第16話(ジェシカ視点)
お嬢様がお逃げになった。
血の滲む思いで築き上げたすべてを捨てて。
私、ジェシカ・ブレアムは王国アルタイルの名門公爵家であるアシュベリー公爵家にお仕えするメイドだ。身分は平民なのだが、実家はそれなりに名の知れた裕福な商家ということもあり、父の伝手で名門公爵家にお仕えすることが叶った。
私に告げられた仕事内容は、主に公爵家のご長女、レイラ・アシュベリー様の身の回りのお世話をすることだった。
レイラお嬢様に初めてお会いしたとき、お嬢様は3歳、私はまだ18歳だった。公爵閣下似の亜麻色の瞳と髪がまだ幼いながらにも美しく、澄ましたお顔は聡明なご令嬢に成長する気配に満ちていたのをよく覚えている。お嬢様は一介のメイドに過ぎぬ私に、まるで天使のような可愛らしい笑みを向けられると、「よろしくね、ジェシカ」と可憐な声で仰った。
我儘なお嬢様にお仕えすることになったらどうしようかと考えていたが、その笑みを見てどうやら杞憂に終わったようだ、と思わず私もはにかんでしまった。
その日から、私はほとんど毎日をお嬢様と共に過ごすことになった。今思えば、幼いお嬢様と共に最も長い時間を過ごしたのは、一介のメイドに過ぎない私かもしれない。そして、それがどれだけ酷なことか一番分かっていないのはお嬢様である気がした。
旦那様と奥様は、レイラお嬢様にとても厳しい教育を施された。それは、聡明で美しいレイラお嬢様の将来を期待してのことなのだと、ある程度分別の付く年齢であった私には理解できたけれど、それにしたって幼いお嬢様に接する旦那様と奥様の態度は冷たすぎた。
旦那様と奥様が、本当はレイラお嬢様のことを愛しておられることは分かっている。奥様はレイラお嬢様のいない場所で、よくレイラお嬢様を称賛する言葉を口になさっていたし、旦那様はレイラお嬢様が一生懸命ダンスの練習をする姿を見て、よく口元を綻ばせて見守っておられたのも知っている。
でも、どうしてその姿をレイラお嬢様の前では一切見せないのかがわからない。王太子妃候補とまで噂されるお嬢様を、あまり甘やかしたくないとのお考えなのかもしれないが、だからと言って一度だって甘やかさないのは話が違ってくる。
たとえお嬢様が体調を崩されても、奥様がレイラお嬢様の前で気にすることと言えば、お嬢様のレッスンが滞らないかというあまりに事務的なことばかりだった。それを聞いたお嬢様が、熱に浮かされながらも「ごめんなさい、お母様」と繰り返しているお姿を見て、思わずこちらが涙を零してしまった。
だからこそ、私を始めとしたレイラお嬢様付きのメイドたちはお嬢様に甘かった。もちろん、旦那様や奥様の目があるので大っぴらに甘やかすことなんてできなかったけれど、お嬢様が体調を崩されたときにはお嬢様のお好きなお菓子をご用意したり、お嬢様の気分が少しでも晴れるようにと毎日違うお花を生けたりした。本当に些細なことしか出来なかったけれど、それでもお嬢様に私たちの気持ちは伝わっていたようで、お嬢様はいつも可憐な笑みで「ありがとう」と言ってくださるのだ。
私たち、レイラお嬢様付きのメイドから見た不満はもう一つあった。それは、旦那様と奥様が、レイラお嬢様の一つ年下のローゼお嬢様をそれはもう甘やかしておられることだ。過剰なまでにローゼお嬢様を甘やかす旦那様と奥様のそのお姿は、まるでレイラお嬢様を甘やかせなかった分を取り返すかのようにも見えた。
確かにローゼお嬢様は、奥様似の華やかなご容姿をされていて、その白金の髪も空色の瞳も、誰がどう見たって美しく、お人形のようであった。でも、お美しさならばレイラお嬢様だって負けてはいない。レイラお嬢様の亜麻色の髪も瞳も、清廉で品があって私は大好きだった。
「お嬢様の御髪は本当にお美しいですね」
腰まで伸びたレイラお嬢様の亜麻色の髪を梳きながら、鏡越しに話しかける。梳くまでもなく真っ直ぐな毛先は本当に品があって、癖っ毛のわたしからすれば羨ましいくらいだ。
「ありがとう、ジェシカ。でも……ローゼには敵わないわ」
ようやく9歳になろうかというその幼さで、お嬢様は既にご自分には魅力が無いものだと思われているようだった。無理もない。旦那様と奥様がローゼお嬢様を過剰に甘やかして可愛がる姿を見ていれば、そう思ってしまうのが自然だろう。
