第36話(リーンハルト視点)
それからというもの、僕は毎日のようにアメリアに会いに行った。感情とやらを取得できているかはよく分からないが、会いに行くたびにアメリアの笑顔を見る回数が増えたような気がする。
「今日はアップルパイを用意してみたわ。林檎が好きなのでしょう?」
バルコニーに用意されたテーブルの上には、香ばしい匂いのパイが置かれていた。繊細な花が描かれたティーセットも用意されている。
「アップルパイか。話には聞いたことあるけど、食べたことは無いな」
「……リーンハルト、あなたそれだけ長く生きていてアップルパイも食べたことないの?」
アメリアは怪訝そうな顔で僕を見つめてくる。そんな表情もいちいち綺麗だ。
「まあ、どうせ食べなくても死なないからね。空腹を覚えたら、林檎を齧ってるよ」
流石に何も食べない日が何日も続けば体調を崩すだろうが、やはりそれでも死にはしないのがルウェイン一族だった。死ねないと分かっているのにわざわざ苦しい思いをする理由がわからないから、試したことはないのだが。
「……あなたの花嫁になるなら、料理も覚えないとね」
「前向きに考えてくれて嬉しいな」
「い、今のは独り言でっ……」
頬を赤く染めるのは、どうやら照れているらしいということを最近になって理解した。僕らの関係はそう悪くもないのではないかと思う。
「わ、私が料理を覚えるなら、リーンハルトは美味しいお茶を淹れられるようになってよね」
「お茶を? 何か違うの、あれ」
「違うわよ! 温度によっても茶葉によっても!」
「うーん、あまり気乗りはしないけど、アメリアの頼みだから頑張ってみるよ」
シャルロッテはあの精神状態で教えてくれるだろうか。いや、魔術師団の同僚に聞いた方がまだマシだろうな。
「この味を覚えて、頑張って頂戴!」
アメリアは僕の目の前のティーカップに湯気の立つ紅茶を注いでくれた。心地よい香りに包まれる。
一方でアメリアは自身のティーカップに角砂糖を3つも放り込んでいた。その光景に、もともと砂糖の甘さが好きではない僕は辟易してしまう。
「……そんなに砂糖入れるなら、紅茶の味なんて関係ないじゃないか」
「分かってないわね、リーンハルト。このくらい甘いのと香り高い紅茶の組み合わせは最高なのよ! リーンハルトも入れる?」
「いや……君のお願いを叶えるために、紅茶本来の味を覚えたいから遠慮しておくよ」
「ふふ、なかなか健気じゃない。頑張ってね」
くるくると紅茶をかき混ぜるアメリアを横目に、紅茶を口に含んでみる。確かに適当に入れるよりも香り高く、味がしっかりしている気がした。これは修業が必要そうだ。
この長い人生で初めて食べるアップルパイは、吐きそうなくらい甘かったのに、目の前でアメリアが美味しそうに食べているから不思議と嫌な気分にはならなかった。むしろ、甘いものを最後まで食べられたのはこれが初めてで、そもそも食べたことのある料理が少ない僕の中では好物と言っても過言ではない代物だった。
「気に入ったかしら?」
蒼色の目を輝かせて様子を窺うアメリアに、僕はそっと笑いかける。
「美味しいよ、気に入った」
「そう、それは良かったわ!」
アメリアが嬉しそうで、自然と頬が緩んでしまう。肯定的な答えを返してよかった。
ふと、こんな感覚に陥ったのは初めてだと気づかされる。どうやら僕は順調にアメリアの言う感情というやつを学んでいるらしい。
そんな僕とアメリアの穏やかな日々に異変が訪れたのは、ある冬の日のことだった。出会ってから、既に半年が経とうとしていた頃だ。
「婚約?」
聞き間違いかと思った。アメリアの口から出たその言葉を、思わず復唱してしまう。
「そう、抗えなかったわ。お父様の前では」
浮かない顔のアメリアを見ていると、何だかもやもやとしてすっきりしない気分だ。それに、アメリアが他の男と婚約なんて面白くない。
「相手は?」
「隣国の第二王子ですって」
「アメリアは、その王子が好きなの?」
