第24話
早いもので、私がこの幻の王都に来てから3か月が経とうとしている。幻の王都での生活にもすっかり馴染んだ私は、今日もシャルロッテさんに料理を教えてもらっているところだった。スープや簡単なソテーなどはほぼ失敗なく作れるようになったので、今日は遂にお菓子作りに挑戦することになったのだ。記念すべき一作目はアップルパイだ。
甘いものが苦手なリーンハルトさんだったが、どうやらアップルパイだけは食べられるらしいということを聞いて、私からシャルロッテさんに提案したのだ。我ながら、いかにも恋する乙女という感じがして何だか恥ずかしいが、シャルロッテさんは応援してくれた。
「あ、レイラ、ペンダントに生クリームがついちゃうわ」
シャルロッテさんの指摘に、私は生クリームを絞る手をいったん休めて、慌ててペンダントをワンピースの中に仕舞い込む。大切なものなのに、危ないところだった。
「教えてくださってありがとうございます、シャルロッテさん」
「ふふ、それ、大切にしているのね。兄さんも喜ぶわ」
「ええ……宝物です」
私は皮ひもにぶら下がった、星空を切り取ったかのような石をぎゅっと握りしめた。紺色の石の中にきらきらと金色や銀色の粉が混じっていて、どれだけ眺めて居ても飽きない美しさだ。
これは、少し前にリーンハルトさんからいただいた大切なものなのだ。受け取ったときのことを思い出すだけで何だか頬が緩んでしまう。
私が寝不足で倒れたあのとき、リーンハルトさんは3日ほど私の傍から離れようとしなかった。しかしながら、魔術師団のミーティングの日になってようやく外に出る気を起こしたらしく、渋々ではあったが紺色の外套を羽織ったのだ。
すっかり体調が回復していた私は、リーンハルトさんを玄関までお見送りに来ていた。終始不安そうに私を見つめるリーンハルトさんを安心させるように微笑めば、彼も少しだけ表情を柔らかくする。
「……レイラ、これを受け取ってくれるかい」
ふと、リーンハルトさんは外套から小さな革袋を取り出すと、紺色に輝く小さな石のついたペンダントを私に見せた。皮ひもに繋がれたその石は、息を呑むほど美しく、思わず見惚れてしまった。公爵令嬢としてありとあらゆる種類の一級品の宝石は見てきたつもりでいるのだが、これほど神秘的な石は初めて見る。
「まあ……美しい石ですね」
「昔から、ルウェインの一族が結婚相手によく贈る石なんだけど……今回はそういう意味合いは置いといて、単純にお守りとしてレイラに渡したいと思ってね」
「お守り、ですか?」
「そう、魔力を込めてあるから、レイラが倒れたり、命の危機に瀕したときには僕に伝わるようになってるんだ。今回みたいなことが僕のいない時に起こったら……と思うと気が気じゃなくてね」
魔力のこもったお守りなんて、まるで物語の世界のようで気分が高揚する。何より、こんなにも美しい石にリーンハルトさんの魔力がこもっていると思うと、それだけで他のどんな宝石よりも特別なものに思えた。
「私がいただいてよろしいのですか?」
「レイラに受け取って貰わないと意味がないよ」
「……ありがとうございます、リーンハルトさん。私、大切に致しますね」
早速首にペンダントをつける。皮ひもは少し長かったが、これくらいは自分で調節すればいいだろう。そう思っていたのだが、リーンハルトさんが私の背後に回った。
「レイラは小柄だから、これでは少し長かったね。今、調節するよ」
亜麻色の髪を掻き分けるようにして、リーンハルトさんが皮ひもに触れる。その拍子に温かい指先が項にも触れて、何だかくすぐったかった。リーンハルトさんは手際よく皮ひもを結び直すと、すぐに私に向き直る。
「このくらいでいいかな?」
「はい、ちょうど良いです。ありがとうございます」
この流れで、リーンハルトさんへの贈り物も渡せたら良いのだけれど。
私はちらりと横目で置時計を眺める。リーンハルトさんから聞いた魔術師団のミーティング開始時間までには、まだ少し余裕があった。
「……リーンハルトさん、少しだけお時間よろしいですか?」
「もちろん構わないよ。心細くなった? やっぱり今日は家にいようか?」
「ふふ、リーンハルトさんと離れるのは寂しいですが、それとは別に少しお渡ししたいものがございまして……」
「僕に?」
「ええ、リーンハルトさんに」
少し待っていてくださいね、と断って私は階段を駆け上がった。自室のドアを開け、昨夜完成したばかりの小さな飾り布を手に取ると、すぐにリーンハルトさんの元へ向かう。
「レイラ、あまり走ってはいけない。また倒れたら大変だ」
「大丈夫ですのよ、このくらい。でも、ご心配ありがとうございます」
私はリーンハルトさんを軽く見上げて、掌サイズの飾り布を差し出した。本当は額縁などに入れて用意したかったが、贈り物を渡す絶好のチャンスが来てしまったのだから仕方がない。
「これを、リーンハルトさんに受け取って頂きたくて……。その、いつもお傍に置いていただいているお礼です。本当に些細なものですけれど……」
リーンハルトさんは私の掌からそっと飾り布を受け取ると、じっとそれを見つめていた。彼にしては珍しい沈黙に、何だかどきどきしてしまう。
「……これを、作るために夜更かししてたのかい?」
「え、ええ……そうです」
怒られてしまうだろうか、と思わず身構えたが、次の瞬間にはリーンハルトさんに抱きしめられていた。たちまち頬に熱が帯びる。
