第21話(ルイス視点)

 祈りが通じたのか、レイラは一命を取り留めた。だが、数日たってから面会が許されたレイラの姿は弱り切っていて、遠目に見れば人形のように儚い。


「レイラ……」


 頬にかかった亜麻色の髪をよけて、青色いレイラの顔を見下ろす。レイラは眠っていても綺麗だ。


「……起きているレイラ嬢にお会いしたかったですが、今はお休みになられているんですね」


 ベッドサイドでレイラの様子を見守る公爵夫人に、さりげなく言葉をかける。公爵夫人は社交界の華と呼ばれる人なだけあって、どこか陰鬱さの漂うレイラの寝室の中でも艶やかだ。だが、普段より覇気のない様子にどことなく胸騒ぎを覚える。

 

「殿下……これは、今朝、医者から告げられたことで、まだ国王陛下にもお話していないのですが……」

 

 僕の隣でレイラを見下ろしていた公爵が、俄かには信じがたいことを告げる。


「レイラはもう、目覚めないかもしれません」


「は……?」


 公爵に対する礼儀も忘れて、思わず聞き返してしまった。よく見れば、公爵の目の下には深い隈がある。いつも隙を見せない公爵が、ここまでやつれ切っているということがその言葉を裏付けているようで思わず目を逸らした。


「……王国で一番……いや、あらゆる分野で一流の医者をすぐに呼びよせます。レイラが目覚めないなんて、そんなこと――」


「もう、この国で一番腕のいい医者に診てもらいました。……しかし、現在の医学の力ではどうすることもできない、と。どれほどの名医に診てもらっても、手の尽くしようがないのです……」


「……また明日も来ます。いや、これからは毎日会いに来ます。レイラはアネモネの花が好きでしたね。毎日色の違うものを持ってきましょう。そうすれば、目が醒めたときにレイラも喜ぶ」


「殿下」


 窘めるような公爵の声に、自分がひどく取り乱していることに気づいた。公爵は苦しげな表情で首を横に振る。


「王太子殿下ともあろう方が、目が醒めるかもわからぬ令嬢のもとに通われる必要はございません。……恐らく、この婚約の話も白紙に戻るでしょう」


「何を言って――」


「レイラも、殿下には美しかったころの姿を覚えておいてほしいはずです。どうか、レイラの想いを汲んでくださいませんか」


「……何を言ってるんだ、レイラは眠っていても美しい。それに、レイラは僕と結婚すると随分前から決まっている」


 そう、レイラは僕のものだ。今更、縁談が白紙に戻されてたまるものか。思わず丁寧な言葉を使うことも忘れて、公爵を睨み上げる。


「とにかく、また明日も来ます」


 混乱する頭を必死に落ち着かせながら、僕は城に戻った。その後、悲痛そうな表情をした両親から告げられた言葉はやはり同じようなもので、僕は暫く公務にも勉学にも打ち込むことが出来なかった。






 それから一か月して、僕とレイラの縁談は正式に白紙に戻された。しかも、なお悪いことに、新しい婚約者にはレイラの妹のローゼ嬢があてがわれることになったのだ。王太子妃を輩出する家自体が変わるよりは混乱を避けられる、という思惑と、僕とローゼ嬢が懇意にしているとの情報から決められたことらしい。後者については、近頃ローゼ嬢が僕につきまとっていたことから生まれた誤解だと思われるが、最早、それを否定する気力もなかった。


 もう、どうでもいい。何でもいい。レイラじゃないならば誰だって変わらない。


 加えて、新しい婚約者であるローゼ嬢に配慮して、レイラにはもう会ってはいけないとまで言われたときには本気で自死を考えた。


 神様とやらは、レイラを生かす代わりに僕を見放すことにしたようだ。





 それからは、自暴自棄な日々が続いた。公務も勉学も、求められるだけのことを義務的に成し遂げたが、レイラが婚約者だったときのような達成感も刺激も何も得られない。


 いっそレイラを忘れてしまえばいいのかもしれないと思ったが、僕の心を初めて動かした彼女を忘れるなんて、どうやったってできなかった。僕の心はもう、他が入り込む隙が無いくらいに、レイラで染め上がっていたのだ。


 せめてレイラのことを考えないようにしようとしても、アネモネの花やレイラの好きそうな刺繍を見る度に、レイラのあの可憐な笑顔ばかりが思い出される。もう、レイラは傍にいないというのに。


 気が触れそうだった。衝動的にアネモネの花を握りつぶしながら、レイラに対して憎しみのような感情を抱いたことすらある。


 それを繰り返していくうちに、多分、僕は段々おかしくなっていったのだと思う。





 新たな婚約者となったローゼ嬢は、べたべたと僕につきまとった。エスコートしようにも、胸を押し付けるように腕を組むことしか出来ないらしく、とても名門公爵家の令嬢とは思えぬ下品さに辟易してしまう。だが、僕にとってはそれすらもどうでもよく、注意する気にもなれなかった。


