第17話(ジェシカ視点)

 それから間もなくして、かねてより囁かれていた噂通り、お嬢様は王国アルタイルの第一王子の婚約者に正式に内定する。第一王子はとても優秀なお方で、冷静沈着、加えて眉目秀麗とまさにご令嬢たちの憧れの的とでもいうべき方だった。身分や見目に左右されず、常に物事を公平に判断なさるという話も聞いて、私は心が躍ったものだ。


 ようやく、レイラお嬢様の孤独を癒してくださる方が現れたのかもしれない。しかもそれは王国の王子様、まるでお伽噺のようだと私はまるで自分のことのように浮かれていた。


 だが、残念ながら殿下はレイラお嬢様に特別のご興味を示されるわけでもなく、婚約者として最低限のお付き合いをなされるだけだった。それでも、レイラお嬢様を理不尽に蔑ろにしないだけ好感が持てたのだから、私もかなり感覚が麻痺していたと思う。


 しかし、お嬢様が殿下に向ける態度は随分可愛らしいものだった。月に一度程度しか届かない殿下からの手紙を何度も読み返しておられたり、殿下からの贈り物を大切そうに眺めていらっしゃった。


 あの殿下の態度からして、手紙が直筆かどうかも怪しい。贈り物を殿下ご自身がお選びになっているとも思えない。多分、レイラお嬢様もそれは分かっていた。分かっていた上で、それでも嬉しかったのだ。


 お嬢様からしてみれば、ご自分に厳しすぎず、かつ理不尽な扱いをされるわけでもない殿下の存在は新鮮だったのだろう。婚約者としてはあまりにもそっけない殿下の態度にもかかわらず、レイラお嬢様は少しずつ少しずつ好意を寄せられていったようだった。


 私からしてみれば、レイラお嬢様に冷たい婚約者様なんかよりも、お嬢様をもっと喜ばせてくれる殿方は星の数ほどいるような気がしたけれども、まさか言えるはずもない。それに、レイラお嬢様が幸せそうならば、それに越したことは無いのだ。





 それからしばらくして、社交界デビューをされたお嬢様の評判は、それはもう絶賛の嵐だった。メイドの身なので詳しくは知らないのだが、一部では「女神様」とまで評されているらしい。レイラお嬢様はご令嬢方からの人気がかなり高く、ご友人と呼ぶに差し支えない高貴なご令嬢が何人もいらっしゃった。これでようやくお嬢様に居場所が出来たのだと私も安心したものだ。


 一方で、社交界の殿方の視線は、レイラお嬢様より一年遅れて社交界デビューしたローゼお嬢様の方が集めているようだった。


 社交界の華と称された奥様によく似たローゼお嬢様は、それはもう注目の的で、次々と殿方を魅了していった。それはもう、面白いほどに。


 しかし、ローゼお嬢様は婚約者のある殿方にも遠慮なく近づいたりしているらしく、ご令嬢方からの評判は散々だった。ご令嬢方の間では、「あのレイラ様の妹君なのに」という言葉と共にローゼお嬢様のことをお話になるのはすっかり定番になっているらしい。


 中にはローゼお嬢様が婚約者のある殿方と二人きりで密会していた、だとか、お見掛けするたびにローゼお嬢様のお相手は変わっている、だとか耳を疑うような噂もあったが、旦那様や奥様はどう思われているのだろうか。いや、そもそもそんな噂話を聞いたところで、ローゼお嬢様を貶める噂に過ぎないと憤慨なさるだけなのかもしれないけれど。


 しかしながら、そんな中でも聡明な殿方はレイラお嬢様の方を称賛していた印象を受けた。ただ、聡明なだけに自国の王太子の婚約者に無闇に近寄るような方はおらず、結局レイラお嬢様はご自分に魅力が無いものだと思ったまま時を重ねることになってしまったのだけが残念だ。成長したレイラお嬢様は「女神様」の名に恥じぬほど、清廉で可憐なお美しさをお持ちだというのに。


 せめて殿下がレイラお嬢様をお美しいと一言言ってくだされば、と私は密かに願っていた。結局それは、ただの一度の叶うことは無かったのだけれども。





 レイラお嬢様が16歳になったある初夏の日、珍しく殿下がレイラお嬢様をお誘いになってお二人で植物園に出かけることになった。殆ど初めてに近い殿下からのお誘いに加え、以前から興味を示されていた植物園に行けることもあり、レイラお嬢様は大層お喜びになられた。久しぶりに、レイラお嬢様の素の笑顔を見た気がして、私も何だか嬉しくなったものだ。


