16.日向咲


 神隠し、という言葉がある。

 ある日突然、子供が消えてしまうという民間伝承だ。


 世界各地に似たような伝承があるそうだが、日本のそれも海外のそれも共通している事柄が幾つかある。


 神隠しにあった子供は、その間にあったことを覚えていない。


 そして当時はどれだけ探しても、消えた場所の周辺にはいなかったのに、見つかったときにはその周辺にいる。


 まるで見えない門を潜ってどこか別の世界に行き、また同じ門から帰って来たかのように……。


 その夏、私は神隠しから帰って来た。

 神社で一人、暮れなずむ夕陽を見ていた。

 

 足元から、じっとりとした夏の夕方の気配が膨らんでいる。ぼうっとした頭のまま、周囲を見回す。なぜ、自分がここにいるのか分からない。


 つい先ほどまで、自分が何をしていたのかも思い出せない。何かとても、大事なことがあった筈なのに。忘れちゃいけない、大切な人がいた筈なのに。


 それが、思い出せない。明け方に見た夢のように、掴んでは像が離れていく。


 だけど時間が経つにつれ、もつれていた印象や思考が落ち着いてくる。今居る場所は、家から徒歩で五分程度の距離にある神社だ。制服を着ている。学校帰りだ。


 頭でも打ったんだろうか。それなら、病院に……。

 病院? お母さんのことを思い出した私は、思わず病院の方角に顔を向けた。


 通学鞄は足元にあった。そこに携帯電話もある。時間を確認しようとしたが、電池が切れていた。境内で時計を探し当てるも、夕飯の支度のことを考えると、面会している余裕は無いことが分かる。仕方なく、家に戻ることにした。


 でも、どうして私はあそこにいたんだろう。幼い頃から毎年、初詣に来ている神社だった。今年もお父さんと訪れて、お母さんの健康を二人で祈った。


 家に辿り着き、扉を開ける。

 玄関を見ると靴があった。珍しく、お父さんが早く帰宅しているようだ。


「あれ~? お父さん、今日は随分と早いね。どうした……」


 キッチンに繋がったリビングに顔を出す。似合わないエプロン姿のお父さんが台所に立ち、私を驚いた顔で見つめていた。


「どうしたの? というかエプロン? 今日、何か作ってくれるの?」

「え、咲……なのか?」


「あ、うん。どうしたの、お父さん?」


 父親の頬に、音もなくしたたっていくものがあった。

 お父さんが泣く姿を見たのは、その時が初めてだった。


 それから私は……私が一年の間、行方不明だったことを知らされた。

 私が消えて暫くして、お母さんが、亡くなったことも。


 学校への復帰は、少し大変だった。皆、私を死んだものとして扱っていて、おまけに書類上では留年している。


 何よりも大変だったのが、警察と一緒に我が家に遣って来た、口外できない部署の国の人たちとの話だ。


 高校生で、私と同じように行方不明になっていた人間が、少なく見積もっても四十人以上、ある日一度に戻って来たのだという。


 期間は一年や二年、三年や四年とバラバラではあったが、彼らや彼女らは等しく、その間にあった記憶を失くしている。皆、私と同じように何でもない顔をして帰って来て、家族を驚かせたのだという。


 私はその日、決してそのことや自分の身に遭ったことを口外しないという厳重な誓約書に、サインをした。


 そして夏休みに入ったある日、判明している神隠しから戻って来た高校生が都内の会場に集められ、一堂に会した。


 会場にいたのは見覚えの無い人たちばかりで、グループに分かれて自己紹介をしたり、何か思い出すことがないかと、廃墟に似た学校などの映像を見せられた。

 

 結局、何も分からなかった。私たちはまた厳重な誓約書にサインをさせられ、昼食を挟んで午後二時には解散となった。


 私は地方都市に住んでいて、都内に訪れることは殆どない。掛かった交通費や宿泊費などの費用は、国が負担するとのことだった。


 どうしようかと迷いながらも、時間もあったので、その集まりで出来た同性の友達数人と、買い物やお茶に出かけることにした。


 皆、留年で困っていたり親の反応に苦慮したりと、妙に話も合う。夏休みとあって、都内には沢山の人がいた。


 人口が減少していると言いながら、都会にはこんなにも人がひしめき合っているのかと驚く。皆は慣れているのか、人を避けて上手く進む。その背中が遠くなり、雑踏に紛れる。見知らぬ町で私ははぐれてしまう。人にもぶつかってしまいそうで……。


