第40話
窓越しに、目に焼きつくような鮮やかな夕暮れが広がっている。直に紫紺の空に変わるのだろう。どのくらいの時間、こうしているのかもう分からなかった。陽が沈み始めたころからだからかなりの時間が経っていると思うのだが、動く気にもなれない。
殿下との約束の期限は、明日に迫っていた。答えは既に決まっているのだけれども、どうしても返事をする勇気が出ないまま今日まで過ごしてしまった。お返事を返さなければならないと焦燥感に駆られたときもあったけれど、どうしてかここ2、3日はそんな気持ちすら湧き起こらない。感情らしい感情を少しずつ忘れ始めている気がした。
いっそ、早いところ諦めてしまった方が楽だったのかもしれない。そう思う程度には、息苦しい毎日が続いていた。私はここから出られないというのに、殿下の執着は日に日に強くなっていく。
もう、首を絞められることにも、乱暴に手首を掴まれることにも慣れてしまった。殿下の憎しみは相当深いようで、とてもじゃないが私一人で受け止めきれるようなものではなかった。
殿下の機嫌を損ねてしまう私が悪いのだということは分かっている。それならばせめて、私の何がお気に障ったのか考えて改善しようとしたけれど、パターンが多すぎて掴み切れなかった。殿下に直接聞いてみる勇気も、首を絞められた後にはどうしても湧いてこない。
多分、殿下は私という存在自体が気に食わないのだと思う。それならば私を目の届く場所に置かなければいいのにと思うのだが、私が自由を謳歌しているのもそれはそれで許せないらしい。
もしかすると私がそこまで殿下に憎まれている理由は、公爵家の問題以外にもあるのではないか、と私なりに考えてみた。出会った時のこと、月に一度の顔合わせ、その一つ一つを丁寧に思い出した。もっとも、長年婚約者だったと言っても、殿下との思い出はそもそも数えるほどしかないのだけれど。
だが、どの記憶の中でも殿下は無愛想で、私に興味など無い素振りをなさっていた覚えしかない。余程私といるのがつまらなかったのだろうと思われるけれど、それならば私に執着する理由がまるでわからなかった。
ぼんやりと考え事をしていると、モニカが傍に寄ってきて慎ましく礼をする。ちらりと時計を見やればそろそろ夕食の時間だった。
そう、殿下との夕食の時間。彼と食事をしていると、一流の料理を味わってもまるで灰を噛むような調子なのだ。そのせいか、このところあまり食事を摂ることが出来なくなっている。手首も一回り細くなったような気がした。
「……ありがとうございます、今行きますね」
モニカに微笑みかけるような調子で話したつもりだったのだが、自分の声の覇気の無さに驚いてしまった。気丈に振舞えていると思っていたのに、どうやらそろそろ限界が近づいているらしい。
リーンハルトさんから頂いたペンダントが手元に戻ってきてから、確かに私はもう少し頑張れると感じた。もしかしたら、このペンダントの魔力を頼りにリーンハルトさんが会いに来てくれるかもしれない、とさえ思ったこともあった。
だが、それも全部甘い夢だったようだ。数日たってもリーンハルトさんが来ることは無かった。この部屋がどのような管理下に置かれているか知らないが、魔術師の彼にとっては突破することなんて訳もないだろう。
そもそも都合の良すぎる話なのだ。リーンハルトさんを傷つけておきながら、危機に陥ったら助けに来てくれることを夢見るなんて。
人生で初めて胸を焦がすほどに夢中になった恋が終わる予感がして、私は胸を痛めながら、リーンハルトさんの瞳を思わせる紫紺に染まりゆく空を見上げた。まだ、痛みを感じるだけの心の機能は残っているようで安心する。もっとも、この生活が続けばそれも時間の問題だろうけれど。
「随分、愛おし気に空を眺めるんだな。自由が恋しくなったか?」
冷たい響きさえあるその声に、私はびくりと肩を揺らしてしまった。こんな反応、失礼だと分かっている。でも、いつからか私はこの声を聞くだけで反射的に怯えるようになってしまった。
「あ……ルイス……」