 ローゼ嬢の唯一の長所と言えば、レイラと声がよく似ていることだった。その派手な見た目とは裏腹に、声だけは鈴の音のような可憐な声なのだ。もっとも、普段話しているときにレイラを彷彿させるようなことは無いのだが、ローゼ嬢が妙に甘えてくるときや一方的に口付けてくるときの声は、そういう状況のレイラの声を知らないだけに、レイラに置き換えることが出来た。


 我ながら、ローゼ嬢に対してあまりにも不実だと思ったが、次第にそれだけがローゼ嬢を傍に置く理由になっていった。




 だからこそ、僕は過ちを犯したのかもしれない。




今でも信じられないことだが、ある舞踏会の翌朝、控室とは名ばかりの、密会の温床になるような小部屋のベッドで僕は目を覚ました。


 かつてないほどに痛む頭を抱えながら、何気なく隣を見れば下着姿のローゼ嬢が眠っていた。乱れた自分の衣服といい、シーツに付着した赤色といい、ただ眠っていただけというにはあまりにも不自然すぎる光景だった。


 婚約者とはいえ、相手は未婚の子女。こんな失敗を自分がするなんて。一瞬だけ、血の気が失せて行くのが分かった。ローゼ嬢絡みでこんなに動揺したことは、これが初めてかもしれない。


 舞踏会に参加していた記憶はあるが、その後のことはまるで覚えていなかった。確かに酒は飲んだが、もともと友人たちの誰よりも酒に強い僕が酔えるような濃度の酒は無かったはずだ。何より、人の目がある舞踏会の席で、記憶を飛ばすほど飲んだということが信じられない。


 だが、自暴自棄になっている自分だからもしかしたら、と思うのもまた事実だった。レイラを思わせるローゼ嬢の甘い声に、誘われた可能性も否めない。


 眠るローゼ嬢をどこか冷えた気持ちで見下ろしながら、一人溜息をつく。こんな状況になっても、ローゼ嬢に対して何の感慨も感情も湧き起こらないのが不思議だった。


 とにかく、この状況では僕が何を言っても言い訳になるだろう。幸いにも相手は婚約者なのだし、新たな命が宿ったところで最悪結婚式が早まるだけだ。相手がもしもレイラだったのなら、自分のことを呪い殺すほどに責めただろうが、ローゼ嬢に対しては罪悪感すら抱かなかった。


 我ながらの屑っぷりに、起きて早々自嘲気味な笑みを零してしまう。ローゼ嬢はこんな僕の傍に、それでもいたいと願うのだろうか。





 結論から言えば、この夜にローゼ嬢はお腹に子を宿し、結婚式は早まることになった。その結果を受けても、ローゼ嬢には申し訳ないことをした、とすら思えない自分に益々嫌気が差して、着々と進められていく結婚式の準備を眺めていた。



 そんな絶望の最中、神様とやらは更に残酷なことを引き起こす。



 レイラが、目覚めたのだ。2年間もの長い眠りから。弱ってこそいるが、後遺症は何もない奇跡の状態で。



 約2年ぶりの心を揺り動かす吉報に、僕は一人で涙を流して喜んだ。


 レイラが、目覚めてくれた。またあの綺麗な亜麻色の瞳で僕を見つめてくれる。小鳥のようなあの可憐な声を聴かせてくれる。女神のような優しさに触れることが出来る。こんなに喜ばしいことが他にあるだろうか。


 だが、同時にこのときほど、自分を呪ったことは無かった。レイラが目覚めたというのに、これほどの絶望を味わうことになるなんて。


 どうして、よりにもよってこのタイミングなんだ。


 せめて、あと半年ほど早く目覚めてくれていたのなら、レイラと婚約を結び直すことも可能だったかもしれないのに。この状況では、どう足掻いても無理だ。


 ローゼ嬢が、僕の子どもを身ごもっているのだから。


 いや、たとえ子どもがいなくても、既成事実がある以上、今更ローゼ嬢との婚約破棄は難しかっただろう。


 もう少し、自分がしっかりしていれば。あの夜に酒さえ飲まなければ。


 後悔してももう遅い。レイラは一生手に入らない。


 この先ずっと、レイラが他の誰かと幸せな家庭を築き上げる様を見続けることしか出来ないなんて。


 生殺しもいいところだ。いっそ、目覚めてくれなければ諦めもついたのに。そんな自分勝手な願いさえ抱いた。



 でも、そんな醜い感情すらも、2年ぶりにレイラの微笑みを見た瞬間に吹き飛んだ。



 レイラが、生きていてくれる。笑ってくれる。それがどれだけ素晴らしいことか、僕は分かっていなかったらしい。もともと女神とさえ呼ばれていた少女だ。レイラはそこにいるだけで、こんなにも簡単に僕の心を救ってしまう。