 清楚なクリーム色のドレスをお召しになって、15歳の誕生日に殿下から贈られた、宝石の散りばめられた美しい髪飾りをお付けになったレイラお嬢様は、それはもう可憐でお可愛らしかった。この姿を見れば、殿下も少しはレイラお嬢様を褒めてくださるのではないか、と期待を抱いたほどだ。


「お綺麗ですわ、お姉様」


 レイラお嬢様が支度を整えると、珍しくローゼお嬢様がお見送りにいらした。年を重ねるにつれ、レイラお嬢様がなるべくローゼお嬢様を避けるようになったのはある意味当然のことで、近頃では余程の用事が無い限り、お二人が顔を合わせることは無かった。それなのに珍しいこともあるものだ、と思いながらそっとお二人から距離を取る。


「ありがとう、ローゼ」


「晴れてよかったですわね。植物園の緑も映えるでしょうから」


「ふふ、そうね」


 レイラお嬢様は当たり障りのない笑みを浮かべておられた。どの言葉がローゼお嬢様のご機嫌を損ねるのか分からないから、慎重になられるのも無理はない。


「……どうぞ、行ってらっしゃいませ」


 やけに含みのある言い方だったが、ローゼお嬢様は愛らしくにこりと微笑まれる。レイラお嬢様もまた、その笑みに応えるように微かに頬を緩めた。


「ええ、わざわざありがとう、ローゼ」


 




 殿下は、時間ぴったりにレイラお嬢様を迎えに来た。レイラお嬢様にそっけない態度を取られているとはいえ律儀なお方のようで、レイラお嬢様との約束に遅れたことは一度も無い。


「では、行ってくるわね」


「お気をつけて行ってらっしゃいませ、レイラお嬢様」


 お屋敷の前までレイラお嬢様をお見送りする。殿下にエスコートされるお嬢様はほんの少し頬を赤らめておいでで、幸せそうなお嬢様のお姿に自然と私も頬を緩ませた。


 今日は澄み渡った青空が広がっているし、いい思い出になりそうね。


 お嬢様と殿下の結婚式は3年後、それまでに一つでも良き思い出を積み重ねていただきたい。


 だが、そんな呑気な祈りも、やけに近くで響いた馬の鳴き声に中断される。


 目を向けたときには、前足を上げた馬の蹄が、レイラお嬢様にちょうど振り下ろされるところだった。みずみずしい初夏の日の光に、ぱっと鮮やかな赤が飛び散っていく。そのままどさり、とレイラお嬢様は地面に倒れ込んだ。


 えっと、今のは、一体何?

 

 顔色を変えて何とか馬を遠ざけて行く御者の姿と、レイラお嬢様の名を叫ぶ殿下の声。取り乱した殿下の腕の中で、みるみる内に血の気を失っていくレイラお嬢様のお姿。それらの全てが現実のものとは思えず、私は暫くその場から動けなかった。


「レイラっ、レイラっ!!」


 月に一度くらいしか顔も合わせない淡泊な婚約者のはずの殿下は、血相を変えてレイラお嬢様の名を叫び続けていた。お嬢様は、殿下の腕の中で人形のように静かに眠っている。


 お嬢様があれ程憧れていた殿下との抱擁は、こんな形で叶えたかったわけではないはずだ。


「……お嬢様?」


 いつの間にか私はお嬢様のお傍に近寄っていた。ただでさえ色白のお肌が、透き通るほど青白くなっているのを見て、自然と涙が零れてくる。


 早く、早くお医者様を呼ばなくちゃ。


 私は、無我夢中で公爵家御用達のお医者様のお屋敷へ駆け出していた。既に誰かが行っているかもしれないけれど、それでもいい。早く、早くしないと手遅れになる。焦燥感に駆られながら、私は足も肺も痛むのを厭わずに全力で走り続けた。






 結果的に、レイラお嬢様は一命をとりとめた。白い額に浮かび上がる縫合の跡が痛々しいけれど、確かにお嬢様は息をしている。


 しかし、神様という方は残酷なお方のようで、この美しいお嬢様の瞳を二度と私たちに拝ませないつもりらしい。


 お医者様は、もう、レイラお嬢様が目覚めることは無いかもしれないと仰ったのだ。


 そんな酷いことが許されて堪るものか。どうして、どうしてレイラお嬢様が。


 声もなく眠り続けるお嬢様は、本当に女神様のようだ。目を離せば消えてしまいそうなほどに儚い。

 