「……僕のことは、そんなにも怯えた目でみるのにな」
「あの……ごめんなさい、ルイス。私……」
どうすれば許しを得られるだろうか。咄嗟に私は考えていた。
分かっている。どうにかして許してもらおうなどと考えている時点で、私は多分もう駄目だ。心が壊れる日もそう遠くない。
言葉に迷いながら、殿下から距離を取ろうとすると、背中に窓ガラスが当たった。ドレスから露わになった首筋に、冷えた夕闇の気配が纏わりつく。
「いっそこの目を抉りだしてしまえば、こんな苛立ちとは無縁の日々を送れそうだな……」
殿下の指先が私の目元に添えられる。
怖い、怖い怖い怖い。この人は本当にやりかねない。
「怯えた顔も綺麗だ、レイラ。レイラのこんな表情、きっと僕くらいしか見たことが無いんだろうな」
どこか満足げな殿下は、食い入るように私を見下ろしていた。私の怯えた顔を殿下しか見たことが無いのは当たり前だ。殿下以外に、私にここまでの息苦しさを与えた人など今までいなかったのだから。
殿下の執着と憎しみに絡めとられて、今にも本当に息の根が止まりそうだ。苦しくて痛くてならない。
「っ……ルイスがここまで私を憎むのは……」
あまりの恐怖に震えながらも、私は睨むように殿下を見上げた。相変わらず、その蒼色の瞳には執着の色が色濃く映し出されている。
「公爵家の問題以外にも、何か理由がおありなのですか……」
涙目になりながらも、ついに殿下にぶつけてしまった。この部屋に閉じ込められてからずっと抱いていた疑問を。
どうせ殿下はいつのものように誤魔化して、顔色一つ変えないのだろう。それどころか、下手な疑問をぶつけてしまった事で、本当に目を抉られるかもしれないという恐怖が今更ぶり返してきた。
だが、ありがたいことにその予想は外れた。この言葉に、殿下は珍しく表情の変化を見せたのだ。殿下は僅かに驚いたような様子で、私を見下ろしている。
「……僕が、レイラを憎む……か」
やがて殿下の口元に自嘲気味な笑みが浮かぶ。
「……そうだな、確かに憎くて憎くて仕方がない。こんなことならば初めからいっそ、僕の前になど現れないでくれた方が良かった……」
その蒼色の瞳には言葉通りの確かな憎しみと、それから僅かな切なさが混じっていて、思わず息を飲んだ。執着以外の感情を読み取れたのはこれが初めてだ。
あれだけ心の動きを読み取れなかった殿下が、こんなにも感情を露わにするなんて。結局、私を憎んでいる理由は分からないままだけれども、今、私は初めて殿下の心に触れたような気がした。
唖然として殿下を見上げていると、目尻に溜まった涙を強めの力で拭われる。僅かに痛みが走ったが、すっかり苦痛に耐性がつきつつある今の私にとっては、どうということは無い。
「……晩餐の時間だ」
殿下はエスコートするように私の手を取ると、こちらを振り向くことも無いままに歩き始める。かつてはこんな風に手が触れ合うだけで心をときめかせたものなのに、今は恐怖しか感じないなんて。どちらも確かに自分の心のはずなのに、あまりの違いに心の中で皮肉気な笑みが零れてしまう。
……でも、もうそれでいいのかもしれないわ。
きっと私のこの心は、あと数日と持たずに壊れてしまうのでしょうから。
それは、予感ではなく確信だった。明日、殿下に、ローゼを助けるために私が身を捧げると言ってしまえば、きっとあっという間に何も感じなくなる。リーンハルトさんへの想いと贖罪に焼かれるようにして、この心はすぐに灰になる。
そんな状態の私を見れば、ようやく殿下の憎しみは晴れるのかしら。
罪人の妹を救い、殿下の気晴らしのために籠の鳥になる。私の人生はそのためにあったのかもしれない。
……いえ、できれば、リーンハルトさんに出会うための人生だったと思いながら死にたいわ。
枯れ果てた涙の代わりに心の中でそう呟く。またひとつ、心が軋む音をどこか他人事のように聴きながら、私は殿下の後に続いたのだった。
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