 夫婦にはなれなくても、良き友として、たった一人の最愛の女性の傍にはいられるのだ。レイラが結婚していくのを見るのはそれはもう辛い上に、相手の男を憎まずにはいられないだろうが、それでも、レイラが眠ったままであるよりはいくらかマシだろう。


 僕のものでなくなっても、レイラが幸せに生きている様を見るのは悪くない。2年ぶりのレイラの笑顔は、どこか歪んだ僕にそう思わせるくらいの破壊力があった。


 それに、真っ直ぐにレイラの幸福を願えるようになった自分が誇らしかった。レイラはいつも、僕を正しい道に導いてくれる。それは恐らくこの先も変わらないのだろう。レイラが笑い、可憐な声で話し、華奢な足で踊るために安寧が必要だと言うならば、義務としか思っていなかった公務でさえ進んで取り組める気がした。


ローゼの手前、レイラを優先するような態度は避けたので言葉らしい言葉はかけられなかったが、次は一人で見舞いに来よう。レイラの可憐な声と笑顔はきっと、僕の爛れた2年間すらも浄化してしまうだろう。



 そんな風に現実を受け入れて、レイラの幸せを願えるくらいの心の余裕を取り戻したはずなのに。



 レイラは、僕を裏切ったのだ。僕の目の前から、逃げ出してしまった。



その知らせを受けたとき、僕は温室に咲いていた一番見事なアネモネの花を持って、レイラを見舞いに行こうとしていたところだった。震える手でアネモネの花を握りしめながら、何とか冷静になろうと試みる。


 どうして、レイラが逃げるんだ。2年間の眠りから醒め、これからようやく幸せになれるというのに。 

 

 僕の目を見るなり怯えたような顔をした使用人を下がらせると、部屋には僕だけが取り残された。


 小刻みに震えた手から、アネモネの花がするりと抜け落ちる。さまざまな色の花弁が、床に散らばった。それを踏みにじるようにして、僕は窓辺に足を進め、空を見上げた。空には一面灰色の雲がかかり、静かな雨音が響き渡っている。


 僕のものにならなくても、レイラが幸せになれたらそれでいいと思っていた。知らせを受ける直前まで、確かにそう思っていた。


 でも、それはすべて僕の目の届く範囲での話だ。レイラが僕の見えないところに逃げ出すというのなら話は変わってくる。


「……馬鹿だなあ、君は」


 逃げさえしなければ、きっと幸せになれたのに。


 僕は冷え切った窓に手を当て、爪で引っ掻くようにズルズルと手を下ろした。窓越しに雨空を見上げれば、自然と笑みが浮かんでくる。


 君が僕を捨てて逃げると言うのならば、こちらにも考えがある。


 君を必ず見つけ出して、そのまま二人だけの世界に閉じ込めよう。そうして、逃げる気力すら無くすほどに痛めつけて弱らせたところで、存分にこの愛に溺れてもらおう。


 もう決して、僕の手から擦り抜けないように。僕から逃げようだなんて、二度と思わないように。誰も立ち入らない塔の最上階で、一生を過ごしてもらうのだ。


 そんなことをすれば、君は僕を嫌うのだろうか。でも、君に嫌われることを恐れて我慢し続けた結果がこれならば、もう何も遠慮することは無いじゃないか。君に嫌われるよりも、君が傍にいないことの方がずっとずっと苦しくて仕方がない。


 逃げた理由などどうでもいい。ただ、ここまで君に搔き乱された僕の心を踏みにじって、あっさりと僕を捨てて逃げた罪の重さを、君は思い知るべきだ。


 絶対に、レイラを見つけてみせる。そしてそのまま、公爵家には返さない。機を見て適当に死んだという知らせでも送ればいい。


 そうすれば、今度こそレイラは僕のものになる。誰にも見つからない場所に、「名前もない」少女を監禁することなど造作もないのだから。


「……最初から、こうすれば良かったんだな」


 レイラは、僕のものだから。これがきっと正しい道だ。誰より先にレイラを捕まえて、もう誰の目にも触れない場所に閉じ込めてしまおう。


 レイラと二人きりで過ごす時間は、どれだけの幸福で満ちているだろうか。きっと、想像もつかないくらいに甘美であるに違いない。


「レイラ、ああ、レイラ……。すぐに見つけてあげるから、いい子で待っているんだよ」


 部屋中に飾ったレイラの肖像画の一枚にそっと口付ける。僕の心を乱して止まないこの少女は、もうすぐ、僕だけのものになるのだ。

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