第25話

「お帰りなさい、リーンハルトさん」


「ただいま、レイラ」


 魔術師団のミーティングから帰ってきたリーンハルトさんを玄関先で出迎える。リーンハルトさんは外套を脱ぐより先に、ふわりと私を抱きしめた。どちらかが出先から帰ってきたら抱擁を交わすのは、もうすっかり習慣になっている。それなのに私は、抱きしめられるたびに脈が早まってしまうから、どうやら心臓はまだこの行為に慣れていないようだ。


 慈しむように、リーンハルトさんの手が私の頭を撫でる。私も彼に頭を預けるようにして、しばらく彼の鼓動を聞いていた。ゆっくりとした温かな音だ。この音が、数百年という気の遠くなる時間の間ずっと、リーンハルトさんのことを支え続けているのかと思うと、自然と愛おしく感じた。


 リーンハルトさんは指で私の髪を梳くのがお好きらしく、この瞬間のために私は髪を下ろすようにしていた。もちろん、料理の時や家事をするときなんかは結うこともあるのだけれど、リーンハルトさんを出迎えるこの瞬間には必ず下ろすようにしている。


「何だか甘い香りがするね」


 ひとしきり抱きしめ合った後、リーンハルトさんは室内を見渡した。恐らくアップルパイの香りのことを言っているのだろうと思い、私はリーンハルトさんに微笑みかける。


「今日はシャルロッテさんに手伝って頂いて、アップルパイを作ったのですよ。夕食の後のデザートにお出ししますね」


「それは楽しみだな、アップルパイは好きなんだ」


「ふふ、シャルロッテさんからそう伺いましたので、作ってみようという気になったのです」


 テーブルの上には、大体の料理の準備が既にできていた。近頃の夕食は、少しずつシャルロッテさんと手分けして用意するようにしている。メインのお料理はまだまだ技術が足りず作ることが出来ないので、シャルロッテさんに頼る形になってしまうが、朝食くらいならば私一人でも用意できるようになっていた。


 3か月前は包丁を握ったことすらなかったことを考えると、それなりに成長したと言えるだろう。もっとたくさんの料理を作れるようになりたいものだ。


「いつもありがとう、レイラ」


「私にはこのくらいしか出来ませんから、お礼を言われるほどのことでは……」


 面と向かって感謝されると何だかくすぐったいような気がして、ついはぐらかしてしまう。我ながら、可愛くない切り返しだ。


「早く、メインのお料理を作れるようになりたいです。リーンハルトさんに食べていただきたいですわ」


「それは楽しみだけど、無理をしてはいけないよ」


 本当に、リーンハルトさんは過保護なくらいに心配性だ。温かな食事とリーンハルトさんの笑みが揃ったこの光景は幸福そのもので、思わずくすくすと笑ってしまった。






 穏やかな夕食を終え、デザートのアップルパイを切り分ける。リーンハルトさんが用意してくれた紅茶は今日も美味しくて、思わずほうっと息をついた。


「アップルパイ、美味しいね」


「ふふ、殆どシャルロッテさんに手伝って頂きましたが、そう言って頂けると私も嬉しいです」


 温めなおしたアップルパイはサクサクとしていて、甘く煮込んだ林檎のコンポートが、これまた絶品だった。このレベルのアップルパイを作れるようになるには時間がかかりそうだ。


 ふと、リーンハルトさんが、あの慈しむような優しい眼差しで私を見ていることに気づいた。それはいつものことなのだが、その瞳の中に、懐古の情が垣間見えた気がする。


 ……姫君と、アップルパイを召し上がられたことがあるのかしら。


 気づかない、振りをした方がいいだろう。問い詰めるだけの勇気も覚悟も、まだ持ち合わせていない私なのだから。


「……ふふ、そんなに見つめられると食べにくいですわ、リーンハルトさん」


「あ、ああ……ごめん。アップルパイを食べるのは久しぶりで……」


 誤魔化すようにアップルパイを口に運ぶリーンハルトさんを眺めながら、私は小さく微笑んだ。この関係が心地よすぎて、一歩踏み出せない私は臆病者だろうか。夜眠る前には、明日こそは姫君のことを聞いてみようと思うのに、不思議とリーンハルトさんを目の前にすると何も言えなくなってしまう。


「……甘いですわね」


 私は、どこまでも自分に甘い。リーンハルトさんとの関係に名前を付けたいのなら、踏み出さなければいけないと分かっているのに。


「そうだね、でもこのくらいの甘さも好きだよ」


 リーンハルトさんは再びアップルパイを口に運んで微笑む。その言葉はアップルパイについて述べているはずなのに、なぜだか私の甘さまでも容認してくれるような温かさを確かに感じた。







