第5話
一人で朝食を食べ終えた後、私は昨夜完成させた刺繍のハンカチ二枚と、いくつか編み上げたレースのコースターの中から見栄えのいいものを選んで、小さな斜め掛けの鞄に詰め込み、帽子を被って屋敷を出発した。
公爵家にいたころは、ちょっとした外出でも馬車を使ったものだが、この街にはそもそも馬車が無いので歩くしかない。いや、住民たちには魔法という便利な移動手段があるのだが、魔力を持たない私に残された移動手段は徒歩だけだった。
馬に蹴られたトラウマがあるので、馬車が無いのは幸いだ。それに、屋敷とシャルロッテさんが経営する魔法具店は片道15分程度なのでそう遠くもない。筋力の落ちた体のリハビリにはちょうど良かった。
今日は雲一つなく晴れ渡っているせいか、日差しも強い。帽子を被ってきて良かったと思いながら、私は街の中へ足を踏み入れる。
この街に来た直後は、衣類はシャルロッテさんの物をお借りしていたのだが、それから間もなくしてリーンハルトさんが私のために一通り買い揃えてくれた。公爵家にいたときのような豪華なドレスではないが、質がよく動きやすい菫色のワンピースを仕立ててもらって、今ではすっかりお気に入りだ。靴も、踵の高いものではなく柔らかい革靴を作ってもらい、人はこんなにも楽に歩くことが出来るのかと感動してしまったほどだ。
無駄な飾り気のない、穏やかな日々。本当に、毎日が楽しくて仕方がない。王太子妃教育を受けていた頃よりもずっと、私は生き生きとしていた。
街の中心部に位置する紺色の外壁の店のドアを開け、こじんまりとした店内を見渡す。今日も壁が見えなくなるほどに積み上げられた摩訶不思議な魔法具たちが私を出迎えてくれた。
この店にはもう何度も来ているが、この非現実感がたまらなく好きだ。明るすぎない橙色の照明のもと、奇抜な色の飾り紐に水晶のようなものが括りつけられた飾りが天井からぶら下がっている。左右で目の色の違う人形の横にはまるで本物の鴉のような模型が寄りかかっており、いつもどこかおどろおどろしく感じてしまう。そうかと思えばごく普通のガラス器具のようなものが積み重なっている場所もあり、魔法に詳しくない私には、とても使用用途の検討がつかないものばかり売られている。
「レイラ! おはよう、今日は暑かったでしょう」
ドアのベルの音を聞いて店の奥から出てきたらしいシャルロッテさんが、幼い娘さんを抱えて出てきた。この子がまた可愛いのだ。
「ええ、でも帽子を被ってきたので問題ありませんでした」
「それは良かったわ。今お茶を淹れるわね」
「お気遣いなく」
シャルロッテさんは「レイラお姉様にご挨拶していらっしゃい」と娘さんに告げそっと床に降ろす。まだ短い黒色の髪を二つに結んだ姿は、悶絶するほど可愛らしい。
「おはようございます、グレーテさん」
「レイラおねえしゃま!」
シャルロッテさんの一人娘、グレーテ・ベスターさんは、それはもう可愛い。シャルロッテさん譲りの黒髪と紫紺の目に、シャルロッテさんの旦那様に似ているという形の整った小さなお鼻。子どもらしくぷくぷくとしたほっぺは一日中触っていたいほど心地よい。もともと子供は好きなのだが、今まではなかなか接する機会が無かったので嬉しいことこの上なかった。
「ふふ、グレーテさんは今日もいい子にしていて偉いですね」
「おねえしゃま、あそぼ!」
「ええ、何をして遊びましょうか」
このお店に来た時は、殆どグレーテさんの相手をして過ごすことが多い。昼食時を過ぎると、魔法具店を訪れるお客様が多くなり、シャルロッテさんもお忙しくなるのだ。そこで、私がいつもグレーテさんのお相手をして差し上げるのが習慣になっていた。
シャルロッテさんはいつも申し訳なさそうにしているけれど、私にとってはご褒美以外の何物でもない。それに、シャルロッテさんには食事の世話をしてもらっているのだ。私に出来ることがあれば何でもしたかった。
「んー、だっこ!」
