第6話

 店の奥でシャルロッテさんが用意してくれた昼食を摂り、グレーテさんの遊び相手を務めていると、見慣れた人影が顔を覗かせた。


「リーンハルトおにいしゃま!」


 いち早く気付いたのはグレーテさんの方で、彼女の視線を辿れば魔術師団の外套を纏ったリーンハルトさんの姿があった。私は椅子から立ち上がって軽く礼をする。


「グレーテ、レイラお姉様に遊んでもらっていたのか」


「そうなの! レイラおねえしゃまとね、あのね――」


 今日遊んだ内容について嬉しそうに話し出すグレーテさんを、リーンハルトさんは優し気な笑みで見守っていた。リーンハルトさんも子供が好きなのかもしれない。


「そうか、良かったね、グレーテ」


「うん! 楽しかった! おにいしゃまもあそぼ!」


「残念だけどお兄様はレイラお姉様を遊びに誘いに来たんだ」


「……私を、ですか?」


 僅かに驚いてリーンハルトさんを見つめてしまう。彼はふっと微笑むと、頷いて私に向かい合った。


「今日の仕事が終わったから、レイラさえよければどこかへ出掛けるのはどうかなって思って」


 それは嬉しいお誘いだ。しかし、グレーテさんを放っておくわけにもいかない。


「レイラ、グレーテのことは気にせず行ってきて頂戴。兄さんも必死なのよ」


「シャルロッテ」


「ふふふ、何よ、事実でしょう?」


 シャルロッテさんはグレーテさんを抱き上げると、私に軽くウインクをする。


「今日はお客さんも少ないし、問題ないわ。楽しんできて」


「……では、お言葉に甘えさせていただきますね」


 私は小さな鞄の中に小物類を手早くまとめると、掛けておいた帽子を手に取ってシャルロッテさんとグレーテさんに向かい合った。


「それでは、ごきげんよう。シャルロッテさん、グレーテさん」


「ええ、行ってらっしゃい。兄さん、頑張るのよ!」


 リーンハルトさんはシャルロッテさんの声が聞こえない振りでもするかのように、私に手を差し出した。そんな何気ない仕草一つでさえも本当に優雅で、思わず見惚れてしまう。


「では、行こうか。レイラ」


「はい、よろしくお願いいたします」


 





 お店から屋敷の方向とは反対側に歩くこと20分。


 目の前には延々と広がる花畑があった。雲一つない青空と色彩豊かな花の海は、まるで一枚の絵画のように美しい。


「中に入ってもいいんだよ。おいで、レイラ」


 リーンハルトさんは花畑の中に足を一歩踏み入れると、紺色の外套をなびかせて足に手を差し出した。私はその手を取ろうとして、少し思い悩んでしまう。


「……お花を踏んでしまわないでしょうか」


「ああ、ここの花は強いから大丈夫だよ。魔法で咲かせているんだ」


「魔法で……道理で季節の違う花も咲いているわけですね」


 ざっと見ただけなので詳しくは分からないが、チューリップや牡丹、アネモネ、向日葵、薔薇など実に多様な種類の花がある。遠くの木に咲いているのは椿だろうか。

 

「レイラは心優しいね。どうしても気になるなら、こうすればいい」


 リーンハルトさんは一度花畑の中から出てくると、「少し失礼するね」と断ってひょいと私を抱き上げた。あまりにも簡単に抱き上げるものだから、何が起こっているのか分からなかった。


「あ、あの、リーンハルトさん」


「こうすれば、花を踏んでしまう罪は僕だけのものだ」


 リーンハルトさんは私を横抱きにすると、ふっと微笑んだ。何だか距離が近くて頬が熱くなってしまう。


「だ、大丈夫です。歩けますから」


「レイラはこの状態は嫌?」


「い、嫌というわけではありませんけれど……」


「じゃあ、僕はこうしていたいな。このままでもいい?」


「……はい」


 リーンハルトさんはそのままさくさくと花畑の中を歩き出した。ゆっくりと、一歩一歩を噛みしめるような速度で。


 心臓が、高鳴って仕方がない。絵画のような景色の中で、今まで伝説上の存在だと思っていた魔術師に抱きかかえられているなんて。どんな御伽噺よりも胸が高鳴る。こんな気持ちは初めてだった。


「……リーンハルトさんは良くここへ来られるのですか?」


 一か月共に過ごしていても、リーンハルトさんのことは知らないことの方が多い。


 だからこそ知りたい、と思うこの気持ちは何かしら。


「そうだなあ、昔はよく来たけれど、最近はあまり足を運んでいなかったよ。この街の人間は皆、見飽きるほどこの景色を見ているからね」


「羨ましいですわ……こんなにも美しい場所が街の中にあるなんて」


 お城や舞踏会も確かに華やかで美しかったけれど、この花畑には敵わない。思えば私は、こういった自然の景色に昔から焦がれていた気がする。自分の意思で自由に見に行けるような立場に無かったので、その分余計に憧れていた。


