群がるベッドの方へ、私は足を進めた。近付くにつれ、ほのかに血の臭いが漂ってくる。
まさか、そんな酷い怪我じゃないわよね。
その想いとは裏腹に鼓動は早鐘を打ち始める。医師団は私の存在に気づいたようだが、ベッドサイドからどけようとしなかった。とてもそんな余裕はないとでも言うように、何やら緊迫した様子で指示が飛び交っている。
一人の背の低い老齢の医師越しに、レイラの顔が見えた。その瞬間、ひゅっと息が止まるような衝撃を覚える。
あれは、本当にレイラなの?
美しく清廉な顔には、赤黒い血液がべっとりと付着していた。前髪は掻き上げられ、白い額に生々しい傷が見える。ただでさえ色白だった肌には血の気が無く、病的なまでに青白かった。
「……レイラ?」
私の呼びかけに、レイラは瞼一つ動かさない。どれだけ眠くても、私の問いかけには間を置かずに即答できる、あの、レイラが。
「レイラ?」
何に対してなのか分からない苛立ちが、ふつふつと込み上げてきた。違う、レイラはこんな運命を迎えるはずの子じゃない。彼女は公爵家の特別な姫君で、王家に嫁いで国中から愛されるはずの完璧な令嬢なのに。
「っ奥様、申し訳ありませんが少々お下がりください!」
知らぬ間に、レイラの方へ近づいていたのだろう。額に汗を浮かべ、必死な形相をした医師に、睨まれるように注意されてしまった。公爵家のお抱えの医師でもある彼は、いつだって穏やかで知的な雰囲気を醸し出す紳士だというのに、この取り乱し方は何だろう。
嫌、嫌よ。考えたくない。レイラは、レイラはこんな目に遭うはずの子じゃない。
ふらり、とおぼつかない足取りで後退った私の肩を、誰かが支えた。使用人の内の誰かだろうけれど、そんなことに注意を払えないくらいに、私もまた取り乱していたのだ。
ああ、お願い、神様。何もかも完璧なまま続いてきたレイラの日々を、ここで終わらせないで。彼女は、ここで眠ってしまってもいいような人間じゃないのよ。
祈りが通じたのか、レイラは一命を取り留めた。傷を覆うように包帯が巻かれているものの、眠るレイラの顔は穏やかだ。
レイラの寝顔を見たのなんて、何年ぶりかしら。
レイラがいつ目覚めてもいいように、とベッドサイドに張り付きながら綺麗なレイラの顔を眺めた。本当に、自分の娘だとは思えないくらい清廉で可憐な子だ。
旦那様似の亜麻色の髪も随分伸びたようで、こんな事故に遭った後だというのに乱れることなく整然とベッドの上に打ち広がっている。令嬢らしく結い上げている姿ばかり見ていたから、レイラの髪がこんなにも美しかったことに気づかなかった。
でも、あの亜麻色の瞳を見られないのは落ち着かないわ。理知的で慈愛に満ちたあの優しい瞳を。
「……リディア、少し休みなさい」
「え?」
不意に旦那様に話しかけられて窓の外を見やれば、いつの間にか夜が明けていた。まさか、私は一晩中レイラの姿を見つめていたというのだろうか。それに気づけないくらいに、私はレイラのことが心配だったようだ。自分のことなのに、何だか不思議に思ってしまう。
「……でも、休んでいる間にレイラが目を覚ますかもしれませんわ」
「目を覚ましたら必ず起こしてあげるから、少し休むんだ。私が代わりに見守っているから」
「……旦那様」
言われるがままに立ち上がれば、ずっと同じ体勢でいたせいなのか、体の節々が痛んだ。すぐにメイドが私の傍に寄ってきたが、レイラの姿を振り返ってしまう。
まさか、このまま目覚めないなんてことは無いわよね。二度と、あの子の瞳を見られないなんて、そんな悲劇は起こらないわよね。
縋るようにレイラを見つめてしまう。レイラ、お願いだから、早く目を覚ましてちょうだい。
