第41話
夕食の後、私と殿下は並んでソファーに座っていた。今日も今日とて食欲が湧かず、あまり食べられなかったのだが、殿下はそれが気に食わなかったらしく、今は紅茶とお茶菓子をほぼ強制的に食べさせられているところだった。いらないと言っても用意されてしまうのだから、本当にたちが悪い。
モニカが運んできてくれるお茶は確かに一流の味だけれど、リーンハルトさんが淹れてくれる紅茶には遠く及ばなかった。もっとも、殿下の隣で味わうお茶ならば、たとえリーンハルトさんが淹れてくれたものでも十分に味わえそうにないのだけれど。
窓越しに差し込む月明かりだけが、私たちを照らしていた。手元は充分に照らされるので特に支障はないのだが、その仄暗さがこの部屋の重苦しさを助長している気がしてならない。
「っ……」
ぼんやりとした調子で砂糖の付いた小さなクッキーを口に運んでいると、唇を噛んでしまった。令嬢としてあるまじき失態だが、心が弱っている証なのか恥じらう気持ちもあまり覚えない。僅かに出血する傷口をそっと舌で舐めとれば、不快な鉄の味がした。
「噛んだのか?」
本当に、殿下は恐ろしいほどに目ざとい。声も出さず、一瞬動作を止めただけだというのにどうしてわかったのだろう。僅かな驚きを込めて殿下を見つめ返していると、彼の冷たい指先が私の唇に触れた。反射的に、びくりと肩を揺らしてしまう。
「別に何もしない。まだ答えを聞いていないからな」
そう言いつつも、殿下は私の唇から指先を離そうとしなかった。このまま口付けをされてもおかしくはない距離なのだが、流石は殿下というべきか、約束はきちんと守るようだ。
思えば、私が殿下の婚約者だった時代にも、約束の時間に遅れたことは一度も無い。私と会う時間はさぞ退屈で仕方なかっただろうと予想されるのに、約束を違えることは無かったのだから、とても律儀な方なのだろう。
そういう真面目なところも、かつては好きだった。今はもう、それはとても遠い感情になってしまったけれど。
「……レイラは、誰かと口付けたことがあるのか?」
その言葉に、ふとリーンハルトさんの顔が思い浮かんで少しだけ心が安らいだ。恋焦がれたリーンハルトさんとの口付けは、苦しくて恥ずかしくて、少しだけ怖かったけれど、今となってはいい思い出だ。
「……ええ、ありますわ」
その返答がよほど意外だったのか、殿下は一瞬目を見開いた。そしてどこか不安定な笑みを浮かべると、私の唇の傷の部分に触れてくる。鈍い痛みが走って不快だったが、じっと耐えた。
「へえ、清廉なレイラにもそんな経験がね……。ご令嬢たちが聞いたら悲鳴を上げるんじゃないか」
「どうでしょう。女性は恋の話が好きですから……」
「恋? そうか、やっぱり恋人がいるんだな。相手は誰だ?」
さらりと言ってのけたが、相手の名を口にすれば殺しそうな勢いの憎しみを感じて、思わず身震いした。きっと、答えるまで離してくれないだろう。リーンハルトさんを恋人と呼んでよいかは分からなかったが、そっと口を開く。
「……誰より心優しい魔術師様ですわ」
その言葉にようやく殿下は私の唇から指を離すと、軽く声を上げて笑った。どちらかと言えば嘲笑に近い笑みだ。
「魔術師、か……。遂にレイラも壊れ始めたか? 御伽噺の存在に縋るなんて……。そんな幻の存在に助けを求めるくらい、ここから逃げ出したいんだな」
殿下が私の肩に手を添え、そっとソファーに押し倒す。いつもよりはいくらか穏やかな仕草に、却って驚いてしまう。
「もう、諦めろ、レイラ。その方が、ずっと楽になるだろう?」
殿下が指先でそっと私の髪を梳いて握った。殿下はそのまま亜麻色の毛先にそっと口付け、端整な笑みを浮かべる。
殿下のものとは思えぬその仕草に、思わず彼を見上げたまま固まってしまった。事あるごとに私の首を絞めていた殿下が、一体何をなさっているのだろう。
「早く、僕のものになるんだ」
そう囁きながら私の額に口付ける殿下に、一瞬流されそうになる。そのくらい、私は優しさに飢えていた。自分でも情けないくらいだが、このまま流されてもいいのではないか、と本気で考えてしまった。
だが、指先で私の髪を梳くという行為が皮肉にも、リーンハルトさんを彷彿とさせ、私を思い留まらせた。
往生際が悪いのは知っている。でも、ぎりぎりまで私はリーンハルトさんを想っていたかった。
「……お返事の期限は、明日の朝のはずですわ」
「本当に、レイラは意外に強情だな。大した精神力だ」
「……お褒めにあずかり光栄です」
リーンハルトさんのことを思うと、切なさに顔を歪めそうになったが、感情を殺すのは得意だ。にこりと笑んで殿下を見上げる。
