第22話(ローゼ視点)

 お姉様が消えた。


 つまらない御伽噺と、刺繍針だけを持って。




 私、ローゼ・アシュベリーは、王国アルタイルの名門公爵家の次女として生まれた。お母様譲りの白金の髪と空色の瞳を誰もが褒め称え、私は特別な人間なのだと物心がついたころから知っていた。亜麻色の髪と瞳のお姉様のような地味な姿に生まれなくて、本当に良かったと子どもながらに思ったものだ。


 それなのに、いざというときに注目されるのはお姉様の方ばかり。息をしているだけで可愛いはずの私は、もうちょっと丁重に扱われてもいいんじゃないかしら。


 お父様とお母様はお姉様に厳しく接していたから、私の可愛さが正当に認められた気がして気分が良かったのだけれども、年を重ねるにつれ、あの厳しさは期待の大きさに比例していることが分かった。未来の王太子妃として、お姉様が社交界で恥をかくことのないように、出来得る限りのことをしてあげたいという愛情の表れだということも。


 もちろん、私が蔑ろにされていたというわけではない。むしろ溺れそうなほどの深い愛に包まれて育ったと思う。お父様とお母様は私がどれだけ特別な存在なのかを、よく理解しておられるのだわ。





 だが、そんな私にも、初めはかなり厳しい教育が施されていた。美しく高貴な生まれの私に、そのような地道な努力は不要だと思ったけれど、そのときは仕方がなく、言われるがままに頑張っていた。


 だが、そもそも机に向かってじっとしていることが嫌いな私には、家庭教師と一対一で向き合う時間が苦痛でしかなかったのだ。問題を間違える度に、「大丈夫ですよ、分からないところはもう一度説明して差し上げますね」と見下してくる家庭教師自体にも腹が立った。


 どうして由緒正しい公爵家の令嬢である私が、せいぜい子爵家か男爵家上がりのような学者に馬鹿にされなければならないの。穏やかに微笑む家庭教師の眼鏡越しに彼の瞳を睨み上げながら、そんな屈辱を覚えたものだ。


 そんな日が続いたある日、教養を深めるためと用意された本の分厚さに嫌気が差して、私はどうにかこの場から逃れられないものかと頭を働かせた。勉強は嫌いだけれど、面白そうなことを考えるのは好きだ。


――そうだ。少し泣いて、この生意気な家庭教師を困らせてやるのはどうかしら。


 私が泣けば、どんなに些細なことでも使用人たちは慌てるのだ。きっと、この家庭教師も例外ではないだろう。


 一体どんな顔で私を見るのか見物だわ。心の中でくすりと笑いながら、無理難題を押し付けようとしてくる家庭教師を前に、早速少しだけ目を潤ませてみる。案の定、家庭教師はぎょっとしたように私を見つめた。少しいい気味だ。


「お嬢様……?」


 ひどく慌てた様子の家庭教師の青年は、本を置いて私に視線を合わせるように屈みこんできた。眼鏡の奥の瞳が心配そうに細められているのを見ると、どうしてか心の奥底がちくりと痛んだような気がしたけれど、一度流れ出した涙はなかなか止まらない。


「……ローゼお嬢様、分からなければもう一度説明して差し上げますから……」

 

 どうか、泣かないでください。この家庭教師はそう言いたかったのだろう。けれど、予想外の人物の登場がその言葉の続きを妨げた。


「……奥様?」


 先に気づいたのは、家庭教師だった。お母様は、いつもは私の勉強姿など見に来ないのに。今日に限ってどういうおつもりなのかしら。


 家庭教師は、心配そうな表情の中に焦りも浮かべて、いつもの知的な雰囲気を台無しにしていた。いい気味だ。


 これは、面白い展開になった。私は心の中でほくそ笑みながら、涙で一杯の目でお母様を見上げる。


「っお母様……」


 驚いて何も言えないご様子のお母様のドレスにしがみ付いてみる。いつもはこんなことをすると、お母様にはしたないと叱られてしまうのだけれども、泣いている私を前にすれば叱責する気も起こらなかったようだ。