「ありがとう、レイラ。とても嬉しい、一生大切にする」
「い、一生だなんて大袈裟ですわ……」
「いいや、一生だ。こんなに細やかな刺繍、大変だっただろうに……」
「……そんなに喜んでいただけるなら、頑張った甲斐がありました」
私もそっとリーンハルトさんの肩に頭を預けるようにして彼を抱きしめる。心臓はせわしなく動いているのに、リーンハルトさんの香りに包まれるととても安心するから不思議だ。ずっとこうしていたくなってしまう。
「ずっとこのまま過ごしたいな」
「……リーンハルトさんは人の心をお読みになれるのですか?」
考えていることを見透かしたようなリーンハルトさんの言葉に、思わずまじまじと彼を見上げてしまう。リーンハルトさんは私を抱きしめたままこちらを見下ろしていたが、やがてくすくすと笑ってみせた。
「読もうと思えば読めるけど、相手の許可なくそんなことはしないよ。どうしたんだい、急に」
「……リーンハルトさんが、私の考えていることと同じことを仰ったから、つい……」
言うんじゃなかった。言い終わってからどうしようもない恥ずかしさに襲われてしまう。顔を隠そうにも、リーンハルトさんの腕の中では難しかった。
「同じこと?」
リーンハルトさんはすぐには分かっていないようだったが、異様に照れる私の姿を見て、ようやく察したようだ。瞬時に耳の端が赤くなる。
「……あ、えっと、嬉しいな。レイラは抱きしめられるのが好き?」
「……リーンハルトさんに抱きしめられるのが好きです」
「そんなこと言われると、毎日でもしたくなっちゃうよ」
「え、ええ……どうぞ。リーンハルトさんになら、何をされたって嫌じゃありませんもの」
恥ずかしさを誤魔化すように、私はリーンハルトさんに回した腕に力を込めた。リーンハルトさんの香りと温もりがより直接的に感じられて、最早ここが天国かしらと思ってしまう。
「無防備すぎる……神様に試されてる気分だ」
「神様に、ですか?」
「いや……何でもないよ。レイラが可愛すぎて離れたくなくなっただけ」
「ま、また私を口説いていらっしゃるのですね」
「本当のことを言っているだけなんだけどなあ」
リーンハルトさんに抱きしめられながら、私はくすくすと笑った。本当に幸せだ。姫君のことは今も確かに心の底にこびりついているはずなのに、それを気に出来なくなるくらいの深い愛情に包まれているのを実感したのだった。
そんな風にぼんやりとペンダントを受け取った時のことを思い出していると、ふとシャルロッテさんの視線を感じ、彼女の方を向いた。シャルロッテさんは、にやにやとしたような笑みを浮かべており、思考を見透かされていたようで途端に恥ずかしくなってしまった。
「本当、幸せそうね。兄さんが羨ましいわ、こんな可愛い子に好かれて」
「シャルロッテさんまで私を口説かれるのですか?」
冗談めかして答えながら生クリームを絞る手を再開すれば、シャルロッテさんに軽く脇腹を小突かれた。なかなかにくすぐったい。
「言うようになったわね。そうよー、こんな可愛いレイラちゃんは口説いちゃうわよー」
「ふふふっ、くすぐったいです、シャルロッテさん」
シャルロッテさんとはもうすっかり打ち解けた。姉がいたらこんな感じだっただろうかと思うと同時に、初めての友人と呼べる存在が嬉しくて、ついつい甘えてしまう。少しだけ生意気な口を叩けるようになったのも、シャルロッテさんのお陰かもしれない。
「グレーテも、あそぶ!」
リーンハルトさんに贈られたスケッチブックでお絵描きをしていたはずのグレーテさんが、シャルロッテさんの足に纏わりついてきた。4歳になって少し経つグレーテさんは、近頃益々可愛らしくなっている。
「グレーテさん、もうすぐアップルパイが出来上がりますから、もう少しお待ちくださいね」
「おてつだいする! グレーテなんでもできるよ!」
グレーテさんは紫紺の瞳を輝かせて告げた。どうしたものかと頭を悩ませていると、シャルロッテさんが軽々とグレーテさんを抱き上げて食器棚の方へ向かった。
「じゃあ、グレーテにはお皿を並べてもらおうかな」
「うん! まかせてね!」
以前より滑舌の良くなったグレーテさんは、良くおしゃべりをする明るい女の子だ。シャルロッテさんとラルフさんの愛を一身に受けて、すくすく育っている。
ローゼと殿下の御子も、そろそろ生まれる時期かしら。
生クリームをアップルパイの傍に添えながら、ぼんやりとそんなことを思った。二人のことを思い出しても、もうちっとも胸は痛まない。完全に立ち直ったと言っても過言ではないだろう。今ならばローゼと殿下にお会いしても、恐らく満面の笑みで会話をすることが出来るはずだ。
ローゼと殿下の御子が生まれたら、御子の肖像画くらいは見てみたいわね。
王子でも、王女でも、それはそれは可愛らしいだろう。ただ純粋に楽しみだった。
同時に、泣いてばかりで人を困らせてたローゼが母になるのかと思うと不思議な感慨があった。あの子も、母になることで少し落ち着けばいいのだけれど。
逃げ出した私が心配するのもおかしな話だが、今はただ、王太子一家の幸せをローゼの姉として、そして殿下の良き友人として心の底から願っていた。
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