第15話

「……シャルロッテの奴……やってくれたな」


 私のベッドで伏せたまま眠っていたリーンハルトさんが目覚めたのは、夕方になってからだった。それまでの私は。シャルロッテさんはリーンハルトさんにどれだけ強い魔術をかけたのかと心配していたのだが、無事に目覚めてくれてよかった。


「このまま目覚めなかったらどうしようかと思っておりました」


「……レイラの傍で眠り続けられるなら、それはむしろ本望なんだけどね」


 いつもはこんな言葉もさらりと流してしまえるのに、今日はリーンハルトさんの翳った瞳がやけに言葉を重くしていた。縋るような視線は、確かに大好きなリーンハルトさんの物であるはずなのに、どこか息苦しくてならない。その視線が私に向けられている物ならば、私がそれを受け止めればいいだけなのだけれど、彼はきっと私越しにあの姫君を見ている。私にはどうして差し上げることも出来ぬもどかしさに、息が詰まった。


「ふふ、リーンハルトさんにそう言って頂けるなんて……」


 いいえ、本当はそう言ってもらえる姫君が羨ましくてならないの。


 いつの間に、私はこんなにリーンハルトさんに夢中になっていたのだろう。既に過去の人である姫君に、こんなにも嫉妬するなんて情けない。


「……私も、リーンハルトさんの傍でいつまでも眠っていたいです」


「それはそれで夢みたいだけど……でも、笑った顔のレイラが見られないのは寂しいからやっぱり駄目だ」


 リーンハルトさんの手が、私の頬に伸ばされる。温かく、大きな手だった。普段は無闇に私に触れて来ないだけに、リーンハルトさんのこんな行動は珍しい。もっとも、今日は朝から珍しいリーンハルトさんばかり見ているのだけれども。

 

 紫紺の瞳は、確かに私を映し出していた。縋るような熱のこもった瞳も、左目の下にある黒子も、全部全部愛おしい。それなのに、彼が見ているのは私に似た姫君かもしれないなんて。


「……リーンハルトさんは、私の笑った顔がお好きですか?」


「うん、好きだよ。レイラの表情なら何でも好きだけど、一番はやっぱり笑顔かな」


「ふふ、照れてしまいます」


「照れた顔も好きだよ」


「口説くのがお上手なのですね」


「好きと言えるうちに言っておかないと」


「過去に後悔されたことがおありなのですか?」

 

 間を置かず続いていた会話が、はたと途切れる。リーンハルトさんは僅かに私から視線を逸らすと、普段の穏やかな調子に似合わぬ自嘲気味な笑みを浮かべた。


「うん……それは、もう」


 それも、あのお姫様に向けての想いなのかしら。


 疑念が募ってばかりで、本当のことを何一つ訊くこともできない私には、それを責める権利もない。ただ、この居心地の良い関係を崩したくなくて、いつか向き合わねばならない真実から逃れ続けている。


「……私には、真似できそうにありません」


 最近になってようやく好きな食べ物や花について話せるようになったのに、人に対する「好き」なんていつになったら言えるのだろう。本当は私はこんなにも、リーンハルトさんやシャルロッテさんのことが好きなのに。


「レイラは恥ずかしがり屋さんだからね」


「そ、そんなことありません!」


「照れてるレイラも可愛い」


「もうっ……リーンハルトさん!」


「どうしたの? レイラ」


 甘い笑みでゆっくり私の頬を撫でるリーンハルトさんに、結局何も言えなくなってしまう。その代わりに、私は私の頬を撫でるリーンハルトさんの手の甲に自分の掌を重ねた。その温かさに、そっと目を瞑って酔いしれる。


 人の手の温かさを知ったのも、思えばこの幻の王都に来てからだ。


 公爵家では、いつだって絹の手袋越しにしか感じられなかったもの。


 リーンハルトさんの手は、温かくて大きくて、少しだけかさついていて、何より優しくて好きだ。ずっとこの手を取っていられたらどんなにいいか分からない。


 しばらく目を瞑ってその温もりに集中していたそのとき、不意に、リーンハルトさんの手の甲に重ねる私の手に温かく柔らかいものが触れた。驚いて目を見開けば、間近にリーンハルトさんの顔がある。


「っリーンハルトさん!?」


「……これなら、挨拶の範囲内だよね?」


「そ、それは、そうですけれど……」


 手の甲に触れたあの感触はリーンハルトさんの唇だったのか。舞踏会などで手袋越しに殿下にされたことはあったけれど、あんな儀礼的なものとはまるで意味が違う。またしても顔が一気に熱くなっていくのが分かった。きっと間抜けなくらい赤い顔をしているだろう。


「こ、このように距離が近いと恥ずかしいです」


「これでも我慢したほうなんだけどなあ……」


 でも、シャルロッテに見られたら怒られるかも、と呑気に笑うリーンハルトさんの隣で、私は鼓動を落ち着かせるのに必死だった。いつもいつも、私は惑わされてばかりだ。


 この調子では、いつか心臓がびっくりして死んでしまいそうだわ!


 徐々にいつも通りの笑顔を取り戻しつつあるリーンハルトさんの姿には安心するけれども、あまりに余裕がありすぎてどこか憎たらしくも感じる。日に日に彼に振り回される回数が増えているような気がしてならない。


「どうしたんだい、レイラ? もう一回してほしい?」


「あ、あれは一日一回までです!」


「わあ、許可を貰えるとは思わなかったな。これからは毎日しよう」


 駄目だ。今の私では何を言ってもリーンハルトさんに上手いこと誘導されてしまう。何とか対抗したいという気持ちもあるのだが、満足そうに、それでいて慈しむように私を見つめるリーンハルトさんを見るとその気持ちも薄らいでしまう。


 今は、いいわ。このままで。


 姫君のことは気にかかるが、焦る必要もない。期限があるわけでもないのだから、と私は何とか自分の心を落ち着かせた。

 



 この瞬間にも、王国アルタイルで私を巡る仄暗い企みが展開されていることなど、このときの私は知る由もなかった。

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