殿下はそんな私を見て軽く溜息をつくと、私から手を離し立ち上がる。月の光を背にしたせいではっきりと表情を読み取ることは出来なかったが、僅かに口元が歪んでいるような気がした。
「まあ、その強がりも明日までだ。明日の返事を楽しみにしている、レイラ」
それだけ告げると殿下はいつも通り私の額に口付けて、部屋から立ち去って行ってしまった。ソファーに手をつきながらゆっくりと体を起こし、二つ並んだティーカップを眺める。
恐らく、殿下は確信しているのではないだろうか。私が、ローゼを見捨てるはずがない、と。ローゼを救うために、殿下に身を捧げるつもりであるのだ、と。私のことならかなり仔細に渡ってご存知な殿下ならば、そう予想していても不思議はない。
それに、あの殿下のことだ。もしも私がローゼを救わない道を選んだとしたら、ローゼを私の前で殺すくらいのことはやってのけるだろう。いざ目の前でローゼの首に剣を付きつけられたら、私は泣いて彼女の命乞いをするかもしれない。いや、きっとせずにはいられない。
結局どの道を選んでも殿下の思い通りになる気がして、思わず自嘲気味な笑みが零れた。この2週間ずっと、殿下の掌の上で踊らされ、痛めつけられている気がする。
私は大きく息をついて、そっとソファーから立ちあがった。
本当は、私だって諦めてしまいたい。いっそ何もわからなくなってしまえば、もう苦しむことも、リーンハルトさんを思い出して泣くことも無いのだから。
でも、それでも、最後まで残ったこの恋心がそれに抗うのだ。
公爵家や、アメリア姫の存在から逃げ続けた私だけれど、この想いからは逃げたくない。
リーンハルトさんを愛している、というこの想いだけは譲れない。
私は、戸棚の上に並べられた刺繍作品に忍ばせておいたペンダントを取り出し、窓の方へ足を進めた。今日も今日とて、星空のように美しい石だ。
「……リーンハルトさん」
ペンダントをそっと首にかけ、月を見上げてリーンハルトさんを想った。
この想いは譲らない、譲れない。それでも、これがきっと彼を想う最後の夜だ。殿下にお返事をした明日からは、きっとリーンハルトさんに想いを寄せる心の余裕すらなくなってしまうだろうから。
「お慕い申し上げております」
囁くようにそう告げ、そっとペンダントの石を握りしめる。本当は直接言いたかった。あなたが好きなのだと、彼の目の前で告白したかった。
でも、それももう叶わないかもしれない。せめてもの救いは、この生が終わればまた、この魂だけは再びリーンハルトさんにお会いできるということだけだろうか。
アメリア姫も、きっと無念だっただろう。大好きなリーンハルトさんに結ばれる寸前で殺されてしまったのだから。
魂がどこに宿っているかなんてわからないけれど、そっと自分の胸に手を当ててアメリア姫のことを想った。私も、彼女と一緒だ。ある意味、恋敵と呼べるアメリア姫だけれども、慰め合えるならば慰め合いたかった。
……自分の魂に縋るなんて、いよいよ私もお終いね。きっとそう遠くないうちに、この心は壊れてしまうのだわ。
せめて壊れる最後の瞬間まで、リーンハルトさんのことを想い続けよう。
そう心に決めながら、いつも通り金糸雀の籠に近付く。普段より少し早いが、餌やりでもして気分を落ち着けたかった。
しかし、籠の傍に寄っても鳴き声一つ上げない金糸雀に違和感を覚える。
「……どうしたのかしら」
飾りのついた金糸雀の籠を開け、餌を差し出してみてもいつものように飛びついてこない。それどころか、籠の底で横になってびくともしなかった。
「っ……」
思わず口元に手を当て、一歩後退ってしまう。まさか、死んでしまったのだろうか。毎日餌やりも水の補給も忘れなかったのに。モニカがいつも籠の中を清潔に保ってくれていたのに。
再び籠に近付いて、そっと金糸雀を手に乗せる。温かみは感じられず、まるで精巧な人形を手にしているかのような感覚だった。
……籠の中が、合わなかったのかしら。
可哀想に、と思うと同時に未来の自分の姿を見せつけられたようで背筋に寒気が走った。
そうか、私もそう遠くないうちにこうなるのか。覚悟を決めていたつもりだったけれど、いざ生き物の死を前にすると怖くなってしまう私がいた。
金糸雀を胸元で抱きしめて、小さな命の安らかな眠りを祈る。私も直にそちら側へ行くのかもしれない、なんて感傷的なことを考えて、思わず自嘲気味な笑みが零れた。ぽたり、と零れ落ちた涙が金糸雀の羽に染み込んでいく。
金糸雀の死が悲しいのか、自分の未来を憂いだのか、それとももう心が壊れ始めているのか分からなかったが、静かに頬を伝う涙は留まることを知らなかった。ただただ苦しいという気持ちで一杯になる。
