第23話(ローゼ視点)

 お姉様は、一生目覚めないかもしれないと医者に言われた。


 お姉様が怪我をしてからというもの、お父様もお母様も見る見るうちにやつれていった。人は、悲しみでここまで変わるものなのかと、眠り続けるお姉様を見るよりも、塞ぎこむお父様とお母様を見て恐怖を抱いたものだ。


 こんな状況で、お姉様が怪我をした原因が私にあると知られたら、私は一体どうなるだろう。お父様とお母様は、きっと私を許してくださらない。家から出されることだって考えられる。絶対に、何があってもこの秘密だけは守り通さなくちゃ。

 

 そんな恐怖から逃れるように、私は再び遊び始めた。でも、前より楽しくない。私を破滅させるに足る理由があるというだけで、心はこんなにも追い詰められるものなのか。


 知らなかった、罪を隠し続けることがこんなにも苦しいことだなんて。





 そして、もやもやとした気持ちのまま、私が目論んだことは怖いくらいに上手くいってしまった。殿下とお姉様の婚約は破棄され、代わりに私が殿下の婚約者となったのだ。


 殿下は、まるで人が変わったように自暴自棄になっていた。綺麗な蒼色の瞳からは光が消え、常に翳のあるお顔をされるようになってしまったのだ。それはそれで美しかったけれど、舞踏会の夜に見たあの優しい王子様の姿はどこにもない。殿下のお姉様への愛の深さは、殆ど執着に近いくらいのもので、お姉様に会いに行くことを禁じられた殿下は、ひたすらお姉様の肖像画を眺めるようになってしまった。


 壊れかけの殿下を見ているのは心苦しかったけれど、同時に苛立ちも覚える。お姉様より美しい私が傍にいるというのに、私はお姉様の絵に負けるなんて。


 分かっている、私が腹を立てるなんてお門違いもいいところだということくらい。でも、今更どうしようもないなら、前を向くしかないじゃない。


 私はひたすら殿下に迫った。今まで男性と遊んできた際に身に着けた技術を、目一杯活用させて。でも、殿下は私の方を向くどころか益々離れて行くばかり。


 公爵家にいても、お父様やお母様はおろか使用人に至るまで、眠り続けるお姉様のことを気遣ってばかりで面白くなかった。メイドたちがお姉様の痩せ細った体を一生懸命マッサージしたり、関節が固まらないようにと手足を動かしていた時には彼女たちを憐れに思ったけれど、いつからかそのメイドたちにお母様の姿も混じるようになって、私は何も言えなくなってしまった。


 医者からも見放され、王家からも婚約を破棄されたお姉様のことを、お母様もメイドたちも諦めていないのだ。いつか目覚めることを信じて、少しでも早く歩けるようにと毎日、マッサージを繰り返している。


 馬鹿馬鹿しい、と思わず呟いたときには我ながら笑ってしまった。この悲劇を生みだしたのは、間違いなく私だと分かってはいるのだけれど、みんなしてお姉様にしがみ付く姿がどうしても滑稽でならなかったのだ。


 つまらない、悔しい、怖い。あらゆる感情がぐるぐると混ざり合って、どうにもならなくなったときは、私に惚れている男性たちと遊んだ。この頃には貴族のめぼしい男性とは遊びつくしていたから、見目の良い騎士なんかとも付き合ってみた。


 中でも私の護衛騎士のエリクは、平民出身なだけあって、私には馴染みのない新鮮な話ばかりしてくれて面白かった。何より、貴族の男性とは違って、真っ直ぐに私に愛を乞う姿が何とも私の心をくすぐった。そんなエリクをを気に入った私は、ある時期から彼とばかり遊ぶようになっていた。


 私とエリクの親密さに気づいていた人も恐らくいただろうけれど、噂になっても関係ない。殿下はどうせ今日も、絵の中のお姉様とお話しされているのだから。むしろ、殿下が噂に反応を示すようなら上々だ。





 そんな日々の中で、私はある失態を犯す。あまりにも熱烈に私に愛を囁くエリクに流されて、ある夜に一線を越えてしまったのだ。お互い、体が熱くなる程度にはお酒も飲んでいたから、判断能力が鈍っていたのだろう。