「まさか、舞踏会でちょっと会ったことがあるかしら、って程度よ。好きも嫌いも無いわ」
「じゃあ、ちょっと隣国まで行って王国を燃やしてこようか。そうすれば、婚約どころじゃない」
「……綺麗な顔で物騒なこと言わないでくれるかしら」
呆れた顔でアメリアは僕に向かい合うと、ずいっと距離を詰めてきた。
「今こそ、駆け落ちのときよ」
「……アメリア、僕と結婚してくれるの?」
「そ、そういうことよ。って、きゃっ」
思わずアメリアを抱き上げてしまった。この綺麗で楽しくて優しい人が、僕の妻になるなんて。
「嬉しい」
自然と、その言葉が零れていた。アメリアは少しだけ驚いたように僕を見つめると、甘くとろけるような笑みを見せる。
「ふふ、私も嬉しいわ。ちゃんと大切にしてよね!」
アメリアはそう言うと、僕の頬にそっと口付けた。
なんだそれ、あまりにも可愛すぎないか。
「……約束する」
微笑みながらも、思わずアメリアを食い入るように見つめてしまった。それに耐えられなかったのか、アメリアは今までにないほど頬を真っ赤にして顔を背けてしまう。
「と、とにかく! 駆け落ちの計画を練りましょう」
じたばたと手足を動かして床に降ろしてくれろ訴えるアメリアを、渋々離す。頬の赤みは引いていなかったが、何とか普段通りの毅然とした態度を取ろうとしているところが可愛らしかった。
「僕が今すぐ連れ去るんじゃ駄目なの?」
「あのね、私は一応この国の王女なのよ。行方不明になったらお父様がいつまでも私を捜し続けるわ」
アメリアは軽く咳払いをして、計画を明らかにする。
「まず、私はルウェイン教の修道院に入るわ。そこで修道女として認めてもらうの。そのうえで、リーンハルトが迎えに来て。ルウェイン本家の魔術師として」
「堂々と?」
「そう、堂々と。ルウェイン教はあなたたちを神様みたいに崇めてる宗教よ。魔術師であるあなたが現れたら、私を連れていくことを拒否する人なんて誰もいないわ」
「……あまり表舞台には姿を現したくないんだけどな」
「大丈夫、ほんの一瞬よ。そんな出来事があれば、お父様も私を諦めるはずだわ」
あまり気乗りはしないが、アメリアがそうしたいならば叶えてやるべきだろう。僕と結婚することで、アメリアは恐らくもう二度と家族には会えなくなるのだから。
「……アメリアがそう言うなら、そうしようか」
「ありがとう。頼りにしているわ、リーンハルト」
アメリアの幸せそうな笑みに、僕は油断していた。本当は、このとき泣き叫ばれてでもアメリアを連れ去るべきだったのだ。
そんな後悔をすることになるのは、それから、僅か一週間後のことだった。
約束の夜、アメリアとの打ち合わせ通り、僕はルウェイン教の修道院の傍に転移した。雪の降る中でも月明かりだけはやけに綺麗な、静かな夜だった。
「いよいよだな」
心配だから、となぜかついてきたハイノが自分のことのように意気込む。ハイノはずっと僕とアメリアのことを応援してくれていた。長年付き合ってきた友人なだけに、そんな風に真正面から応援されると何だか気恥ずかしく思ってしまう。
「『運命の人と結ばれたらその日に死にたい』って言ってた奴が、結婚か……。人は変わるものだな」
妙に感慨深く呟くハイノを横目に、小さく白い息を吐く。確かにそれは僕の口癖だったのに、思えばアメリアに出会ってからそんなことは思わなくなっていた。アメリアとなら、いつまでも一緒にいたって楽しいだろう。出来ることならば、一日でも長く彼女と過ごしていたかった。
「……あまり目立ちたくないから、さらっと終わらせてくるよ」
「そうしろよ。崇め奉られるのも、柄じゃないだろ」
頑張れよ、とハイノが僕の背中を叩く。力加減というものをよく分かっていないこいつの励ましは痛いくらいだったが、表舞台に姿を現すことに及び腰になっている僕にはよく効いた。
「じゃあ、行ってくる」
「おう、待ってるぞ」
僕はハイノに背を向けて、修道院の中へ足を踏み入れた。