なかなかその場を動こうとしない私を、使用人が半ば強引に部屋から連れ出す。普段はそんな無礼な真似はしないメイドたちだから、強引にならざるを得ないくらい私の顔色が悪かったのかもしれない。私はどこかぼんやりとした心地のまま、レイラの寝室を後にしたのだった。
その後、医師から告げられた言葉はあまりにも残酷なものだった。
レイラは、もう二度と目覚めないかもしれないというのだ。
それを聞いた時には、思わずレイラに縋りつくようにして泣いた。二度とレイラの瞳を見られないということが悲しかったのはもちろんだけれども、多分、それ以上にレイラの完璧な日常に終止符が打たれたことが辛かったのだ。レイラを誇りに思っていただけに、期待を裏切られたというような気持ちまで抱いてしまった。
分かっている。レイラが悪いわけではないのだ。でも、それでもどうして今眠ってしまうの、という気持ちが収まらない。
本当は、公爵夫人としてではなく、レイラの母親として彼女の身に起こった不幸を嘆くべきなのだと理解していた。だが、もう何年間も公爵夫人と公爵令嬢としての関係を築いてきたのだ。それを今更変えることは、レイラの歩むはずだった完璧な日々を諦めてしまうことに繋がる気がしてどうしても躊躇われてしまった。
ようやく私がレイラを母親として心配できるようになったのは、王家から、殿下とレイラの婚約破棄を正式に言い渡されたときだった。王太子妃を輩出する家が変わるよりは混乱を避けられるだろう、という思惑に加え、殿下とローゼが好い仲であるようだとの見立てから、ローゼが殿下の新たな婚約者となったが、そのときは不思議なくらいローゼのことを気にかけることが出来なかった。それよりも、私の頭の中はレイラのことで一杯だったのだ。
王家に見放され、眠り続けるだけのレイラは、あまりにも惨めだった。その姿を見て、涙が止まらなかったのを覚えている。彼女の才能も私の教育の成果も、価値のあるものではなくなってしまったのだ。
最早、完璧な公爵令嬢としてではなく、一人の不幸な少女として眠り続けるレイラの寝顔を見つめていると、憐れみのような感情が湧いてきた。
こんなことになるのならば、親子の時間を削ってまで、厳しい教育を推し進める必要はなかったのに。いつか旦那様に言われた「レイラに厳しすぎやしないか」という言葉が、ナイフのように鋭く心の奥底に突き刺さる。それは、恐らく数年ぶりに湧き起こった母親としての痛みだった。
その痛みをどうにかして和らげる術を探るかのように、私はなるべくレイラと共に時間を過ごした。ローゼに対する愛しさとはまた違うけれど、あまりにも可哀想なレイラを放っておくことなど出来なかったのだ。
それに、眠り続けるレイラに他愛もない話をしてやったり、レイラが好きだというアネモネの花を飾ってやったりしているうちに、レイラを公爵令嬢としてではなく、一人の可愛い我が子として見ることに慣れてきた。王家に嫁ぐ必要もなくなり、ただ眠り続けるレイラにとって、厳しさは最早不要なものでしかないのだ。
また、レイラがいつか目覚めることを信じて、医師から聞いたマッサージをレイラに施す使用人たちの姿にも勇気づけられた。確証もない淡い期待に縋ってもいいのだと、彼女たちの姿を見て思えるようになったのだ。
それからは、メイドたちに教えてもらいながらレイラのマッサージを毎日行った。思えばレイラに触れるのも数年ぶりのことで、不思議と穏やかな気持ちになる。このとき初めて、私は純粋にレイラと親子としての触れ合いを楽しめていることに気が付いた。