「どうしたの、ローゼ……」


 聞き分けの良いお姉様への対応しか知らないお母様は、涙に弱いようだった。私が一粒涙を流す度、お母様はいつもの毅然としたお姿からは考えられないくらいに動揺なさる。


「先生がね、意地悪言うの……私が、お勉強できないから……」


 全くの嘘ではないだろう。あれだけ私を見下したような言葉ばかりかけるのだから、私に意地悪しているのと同義だ。


 お母様は私の言葉を真に受けて、鋭い眼差しで家庭教師を睨んだ。社交界の華と呼ばれるお母様は、お怒りになるお姿もお綺麗だ。


「っ奥様、私はただ、ローゼお嬢様にわからない箇所をもう一度説明して差し上げようとしただけで……」


 震える声で弁明を始めた家庭教師の言葉を遮るように、思わず私は口を開いた。


「どうせ私は、お姉様みたいに上手くできないわ!」


 お母様のドレスを握りしめながら、涙を流して叫んだ。お母様が、はっとしたような表情で私を見下ろす。


 いえ、本当は私もはっとしていた。私は今、何を言ったのかしら。これではまるで、お姉様と比べられていじけている妹のようじゃない。


 違う、違う違う。決してお姉様を羨んでなんかない。お姉様なんて、ちょっとお勉強が出来るだけじゃない。私は、あんな地味なお姉様よりも容姿に恵まれているし、ずっと幸せなはずなのに。


「……可哀想に、ローゼ」


 お母様は今にも泣き出しそうな顔で、そっと私の髪を撫でてくれる。それがまた、私が自分でも気づかなかった劣等感を刺激するようで不快だった。


「……いいのよ、ローゼはローゼの出来ることをすれば」


 お母様の指先が、私の頬をそっと撫でる。その慈しむような仕草に、紛れもない愛情を感じた。そう、私は愛されているのだ。幸せになるべくして生まれた、公爵家の姫なのだ。劣等感なんて、感じる必要はない。


「……本当? お母様」


 明確な輪郭を得ようとする劣等感を心の奥底に沈めて、見えないようにする。私はそう、私の好きなことをして目一杯幸せに暮らせばいいの。私は、その権利を神様から頂いた、特別な存在なのだから。


「ええ、本当よ」


 私の頭を撫でながら、お優しい微笑みを浮かべるお母様にそっと寄りかかる。私は、確かに温かな幸せに包まれていた。

 

 


 それからというもの、私に施される教育は途端に甘くなった。少し泣いただけで、これだけ思い通りに事が運ぶというのはなかなか面白い。私の涙は、どうやらかなりの武器になるようだ。


 こんな真似、あの地味なお姉様には出来ないだろう。お姉様が泣いたところは見たことが無いけれど、きっと陰鬱な雰囲気が漂うだけに違いない。


 私はこうも簡単に自分の好きなように生きる道を手に入れたというのに、お姉様は相変わらず勉強とレッスン付の毎日を送っていた。お姉様が朝も夜もなく机に向かうお姿を見ると、何が楽しくて生きていらっしゃるのかと思ってしまう。地味なご容姿をお持ちだから、それを補うように血の滲むような努力を強いられているのかしら。そう思うと何とも言えない充足感を覚えた。


 だが、同時に胸の奥底でピリッと何かが痛むことも確かだった。その正体は恐らく、幼い頃に心の奥底に沈めたお姉様への劣等感であるだろうことには薄々気づいていたが、それを認めるのは私のプライドが許さなかった。


 そんな私の葛藤を嘲笑うかのように、お姉様は淡々と無理難題をこなしていく。およそ年齢に相応しくない難問を出されても、神経が磨り減るような細かすぎるマナーのレッスンを受けても、踵から血が出るまで踊り続けても、お姉様は文句ひとつ零さない。それどころか、目が合えば非の打ちどころのない微笑みを返してくるのだ。


 正直、そこまで完璧に振舞うお姉様が気持ち悪かった。一瞬も崩れないその善人面が、疎ましくもあった。


 そんな負の感情が、いつからかお姉様に向くようになったのはある意味自然なことだったのだろう。


 私は得意の涙で、お姉様を困らせる遊びを始めた。一方的にお姉様を困らせて私が泣きわめけば、お姉様に厳しいお父様やお母様は必ず私の肩を持つ。きっと、社交界で私がお姉様にいじめられているような印象を与えたくないという思惑があるのだろうけれど、こういうときに、年少の立場は便利だ。


 あれだけお姉様が必死で積み重ねた努力も教養も、私の涙には敵わないのだ。そのことが、私をとても満足させた。努力は生まれ持った才能にはどうやったって敵わないのだと、そう周囲が認めているのだ。気分が良くて仕方がない。