 今まで散々男性たちとは遊んできたが、未婚の子女として守るべき一線は守っていた。貴族子息である男性たちもそれを分かっていたから、無理に一線を越えようとしてくることも無く、過ちを犯したことなどなかったのだけれど、平民のエリクにはその感覚が無かったらしい。


 流石にこれには焦ってしまった。たった一度の過ちとはいえ、新たな命が宿っていないとは言い切れない。それに、もしも子が宿っているようなことがあれば、殿下に心当たりなどあるはずもないのだから、間違いなく私の不貞を疑われる。


 そうなれば、私に待ち受けているのは今度こそ破滅だった。


 普段ならば面倒なことは人に縋って解決してもらうけれど、こればかりは自分の手で解決しなければならない。月のものが来る時期まで待っていたら、本当に命が宿っていた時に取り返しがつかなくなる。こうなったらもう、お腹に子がいると考えて次の行動を起こすべきだ。


 ……とにかく、どうにかして、殿下との間に出来た子だということにしなくちゃいけないわ。


 そう決意したのは、エリクと一夜を明かしてから三日後のことだった。今すぐ殿下との既成事実を捏造すれば、まだ充分誤魔化せるはずだ。子どもは何も、ぴったりの日数で生まれてくるわけではないのだから。


 ……ここまで来たら、とことんやってやるしかないわ。


 それから更に二日後のある舞踏会の夜、私は殿下がお飲みになるお酒に睡眠薬を仕込んでおいた。殿下はお酒に強く、舞踏会で出されるような可愛いお酒で酔うことは絶対にないと知っていたので薬を盛ることにしたのだ。これだけで、処刑されてもおかしくないほどの不敬罪だとは分かっていたが、待っていたところで私に待つのは破滅の道だ。それならば、たとえ危険でも出来る限り抗った方がマシだろう。


 私はふらつく殿下を支えながら休憩室と名のついた小部屋に移動し、殿下を寝かせた。髪飾りを外し、先の尖った留め具で自分の指先を少しだけ刺して、シーツの上に適当に赤を散らせておく。傷一つない白魚のような私の手を刺すのは嫌だったけれど、今回ばかりはやむを得ない。


 そして殿下の衣服をそれらしく乱してから、自分もドレスを脱ぎ、殿下の隣に横たわる。このまま朝を迎えれば、まず殿下は言い逃れできないはずだ。


 もっとも、言い逃れすらしなさそうではあるのだけれど。




 結局、その目論見は驚くほど上手くいった。エリクと共にたった一度の過ちを犯したあの夜に、やはり私のお腹には新たな命が宿っていたのだが、既成事実を捏造した甲斐あって私のお腹の子は殿下の子と見なされた。結婚式の予定が大幅に早まり、なるべくお腹が目立たない内に式を挙げることになったのだ。


 着々と進められていく結婚式の準備を眺めながら、王家を欺くことに今更ながら恐怖心を抱いたけれど、もうどうにもならない。私はまた一つ、秘密を抱えてこの先も生きていくしかないのだ。





 私が妊娠しても、結婚式が早まっても、殿下は顔色一つ変えず、ろくな言葉も掛けてくださらなかった。正直、それは想像以上に私の心を抉った。本当に辛くて仕方が無かった。私が悪阻でどれだけ体調を崩していても、殿下がお見舞いに来てくださったことは一度も無く、殿下の御心にいるのは相変わらずお姉様だけのようだった。


 それがやっぱり悔しくて、そして私にこんな惨めな思いを味わわせたお姉様が憎らしくて、私はますますお姉様への負の感情を募らせていった。




 

 そして、そんな最高のタイミングで、お姉様がお目覚めになった。



 

 

 お姉様がお目覚めになったと聞いたとき、私は思わず声を上げて喜んだものだ。

傍目には姉想いの妹に見えていたことだろう。


 ……素晴らしいわ、お姉様。私の幸せを見届けるために、わざわざ目を覚ましてくださるなんて!