「おっと」

「あっ、ご、ごめんなさい!」


 恥ずかしいことに、私はスクランブル交差点の中程で人とぶつかってしまった。


 急いで顔を向けると、優しそうな青年がいた。隣に怖いくらいに綺麗な、髪の長い女性を連れている。


 頭を下げて、もう一度私は謝った。


「あの、本当にごめんなさい。私、不注意で」

「いや、僕の方こそ前を見てなくて……ごめんね」


 恐る恐る顔を上げると、その人は微笑んでいた。優しそうな人という印象は、間違ってなかったみたいだ。よかったと、安堵の息を吐く。


「その、本当にすみません。私、友達とはぐれてて、行かなくちゃ」

「あ、うん。気をつけてね」


 そのまま二人の横を通り過ぎる。と……。


「あっ、その、君っ!」


 先ほどの青年に呼び止められ、思わず振り返る。


「これ? 君のじゃない?」


 そう言って、彼が何かを差し出す。

 それを認めて目を見開く。カチューシャ、だった。


 嘘……。でも、そんな筈はない。そもそも落とす訳が無い。中学生の頃にお母さんから貰った大切なそれを、私は神隠しに遭っている間に、失くしたのだ。


 差し出され、おずおずと手に取る。だけど、間違いなかった。大好きなお母さんから貰った自分の名前が、内側に書いてある。


『こんな所にまで自分の名前を書いて。もう、えみったら子供みたい』

『えへへ、いいでしょ? だってお母さんから貰ったこの名前、とっても気に入ってるんだもん』


 そのお母さんの今際の際に、私は立てなかった。お母さんは病床で、自分の方が大変なのに、消えてしまった私のことをずっと案じていたそうだ。


 私はそれを、とても悔いている。


 渡されたカチューシャを思わず抱きしめた。失くしてしまった大切なものが、返ってくるなんて。それをお母さんとの絆のように思って、私は……。


「エミさんって、いうんですか?」

「え? あ……はい、そうです」


 尋ねられ、驚く。すると彼は柔らかく口元を綻ばせた。


「すいません。見てしまって」

「い、いえ。でも、よく読めましたね。皆、サキって読むんですけど」


 するとその人は、まるで失くしてしまった大切なものを見るように――私がカチューシャを見るような目をして、微笑んだ。


「とても、良い名前ですね。花が咲くように笑っていて欲しい。そんな意味なのかな。だけど……」


 瞬間、世界は緩慢に時を刻んだ。雑踏が、遠のく。


「辛いときは、泣いてもいいんですよ。僕も、辛いときは沢山泣きます。嬉しいときも、泣きます」


 あ……と思ったときには、それはもう起きていた。


 彼の瞳から一条の線が走る。だけどそれは幻かと疑うように、一瞬のことだった。それを拭うと、彼はまた微笑んだ。


「ごめんなさい、引き止めてしまって。それじゃ」


 そう言うと彼は、淡い微笑の印象だけを残し、目の前から去っていった。後には雑踏に再び包まれた私だけが、残される。


 遠ざかっていく背中に、私は……。


「あっくん、ありがとう」


 そう口にした後、私は自分の呟きの意味を見失う。あれ、今……私は何て言ったんだ。分からない。とても大切な、誰かの名前を口にした気がするのに。


「あっ、いたいた! もう、咲ちゃん。はぐれちゃだめだよ。都会は危ない人が多いんだから」


 そんな私を、出来たばかりの友達が見つける。

 彼女たちに振り向くと、心配するように驚いていた。


「咲ちゃん、大丈夫? どうして泣いてるの?」

「え?」


 手で頬に触れる。濡れていた。

 どうして泣いているのだろう。分からない。だけど……。


 私は涙を拭うこともしないまま、大切な人を探すように、彼が去っていった方向に目をやり続けた。


 手にはカチューシャが。大切な人との絆を繋ぎ続けたそれが、陽光を浴びて光っていた。


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