「この辺りが、一番綺麗かな。花もまばらだし、芝生に座ってみるかい?」


 リーンハルトさんは芝生が見えている部分を見つけてくれたようだ。私に気遣ってくれたのだろう。


「ええ、ありがとうございます」


 リーンハルトさんはまるで壊れ物を扱うかのようにそっと私を芝生の上に降ろした。ふわふわとしていてとても心地が良い。芝生の上に座るのは、これが生まれて初めてのことだった。幼い頃でさえ、公爵家のお庭の芝生に座り込もうとしたら、お母様に酷く叱られたものだ。


「ふふふ、楽しいですわ。芝生ってあったかくてふわふわしていて、とっても素敵」


 リーンハルトさんも私のすぐ隣に腰を下ろすと、はしゃぐ私を見て優しい笑みを見せた。またその表情だ、ずるい。胸の奥がきゅうっとなる。


「レイラは何でも楽しそうにするから、見ているこちらまで幸せな気分になるよ」


 何でもないことを言ったつもりなのだろうが、随分大袈裟な表現だ。思わず頬を赤らめながら、私は傍に咲いていた八重咲のアネモネの花を愛でた。


「私が物事を知らなすぎるだけですわ……。本当に、ここに来ていかに私の世界が狭かったかを思い知りましたもの」


 ローゼに殿下の婚約者の座を奪われ、彼女のお腹に殿下の御子がいると知ったときには本当に死にたいと思ったものだが、今は不思議とあの絶望も薄まってきている。あのとき、自棄にならなくて良かった。自死を選ぶつもりはなかったが、あのまま公爵家の駒として息苦しい貴族社会に身を置いていたら、こんな素晴らしい景色は見られなかった。私は今、本当に幸せだ。


「そんなことない。レイラは何でも知っているじゃないか」


「大袈裟ですわ、リーンハルトさん。私が知っているのは、本で得られる知識ばかり……。こんなに美しい空の色も、芝生の温かさも、私は何も知らなかったんですもの」


 ふと、リーンハルトさんの傍に大輪の白百合が咲いていることに気づく。私は軽く身を乗り出して、リーンハルトさんを見上げた。


「リーンハルトさん、白百合が咲いていますよ。お好きなのでしょう?」


 目覚めて早々のプロポーズも白百合の花束であったし、屋敷の調度品に細工されているモチーフも白百合が多かった。きっとリーンハルトさんは白百合がお好きなのだろう、と勝手に思い込んでいたのだ。


「僕が……というよりは……」


 珍しくリーンハルトさんは言葉を濁す。不意に醸し出される寂し気な雰囲気に、胸がちくりと痛んだ。聞いてはいけないことを訊いてしまっただろうか。


「……レイラは、白百合は好きかい?」


 質問を質問で返されるような形になってしまったが、私はすぐに笑みを取り繕う。場が気まずくなるよりは、ここで質問に答えた方がいい。


「そうですわね……好き、の部類に入ります。一番は、アネモネの花ですけれど」


 再び傍にあった八重咲の紫色のアネモネの花に触れる。小さくて可愛らしくて、その割に華やかなその姿は昔から好きだった。逆に、薔薇のような見るからに艶やかな花は苦手だ。ローゼを思い起こすからかもしれない。


「そうか、レイラはアネモネが好きなんだね」


 どこか嬉しそうにリーンハルトさんは復唱する。花の好みを教えただけだというのに、何だか胸の奥がむず痒いような不思議な気持ちになった。


「ここは本当に素晴らしいですわ。いろいろなお花が咲いていますし、刺繍のモチーフに出来ますから。ああ、紙とペンを持ってくればよかったわ……」


 今度からこの小さな鞄に羊皮紙と羽ペンのセットくらいは入れておこう。絵だけではなく、何かと文字を書く機会もあるかもしれない。


「摘んで帰るのは嫌かい?」


「そんなことはありませんわ。無闇に傷つけるのは好みませんけれど、目的があればいいと思います。でも、この気温ではきっとお屋敷に戻る前に萎れてしまうでしょうから……」


「そういうことなら気兼ねしなくていいよ。僕が魔法をかけて、花を萎れないようにしてあげるから」


 さらりと言ってのけるリーンハルトさんを、私はまじまじと見つめてしまう。この人はどこまでも私に親切だ。油断をすると際限なく寄りかかってしまいそうで、時折自分が怖くなる。


「よろしいのですか?」


「うん、好きなだけ摘むといいよ」


 甘やかされていると感じるが、同時に胸が躍るのもまた事実だった。これだけの類の花があるのだ。どれもモチーフにするのに面白そうなものばかりであるし、迷ってしまう。


「ありがとうございます、リーンハルトさん」


 満面の笑みでお礼を述べると、リーンハルトさんはやっぱり優し気な笑みを浮かべて私を慈しむように見るのだった。その眼差しにとても深い愛情を感じて、心の中が温かいもので一杯になる。


 それと同時に、頬に熱が帯びるのもまた事実だった。私は赤く染まっているであろう頬を隠すように花畑へ目を向けると、花の海の中からモチーフとなる花を探し始めた。

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