修道院では、夜の集会が行われている時刻で、そのタイミングに合わせて僕が姿を現しアメリアを連れ去ることになっていた。修道女たちの歌う聖歌が、広間から漏れ聞こえてくる。
開きかけのドアからそっと中を見渡して、アメリアの姿を捜す。何かの間違いでミサに参加していなかったら元も子もない。修道女たちは皆、ベールで頭を隠しているからアメリアの特徴である銀髪を探すのも一苦労だ。
「……アメリア?」
一通り修道女たちを見渡してみるが、アメリアらしき少女の姿は無い。なぜだろう、と疑問に思いながら広間の扉から一歩後退ったとき、ふ、と血なまぐさい臭いがした。それは、広間の傍にある礼拝堂から漂っているようだった。
嫌な予感がする。普段は動いていることを意識すらしない心臓が、どくん、と脈打った。僕はそのまま導かれるようにして、礼拝堂の扉を開けた。
青白い月明かりに照らされた礼拝堂は神秘的で、純白の内装は幻の王都にある教会を思わせた。
その床に上に薔薇のように散った赤色を見て、一瞬息が止まる。
……鮮やかな赤が、月明かりに照らされて綺麗だ。
そんな呑気な感想を抱いたのは、目の前に広がるこの光景を信じたくなかったからなのかもしれない。僕は磨き上げられた白い床の上に横たわる「それ」に、そっと手を伸ばした。
冷たい。まるで雪のようじゃないか。
信じたくない。
この冷たくなっている人が、
胸の辺りから血を噴き出して事切れている人が、
僕の、「運命の人」だなんて。
「……アメリア?」
恐る恐るアメリアの名を読んでみる。閉じられた双眸は開くことは無く、当然返事もない。
「アメリア?」
そんな、ちょっと胸から血を出しているだけだ。きっと、きっとすぐに目を覚ますはず。シャルロッテなんて、あんなに体中刺しても煩いくらい元気なんだ。
「アメリア……」
それなのに、何度名前を呼んでもゆすってもアメリアは起きない。その綺麗な蒼色の瞳を見せてくれない。あの鈴の音のような可憐な声を聞かせてくれない。
「アメリア!」
手に付着した彼女の血液すら冷たくて、少しずつ絶望が心を蝕んでいくのが分かった。もっとも、僕の心なんて、アメリアがいてくれたから形があったようなものなのだけど。
ああ、アメリアは誰に殺された? 修道女の中の誰かか? 王家の人間か? それとも、婚約者だという隣国の王子にか?
「アメリア……」
ぽたり、アメリアの頬に透明な液体が零れ落ちた。それが自分の涙だと理解するのに、数秒かかってしまう。
ぽたぽたと続けざまに零れ落ちる涙を見て、ふっと自嘲気味な笑みが浮かんだ。
アメリア、君はなんて酷いことをするんだ。僕に感情を教えておいて、一人だけいなくなってしまうなんて。
泣いたのは、これが初めてだ。
悲しみとは、これほどに心を抉る感情なのか。
要らない、全部要らない。アメリアがいないなら何もかも必要ない。
心も、この王国も、何もかも全部。
「リーンハルト!」
背後からハイノの聞き慣れた声が響き、足音が近づいてくる。
「遅いじゃないか。いちゃいちゃするのは幻の王都に着いてから――」
僕が抱きかかえるアメリアを見たハイノは絶句した。冬の冷え切った礼拝堂に二人分の呼吸音だけが響き渡る。
ああ、おかしいな。ここには確かに三人いるのに。
「アメリア、姫……どうして……」
明らかな狼狽を見せるハイノは、膝をついてアメリアを見つめていた。とても現実が信じられないと言った顔だ。
僕も信じられないよ。いや、というよりはこんな現実許さない。
「……そうだ、例の魔法をかけよう。そうすれば、アメリアはまた笑ってくれる」
「……リーンハルト?」
「待っててね、アメリア。僕が今、その目を開いてあげるから」
そっと冷たいアメリアの額に手を乗せる。心の中で念じれば、すぐに銀色の光が零れだした。
「っ馬鹿かお前!」
ハイノが突き飛ばすようにして、僕をアメリアから引き離した。まるで化け物でも見るかのような形相で、僕を見下ろしてくる。