グレーテさんはぷくぷくとした両手を伸ばして抱っこを所望するけれど、こればかりは私はまだできなかった。2年間眠っていたせいで、腕の筋肉がまだ元通りに治っていないのだ。ただでさえ、重いものなど持ったことが無い令嬢生活を送っていたので、万が一グレーテさんを落としてしまったらと思うと身が竦む。
「駄目よ、グレーテ。レイラお姉様を困らせないの」
シャルロッテさんは軽く窘めるようにそう言い聞かせると、右手をすっとグレーテさんの方にかざした。
途端にグレーテさんの体はふわふわと浮き上がる。ゆっくりと持ち上げられ、立ち上がった私の顔と同じ高さまで上がってきた。グレーテさんはきゃっきゃと声を上げてはしゃいでいるが、一か月たってもまだ見慣れぬ光景に思わず苦笑いを零す。シャルロッテさんを信じていないわけではないが、どうしても今にも落ちるのではないかとひやひやしてしまうのだ。
「お茶を淹れたわ、今日はミントティーよ」
「まあ、ありがとうございます。私、ミントティー、とても好きなんです」
あの爽やかな口当たりが大変好みなのだ。公爵令嬢として参加していたかつての御茶会ではあまり出されなかっただけに残念に思っていたけれど、ここでは自分の好きなときに好きなものを飲めるから素敵だ。
グレーテさんを横目で気にしながらも、私は店の奥に設置されたテーブルに着く。ふわりと紅茶の良い香りが漂ってきた。
ふと、シャルロッテさんの視線を感じて彼女の方へ向き直ると、シャルロッテさんは私を慈しむような笑みを見せた。流石は兄妹とでもいうべきか、その笑顔はリーンハルトさんによく似ている。
「レイラ、ここに来たときより生き生きしてるわ。前は自分の好きなものなんて、聞かれても適当にはぐらかすだけだったのに」
「……そうでしたか?」
自分ではあまり意識していなかった。公爵家で私に求められていたものは個性ではなく、完璧な令嬢の姿だったからか、あまり自分を出すということに慣れていなかったのだ。
「ええ、今の方がずっといいわ」
「ふふ、シャルロッテさんやグレーテさんのお陰ですね」
「そこは兄さんも入れてあげてほしいわ」
くすくすと笑い合いながら、年の近い女性とお茶をするのもここに来るまで経験が無かった。お茶の時間がこんなにも楽しいものだったなんて。シャルロッテさんは私より年上だろうが、今ではすっかり友人のような間柄になっている。私の人生で友人と呼べる存在が出来たのは初めてのことだった。
「今日はどんな作品を持ってきてくれたの?」
「相変わらず、あまり量は多くないのですが……」
私は小ぶりの鞄から、刺繍を施した二枚のハンカチと、レースのコースターを取り出しシャルロッテさんに手渡した。
「まあ! 本当にレイラの仕事は丁寧ね。こんなお店に置くのが申し訳ないくらいよ」
「そんな……置いていただけるだけでとても嬉しいです」
「近頃本当に人気なのよ。最近は男性も女性へのプレゼントに、って買っていく人も増えたの。売り上げもそろそろまとまった金額になりそうだから、今度用意しておくわね」
「居候の身で、そこまでしていただくわけには……」
「いいの、これはレイラが頑張って作ったものでしょう? それに、お嬢様だったレイラにとってはこれが初めて自分で稼ぐお金なんだから、ちゃんと受け取って頂戴」
確かに、自分の手でお金を稼ぐという行為は初めてだ。シャルロッテさんにそう言われると、何だかどきどきしてくる。自分の力で生きているというにはほど遠いけれど、そのきっかけを切り拓いているような気がしてわくわくした。
「ありがとうございます、シャルロッテさん」
「当たり前のことをしているだけだわ、気にしないで」
私と違って、はきはきと話をするシャルロッテさんとは何だか過ごしやすい。私は今日も彼女のその優しさに甘えてしまうのだった。
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