 翌朝、私はいくつかの刺繍作品を持ってシャルロッテさんのお店へ向かっていた。リーンハルトさんは今日も魔術師団の集まりがあるらしく出掛けて行ってしまったので、シャルロッテさんのお手伝いをするべく私も外出することにしたのだ。


 風が爽やかな、いい天気だ。帽子が飛ばされないように軽く押さえながら空を見上げる。ふわふわと浮いた雲の一つがお花のような形をしていて、グレーテさんに教えて差し上げたくなった。あの雲が流れて行ってしまう前に、お店に着けるだろうか。


 この3か月の間にすっかり筋力も元に戻りつつある私は、お店まで10分ほどで辿り着けるようになっていた。今日もグレーテさんの遊び相手を務めることが出来るのが嬉しくて、意気揚々とお店のドアに手をかける。


 だが、いつもは大した力をかけなくても開くそのドアに大きな抵抗を感じた。鍵がかかっているのだろう。よく見れば、お店の奥の方は暗いままだ。普段ならばとっくに開いている時間であるし、今日はお休みの日ではなかったはずだ。


 ……一体どうしたのかしら。


 何か、遅れるような事情でもあるのだろうか。そのまま10分ほど、お店の周りを見ながらシャルロッテさんの到着を待ったが、一向に姿を現す気配がない。


 仕方がないので、街でいくつか果物を買って一旦出直すことにした。そのまま、シャルロッテさんたちが暮らす離れの方へ様子を窺いに行ってみよう。


 確かシャルロッテさんの旦那様のラルフさんは、昨日から商品の仕入れのため家を離れているはずだ。何か困っていることがあるのなら力になりたかった。


 



 再び10分ほど歩いてお屋敷の前まで辿り着いた私は、お屋敷に立ち寄ることなくお庭を横切って離れを目指す。離れと言っても家族3人が暮らすには充分な広さだ。お屋敷と繋がっているお庭では、グレーテさんが時折走り回っていることもある。グレーテさんにとっては、のびのびとした環境と言えるだろう。

 

 だが、今日はお庭にグレーテさんの姿は見えない。シャルロッテさんと共にどこかへお出かけしているのかしら、と思いながら離れのベルを鳴らす。


 数十秒経っても、何も返答がない。やはり出かけているのかと思い、今日はもうお屋敷に戻ろうと考えたところ、ばたばたと駆け寄ってくる足音が聞こえ、勢いよくドアが開かれた。


「ご、ごめんね、ちょっと手が離せなくって……」


 ドアの間から姿を現したシャルロッテさんは、黒髪を僅かに乱して息が上がっていた。本当に慌てて来てくれたのだろう。


「おはようございます、シャルロッテさん。お店にいらっしゃらなかったので、何かあったのかと思い、ご様子を窺いに来たのですが……」


「ああ、そうね、もうそんな時間だったわ。……でも、今日はお店は開けそうにないわね。実は、グレーテが熱を出してしまって、今お医者さんを呼んでいるところなのよ」


「グレーテさんが?」


 それは一大事だ。シャルロッテさんは私を家の中へ招き入れると、そのまま子供部屋の方へ案内してくれた。薄桃色の壁紙が可愛らしい子供部屋だ。


 窓際に設置されたベッドの上には、赤い顔をしたグレーテさんが横になっている。はあはあ、と繰り返される息が苦しそうで慌ててベッドサイドに歩み寄った。


「グレーテさん……」


 意識ははっきりしているようで、紫紺の瞳に私が映り込むと、グレーテさんはにっこりと天使のような笑みを浮かべてみせた。


「レイラお姉しゃま……」


「お可哀想に……。今、お医者様が来てくださるそうですよ。頑張ってくださいね」


 グレーテさんの小さな手を握れば、いつもよりずっと熱が高かった。いつもは元気にはしゃいでいるグレーテさんがぐったりとしている姿を見て、何だかはらはらとしてしまう。


「これ、先ほど買った果物ですが、よろしければどうぞ」


 グレーテさんがこんな状態では、買い物に行くにも行けないだろう。リーンハルトさんが食べるかと思って買った果物だったが、今はグレーテさんの方が優先だ。


「ありがとう、レイラ。助かるわ……」


 シャルロッテさんはひどく心配そうにグレーテさんを見つめていた。目に入れても痛くない程可愛がっているグレーテさんがこんな状態なのだから、無理もない。


「私に何かできることはありませんか?」


「え……?」


「今日はラルフさんもおられませんし、お一人では何かと不都合でしょう。お買い物でもお洗濯でもお任せください」


 せめてラルフさんがいて下さればシャルロッテさんの気持ちもだいぶ違ったのだろうと思うけれど、いないものは仕方がない。友人のような姉のような存在のシャルロッテさんが困っているのなら、助けて差し上げたかった。


