最終話



    4



「それで反射的にうなずいた、と」


「仕方ないじゃない。わたしもその時はよく考えられない状況だったんだから」


 わたしは、その日連藤さんと別れた後、電話で菜依にどんなことがあったのか話をした。どういう経緯で誘われたのかまでは話したけれど、共通点である短冊のことまでは話さなかったのが少し後ろめたさが残る。


 そして今日、菜依の提案で作戦会議を行うため、近所の公園まで来ていた。すでに太陽は西に傾き、遊具も木々も、わたしたちの影も恐ろしいほどに伸びていた。少し暑さの残る夕焼けに、ぬるい風がベンチに座るわたしたちの間をゆったりと流れた。


 菜依は何を悩んでいるのか、先ほどから口許に指をつけて考える仕草をしている。


 わたしは彼女を横目に、空にまばらに浮かぶ黄金色の雲をなんとなしに眺めていた。


 少しすると菜依が口を開いた。


「これは絶好のチャンスではある」


「チャンス?」


「そう。連藤さんには悪いけど、その子と会えても当時と同じ気持ちであるとは思えない。高い確率で結ばれることはない」


「それはそうかもしれないけど……」


 菜依は真実を知らない。その考え方はまっとうだった。


「てなれば、おのずとイサキにチャンスが巡ってくる。連藤さん、まだ夢は見れてないんだったよね?」


「うん。そうみたい」


 夢、というのは大七夕祭りの伝説のことだ。


 本祭に連藤さんと行くことになり、わたしたちは連絡先を交換した。几帳面にも連藤さんはわたしにメールを送ってきてくれていて、他愛のない内容の中には伝説のこともあった。


 連藤さんが夢を見れていない、ということは、伝説が結局伝説であるか、願いが叶わないことを意味している。そうなれば、傷心した連藤さんを癒してあげることで距離が一気に近くなる、というのが菜依の考えだ。しかしわたしにはそこまでのことをする勇気はない。それに、わたしだけが知っている共通点があれば、それは野暮だ。今、わたしが菜依と一緒にいるのは、少しでも落ち着ける状況にいたかったからだ。菜依の顔を見ているだけでほっとできるのは、わたしたちが互いに気心の知れた仲だからに違いなかった。


「じゃ、あとは連藤さんが今日の夜に夢を見ないことに賭けるだけか」


 菜依はひとりで得心がいったようにうなずいた。


「そしたら頑張るんだよ。イサキって本番に弱いから心配」


「わたしそんなに本番に弱そうなの?」


「弱いでしょ。小学生の頃にやった劇のセリフ、本番で一瞬飛んでたんじゃん」


 うう、とわたしは小さく息を吐いた。余計なことをよく覚えているものだ。しかし菜依の言っていることは実際にそうで、そういったきらいがあることを自覚している。たしか高校入試の面接でも極度の緊張で思考が停止してしまうという苦い経験があった。


 きっと大丈夫。わたしが言うと、言葉の中に何か含みがあることを察したのか、菜依は訝しげに眉根を寄せた。


「うーん。なんか今日のイサキって捉え所がないような気がする」


 わたしは驚いて小さく肩を揺らした。気がつかれたと思ったが、菜依は表情を変えずこちらを見ていた。


「いつものわたしって捉え所あるの?」


「さあ」


 彼女は興味なさそうに答えた。とにかく、と一音一音切って言った菜依は、


「明日はイサキの勝負の日だよ。携帯ずっと手に持ってるから、いい結果なら教え

てよ」


 悪い結果なら察してくれる、菜依の心遣いがその言葉から垣間見えた。


「わかった」


 わたしが小さくうなずくと、作戦会議はそこでお開きとなった。


 いよいよ明日。わたしはきっと連藤さんに気持ちを伝えることになる。


 顔を上げると視界に入った夕陽が、わたしの心と重なったような気がした。



    5



 大七夕祭り、本祭の当日。わたしの携帯にメールが届いているのに気がついたのは朝起きてすぐのことだった。


 開いて確認してみると、差出人の名前が表示されるところに、連藤さん、とあった。急いで内容を確認してみると、そこには、見れた! とだけ書かれていた。何が見れたのかと思い、わたしはまどろむ意識の中、必死で思考を巡らせ、ようやくそれが大七夕祭りの伝説のことであることに気がついた。