そのまま金糸雀に縋りつくように涙を流していると、ふと、金糸雀を包んだ手にペンダントの石が当たった。星空のような、綺麗な石だ。
……私が死んだら、リーンハルトさんは気づいてくださるのかしら。
そんなことを思ってふと、靄がかかった心に緊張が走る。久しぶりに、どくん、と心臓が跳ねるのを感じた。
「……そうよ、そうだわ」
どうして、気づかなかったのだろう。私は金糸雀をそっと籠の中に戻すと、改めて首から下げたペンダントをぎゅっと握りしめた。このペンダントを受け取ったときのリーンハルトさんの言葉を思い出してみる。
――魔力を込めてあるから、レイラが倒れたり、命の危機に瀕したときには僕に伝わるようになっているんだ。
「っ……」
あの時は心配性なリーンハルトさんらしい魔法だと思ったが、今となっては彼の過保護な性質に感謝するしかない。私に一縷の希望を与えてくれたのだから。
そう、リーンハルトさんの言葉通りならば、自ら命の危機に晒されることで、リーンハルトさんに会えるかもしれないのだ。石は多少欠けてしまっているから、今もその効果があるのかは分からないが、この魔法を逆手にとって試してみる価値はある。
殿下との取引にお返事をする前に、最後にもう一度だけ彼に会いたい。会って、私がリーンハルトさんを自分勝手に傷つけてしまったことを謝りたい。体は殿下に捧げることになっても、この心はリーンハルトさんのものなのだと、きちんと伝えてお別れをしたい。
ただ、試すからには、本当に命を諦める覚悟で臨まなければならないだろう。
幻の王都で生活していたとき、このペンダントをつけた状態で料理で指先を切ったり、お湯でほんの少し火傷したことはあったが、リーンハルトさんが駆け付けたことは無かった。それに、殿下に捕まり、倒れそうなほど疲弊していたときも魔法は発動しなかった。
多分、発動条件はかなり厳しいのだ。それこそ、失神するような事態に陥るか、命の危機に晒されるような怪我をしなければきっとリーンハルトさんは気づいてくれない。だから、やるならば命を絶つ勢いで挑まねばならない。
……それでも、最後にリーンハルトさんにお会いしたい。会って、私の身勝手を謝りたい。
覚悟を決めて、辺りを見渡す。広々とした部屋の中には、高価な調度品ばかりが並んでいた。剣でも飾られていれば話が早かったのだけれど、女性のために用意された部屋にそんなものはない。
その中で、私はアネモネが飾られた花瓶を手に取って眺めてみる。陶器だから、割れればそれなりに鋭利になるだろう。私は心の中で花を活けてくれたモニカと綺麗な飾り絵のついた花瓶に詫びながら、勢いよく花瓶を床に叩きつけた。
思った通り、花瓶はいくつかの破片になって割れた。切っ先が尖っている物も多いので、これで上手くいくだろう。私は一番鋭利なかけらを手に取って、そのまま鏡の前に走った。
死ぬつもりはないが、万が一の時に備えて遺書をしたため、それを鏡の前に置く。この生活には耐えられないというありきたりなことと、殿下への謝罪、モニカへの感謝などを走り書きし、一番下に名前を書きつけた簡単なものだが、自死を仄めかすには充分だろう。
我ながら、本当に危険な賭けだ。これでもしも私が死んでしまったら、ローゼも公爵家も破滅の道を辿るしかない。
でも、お願い、最後にこの恋心に終止符を打たせて。一目、リーンハルトさんにお会いできたなら、彼に私の身勝手を謝罪できたのなら、そうすればきっと後悔なく、私は殿下のものになる覚悟ができるはずだ。
私は鏡の中の自分をじっと見つめて、そっと花瓶の破片を首筋に軽く押しあてる。本気で死を望むわけではないから、それほど強い力でなくともよいだろう。力加減を間違えれば本当に死にかねない血管なだけに、注意が必要だ。
信じておりますわ、リーンハルトさん。
リーンハルトさんはもう私のことなど諦めてしまわれたかもしれないと、不安に飲み込まれそうになったときもあったけれど、彼の愛を疑うのはもうやめた。あんなにも愛情深く心優しいリーンハルトさんが、簡単に私を見捨てるはずがない。自惚れているようで気が引けてしまう気持ちもあるが、命を賭けて彼の愛を信じてみたくなった。
軽く目を瞑り、深呼吸する。痛いのは怖い。でも、リーンハルトさんに会えるかもしれないという希望があるならば、不思議と耐えられるような気がしてしまう。
「……お願い、リーンハルトさん」
心の中で強く祈りながら、私は花瓶の破片を首筋に沈めたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます