第12話
翌朝。
結局あれこれと考えてしまってよく眠れなかった私は、目の下の隈をどうやって隠そうかと悩んでいた。公爵家にいるときであれば、薄く白粉をはたき紅を引くことでかなりマシな顔色に変えることが出来たのだが、生憎化粧道具は持ってきていない。この街に来てからも、必要な場面が無かったので手元には無かった。
お湯で顔を洗えば、朝食の間くらいは気づかれずに済むかもしれないと思い、少しだけ熱めのお湯で顔を洗う。リーンハルトさんに心配をおかけするのだけは嫌だった。例え彼が、私越しにあの姫君を見ているのだとしても。
うん、これで少しはマシかしらね。
鏡の中に映った私は、ぱっと見る限りでは何ら違和感のない顔色をしていた。これならきっと大丈夫だろう。公爵家にいたときも、勉強やレッスンの復習で夜更かしすることなんてざらにあったのだし、そこまで気にするほどのことではない。
菫色のワンピースに着替え、朝食の準備のためにキッチンへ下りて行った。準備と言っても、昨夜シャルロッテさんが用意してくれたものを温めなおすだけなのだが、昨夜遅くまでお出かけをされていたリーンハルトさんにやって頂くのも申し訳ない。
キッチンにはやはりリーンハルトさんはおらず、私はスープの鍋に火をつけて、保存していたパンを取り出した。このお屋敷のキッチンは、もともと魔法でのみ火をつけられるような仕様になっていたのだが、魔法が使えない私のためにリーンハルトさんがマッチでも火をつけられるように変えてくれたのだ。そのおかげで、私はシャルロッテさんにお料理を教えてもらうことが出来るようになった。
こうして考えると、私の日常に染みついたリーンハルトさんの親切が浮き彫りになって、今の心境ではどこか苦々しく思った。考えても仕方のないことだ、と分かっているのに、頭の中にこびりついて離れてくれない。
もうすぐ、きっとリーンハルトさんもいらっしゃる。それまでに、いつも通りに笑えるようにしておかなくちゃ。
スープが焦げ付かないようにくるくるとかき混ぜ、湯気が立ち始めたのを見計らってスープ皿に盛り付ける。今日はクリームソースが使われているスープのようだ。シャルロッテさんのお料理はいつでも美味しいから、きっとこれも絶品だろう。
「おはよう、レイラ。準備してくれてたのか……。ありがとう」
殆ど支度が出来た頃、リーンハルトさんが姿を現した。朝のリーンハルトさんは昼間よりも少し気が抜けていて、どこか可愛らしさを感じてしまう。あれだけ悶々と悩んでいたのに、その柔らかい笑みを見るだけで心が躍った。
「おはようございます、リーンハルトさん。私の方が先に起きたというだけなのですから、お気になさらず」
私はトレーの上にスープ皿を並べながら、いつも通りの笑みを浮かべた。作り笑いのようになってしまうのではないかと懸念していたが、リーンハルトさんの前では無用の心配だったようだ。
「外套も掛けてくれていたみたいで、助かるよ。すっかり忘れていた」
リーンハルトさんは手際よくポットに水を入れ、魔法で火にかけながら礼を述べた。
私は、不意に外套のことを話題に出され、思わず手元が狂いそうになったが何とか耐えられた。何とか笑みを崩すことなく、バターとジャムの瓶と戸棚から取り出す。
「皺にならなくて良かったです。ご友人の皆さまとは、お楽しみになられましたか?」
「うん、楽しかったよ。結婚が決まった奴はそれはもう喜んでて……少し、羨ましかった」
まるで独り言のような調子でつぶやいたリーンハルトさんを思わず振り返ってしまう。ルウェインの呪いを知っているからこそ、リーンハルトさんの想いは複雑なものだろうと思って顔色を窺ったのだが、彼は違った意味に捉えたらしい。
「あ……その、返事を急かしているとか、そういう訳ではないんだ。ごめん、レイラ」
少しだけ耳の端を赤くして、リーンハルトさんは弁明する。その返しは予想していなかっただけに、こちらまで何だか戸惑ってしまった。
昨夜までの私ならば、ここで返事をしてしまっていただろうか。私はあなたと共に生きてゆきたいのです、と。今だってその気持ちに変わりはないのだけれど、どうしても脳裏にちらつくのは、あのロケットに仕舞い込まれた私と瓜二つの姫君のことだった。
「ふふ、全く不快ではありませんわ。むしろ……」
その瞬間、不意に強烈な眩暈に襲われて、思わずテーブルに手をついた。咄嗟に手をついたのでスープ皿から少量のスープが零れ指先にかかったが、その熱さを気にする余裕もないほどの眩暈だった。
「……レイラ!?」
リーンハルトさんが慌ててこちらに駆け寄ってくる気配があったが、彼の手に抱き上げられる前に私は床に倒れ込んでいた。体を支えられず、横顔から床に打ち付けたので唇を噛んでしまう。ぐるぐると揺れる世界の中で、私はぼんやりと昔を思い出していた。
以前、調子が悪くてお茶会で倒れたときには、お母様に酷く叱られたっけ。私は完璧でなくてはならないのだと、嫌になるほど言い聞かされて、一人で泣いた夜を思い出した。その間にも、ローゼはお父様とお母様と一緒に本を読みながら談笑していて……。
「レイラ!!」
慌てたようなリーンハルトさんの腕に抱き上げられた感触で、少しずつ視界が元に戻っていく。紫紺の瞳を見開いて、今にも泣き出しそうな顔をしているリーンハルトさんと目が合った。
「レイラ、ああ、レイラ……。すぐに、治してあげるから、だから、死なないでくれ、レイラ……」
私の肩口に顔を埋めるようにして苦しいほどに私の体を抱きしめながら、リーンハルトさんは祈るように告げた。たかだか寝不足で倒れただけなのに、死ぬだなんて大袈裟だ。
「リーンハルトさん……私は、大丈夫ですから……」
「動いちゃ駄目だ、レイラ。お願いだ、いなくならないでくれ。僕を置いて行かないでくれ……」
ついにリーンハルトさんの目に涙が浮かんだときには、思わずぎょっとしてしまった。綺麗な紫紺の瞳が潤んでいる姿に何も言えなくなってしまう。
「お願いだ、レイラ……」
再び私に縋りつくように抱きしめると、声もなく泣き続けた。私は何も言えぬまま、リーンハルトさんの背中に手を伸ばし、彼の背中を摩ることしか出来なかった。
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