そう思えるようになったのも、私もレイラも「完璧であること」という重圧から解放されたおかげなのかもしれない。レイラを完璧な令嬢に育て上げなければならないと誓った、あの強迫観念にも似た思いから少しずつ解き放たれていくのを感じた。
もしも今、レイラが目覚めたのなら、きっと私は初めてレイラに母親としての言葉をかけられるだろう。そう思うくらいには、少しずつ少しずつレイラへの愛しさが募っていった。
だが、そんな私の緩やかな心の変化を嘲笑うかのように、レイラは最悪のタイミングで目を覚ましたのだ。
事故に遭ってから、およそ2年が経過したある初夏の日、レイラは突然目を覚ました。旦那様と共に朝食を摂っていた私は、その知らせを聞いて思わずフォークを落としてしまうくらいに舞い上がったものだ。
だが、それと同時にこの現状をどのようにレイラに伝えるべきなのか、と悩んでしまったのも事実だ。
今、ローゼのお腹には殿下の御子がいるのだ。結婚式を挙げる前だけれども、それだけローゼが殿下の寵愛を賜っていた証なのだから、今までは喜ばしい知らせだとしか思っていなかった。だが、レイラが目覚めたとなれば話は別だ。
自分のかつての婚約者と妹の間に、新たな命が宿っていると知ったら、レイラはどう思うだろう。王家に新たな命が誕生するのを喜ぶのか、それとも自分の婚約者を奪われたことに憤慨するのか、まるで想像もつかなかった。私の中で、公爵令嬢としてのレイラと私の娘としてのレイラはそれくらい別物だったのだと気づかされる。2年間の眠りから目覚めた今、彼女は一体どちらのレイラなのだろうか。
朝食を途中で取りやめて、私と旦那様は早速レイラの部屋へ向かった。陽の光の差し込むレイラの寝室は、ほのかな消毒液の香りに満ちていて、昨日までと何ら変わらぬ雰囲気を纏っている。
その中で決定的に違うのは、レイラがあの綺麗な亜麻色の瞳で私たちを見つめていたことだ。
ああ、レイラ、本当に目覚めたのね。
……良かった、本当に良かった。
そう思ったのは嘘ではない。もう一度、この優しい亜麻色に相まみえることが出来て本当に幸せだ。
だが、レイラが殿下との結婚式の話題を口にしたとき、その喜びが一気に冷え込んでいくのを感じた。心臓が凍りつくような思いだった。
どうしよう。私は今、公爵夫人として説明するべきなのだろうか。それとも、レイラの母親として接するべきなのだろうか。
レイラが目覚めたときには、きっと母親としての言葉をかけようと思っていたが、この話題だけは慎重に考えなければならない。私は言葉を詰まらせながら、必死に最善策を模索していた。
だが、見かねた旦那様が助け舟を出してくださった。旦那様は公爵家の当主として冷静に説明を始める。それでも、合間には確かに父親としての苦しみが顔を覗かせていた。
「……一応伺いますけれど、私が目覚めたことで、ローゼと殿下の婚姻は撤回されることはないのでしょうか」
殿下と実の妹が婚約、という話を聞いてもレイラは平静を保っていた。冷静に、そんなことを聞き返すくらいの余裕はあったのだ。
流石は、レイラだ。2年間眠っていても、完璧な令嬢としての振る舞いは少しも色褪せていない。
「……状況が状況でなければ、その可能性もあったかもしれないが……」
旦那様も、ローゼの懐妊のことは言い出しづらいのだろう。言葉を選ぶように、しばらく逡巡していた。
だが、そんな私たちの様子を見てしびれを切らしたのか、レイラが声を上げたのだ。それは、数年ぶりに訊くレイラの大きな声だった。
「どうぞ、はっきり仰ってくださいな! 一度傷を負った令嬢は、もう神聖な王家には嫁げないとでもいうのでしょう……? そうですわね、王家にとっても私などより美しいローゼの方がどんなにいいかわかりませんね」