 その遊びは思いのほか楽しくて、気づけば習慣になっていた。思えばそのころから、お姉様との仲はだんだん疎遠になって言った気がする。完璧だと思っていたお姉様も、私のことは苦手なのね、と思えば人間味を感じられて、不思議と悪い気分ではなかった。






 社交界に出れば、男性に注目されるのはお姉様よりも私の方であった。やはりここでも、お姉様の努力より私の生まれ持った容姿の方が、ずっと価値があるのだ。


 それに、ちょっと優しい言葉をかければ、すぐに私に夢中になる男性たちの反応は面白い。言い寄ってくる男性の婚約者の有無なんて知らなかったから、ご令嬢たちには嫌味なことを言われるときもあったけれど、涙を流せば必ず男性たちが私の肩を持ってくれた。


 婚約者をそろそろ決めるのはどうか、とお父様に打診されたときもあったけれど、適当にはぐらかした。私はまだまだ遊びたいのだ。一人の男性に縛られて、行動を制限されるなんて御免だ。幸い私は男性たちの注目の的であるのだし、その気になればいつでも結婚できるだろう。


 それからも、未婚の子女としてはかなり際どい、お父様やお母さまには決して言えないようなことも沢山した。でも、その日が楽しければそれでいい。明日を憂うような身の上にもないし、それより神様に祝福されたようなこの容姿を活用しないと勿体ない。





 そんな愉快な日々の中で、私は運命の人に出会った。





 それは、ある舞踏会の夜だった。すらりと背の高い、美しい銀髪の青年に、私の目は釘付けになったのだ。


 あれが、王太子殿下なの?


 以前、お姉様の婚約の挨拶に来たときには、まだ少年というに相応しい年で、確かに綺麗な顔立ちをしていたことは覚えているが、可愛すぎてとても異性としては見られなかった。それからというもの、お姉様の婚約者など興味もないから王太子殿下のことなど気にも掛けていなかったのだけれども、いつの間にかこんなにも魅力的な青年に成長していたらしい。


 ……こんな綺麗な王子様、お姉様には勿体ないわ。私の方がずっと相応しいじゃない。


 早速、よく使う手段で殿下にぶつかって、どうにか二人きりになろうと目論む。どうせ奥手なお姉様とはキスの一つもしていないんだろう。二人きりになればこちらのものだった。今まで、私の魅力に抗えた男性などいないのだから。


 しかし、殿下も一目見れば私を気にいると思ったのに、事はそう上手く運ばなかった。殿下は親切にしてくれたけれど、私のエスコートを友人の男性に頼み始めたのだ。その男性も顔はまあ悪くなかったけど、今の狙いは殿下なので慌てて身を引いた。


 たまに、婚約者のいる男性はこういう反応を示す。私との噂を囁かれることに怯んでいるつまらない男などこちらから願い下げだから、そういう場合はさっさと手を引くのだけれど、今回ばかりは諦められなかった。


 あんなに綺麗な男性、他にいないわ。


 何より、一目惚れした男性がお姉様の婚約者だというのも面白い。お姉様から殿下を奪うことが出来たなら、長年胸の奥底で燻り続けているこの劣等感も、きっときれいさっぱり消えてくれるだろう。それに、私に婚約者を奪われたら、完璧なご令嬢であるお姉様がどんな顔をするのか見てみたかった。


 殿下がお姉様に惚れ込んでいるという話は聞かないし、お姉様も殿下に恋しているという様子も見受けられない。これは私にかなり勝機がありそうだ。


 だが、肝心の殿下は先ほどの様子を見る限り慎重な男性らしい。余程のことが無ければ私の手を取ろうとしないだろう。


「レイラお嬢様、ローゼお嬢様、到着いたしました」


 舞踏会からの帰りの馬車で、ぼんやりと作戦を練っているうちに屋敷についてしまった。向かい側の席では、誰も見ていないというのにお姉様が綺麗な姿勢で座っていて、それが余計に何だか腹立たしい。いつでもいい子でいるお姉様は、息苦しくないのかしら。

 

 私が見つめていることに気づいたのか、降りようとしていたお姉様はにこりと微笑みを送る。私のことは苦手に思っているはずなのに、決して突き放そうとしないところも嫌いだ。慈愛に満ちた女神様のような方だとご令嬢の間では人気らしいが、さぞかしつまらない毎日を送っていることだろうと思う。