 これには流石の旦那様も奥様も堪えたようで、お二人は見る見るうちにやつれていった。旦那様はありとあらゆる治療法を探し続けておられたし、奥様は一日のほとんどの時間をレイラお嬢様の傍で過ごすようになった。


 その愛情のひとかけらでも、レイラお嬢様がお元気だった時に見せて差し上げればよかったのに。


 やっぱり言えはしなかったけれど、どこか皮肉気な気持ちを込めてそう思ってしまった。

 





 殿下とレイラお嬢様の婚約が白紙に戻されたのは、それから一月ほど後のことだった。いつ目覚めるか分からない令嬢を、いつまでも王位継承者の婚約者のしておくのは厳しいとは分かっていても、殿下からの月に一度の手紙を嬉しそうに眺めるお嬢様のお姿を思い返すと、悲しくてやるせない気分になってしまう。


 殿下の新しい婚約者にはローゼお嬢様が選ばれた。私には、難しいことはよくわからない。多分、政治的な思惑だとか家柄の問題だとか複雑な事情があるのだろう。


 でも、どうしてよりにもよってローゼお嬢様なのだ。


 ローゼお嬢様が殿下の新たな婚約者に内定したと聞いたときには、あまりにも悔しくて涙が出たものだ。ローゼお嬢様は、レイラお嬢様が欲しいと思ったものをすべて掻っ攫って行く。こんな理不尽までも、レイラお嬢様は受け入れなければいけないのか。


 しばらく気分は最悪な状態だったけれど、一介のメイドが嘆いていても仕方がない。ローゼお嬢様のことを考えてもレイラお嬢様が不憫になるだけだ。私は気分を切り替え、レイラお嬢様のことだけを考えて公爵家にお仕えしようと決めた。

 

 それからというもの、私たちはレイラお嬢様がいつかお目覚めになると信じて、血行を良くするためのマッサージや、関節拘縮を予防するためにお嬢様の手足を動かすなどのお世話を開始した。レイラお嬢様がお目覚めになったとき、一日でも早くご自分の足で歩けるよう、そう願いを込めて。


 そんな私たちを、ローゼお嬢様は酷く不憫なものを見るような目で見ていた。「馬鹿馬鹿しい」と呟かれていたことも知っている。


 あなたは、どうして実のお姉様をそこまで憎めるの?


 この国に身分制度が無ければ、胸倉を掴んででも問い詰めていたところだ。ローゼお嬢様は何もかもをお持ちなのに、一体レイラお嬢様の何がご不満なのか分からなかった。


 だが、流石のローゼお嬢様も、いつからか奥様が私たちに混じってレイラお嬢様のマッサージをするようになったのを見ると何も言わなくなった。


 奥様は、レイラお嬢様に「常に公爵令嬢らしくあること」を誰よりも要求なさっていた方だ。もちろん、ご自身も決して使用人の真似事などをなさるような方ではなかった。しかし、眠り続けるレイラお嬢様を前にして何かをせずにはいられなかったらしい。


 私はこのとき初めて、奥様が公爵夫人としてではなく、レイラお嬢様の母君としてお嬢様のお傍にいる姿を見た気がした。


 レイラお嬢様が眠りにつかれてから、奥様も旦那様も随分と性格が丸くなられたと思う。もし今、レイラお嬢様がお目覚めになれば、きっとお二人とも涙を流してお喜びになられるだろう。そうすれば、レイラお嬢様は初めてお二人の愛を感じることが叶うのだ。


 それは少しだけ楽しみだ。ご両親の愛に触れた瞬間、お嬢様はどんなにお喜びになるだろう。初めて、ご自分を甘やかすことが出来るのかもしれない。その場面を何度も想像しては、ふっと頬を緩めてしまった。





 そんな毎日を繰り返しながら、レイラお嬢様がお目覚めにならないまま1年半と少しが過ぎたころ、アシュベリー公爵家に衝撃が走る。


 ローゼお嬢様がご懐妊なさったのだ。王太子殿下との、御子を。


 レイラお嬢様がお目覚めにならないよう祈ったのは、このときが初めてかもしれない。

 

 レイラお嬢様は、そもそも殿下との婚約が解消されたことも知らずに今も眠り続けておられるのだ。加えてローゼお嬢様のお腹に殿下の御子がいると知ったら、一体どうなってしまうだろう。レイラお嬢様の衝撃と悲しみを思うと、こちらの胸まで張り裂けそうだ。

 

 だが、やはり神様というものは残酷で、レイラお嬢様はそんな最悪の状況下で目を覚まされたのだ。

 