「……本当にいいの?」


 いつもは快活で明るい印象しかないシャルロッテさんがどこか弱々しく見える。こういうときは私が毅然としていなければ。


「はい、何でもお任せください!」


 料理以外の家事ならば大体できるようになっているし、買い物だってお手の物だ。


「ありがとう、レイラ……。じゃあ、ちょっとこっちに来てくれる?」


 そう言ってシャルロッテさんが子供部屋を後にしたのを見て、私はグレーテさんに軽く手を振ってからシャルロッテさんの後を追った。シャルロッテさんの向かった先はリビングだった。以前、グレーテさんのお誕生日会をした場所だ。


 大きなダイニングテーブルの上には、私がシャルロッテさんに差し上げた紫陽花の刺繍のコースターが置かれていて、こんな状況だが、使ってくれていることに密かに喜びを覚えた。受け取ってくれたときも、それはもう喜んでくださったから、きっと大切にしてくださっているだろうとは思っていたのだけれど。


「……あのね、お店にある魔法具を、魔術師団に届けてくれないかしら? 今日、配達するようにお願いされていたの」


「配達、ですか?」


「ええ、でも、魔術師団の本部が分かるかしら? 教会のすぐ隣なのだけれど……」


 シャルロッテさんが戸棚から古びた羊皮紙に描かれた地図を取り出した。地図があるならば問題ない。私はシャルロッテさんに微笑みかけた。


「私、地図を読むのは昔から得意なのです。お任せください」


 シャルロッテさんはそんな私の笑みに応えるように、弱々しく微笑んだ。


「ありがとう、ずっと前からお願いされていたことだから、どうしようかと悩んでいたのよ。手元にあれば、魔法で送っちゃえるんだけどね……」


「そうだったのですね……。お役に立てるようで私も嬉しいです。シャルロッテさんはグレーテさんのことだけを考えて差し上げてください」


 数百年生きていても、母になってからはまだ4年と少ししか経っていないのだ。不安に思うことは沢山あるだろう。ましてやここは幻の王都、今も呪いが解けないままの住民の方が多いのだから、子育て仲間もそうそういない。きっと心細く思う瞬間は今までもたくさんあったはずだ。


「ありがとう、レイラ……。本当に助かるわ」


「このくらい、何てことありませんよ。……それより、何かご入用の物はありますか? 何かあれば、配達の帰りに買って参ります」


 私は古びた地図とお店の鍵を小さな鞄の中に仕舞い込みながら、シャルロッテさんを見上げた。彼女は少し考え込むような素振りを見せたが、やがてはにかみながら首を横に振る。


「いいえ、大丈夫よ。食材は買ったばかりだし……レイラにこの果物をいただいたから、今のところ問題ないわ」


「分かりました。では、配達が終わったらお店の鍵を返しに来ますね」


「急がなくていいのよ。どうせグレーテが元気になるまでお店は開かないつもりだから。それに、風邪が移ったら大変だから、配達が終わったらそのまま屋敷に戻って大丈夫よ」


「そんな、私のことはお気遣いなく――」


「――レイラが風邪なんて引いたら、兄さんはきっと一か月くらい離してくれなくなるわよ。それは嫌でしょう?」


 シャルロッテさんは大まじめにそう言い切った。確かに、私が寝不足で倒れたときのリーンハルトさんの姿からは想像に難くない。もっとも、別に嫌ではないのだが、妙に緊張して休むに休めなさそうだ。それに、一か月も私に付き添っていてはリーンハルトさんのお仕事にも支障が出るだろう。


 思わず、曖昧な笑みを浮かべると、シャルロッテさんはその心情を察するようにふっと笑ってくれた。


「たまにはレイラにもお休みが必要よ。ね?」


「……分かりました。何かありましたら、いつでもお声をおかけください」


 その後、本当に助かるわ、と再三繰り返してシャルロッテさんは私を玄関まで見送って下さった。帽子を頭に乗せたところ、日差しが強いから、とシャルロッテさんに深く被り直されてしまった。いかにも一児の母らしい行動に、思わず、ふ、と笑みが零れる。


「では、行って参ります。グレーテさんには、お大事にとお伝えください」


「ええ、頼むわね。本当にありがとう、レイラ」


 私は小さく礼をして、芝生の中を歩き出す。数歩歩いたところで振り返るとシャルロッテさんが手を振ってくれていた。その温かな光景に思わず微笑みながら、私もまたゆっくりと手を振り返すのだった。

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