 急いで返信すると、すぐに連藤さんからの返事が届いた。せっかくだから外で話したい、という連藤さんの提案にわたしは了解して、身支度を手早く済ませると自宅を後にした。



 彌漆神社の大きな鳥居がわたしたちの待ち合わせ場所になっていた。走ると汗が出てその後に支障が出そうだったので、わたしは早足でそこまで向かった。それでもうっすらと汗をかいてしまったけれど、鳥居にはまだ連藤さんの姿はなく、わたしは持っていたハンドタオルで軽く汗を拭った。


 ほどなくすると、連藤さんの姿がみえた。彼女はこちらに気がつくと、小走りに向ってきた。


 わたしは今一度心を落ち着かせるために深呼吸をした。


「ごめん、遅くなっちゃった」


「いえ、わたしも今来たところなので」


 そう言うと、連藤さんは微笑みをこちらに向けた。


「それならよかった。田井中さんに話したいこと色々あるけど、とりあえず座れる場所に行きましょ」


「そうですね」


 わたしはうなずいて連藤さんの隣を歩いた。


 まだ正午前ということもあってか、参拝客はまばらにしかいない。本祭でもメインとなる時間は夜となる。暗くなれば人口密度も高くなってまともに歩くこともできなくなることは簡単に予想がついた。


「まだあまり人いないね」


 連藤さんもわたしと同じことを考えているようだった。


「屋台もそんなに並ばなくてもよさそうね。前はわたあめとたこ焼き食べたから……、今回はイカ焼きでも食べようか?」


「なんだか食べてばっかですね」


 わたしは小さく笑って言った。隣では連藤さんが若干顔を赤くしている。


「今日は長丁場になりそうだから。ごめんね、こんなこと付き合わせて」


「いえ。連藤さんのためなら力になります」


「ありがとう」


 長丁場になる。その理由は今朝の連藤さんからのメールからわかる。


 大七夕祭りの伝説は、連藤さんが短冊の願い事の夢を見たために、本物にするための準備はできている。そして、その伝説を事実に変える答えをわたしは持っている。長丁場にならないようにすることもできるが、もしかしたら、連藤さんに短冊を渡したのはわたしではない可能性がある。それを今夜、本祭が終わる頃までに確かめておく必要があった。


 わたしたちは屋台で食料を調達すると、大七夕祭りの初日のように広場に設けられているベンチに座った。がさがさと買ったものを探っている連藤さんを横目に、わたしは本題に触れた。


「それで、メールの内容についてなんですけど……」


 連藤さんは焼きそばが入った折蓋のプラスチック容器を二つ両手に持ち、顔だけこちらに向けた。その一方をわたしに渡すと、神妙な面持ちで、うん、とうなずいた。


「時間が経っちゃってそれほど鮮明に覚えてるわけじゃないんだけどね。たしかに夢は見た」


 連藤さんは容器を膝の上に乗せると、奥深くに沈んだ記憶を思い出すように遠くの一点を見つめている。わたしも連藤さんに倣って容器を膝に乗せ彼女の顔を注視した。


「ここに来てて、松明が点いてたと思うから時間は夜だと思う。私からそのひとに声をかけてうなずかれて、そこで夢から覚めちゃったんだけど……」


「なにか特徴とかわかりませんか? そのひとの」


 特徴、特徴、と繰り返し呟きながら連藤は頭をひねっているようだ。少しすると小さな唸り声とともに、連藤は口を開く。


「鮮明に覚えてないんだけど、なんというかこう、華奢な感じ?」


「きゃしゃ、ですか?」


「うん。美少年、っていう感じが一番ピンとくるかな」


「他には? 服装とか、髪型とか」


「んー、ごめん。覚えてないんだよ」


「そうですか……」


 夢というのはそういうものだ。寝ている間に数回見ているという。その中でも、記憶に残るのは起きる直前の数分間だけで、時間が経つにつれ不鮮明になってしまう。最終的に覚えていられるのは全体の一割というのに驚いてしまう。もちろん訓練をしている人であればもっと多くの夢を記憶することができるそうだけれど、わたしたちにはそれこそ夢のような話だ。


 そのため連藤さんが夢を覚えていないのも仕方のないことで、わたしが咎められることでもない。わずかにある情報は相手が華奢であること。それだけだと当てはまる人物は巨万といる。探すには骨が折れる。


 わたしは良い案がないかと考えつつ、容器の蓋を開けた。歪な形に割れてしまった割り箸に焼きそばを絡め、口の中へ誘い込む。ソースの香りが口いっぱいに広がった。



 時間は留まることを知らず、いつの間にか境内は西日に照らされていた。松明にも火が点り、パチパチと弾ける音を立てている。参拝客は時間が経つにつれ増していき、今では初日の夜とあまり変わりないほどの人で埋め尽くされていた。


