其ノ漆――蛙始鳴(かわずはじめてなく)
大桑紡は飛び退った。座りこんで頭を横にふり、両手をあげる。危害を加えるつもりはないというジェスチャーも野川藍の目にはうつらない。いや、見えてはいるが理解できていない。電話が鳴り続けている。
娘の恐慌に立ちあがった野川大の背中でインターホンが鳴る。蔓棘に犯されて涎塗れの口許をハンカチで拭った。同時に電話の呼び出し音が絶えた。彼には、外の気配に宛てがある。
「藍ちゃん? お客さん来てるの? ねえ凄い声したけど大丈夫……?」
三和土に靴を揃える音がして、家主があけはなした襖から顔を出す。中里紅緒が小さなブーケを携えて上がり框に立っている。
「小父さん、藍ちゃんは」
「中里さん、先ほどはどうも」
「これどうしたんですか、廊下水浸しじゃないですか」
藍の幼馴染らしく遠慮がない。野川は、いま拭きますから動かないでくださいと言って部屋のなかを振り返る。大桑弼とヴィルジリオがお互い罰が悪そうに目を見交わした。
藍は、職先相手にからだを向けている父親の背中を見た。呼びかけようと顎をあげて、まだ話し声が続いていたのでやめた。半身を起こした状態から、のそのそと座りなおす。
じっとそれを見守っていた紡もまた、ひらきかけた口を閉じた。
その頭の後ろから、よく通る声がとどく。
「野川藍さんですね? 御気分はいかがですか」
藍は、黒紋付羽織袴の人間の正体を正確に見分けた。その隣りの柔和なかおをした金髪碧眼の人物には見覚えがない。紅緒は襖の向こうは見えないが、客商売の家に生まれた者らしく、玄関の雪駄と見たことのあるスニーカーですでに声の持ち主の見当がついている。だから家主の制止も聞かず爪先立ちで歩いてくる。
藍は固い表情のまま無言で紋付の男を見あげた。
「貴女は紡と話しているあいだに倒れられたんですよ」
黒衣の男はするすると歩み寄り腰をおろす。客人の応対をしたのは覚えている。
「おそらく神経調節性失神でしょう。睡眠不足や強いストレスによって引き起こされることがあります。念の為、あとで心電図をとってもらうことをおすすめします。命にかかわるものではないのですが、急に倒れるので頭を打ったりすると危険です。たまたま紡がいてよかった」
男の声には、すっと懐に入ってくる妙なちからがあった。藍はみなに自分が見守られていることに気づいた。紡は無言のまま息を凝らしてようすをうかがっている。同じくそれは敷居に立つ父親、そして幼馴染も同様だ。藍が問う前に、こたえが返る。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。大桑弼と言います。こちらはヴィルジリオさん、牡丹さんのイタリアでのお連れ合いでした」
大桑のさししめした相手に、藍の両眼がおおきくみひらかれた。
「ちょっと待ってください」
声をあげたのは野川大だ。その話しは娘の前では。黙っていても仕方ありませんでしょう。大桑さん、どうして。ヴィルジリオさん、貴方だってはるばる日本まで来て、なにも得るものがなくてどうするんですか――三人の早口の応酬のあいだも紡はじっと、息をひそめて藍を見る。視線に耐えきれず、小声で問う。
「あの、すみません、ありがとうございます。助けてもらったみたいで」
「べつに」
紡は短くこたえて首をふってから、ふと思い出したようにつけたした。
「スマホ鳴ってましたよ」
え、と藍はポケットに手をつっこんだ。着信アリ。メッセージアプリの通知ではない時点で相手は限られている。宮入紫苑だ。