 約2年ぶりに見たレイラお嬢様の亜麻色の瞳はそれはもう美しかった。もう一度、お嬢様の瞳に私の姿が映し出されたことが、どれだけ嬉しかったか。状況は最悪だけれども、再びお嬢様のお声が聴けたことを神様にそれはもう感謝した。


 だが、レイラお嬢様を待ち受けている現実はあまりにも優しくなかった。


 ローゼお嬢様は事もあろうに王太子殿下とともにお見舞いに訪れ、まるでご自分の幸福を見せつけるかのような振舞をなさった。殿下もまたそれを咎めることなく、ローゼお嬢様の御身体だけを気遣ってすぐに出ていかれてしまう。


 更に悪いことには、あれだけレイラお嬢様を心配なさっていた奥様も旦那様も、この状況下でのレイラお嬢様への接し方が分からなかったのか、身重のローゼお嬢様を気遣われるようなことを仰った。いや、あれでもお嬢様が事故に遭われる前よりはずっとマシだったのだけれども、婚約破棄とローゼお嬢様のご懐妊を同時に知らされたお嬢様に対する態度としてはこの上ないくらいには最低だった。


 最悪だ、本当に。反吐が出る。


 レイラお嬢様の周りにいる人間は、あまりにレイラお嬢様の感情に疎すぎる。女神様と謳われるような完璧なご令嬢であるレイラお嬢様にも、ちゃんと心があるのだということを忘れていやしないか。


 ここにいては、レイラお嬢様はいつかお心を壊される。夢の世界の方がどれだけマシだったか分からない。







 だからこそ、レイラお嬢様がお姿を消したとき、心配するよりも先に、これで良かったのだと思ってしまう私がいた。


 本当は、予感があったのだ。諳んじるほどお読みになった王国とルウェイン一族の御伽噺を読み返していたり、なるべく小さな旅行鞄をこっそりご自分でお選びになっていたときから、薄々勘付いていた。もしかすると、お嬢様はルウェイン教の修道院に入られるおつもりなのかもしれない、と。

 

 よっぽどお止めしようかと思ったけれど、ここでお嬢様をお引き留めして何になるだろう。公爵家にいては、お嬢様が幸福になれないことは明白なのに。それならばせめて、たとえ質素な暮らしだったとしても、修道院でのびのびと人生を送られた方がお嬢様にとっての幸せなのではないだろうか。

 

 よかった。まだ、お嬢様に逃げ出すだけの気力があって。


 何だか皮肉気な物言いになってしまうが、本当にそう思ったのだ。あれだけ周囲の人間に痛めつけられ、蔑ろにされていたら、無気力なまま公爵家の都合の良い人形に成り下がっていてもおかしくなかったのだから。


 修道院に入られたはずのお嬢様の行方はまだ分かっていないけれど、何となく、お嬢様はどこかでちゃんとお幸せに暮らしているような気がしていた。きっと、馬車にでも乗って遠くの修道院にでも行かれたのだろう。





 一方で、公爵家はレイラお嬢様を取り戻そうと躍起になっていた。レイラお嬢様をどれだけ傷つけたかも顧みず、手元に置くことがレイラお嬢様の幸せだと盲信している旦那様と奥様には呆れてものも言えない。当然のように捜索願も出され、今も騎士団が巡回したりしているらしい。


 だが、それとはまた別に気にかかることがあった。仲良くしている王城勤めの騎士に聞いたことなのだが、どうやら王家も秘密裏にレイラお嬢様を捜索しているらしい。それも、王太子殿下の直属の部隊が捜索に当たっているという。


 これにはどうも疑問が残る。元王太子妃だったとはいえ、王家が直々にお嬢様を探す理由があるだろうか。学の無い私には到底理解できぬ事情があるのかもしれないが、どうも腑に落ちない。


 何だか、嫌な予感がするのだ。王家がわざわざレイラお嬢様を捜索するのは、何か仄暗い思惑が張り巡らされているからではないかという気がして。今まで散々レイラお嬢様を蔑ろにしておいて、逃げ出したら捕まえようとするなんてどういう了見だろう。


 レイラお嬢様、どうか、どうか逃げ延びてくださいませ。


 私はルウェイン教の教会で一人、祈りをささげた。ルウェイン教の信仰対象は神様ではなくルウェイン一族なのだが、お嬢様を守ってくださるなら神様でも魔術師でも何でもいい。


 もう二度と、お嬢様を蔑ろにする王国の人間たちの手によって、お嬢様が傷つけられませんように。


 誰よりもお嬢様と共に過ごしてきた私の願いは、ただその一つだけだった。

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