 昼食を食べたその後、わたしたちは良い案がないかと頭を悩ませていたが、結局何も出ず、ただ境内を隅々まで歩き回っていた。時折、連藤さんに何か思い出したことはないかと質問していたけれど、彼女の記憶は逆に段々薄れていき、本当に彌漆神社での出来事だったのだろうか、と怪しげな答えが返ってくるだけだった。


 歩き疲れたわたしたちは、境内の隅のあまり人が来ない摂社の脇で小休止している。ここなら参拝客の邪魔にはならないし、なったとしてもすぐにお暇することができる。雑多な声が気にならないのも都合がいい。


 隣で長く息を吐いた連藤さんは、歩き疲れてしまったのか、音もなくしゃがみ込んでしまった。


「なかなか会えませんね」


「うーん。まあ、会えると決まってるわけでもないし、やっぱり伝説は伝説なのかな……」


 諦めを含んだその声は、俯いているせいではっきりとわたしの耳には届かなかった。


 連藤さんの綺麗な黒髪が肩からするりと落ちた。まるで生きているかのようで、わたしは少しの間、彼女の髪から目を離せないでいた。


「本当にごめんね、こんなことに付き合わせて」


 連藤さんの声にわたしは咄嗟に頭を振った。


「そんなことないです。わたしこそ力になれなくて」


 ふふ、と彼女は力なく笑った。


「田井中さんさ、祭りの初日に会った時も敬語だったよね」


「え?」


「あの時理由聞いたんだけど、途中になちゃってたの覚えてる?」


 訊かれてわたしは脳内で連藤さんと会った日のことを思い出した。今の今まで忘れていたけれど、たしかにその時、わたしは言葉を濁して他のことに意識を誘導した。その後連藤さんが追及してこないことをいいことに、敬語問題をうやむやに終わらせていたのだ。


「田井中さんにとって、わたしがどうたら、ってところまで聞いた記憶があるんだけど、そのあとなにを言うつもりだったの?」


 ひどくド直球な質問に、わたしは生唾を飲んだ。ドッドッ、っと心臓の脈打つ音が自分の耳に聞こえてくる。


 それは、と出た声がぎこちなく震えた。うっとうしく乾いた唇を口の中で舐める。連藤さんの真っ直ぐな瞳が、わたしをこの場から逃がすまいと威圧しているようだった。


 本心と短冊のことを言うのは今しかない。頭ではそう思っているのに、心がそれに追いついてこない感覚がわたしを逡巡させる。異様な沈黙がわたしを蔑むように、目の前に落ちた。


「田井中さん?」


「え、あ、はい!」


 沈黙を破った連藤さんの声に、わたしはあわてて顔を上げた。連藤さんと視線が合う。咄嗟に合わせた両手をぎゅっと握りしめると、嫌な汗が噴き出すように感じた。


「もしかして、なんだけど、田井中さんって私のこと――」


 ああ、ダメだ。無意識のわたしがそう言ったのと同時に、踵が一歩、二歩と後退る。砂利を踏む音が、三歩目でねじ潰されたような大きな音を立てる。


 わたしの身体は連藤さんとは逆方向に動き出した。


「田井中さん!」


 連藤さんの声がわたしを制止させようとする。止まりかける足を無理に動かすと、視界の端に何かの影が映り込んだ。


「危ない!」


 連藤さんの声と同時に、わたしの身体に衝撃が走り、さっきまで見ていた背景が一瞬で違うものに置き換えられた。松明の赤に照らされた、杉の葉の裏面が見える。その木々が闇に吸い込まれてしまうかのように、同じ方向に伸びて、一瞬視界がぐらりと歪んだ。誰かはわからないけれど、人とぶつかたのはわかった。


 ずれる意識の中でこのまま倒れ込むのかと不安に襲われていると、わたしは腰のあたりに何かの感触を覚えた。視線の先には変わらず闇に飲み込まれそうな杉の木だけが映される。その状態でわたしは静止しているようだった。


「大丈夫?」


 目の前から声が聞こえる。わたしは目だけを声のする方へと向けた。見下ろすかたちで、心配そうな連藤さんの顔がそこにはあった。


 気がつくと、わたしの右手は連藤さんの左手と繋がっていた。反られた身体は彼女の右腕だけで支えられている。ちょうど社交ダンスの一連の動きのような状態で止まっていた。


 ぼわっと辺りが明るくなるような感じがする。胸の鼓動と一緒に連藤さんの顔が近くなって、彼女の薄い唇から漏れる息が目視できそうだなと漠然と思った。ごくん、と自分の喉が鳴る。恥ずかしさで耳が熱くなっていた。