端末を確かめたのを見て、若者は立ちあがる。大股で、なのに足音も立てず離れていく。野川の前で一瞬立ち止まり無言で深々と頭をさげた。
その隣りの紅緒には目礼をした。
彼女は鷹揚に微笑んでいる。藍は父親に視線をうつす。不機嫌をあらわに、くちをへの字にまげたままだ。娘と目が合ってもなんの言葉も出てこない。そのまま視線をずらし、皺のよったまぶたをかすかに震わせて部屋のなかを見た。
なにしろこの家に、こんなに人間がいるのはひさしぶりだった。
藍もまた、つられるようにぐるりと部屋を見わたした。まだ祖父母がいたころ、この部屋はこんなだったはずだ。親子とも、同じ顔でそう感じているようだった。
紅緒はそういう父と娘のようすをちらと一瞥し、花束を家主の胸に押しつけた。空手で大桑の横をすり抜けて藍の目の前にやってくる。
「藍ちゃん、だいじょうぶ? また寝る前に飲んでたんでしょう」
「そんなたくさん飲んでないよ」
藍がおっかなびっくり立ちあがりながら言い返す。紅緒はちゃんとまっすぐに立った藍の全身を見てから、その手を掴んだ。藍ちゃんにお花だけでも今日中にっておもって、来てよかったよ、びっくりしたよ、ホントやめてよね、飲みすぎだよ、詰る言葉がぽんぽんと飛び出すのに、紅緒の手は藍のそれを強く握りしめて離さない。藍も、ごめんね、でもいちおう休肝日はあるから、本当にごめんと言いながら手を握り返す。距離がちかい。こども時代のように。大桑はそれを見守っていたが視線を感じて振り返る。野川が腕組みをして睨んでいた。
大桑は正座をといてゆっくりと腰をあげた。
「では、今日のところは我々はこれで失礼して、また改めて」
藍が大桑の袖をつかむ。
「ちょっと待ってください。母はいま何処でどうしてるんですか」
大桑は、ヴィルジリオへと目を向けた。つられるように藍もそちらを見た。ヴィルジリオは野川の視線に突き刺された。
「……僕にもわからなくて、とつぜん出て行かれたので」
藍には言い淀んでうつむいたと見えた。野川は〈ちかい〉へ目を向けて探しているのだと思っただろう。ヴィルジリオが何をおもって項垂れたのかわからない。なんであれ地上へあがる気はない。少なくとも、この家では。誰のうちがわにも入らない。ただそっと覗くだけだ。
「僕は日本に来たら僕が置いていかれた理由が何かわかるかもしれないと思ったのですが、けっきょくそれはわかりませんでした。ただ、」
ヴィルジリオは顔をあげて、その瞳に藍をうつした。
「牡丹さんに家族がいたのだとわかりました。僕は知らなかった。話してくれなかったから」
「じゃあ、どうしてここに」
藍の問いかけにヴィルジリオが金色の睫毛を伏せ、ほんの少し顎をあげた。
「東京に住んでいたと言っていました。二つの川の落ち合う染織の街だと。手がかりはそれでじゅうぶんでした」
神田川と妙正寺川の落ち合う場所として落合と名づけられ、染織の街として知られるのはここしかない。
「ときどき桜を見たいとつぶやいていた。僕はそういうとき本に夢中になっているふりをしていました。一緒に日本に行こうと言えなかった。いまはそれを後悔していますし、彼女に申し訳ないことをしたと謝りたい」
「母は花の好きなひとでした……花や植物の名前に詳しくて、それで……」
藍の両眼にかすかに涙が滲んだ。ヴィルジリオは黙って深くうなずいた。藍がそこで言いやめてしまったので、ヴィルジリオは先をうながさず、さらに声を落としてゆっくりとつづけた。