 殿下との婚約破棄を告げられ、私のお腹に子どもがいると知ったら、流石のお姉様も無様な姿を見せてくださるだろう。あの善人面が醜く歪む瞬間を想像して、私は久しぶりに心が躍るのを感じた。




 知らせを受けた翌日、私は殿下と共にお姉様のお見舞いに向かった。私一人で行くよりも、殿下と二人でお見舞いに行った方がきっと衝撃的だろう。殿下は渋るようなご様子だったけれど、目を潤ませれば小さな溜息と共について来てくださった。


 2年間もの間眠り続けていたお姉様は、最低限の栄養で命を繋いでいたせいか、醜いほどに痩せ細っていた。沢山食べれば次第に体は元に戻るでしょうけれど、馬に蹴られた額の傷は今もうっすらと残っているという。


 本当に久しぶりにお姉様の姿を見ただけに、正直かなり戸惑ってしまった。私がお姉様をこんな姿にしてしまったのか、と一瞬だけ、罪悪感のような感情が湧き起こる。だが、それは本当に一過性の感情で、私の心はすぐに醜い気持ちで一杯になった。


 こんなにも弱り切ったお姿を見ても尚、私の初恋の人の心を憎いくらいに独占するお姉様への負の感情は、ほんの少し弱まっただけに過ぎなかった。どうしても意地悪な気持ちが湧き起こってしまう。


 殿下のお心はきっとこの先も、お姉様に向けられ続ける。私は一生手に入れられない。それどころか、触れることすら叶わないかもしれない。


 それならば、やっぱり少しくらいの意地悪は許されるんじゃないかしら。


 この状況で私に意地悪をされたら、流石のお姉様も嫌味の一つくらい言ってくるだろう。完璧なご令嬢であるお姉様が取り乱す瞬間を、改めて楽しみにしてしまった。



 それなのに、お姉様は私に微笑まれたのだ。



 私のしていることなんて何一つ知らずに、相手を慈しむような可憐な笑みを、こんな私に向けられたのだ。


 そのときに感じた苛立ちは、本当に言葉に出来ないものだった。お姉様のその微笑みは、燻り続けた劣等感を綺麗に晴らしてくれるどころか、もう二度と無視できないくらいにはっきりとしたものに変えてしまったのだ。


 多分、私はどうやったってこの人のことは越えられないのだ。認めたくなかったけれど、殆ど直感的にそう思ってしまった。その時に感じた敗北感を、私は一生忘れないだろう。何とか強がって嫌味な態度を取り続けたが、私はその場をやり過ごすことで精一杯だった。




 もう、いいわ。お姉様にはこの先、関わらないようにしよう。お姉様だってきっとそれをお望みでしょう。お姉様を気にする分だけ醜い感情が募っていくのではキリがないもの。どれだけお姉様を憎み続けても、これでは私が惨めなばかりじゃない。


 この件で、いっそ私のことなど嫌いになってくれればいい――いや、既に嫌われていても不思議はないのだけれど。そうして早く私を忘れてほしい。額に傷が残っても、お姉様との結婚を望む男性は大勢いる上に、お姉様が目覚めることを待ち望んで何度も刺繍作品をお見舞いに送ってきたご令嬢たちもたくさんいるのだ。


 そうよ、きっとお姉様ならすぐに社交界に復帰できるわ。私に関わらないところで、さっさと幸せになって頂戴。


 どこか皮肉気な気持ちだったけれど、そう、密かにお姉様の幸せを願った。そして、もう二度とお姉様に近付かないことを心の中で誓った。私はもういい加減、お姉様から解放されたかった。お姉様もきっと同じ気持ちだろう。



 でも、お姉様にその願いは届かなかったらしい。



 お姉様は逃げ出してしまったのだ。小さな旅行鞄に、つまらない御伽噺とお気に入りの刺繍道具だけを詰めて。



 その荷物の少なさからして、恐らくルウェイン教の修道院に行かれたのだろうと思ったのに、どの修道院を探してもお姉様の姿はないという。お姉様が目覚めたことで久しぶりに光が戻ったかのような公爵家は、この出来事で再び絶望を味わうことになった。


 生粋のご令嬢であるお姉様が、一人でお金を稼いで生きて行けるはずが無い。そうなれば残された可能性は、誘拐されたか、どこかでお亡くなりになられているかの二択しかなかった。