「禁術使ってどうするんだ! そりゃ確かに死体は動き出すだろうよ。でも、意思はないんだぞ。お前の思う通りにしか動かない人形だ!」
「……無理だ、今更、アメリアのいない生活なんて」
「心の無いお人形と連れ添って楽しいか? 心を病むだけだぞ! それに……アメリア姫への冒涜だと思わないのか」
「冒涜? どうして? アメリアだって僕と一緒にいたいはずだ。結婚の約束をしたんだから」
「リーンハルト……」
ハイノは苦し気な表情をすると、僕の肩に手を添えた。そして、まるで子供に言い聞かせるような調子で告げる。
「いいか、リーンハルト。アメリア姫は死んだんだ。辛いだろうが現実を受け止めろ。ここでお前に魔力を暴走させられちゃ、俺だけじゃ止められないんだよ……」
「……アメリアを殺した国を滅ぼして何が悪い」
「罪のない人を巻き込むな。ようやく平和な時代が訪れたんだ。お前のせいで、再び戦争になりかねないぞ」
「もうどうでもいい、そんなことは……。アメリアが……いなくなってしまったんだから」
「アメリア姫は必ず生まれ変わる」
ハイノは、毅然とした態度で告げた。
「永遠なんて無い。だから必ず俺たちは『運命の人』に出会えるんだ。今世でお前と結ばれなかったなら、必ず来世でアメリア姫はお前と結ばれる。その土台となる国を……滅ぼしてしまっていいのか?」
そんな言い方はずるいじゃないか、ハイノ。
僕は涙を零しながら、このどうしようもなく鬱屈とした心というものの重さに震えた。無理だ、アメリアがいないと耐えきれる気がしない。
「……死にたいな。アメリアと一緒に、いつまでも眠っていたい」
ハイノは無言で僕の肩をぽんぽんと叩いた。励ましてくれているつもりなのだろうが、余計に涙が溢れてくる。
分かっている。僕は、受け入れるしかないのだ。
再びアメリアに会うために、数百年の孤独に耐えるより他に無いということを。
「……どうしても、アメリアを連れ帰っちゃ駄目か?」
「駄目だ。アメリア姫が行方不明になったら、アメリア姫を殺害した奴らがまた動き出すだろう。死体を見つけるまで、この騒動は終わらないはずだ」
「……分かったよ」
ハイノの言う通り、ここにアメリアを置き去りにすべきなのだろう。僕もアメリアを連れ帰って禁術をかけずにいられる気がしない。
僕はアメリアを礼拝堂の祭壇の前にそっと横たえると、魔法で白百合の花束を取り出した。
アメリアは白百合が好きだった。アメリアとの新生活のために揃えた調度品には、白百合の細工がしてあるものばかりで、彼女が喜んだ顔を見るのが楽しみで仕方なかった。
それなのに、君は僕を置いていってしまったんだね。
僕とアメリアが共に過ごした日々は、時間にすればほんの半年間だ。あまりに長い時を生きるルウェイン一族からすれば、一瞬と言ってもいいほどの時間だけれども、僕にはこの半年間がすべてだった。
眠るように目を閉じるアメリアの手に、そっと白百合の花束を握らせる。
――もう死んでるのに、気に掛ける必要があるかな。
半年前、アメリアにそう言ってのけた自分の言葉が不意に蘇る。あの時の僕は本当になにもわかっていなかったらしい。人を愛することも、人の死を悼むことも何も。
「……綺麗だよ、アメリア。愛してる」
思えば僕は、アメリアが生きているときに「好き」の一言も言わなかったな。
本当はこの先沢山、アメリアが嫌になるほど伝えられるはずだったのに。僕たちの結末は、こんなはずではなかったのに。
「リーンハルト、人が来る」
「……うん、分かってる」
ミサが終わったのか、礼拝堂の外には人の気配が満ちていた。見つかるのも時間の問題だ。僕らがここにいれば、間違いなく騒ぎは大きくなる。
「――さようなら、アメリア」
別れの言葉と共に、転移魔法を発動させる。視界が歪むその最後の瞬間まで、僕は眠るようなアメリアの姿を目に焼きつけたのだった。
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