第10話
「まあ! なんて美しいのかしら……」
私は、数えきれないほどの種類が豊富な刺繍糸を目の前にして、思わず感嘆の声を上げる。商品を挟んで店員の方がくすりと笑ったのを見て、何だか少し恥ずかしくなってしまった。
ある晴れ渡った日の午後、いつかの約束通り、私とリーンハルトさんは王国アルタイルの王都に訪れていた。遂に、あの転移魔法とやらを体験してここまでやってきたのだ。もっとも、目を瞑ってリーンハルトさんと手を繋いだだけで、再び目を開けたときには王都についていたので狐につままれたような気分になっただけなのだけれど。
今日のリーンハルトさんは魔術師団の外套ではなく、出会ったときと同じカジュアルな黒いコートを羽織っていた。いつもと違う姿のリーンハルトさんもそれは魅力的で、何だか私は真正面から顔を見られないままだ。
一方の私は、お気に入りの菫色のワンピースとそれに合わせた帽子を身に纏い、リーンハルトさんの魔法で髪の色を黒に、目の色を紫紺に変えてもらっていた。一時的ではあるものの、慣れ親しんだリーンハルトさんやシャルロッテさんと同じ色を持つことが出来て嬉しい。
「レイラは本当に刺繍が好きなんだね」
すぐ隣で、リーンハルトさんが空色の糸の束を摘まみ上げながら笑う。綺麗な色だ。空をモチーフにすることはあまり無いけれど、青色の花を表すときに取り入れてみてもいいかもしれない。
「ええ、それはもう。ところで、リーンハルトさんがお持ちになっているその糸、とても素敵な色ですわ。是非、このかごに入れてくださいませ」
シャルロッテさんから刺繍作品の売り上げをいただいているので、この機会に糸を一斉に仕入れておこうと思い、大量に買う旨を店員の方にお話ししたところ、麦で編んだ小さなかごを貸してくださったのだ。糸の単価はそれほど高いものではないが、限られたお金で買い物をするというまだ慣れない経験の中で、懸命に頭を働かせる。
「レイラは何にでも一生懸命で可愛いね」
リーンハルトさんはそう言うと、思わず赤面してしまう私の手からかごをそっと取り上げる。
「これは僕が持っているから、レイラは好きに選ぶといいよ」
リーンハルトさんは早速、空色の糸をかごの中に入れながら微笑んだ。私の動揺に気づいていないはずがないのに、もしや私の反応を見て楽しんでいるのではないかと勘繰ってしまう。
……私ばかりが赤面していて、なんだか不公平だわ!
シャルロッテさんからルウェイン一族の呪いの話を聞き、私がリーンハルトさんの「運命の人」なのかもしれないと示唆されてからというもの、私は更にリーンハルトさんに夢中になっていた。リーンハルトさんには、まだ私が呪いの話をシャルロッテさんから聞いたことは言っていないけれど、もしルウェインの呪いに触れる話になったら私はどんな顔をすればよいのだろう。本当に、私がリーンハルトさんの唯一の存在であれば、どんなに良いかと内心で身悶えてしまう。
今は平静を保たなけれぼ、と気を取り直して刺繍糸の山を見つめる。そんな中でから、偶然にもリーンハルトさんやシャルロッテさんの瞳を思わせる紫紺の刺繍糸を見つけた。私はそれを手に取り、小さく微笑む。初めて自分で稼いだお金で、リーンハルトさんやシャルロッテさんに何か贈り物が出来ないだろうかと考えていたところだ。この糸を使って何か作れるかもしれない。そんなことを考えて、紫紺の刺繍糸を二束ほどかごの中に入れた。
それから何と小一時間ほど、私は刺繍糸の購入に没頭してしまった。リーンハルトさんにも店員さんにも悪いことをしてしまった気がする。
「気にしなくていいよ。出会ったばかりのころに比べたら目覚ましい成長だ」
「……どうか、あのことは忘れてくださりませんか」
リーンハルトさんに付き添われて、幻の王都で初めて買い物をしたときは酷かった。王太子妃教育の一環で、この国の経済についてはばっちり学んでいたので買い物など造作ないと考えていたのだが、物の価値というものをよく理解していなかったのだ。いや、正しくは、公爵家で仕入れるような品物の価値しか知らなかったので、街の人たちとの感覚にかなりの差があったと言うべきかもしれない。世間知らずを露呈したようで、本当に恥ずかしかった。
「どんなレイラも可愛らしくて、忘れたくないよ」
「こ、こんな往来でそんなことを言うなんて、意地悪ですわ! ……私、どんな顔をすればよいのか分からなくなってしまいます」
恐らく赤く染まっているであろう頬を隠すように、私は軽く俯いた。リーンハルトさんと一緒にいると、心臓が落ち着かなくてしょうがない。
「ごめんごめん、もう言わないから顔を見せてよ」
「そ、そういうところですわ!」
リーンハルトさんは少しも悪びれることなく、またしてもあの優しい笑みで私を見ていた。もう、この方には敵わないわ、と私は幸せな溜息をつく。
「レイラ、こっち」
不意にリーンハルトさんに肩を抱かれ、彼の方へ引き寄せられたかと思うと、先ほどまで私がいた場所を子どもたちが無邪気に駆け抜けていった。王都は常に賑やかなものだが、今日は特に人通りが多い気がする。
「ありがとうございます。少しぼんやりしておりました」
「子どもは行動が読めないから仕方がないよ。怪我が無くてよかった」
「しかし、今日はやけに人が多いですわ。何か催し物でもあったのでしょうか?」
「どうだろう。同僚からはそんなような話は聞いていないけどな」