思わず、目を見開いてレイラを見つめてしまう。こんなにも皮肉気で、どこか卑屈なレイラの姿は初めて見た。レイラはいつだって、可憐な微笑みを浮かべ、穏やかな雰囲気を纏っているのに。
「違うわ、レイラ! 違うのよ……」
声を荒げるレイラの姿は、まるで知らない人のようで怖かった。思わず私も声を大きくして、彼女の言葉を遮ってしまう。駄目だ、下手に隠さない方がいい。聡明なレイラに隠し事などしても無駄なのだから。
「っ……ローゼのお腹には殿下の御子がいるのよ……」
私は手に持っていたハンカチを目に押し当てながら、震える声で告げた。あまりにも痛々しいレイラの姿を前にしているせいか、次々と涙が溢れてくる。
「……それで、結婚式が早まるのよ。お腹を目立たせないために、二月と少し後には挙式をすることになっていて……」
もうレイラの顔を見られなかった。戸惑いと怒りに揺れる亜麻色から逃れるように、私は俯いて涙をハンカチに滲ませる。
これはもう、いくらレイラでも泣き叫んで怒っても仕方がない。そう思うからこそ、目覚めて早々酷な現実を突きつけられたレイラの感情を受け止めるだけの準備はできていた。
そうしてレイラが泣き疲れたころに、私はきっと母親として彼女を抱きしめてあげよう。今の私に出来ることは、もうそれくらいしか残されていない。
だが、私はレイラを甘く見ていたのだ。彼女は私の予想を裏切って、ぽつりと呟いた。
「……そう、ですか。本当に、おめでたいことです……」
震える声だったけれども、公爵令嬢として完璧な言葉を紡ぎだしたレイラに、俯きながらも目を見開いてしまう。
……ああ、そうよ、そうだったわ。レイラは、優秀で美しい特別な令嬢なんだもの。怒りに任せて泣きわめくような真似をするわけがないじゃない。
こんな酷な現実を受け止めても尚、完璧であろうとするレイラの姿に、私の胸は感動で打ち震えた。思わず、涙が零れるほどに。
本当に、私の考えが足りなかったわ。彼女を甘やかそうなんて、完璧なレイラに失礼なくらいよ。レイラは、こんなにも強く心の広い子だというのに。私の助けなど無くとも、完璧でいられる素晴らしい娘ということを、私はこの2年間の間に忘れかけていたのかもしれないわ。
良かったわ、間違える前に気づくことが出来て。私は心の中で、レイラの強さと生まれ持った才能に感謝した。
起きたばかりで混乱している様子のレイラを、適当な言葉で宥めながら私はハンカチで涙を拭った。分かっている、この混乱だってきっと今だけだ。ローゼの懐妊の知らせに、あれだけ模範的な言葉を返せたレイラならば、すぐに完璧な公爵令嬢として立ち直れるだろう。
大丈夫、レイラは今からでもやり直せるわ。王太子妃にはなれなくても、誰もが羨むような人生を歩ませてあげよう。特別なレイラに相応しい日々を、今すぐに用意してやるのだ。
私に出来ることは、まだあったのだ。レイラが完璧でいようとする限り、私はそれに応える義務がある。その喜びを、私は2年ぶりに噛みしめたのだった。
そんな完璧なレイラだったが、ローゼが見舞いに行ったときには、彼女にきつく当たったようだった。完璧であろうとするレイラだったが、いざローゼを前にすると、上手く感情の抑制が出来なかったのかもしれない。普段ならば厳しく叱るところなのだが、レイラの気持ちを汲んで軽く諫める程度で済ませた。レイラもまだ混乱しているのだ。あまり責めるのも良くないだろう。
レイラが目覚めてからというもの、私はレイラに再び完璧な日々を歩ませてあげることに必死だった。レイラが社交界に復帰しようとしていることを周囲に知らしめ、レイラの新たな婚約者に相応しい殿方を捜す毎日だ。