「そんなことありませんよ、レイラお嬢様。お嬢様は清楚で可憐で、本当にお可愛らしいです」
「ふふ、ありがとうジェシカ」
お嬢様は可憐な笑みを浮かべてそうおっしゃったが、やはり鏡越しにご自分を見つめるお嬢様の瞳は晴れなかった。
「……私も、ローゼのように白金の髪で、澄み渡る空色の瞳を持っていたら、お父様もお母様も私を愛してくださったかしら」
何の前触れもなく、ぽつりとお嬢様が呟かれたその言葉に、思わずお嬢様の髪を梳く手を止めてしまう。いつも気丈に振舞われるお嬢様が、弱音を吐かれるのはこれが初めてのことで、咄嗟に言葉が出て来ない。
「……なんて、ごめんなさいね。どうしようもないことを願ったって、仕方がないのにね」
「い、いえ……」
失敗した、と思った。このとき、私は身分差など考えず、ただお嬢様を大切に思う者の一人として「そんなことはありません」と言って抱きしめるべきだったのだ。これではまるで肯定したようになってしまうではないか。
「あ、あの、お嬢様……」
「ありがとう、ジェシカ、もう大丈夫よ」
お嬢様の髪を梳く手を止めたまま、どこか狼狽える様子の私を気遣うようにレイラお嬢様はにこりと微笑まれた。その文句のつけようのない完璧な笑みが妙に痛々しくて、私は再び言葉に詰まってしまったのだった。
その日の夕方、他のメイドたちから頼まれていた仕事を終え、私はレイラお嬢様を捜していた。どうやらまだおやつを召し上がっていないようなので、お勉強の合間にでも少し休憩していただかなくては、と思い書斎を訪ねてみた。
案の定、お嬢様は書斎で本やら羊皮紙やらを並べ、お勉強をなさっていたご様子だった。しかし、今はその手を止めている。レイラお嬢様の周りをうろちょろとするローゼお嬢様の姿があったからだ。
「お姉様ー、これはなんのご本?」
「それは王国アルタイルの地理について書かれているご本よ」
ローゼお嬢様がレイラお嬢様のお勉強を邪魔していることは明らかだったが、穏やかなご様子のお二人の間にわざわざ割り入っていくのも忍びない。私は少しの間、お二人のご様子を見守ることにした。
「ええー、つまらなそうだね。ローゼご本嫌いー」
「ふふ、でもお勉強してみると新しいことが学べて楽しいわよ。ローゼも何か面白いと思えるものにきっと出会えるわ」
僅か9歳にして、妹のことをここまで気遣えるものだろうか。レイラお嬢様は一人の小さなレディとしてだけではなく、ローゼお嬢様の姉としても完璧らしい。
「……どうせ、ローゼはお姉様みたいにお勉強楽しいって思えないもの……」
ふと、ローゼお嬢様の声が曇る。書斎の外からそっとお二人の姿を盗み見れば、ローゼお嬢様の空色の瞳が異様に潤んでいた。レイラお嬢様が明らかな動揺を見せている。無理もない。今の会話を聞いている限りでは、ローゼお嬢様が泣くような部分は無かったはずなのだから。
「……ローゼ?」
「お勉強が出来ないことをこんな風に責めるなんて……お姉様ひどいわ」
それだけを言ってのけるとローゼお嬢様は声を上げて泣き出してしまわれた。そのご様子を見て、レイラお嬢様はどこか呆気にとられたようにローゼお嬢様を見つめている。レイラお嬢様のその反応はもっともだ。私も驚いて、どうしてよいのか分からない。
「ローゼお嬢様!?」
そのままどうするべきか悩んでいたところ、たまたまそばを通りかかったらしいローゼお嬢様付きのメイドが慌てて書斎に飛び込んでいった。そして泣きじゃくるローゼお嬢様を抱きしめるようにして、ローゼお嬢様を庇う。
「一体どうなさったのですか、ローゼお嬢様」
「お姉様が……意地悪を言うの……」
「レイラお嬢様が……?」
メイドは明らかな嫌疑の目をレイラお嬢様に向けた。使用人の立場で無礼極まりない行動だと思うが、ローゼ付きのメイドたちはよくこういった行動を起こす。メイドも仕える主人に似てくるものなのだろうか。
「あの……私は……」
この場で無礼な使用人を叱責しても構わないというのに、お優しいレイラお嬢様は狼狽えるばかりでそれらしい弁明も口にしなかった。これを見過ごすわけにはいかない。思わず私も書斎に飛び込んで、レイラお嬢様を庇うようにメイドとローゼお嬢様を見下ろす。