よく見れば、街行く人々の服装も女性がコサージュをつけていたりと、少しだけめかし込まれているような気もする。お祭りでもあるのならば覗いてみたいものだけれど、一体何事なのだろう。
そんな中で、ある店の前に人だかりができているのを見つけた。あれは確か、質の良い読み物を売ることで評判の書店だ。殿下とルウェイン教の修道院を見物しに行った帰りに、覗いてみたことがある。
思いがけず殿下との思い出が蘇ってしまったが、不思議ともう胸は痛まなかった。私の中で、既に淡い初恋は過去のものになっていることに自分でも驚いてしまう。むしろ、殿下を妹に奪われ、私など何の価値もないとうじうじ悩んでいた一か月間の方が強く思い出されて、自分の弱さを恥じる気持ちの方が勝っていた。
どんなにつらい思いも、過ぎ去れば案外笑い話に出来るものなのね。
それも、私に本当の笑顔をくれたリーンハルトさんがいてくれたからこそなのだろうけれど。
「リーンハルトさん、あの書店の方へ行ってみてもいいですか?」
「人が多いから、僕から離れないようにね」
「ええ、ありがとうございます」
快諾してくれたリーンハルトさんと共に書店の前へと足を進める。人だかりができているので書店の入り口にも辿り着かないが、それでもすぐに人が集まっている訳は分かってしまった。
書店の前には、立派な姿絵が立てかけられていた。毅然とした面持ちの銀髪の青年が、真っ白なドレスを身に纏った白金の髪の美少女の手を引いて立っている絵だ。
その絵画の意味するところを、私は瞬時に理解してしまう。思えば、お母様が言っていた時期も今頃だった。
「……ローゼ」
そう、それは殿下とローゼの結婚式の姿を描いた絵画だった。二人とももともと美しい人たちなので、美化するために余計な筆を加えることもせず、特徴がよく出ているからすぐにわかった。
この様子だと、結婚式が行われたのは昨日や一昨日といったところだろうか。たった一人の王太子に、神に祝福されたかのような美しさを持つ公爵令嬢が嫁いだのだから、皆お祭り騒ぎになるわけだ。
「……ごめん、レイラ。早く離れよう」
リーンハルトさんは悲痛そうな表情で私を見つめていた。私がその顔をするならばともかくとしても、リーンハルトさんがそんな苦しそうな顔をしなくてもいいのに。何だか可笑しくて、くすりと笑ってしまった。
「お気遣いなく、私は大丈夫ですから」
「でも……」
リーンハルトさんは私が無理をしているとでも思っているのだろうか。本気で心配してくれているのが伝わってくるだけに、場にそぐわぬ喜びを感じてしまった。本当に、リーンハルトさんは過保護な人だ。
「強がりでも何でもなく……今はローゼと殿下が結ばれて、二人とも幸せにならばこれで良かったと思えるのです。それに、ローゼはもうすぐ殿下の御子を産むのですよ。王国アルタイルの一国民として、何だかとても楽しみです」
生まれた御子が王子でも王女でも、殿下とローゼを両親に持つのだからそれは可愛いだろう。公爵家を出た後悔が一つだけあるとするならば、私にとっては姪か甥であるその子に直接会えなかったことくらいだろうか。
「レイラは……本当に強い人だ」
「そんなことありませんわ。半ば自棄になって家出を試みたくらいですし。……でも、今思えば公爵家を出るという決断は、私の人生で最良の選択だったのかもしれません。こうして、リーンハルトさんに、お会いできたのですから」
そう言ってしまってから、はた、と私は一体何を言っているのだろうと思った。私の言葉とは思えないほど、大胆な台詞だ。一気に顔がかあっと熱くなる。
聞きようによっては、まるで、愛の告白のような言葉だわ……。
恋って恐ろしい。私は熱くなる頬を隠すように、両手で顔を覆った。リーンハルトさんの顔がまともに見られない。
「……っ、レイラの方がよっぽどずるいじゃないか。そんな不意打ちは反則だよ」
いつも平穏なリーンハルトさんが取り乱している声を聴くのは初めてで、思わず顔を上げると同時にふわりとリーンハルトさんに抱きしめられた。抱き上げられたことは何度もあるが、抱きしめられたのは初めてで、緊張と喜びで今にも心臓が破裂しそうだ。
「おいおい、こっちでも美男美女夫婦が誕生しそうだぜ」
「昼間からお熱いなー、お二人さん!」
書店の前に集まっていた人々の声に、ここが人混みの中だということにはっと気づく。抱きしめられて喜んでいる場合じゃない。恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだった。
「っごめん、あんまり嬉しくて、つい……」
リーンハルトさんはパッと私から手を離すと、私から視線を逸らしてしまう。よく見ると、リーンハルトさんの形の良い耳の端が赤くなっていて、彼も私と同じようなときめきを覚えたのかしら、と思うとたまらなくなった。頬に帯びた熱はいつまで経っても引いてくれない。
恋って怖いわ、本当に。
本日何度目か分からない戸惑いを覚えながら、私はだらしなくにやけてしまいそうになる頬を何とか引き締める。
私、こんなに幸せでいいのかしら。
「と、とりあえずここから移動しようか。何か甘いものでも食べよう」
「……リーンハルトさん、甘いものお好きではないではありませんか」
「い、いいんだ。レイラが美味しそうに食べていればそれで」
「……もう、リーンハルトさんったら」
お互いに戸惑いを残したまま、人混みの中から脱出する。
二人の手は、自然と繋がれていた。
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