レイラもレイラで、毎日欠かさず運動を行い、一刻も早く元の生活に戻ろうとしているようだった。完璧であろうとするレイラのために、すぐに相応しい人生を用意してあげなければ。ただひたすらにその想いだけを抱いて、私はレイラの可能性を模索する喜びを噛みしめていた。
どんよりと雲がかかっていたかのような公爵家に、ようやく光が差した気がした。直に、2年前と同じようなあの完璧で幸福な日々が訪れるのだと、このときの私は信じて疑わなかった。
それなのに、レイラは私を裏切ったのだ。期待を抱かせるだけ抱かせておいて、一人でどこかへ逃げ出してしまった。
その知らせを聞いたときは、しばらく言葉の意味を理解できなかった。あれだけ完璧であろうとしていたレイラが、どうして逃げるのだろうか。社交界に復帰するために、毎日必死に運動をしていたのではなかったのか。
完璧な令嬢であるレイラがそんなことをするなんて、不思議で仕方が無かったけれど、理由はレイラに直接聞いてみればいい。恐らくその理由も、本の影響なんかを受けて自由に憧れたなんていう、いかにも世間知らずの令嬢が考えそうな動機だろうけれど。私も、若いときには「自由」というものが、輝かしく見えて仕方が無かった時期があるから無理はない。
それに、レイラが逃げ出したとはいっても、私はあまり心配していなかった。貴族社会という籠の中でこそ完璧なレイラだが、舞台が外の世界に変われば世間知らずの箱入り娘に過ぎないのだ。そんな生粋の令嬢であるレイラが、外の世界で生きて行けるはずが無い。修道院に入ったとしても、あまりにも質素な暮らしに驚いてすぐに帰ってくるだろう。
これも、公爵令嬢としてはいい経験になるかしらね。
そんな呑気なことを考えて、私はレイラの婚約者候補の書類に目を通しながら、彼女の帰りを待っていた。
だが、何日経ってもレイラは見つからなかった。こうも帰りが遅いとなれば、流石に焦りを覚える。誘拐の可能性も視野に入れなければならない。
捜索の手を広げ、公爵家の総力を挙げてレイラの行方を追った。あれだけ綺麗な顔をした、いかにも貴族令嬢といった雰囲気の少女なのだ。多くの目撃情報があってもおかしくないのに、得られた情報と言えば、レイラが逃げ出した日に王都の広場で体調の悪そうなレイラを見かけた、というあまりにも頼りないものだけだった。
こうなると、考えたくはないがレイラが既に亡くなっている可能性も出てくる。一人でお金を稼ぐ術などあるはずもないのだから、余程親切な人に世話になっていない限り、生きていると考えるのはあまり現実的ではない。頭ではよく理解していたが、それでも私にはどうしても受け入れられなかった。
それなのに、レイラがいなくなって一か月近くが経った頃、ついに旦那様は覚悟を決めるべきだと仰った。そうして、レイラに来ていた縁談を、一つずつ断り始めたのだ。
嫌よ。あんな不幸な事故に耐え、がらりと変わった現実を受け入れても尚、あれだけ完璧だったレイラが、人知れず亡くなっているなんて。そんなこと、考えたくも無いわ。
ああ、レイラ。レイラ、どこにいるの。何をしているの。あなたがいなくちゃ、アシュベリー公爵家の完璧で幸福な日常は始まらないのよ。お優しい旦那様、天使のように愛らしいローゼ、そして優秀で特別なあなたがいて、初めて家族が揃ったと言えるのだから。
いいこと、レイラ。自由に焦がれた籠の鳥が逃げ出した末路は、いつだって酷いものなのよ。
だから早く、早く戻っておいでなさい。私たち家族の待つ、この公爵家に。
あなたは、貴族社会という舞台の上でしか輝けない、高貴で特別なお姫様なのだから。
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