「それから俳句の話しをよくしました。とくに蕪村が好きだと言っていた。僕と同じ名前の詩人の作品も読んでいました。短い詩のほうが性に合うと笑っていました。あまり料理は得意ではなくて、でも掃除と洗濯の好きなひとでした。スッパカ・ナポリにはためく洗濯物を見て、どの部屋にどんなひとが住んでいるのか想像して話してくれました。歩くのが早くて、でも家のなかだとしずかで、ひねもす海を眺めているときもありました」
藍はなにひとつ聞き逃すことのないように息を詰めていた。それでもときどき鼻を啜って意識をそらし、慌ててヴィルジリオを見た。泣くのをよしとしない女の凝視を受けとめてヴィルジリオは言葉をかさねた。
「海が好きでした。ナポリ湾を高いところから見るのも、船で沖に出るのも、港をそぞろ歩くのも。僕には違いがわからないほど繊細な空と海の色を見分けて、その名前を教えてくれました。それが日本の藍染めの色なのは理解できました。でも僕は深く尋ねませんでした」
「どうしてですか」
藍がいまにも泣きそうな声で聞いた。ヴィルジリオは黙って、ちいさく肩をすくめてかぶりをふった。どうして、と藍がもういちどくりかえしたのは客人に対する問いではなかった。
くちに拳を押しあてて涙をこらえていた。
「藍ちゃん……」
紅緒が遠慮がちに、小刻みにふるえる肩を抱いた。藍はその手をそうっと握って押し返し、だいじょぶ、ありがと、とちいさな声で笑ってみせた。
その場にいる全員の視線をあびて、すみません、と彼女は頭を揺すった。紅緒がボディバッグからハンカチを取り出そうとするのを、目でとめる。だいじょぶ。へいき。ありがと。藍が小声でくりかえす。うん、うん、うんと紅緒が律儀にうなずく。
藍は息をととのえてまっすぐに立つ。そして、自分をずっと見つめていた父親を盗み見てからヴィルジリオのほうを向いた。紅緒がそっと脇によけた。
「すみません、お引き止めして。あらためてとのお話しですが、わたしそのとき仕事でいないかもしれないので、連絡先いただいてよろしいですか」
ヴィルジリオは名刺をさしだした。大桑もそれに倣う。藍はありがとうございますと御礼を言って、後ほど連絡いたしますと生真面目にこたえた。ぎこちないながらも笑顔をみせて、もうすっかり落ち着いていた。相手の事情を慮りながらも、尋ねたいことは尋ね、欲しいものはほしいと言えるのだ。
それは野川も感じとっていたらしく、今になって紡の言葉を思い出す。
紡はもう家の外だ。
彼は工房の横を流れる川の流れに耳をすまして目をとじている。コンクリートで護岸された狭い川の水面はそれでも澄んで、空の色を浮かべていた。
ツムグは靴を脱いで工房のなかに入る。五月の空の明るさに比して、なかはくらい。工房が薄暗く縦に長いのは反物を置くためだ。長い板の作業台は今、みっつある。むかしは工場の横幅いっぱいに並んでいたという。地下水をくみあげるモーターの音がする。型染めの型は、むかしと変わらず丁寧に保管されていた。昭和三十年代以前は、染め上げた反物をすぐ隣りの川で洗い清めていたそうだ。水面にそよぐ色とりどりの反物はさぞかし美しかったことだろう。
「おい、あんた、あっちにいなくていいのか。それとも、あっちにもいるのか?」
ツムグがしゃがんで苦も無くワタシを〈ちかい〉から引っ張りあげた。
君は本当に優秀だな。
「俺を好き勝手した奴に言われても面白くねえな」
そうか、そうだったな。でも、おかげでこうしてくちを借りなくてもしゃべれるようになったじゃないか。
「違う。あんたが俺んなかにも種を播いたせいだろ」
Qui bene vivit, bene docet.