「あれ」連藤さんの口から声が漏れる。


 何かを考える視線がわたしを捉え続けた。


「思い出した。私、夢の中でこうしてそのひとを支えた……」


 そのひと、とは連藤さんに短冊を渡した人のことを指しているのだろう。

 連藤さんの瞳が見開かれた。


「まさか、昔私に短冊をくれたのって――田井中さん?」


    ★


 やっぱりそうだったんだ。


 連藤さんは、わたしを夢の中で見ていた。夢は断片的なもので、すぐに忘れてしまうけど、何かの衝撃で思い出されることもある。デジャヴと近い感覚だ。そして、記憶というものは一つが思い出されると芋づる式にほぼ全てが鮮明になる。連藤さんがひとつだけ覚えていた特徴の華奢は、自分で言うのもなんだけどわたしに当てはまる。


 大七夕祭りの伝説、本祭の一週間前に書いた願い事と同じ内容の夢を見ることができると、その夢が絶対に叶う、を連藤さんは見事に実現させたのだ。


 連藤さんはわたしの上体を起こしてくれる。わたしの右手と連藤さんの左手が名残惜しそうにゆっくりと離れていった。


 彼女は自分の左手の甲を大事そうにもう片方の手で包むように握ると、口を開いた。


「そうなんだね」


 わたしは小さくうなずいて答えた。持ってきた鞄に入っている日記帳の間から白い短冊を取り出し、連藤さんに見せる。彼女は恭しくそれを手に取ると、懐かしそうな表情を浮かべて短冊の字を細く白い指先でなぞった。


「田井中さんは気がついてた? 私のこと」


「なんとなくそうなんじゃないかっていうのはありました。けど、断定できる証拠がなくて、今まで黙っていました」


 ううん、と連藤さんが首を振る。艶やかな黒髪が動きに合わせて左右に揺れた。


「もし逆の立場なら私もそうする。怖いもん。違ったら」


 眦を下げたその表情は、悲しそうだとわたしは思った。自然と視線が下を向いてしまう。


 今、連藤さんが何を考えているのか、彼女の心に問い質したい。わたしの心はもう後戻りできないところまできてしまっていた。


「わたし、連藤さんと同じ気持ちでした。過去にとらわれているのは愚かなことかもしれませんけど、やっぱり折り合いをつけないと気持ちが悪いです。だから、今年の七夕さんで見切りをつけようと思って短冊に願い事を書きました。わたしは夢を見られませんでしたけど、代わりに連藤さんが見てくれていて。正直、とっても嬉しかったんです。

 ――連藤さん。わたし、中学生の頃からあなたが好きでした。短冊の件をふまえてでも、同姓の友人というしきりでもないです。心の底からわたし、連藤さんが好きでした」


 言ってしまった。けれど後悔はない。ぐっと目を瞑ると、松明の弾ける音とその奥に参拝客の喧騒が聞こえる。顔中の熱は冷め、自分でも驚くくらいに冷静になっていた。


「そんな気はしていたよ」


 さも当たり前のように出た声は、オルゴールのように静かで品があり、連藤さんはそれを以前から予想していたようだった。彼女は、眦を下げて柔らかな笑みを浮かべた。


「だって、田井中さん、私の前だとぎこちないんだもん」


 ふふ、と連藤さんは口許に手を当て小さく笑った。わたしは恥ずかしくなって視線を逸らす。そんなに露骨だったかしら、心の中でそう呟いた。


「でもね、不思議と嫌じゃなかったよ。なんでだろうね」


 連藤さんはそう言って、こちらに歩み寄ってきた。おもむろにわたしの手を取ると、胸元でぎゅっと握りしめてくる。わたしは突然のことに目を白黒させた。


「まださ、私にはよくわからないことだけど、田井中さんの気持ち、私なりにしっかり理解したいと思ってる」


「ほ、本当ですか?」


「うん。だから教えて。私は何をしたらいいかな?」


 わたしは目が熱くなるのを感じた。次第に視界が歪み、涙が零れ落ちる。心に立ち込めた靄が、日中から残るなまぬるい風に払われた気がした。


 わたしと連藤さんの関係はこれから始まる。決して近くない心の距離はこれから埋めていかなくてはいけない。今よりももっと自分の気持ちを声にしなくては伝わらない。けれど、それがわたしが望んだ未来なのだから、自分の精一杯を連藤さんに伝えたいと思う。


 わたしは涙があふれる両目を細めると、できる限り聞き取りやすい声を紡ぐ。


「一緒にいてください。七夕が終わった後もずっと……」


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