「失礼ですが、レイラお嬢様は悪くないかと。私は一部始終を書斎の外から見ておりました」
「ジェシカ……」
私の登場に少しだけほっとしたご様子のレイラお嬢様を振り返って、私は小さく微笑みかける。
「レイラお嬢様、お茶のご用意が出来ておりますのでご休憩なさって――」
「一体何事ですか!」
不意に書斎の入口の方で響き渡った艶のある美しい声に、私たちは反射的に視線をそちらに向けた。そこには、騒ぎを聞いて駆け付けたらしい奥様の姿があった。
「お母様!」
ローゼお嬢様は泣きじゃくりながら、奥様のドレスにしがみ付く。その仕草は何とも庇護欲をそそるもので、この小さなお嬢様は既にご自分の魅力の使い方をよく理解しておられるのだと悟った。
「ローゼ、一体どうしたの?」
「レイラお姉様が、ローゼに意地悪を言うの……」
「……レイラ、どういうこと?」
奥様の鋭い眼差しが、レイラお嬢様に容赦なく突き刺さる。庇って差し上げたかったが、奥様の手前、メイドはお嬢様の傍で控えることしか出来ない。
「あの……お母様、申し訳ありません。ローゼに意地悪を言ったつもりは無かったのですが……」
「言い訳は結構。あなたはローゼの姉なのよ。どうしてもう少し優しくしてあげられないの?」
「……申し訳ありません、お母様」
レイラお嬢様は頭を下げて謝罪なさった。その瞳はどことなく虚ろで、既にお嬢様は身の潔白を明らかにすることを諦めておられるのだと察した。
「あなたは王太子妃候補とまで噂される令嬢なのよ。社交界に出て、実の妹を虐めているという噂でもたったら一大事です。もう少し、自覚を持ちなさい」
「……はい、お母様」
奥様のその言葉は期待を込めての言葉なのかもしれないが、まだ9歳のレイラお嬢様には酷すぎる。こうしている間にも、ローゼお嬢様は礼儀も何もなく奥様のドレスに纏わりつくようにして甘えているのに。レイラお嬢様があのように奥様に甘えることを許されたことなど、ただの一度だって無いのに。
ようやく奥様とローゼお嬢様が遠ざかっていくのを見て、レイラお嬢様はふっと私に微笑まれる。それはおよそ9歳の少女には相応しくない、諦めと失望の入り混じった切ない笑みだった。
「……せっかく用意してくれたお茶が冷めてしまったでしょうね」
レイラお嬢様はぽつりとそう呟くと、開いていた本やら羊皮紙やらを片付けて、小さく息をついた。
「レイラお嬢様……先ほどの一件は、レイラお嬢様は何も悪くありません」
「……だとしても、ローゼが傷ついたのなら悪いのは私の方だわ」
「お嬢様……」
実は、こんなことは初めてではなかった。レイラお嬢様はローゼお嬢様にそれは親切になさっているのに、ローゼお嬢様はわざとレイラお嬢様の前で泣いてみたり、レイラお嬢様にご自分の失敗を押し付けたりと、それこそ意地悪なことばかりなさる。
けれどもレイラお嬢様の方が年長な分、第三者から見ると分が悪いのか、あるいはローゼお嬢様ばかりを過剰に甘やかす奥様と旦那様のせいなのか知らないが、いつも悪く言われるのはレイラお嬢様の方だった。
たしかに、社交界に出れば理不尽な想いを噛みしめて頭を下げなければならない場面もあるだろう。将来、レイラお嬢様がそんな局面に立たされた時に、なるべく事を荒立てずにその場を切り抜けられるように、という願いが奥様にはあるのかもしれないが、それにしたって、これではあまりにレイラお嬢様がお可哀想だ。確実に、日々のこの理不尽はレイラお嬢様の心を蝕んでいる。
奥様も旦那様も、どうしてそのことに気づいてくださらないの。
一介のメイドに過ぎぬ私が分不相応に申し出れば、下手すれば私は暇を出されるかもしれない。何も職を失うことを恐れているわけではないのだが、ただでさえ数少ないレイラお嬢様の味方が減ってしまう。私がお嬢様の孤独に寄り添えているだとか、そんなおこがましいことを言うつもりはないが、それでもいないよりはマシだろう。一介のメイドに過ぎぬ私がそう思ってしまうくらいには、レイラお嬢様は寂しいお方だった。
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