 一月が経った頃には、お父様とお母様は覚悟を決め始めているようだった。お姉様は、もう戻ってこないのかもしれない、と。公爵家に散々届いていたお姉様への縁談を、一つずつ断り始めたのだ。


 お姉様が逃げ出してくれたことで、ようやくお姉様への劣等感から解放されると清々しく思ったのだけれども、絶望を刻み込んだお父様とお母様の表情を見て、私は再び心が蝕まれていくのを感じた。


 私はいつもそうだ。自分の行動の意味を、手遅れになってからじゃないと気づけない。


 そうか、お姉様は、どこかで一人ぼっちで亡くなっているかもしれないのね。


 雨に打たれるお姉様の遺体を想像すると、なぜか胸の奥底がちくりと痛んだ気がした。いつか、家庭教師を貶めたときに感じたのと同じ痛みだ。


 思えば、お姉様がいなくなったらどれほど清々するかと考えたことはあったけれど、死んでほしいとまで考えたことは無かった。ただ少しだけ、あの完璧な善人面が歪む瞬間を見ることが出来たら、それで心は軽くなるはずだったのに。

 

 ……分かっている。これも全部、全部私のせいよ。


 せめてお姉様をお見舞いしたとき、病み上がりのお姉様に意地悪さえしなければ、何かが変わっていたかもしれない。私のあの態度が、お姉様を追い詰めていたのかもしれない。


 ……そうか、私さえいなければ、お姉様は今も殿下の隣で笑っていたはずなのよね。


 事が起きる度に自分の犯した罪は分かっていたつもりだったけれど、お姉様がいなくなったことでようやくその重さに気が付いた。お姉様を不幸にしたのも、好きで好きでたまらない初恋の人を病ませてしまったのも、全部私なのだ。


 本当はここまでのことを引き起こしたいわけじゃなかった。ただ少し、みんなに愛されるお姉様にざまあみろと言って差し上げたかっただけで。


 誰に対する弁明なのかもわからないままなのに、ぽたり、と涙が零れ落ちた。人を動かして遊ぶためではない涙を流すことなんて、本当に久しぶりだ。それくらい、どうしてか心が痛くて苦しくて仕方が無かったのだ。








 時が経つのは早いもので、お姉様が見つからないまま一月半が経った。


 王国で最も腕の良い職人に作らせた最高級品の純白のドレスに身を包み、豪華な飾りのついた姿見で自分の姿を確認する。少し膨らみ始めたお腹を隠すようにデザインが変更になったけれど、ふわりとした形もまた可愛らしかった。


 そう、今日は私と殿下の結婚式だった。あれほど焦がれた殿下との結婚式だったけれど、朝からずっと気分が重い。


 鏡の中の私は、相変わらず他を圧倒する美しさだけれども、どうしてかそこまで幸せそうではなかった。


 本当ならば、このドレスはお姉様がお召しになるはずだったのね。


 地味だけれど清楚なお姉様がこの豪華なドレスを着たら、「女神様」の異名も頷けるほど綺麗だっただろう。民はそんな美しく清廉な王太子妃を、心から祝福したに違いない。


 対して私はどうだ。お姉様を殺しかけたという秘密と、お腹の子の父親を偽る罪を背負った私は、この王国のどの罪人よりも醜く罪深いのではないか。見目はこんなにも華やかなのに、私の本当の姿は真っ黒だ。頭の上に乗せられたティアラが、まるで枷のように重苦しくて仕方ない。


 こんなことになるまで、私はどうすることもできなかったのかしら。


 油断すれば涙が零れそうだった。これから盛大な式を挙げるというのに、花嫁が泣いていては一大事だ。私はこのとき初めて、自分の感情に背いて表情を作った。


 お姉様は、ずっとこんな辛いことを、あんなにも涼しい顔でこなしておられたのね。


 殿下の婚約者になってからというもの、私の心は満たされるどころか荒んでいくばかりだ。


 ……まるで生き地獄の始まりね。

 

 王国で一番立派な教会の中、にこやかな笑顔で私たちを祝福する人々を眺めながら、私は重苦しい気持ちでバージンロードに足を踏み出したのだった。

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