 馬車から降りれば、公爵家の御者が丁寧に手入れをしている毛並みの良い馬がしっぽを振っていた。御者はよしよしと馬の首を撫でている。


 そうだわ、これがいいかもしれない。


 実際、お姉様は私と殿下の恋路を邪魔しているわけだし、なかなか皮肉も効いているわ。


「どうしたの? ローゼ」


 なかなか屋敷に入ろうとしない私を振り返って、お姉様は鈴の音のような綺麗な声でこちらを気にかけてくれる。月を背にしたお姉様の姿は、地味な容姿のはずなのに、女神様と呼ばれる理由が分かってしまうくらい神秘的で品があり、それが余計に悔しくて私は計画の実行を決めた。


「何でもありませんわ、お姉様」

 

「そう? 早く戻らなければお父様もお母様も心配してしまうわ。行きましょう」


「はい、お姉様」


 遠ざかっていく馬の蹄の音を聞きながら、再び歩き始めたお姉様の背中を見つめ、小さな笑みを浮かべる。これは、久しぶりに面白いことになりそうだ。


 




 結論から言えば、計画は上手くいった。


 遊び相手の男性から、馬の興奮剤を手に入れて、私に夢中な使用人の一人にそれを託した。私はただ「女神様を驚かせてあげて」と耳元で囁いただけ。実際、使用人にはそれで伝わる程度の能はあったらしく、実に上手くやり遂げた。


 そう、やりすぎなくらいに。


 お姉様が殿下と出かけるある初夏の日の朝に、それは実行された。お姉様は一人ではなかなかお出かけにならないから、今まで機会が無かったのだけれども、殿下に「お姉様は植物園に行きたがっているようですわ」と耳打ちしたところ、ようやく殿下はお姉様を誘って出掛ける気になったらしい。殿下も、お姉様の妹である私に言われてしまえば、誘わざるを得なかったのだろう。

 

 その日、珍しくおめかしをしたお姉様はどこか楽しそうだった。お姉様は殿下のことは特に何とも思っていないはずなのに、と不思議に思ったけれど、お花がお好きだから植物園に行けるのが嬉しいのだと考えて納得した。これから起こるであろう不運な事故を思えば少し可哀想にも思えたけれど、お花くらい、私がお見舞いで差し上げればいいだろう。


 時間ぴったりに迎えに来た殿下はどこか無愛想で、地味なお姉様との婚約が不服なことは火を見るより明らかだった。折角の美しいお顔が台無しだ。


 でも、大丈夫。私がお姉様から解放して差し上げますわ。


 使用人は王家の馬に興奮剤を打ったようで、暴走した白馬は見事にお姉様の許へ向かった。一瞬、殿下がお姉様を庇うような素振りを見せたから焦ったけれど、間に合わず馬の蹄がお姉様目掛けて振り下ろされる。


 その瞬間飛び散った赤色に、私は一瞬気が遠くなるのを感じた。


 お姉様はそのままその場に倒れてしまった。どうやら額を負傷したらしく、見る見るうちに、ただでさえ白かった顔が青ざめて行く。医学の知識なんてまるでない私が見ても、怖いくらいの急激な変化だった。


 え、待って頂戴。私、ここまでは望んでいないわ。


 お姉様が怪我をして、人前に出られない程度に傷物になり、婚約が解消されればいいというくらいにしか思っていなかった。命まで奪いたいだなんて思っていない。


「……お姉様?」


 慌てて駆け付けた使用人たちに紛れて、私はぽつりとお姉様の名前を呼んだ。取り乱した殿下に抱きかかえられているお姉様はぐったりとしていて、呼びかけに答えてなどくれない。

 

「レイラ、レイラっ!!」


 声が枯れそうなくらいに力の限り叫ぶ殿下を見て、ふと、私は間違ったのだと悟った。


 殿下は、きっとお姉様を好ましく思っておられる。もしかしたらお姉様も、殿下に惹かれていらっしゃっるから、今日はおめかしをしていたのかもしれない。


――もしかして、馬に蹴られなければいけないのは、私の方なのかしら。


 今更後悔したって遅い。


 私は、このとき初めて、取り返しのつかないことをしてしまったのだと気づいた。

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