「何それ」
よく生きる者はよく教える――よく種を播くものはよく刈り取る。
「ふーん、て、おい、それ俺の質問のこたえかよ?」
ツムグはむっとしてしばらく口を尖らしていたが、けっきょくそれ以上の文句をつけなかった。
君はいざとなれば自分の腹のなかに手を突っ込めばいいし、ワタシはそれにこたえるつもりはない。あらためてからだを貸してくれた礼を言うのもおかしなことに思えたし、ツムグはそのとき自身が最善だとおもったことをしただけに違いない。
「んで、これからどうすんだよ」
そうだな、しばらくは香音庵の監視下で根の状態を見極める。気が向いたらプラハに行く。ヴィルジリオ抜きでヴェラにちょくせつ話しをつけてもいいし、なんなら彼に頭をさげてもいい。
「あんた、いい性格してるなあ」
ありがとう。
「褒めてないぞ」
知ってるよ、そのくらい。
ツムグはため息をついて、工房の横のヒロシの仕事場をのぞきこむ。その戸に手をかけたのに、空気を乱すのを嫌ったのか開けはしない。こちらは昔ながらの小さな机まわりに資料が山と積んである。丁寧に拭き清められた卓上には細筆や刷毛、定規、硝子棒、いくつもある彩色皿、片手で持てないくらい厚い紋帳、そしてぶん回しが乗っている。
こじんまりとした居職部屋は聖域めいて、数十年の時間の澱がツムグの熱の籠った視線すら容易くのみこんでいく。
「先生くらい綺麗な線の引けるやつはこの世にもうほとんどいない」
物思わしげな横顔に、なにか言ってやりたくなった。
ヒロシは押しに弱いぞ。
「知ってる」
なら通い詰めてあげなさいよ。
ツムグは何がおかしいのか喉奥で短く笑った。それから卓上を見つめたままポケットのなかのぶん回しを指のはらで撫でた。
着物がすぐにもなくなるわけではないだろうが、それをつくる技術がどこまで残るかはわからない。いずれ、魔法のようなものになるのかもしれない。
こういう若者がいなければ。いや、いても、もしかしたら……。
「なあ、ナポリっていいとこ? やっぱ死ぬ前に見といたほうがいいくらい?」
そうだな、観光するにはいいところだが、君はどこか海外に行ったことないのか?
「旅行自体ねーよ。俺修学旅行も行かなかったし。先生はさあ、色んなとこ行ってきれいなもんたくさん見て勉強しろって言うけどそんなヒマねーって」
ワタシはかける言葉を失った。君の叔父はどうしていると尋ねたくなって押しこめたつもりだが、ツムグはそれを拾った。
「あいつスゲーいい大学でてんのに香音庵のジジイどもに扱き使われてるくせにろくすっぽ稼ぎないんだわ。俺の親からなんの音沙汰もねえしな」
大桑弼はたいした夢使いだと言ってやる必要はなかったにちがいない。彼は、ワタシを一瞬たりともそのうちがわに這入らせなかった。
ツムグはひとわたり工房を見渡してスリッパからスニーカーに履き替えて外に出た。横顔に五月の風が吹きつける。
白い躑躅が日陰に幾つか花を咲かせ、青空に一片の雲が流れ、蛙が鳴いている。牡丹はもう、咲いていない。
「あのさ……いや、やっぱいい」
ツムグのうちがわに、ほんのいっしゅんさざ波が立った。彼がワタシたち家族にしてくれた恩義ゆえにワタシはそれを無遠慮に探ろうとしなかった。いつか、ワタシを捕まえてもろもろを解析できるものがあらわれたときにも、それは伏せてやりたかった。
「……俺思ったんだけどさ、あんたは扶桑樹かもしんないけどホンモノの植物じゃないんだから、どこにでも行けるし何にだってなれる。香音庵の言うことなんざ信じなくてもよくね?」
そうだな、ワタシもそう思う。
ツムグはこちらの同意を察するとせせらぎに耳をすませた。
行雲を見つつ居直る蛙哉
「なにそれ俳句? 松尾芭蕉?」
ワタシは訂正しなかった。
今はただ、娘が宮下紫苑にいつ電話するかだけが気がかりだった。
了
新宿マジックRENDEZVOUS 磯崎愛 @karakusaginga
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