其ノ陸――夢使い、ヴィルジリオの夢を暴き夢違えをなす
大桑が立っている。
ヒロシは、娘を背に庇っていた。仰向けに倒れているのはツムグだった。
大桑は倒れたままの甥を見おろした。
「うるせーのはお前さんだよ」
大桑のべらんめえ調に目をみひらいたのはヴィルジリオだ。
「なんだとっ」
ツムグの手足は大きく泳ぐのに起きあがれない。目に見えないほどの細い糸がツムグを縛って畳に繋ぎとめている。
「計画を台無しにしやがって」
大桑は冷然と言い放つ。
「俺がそいつを探し出してロックオンしてやったんだろ」
「馬鹿も休みやすみ言いな。勝手に家を出てって益体もない荒事に首つっこんで、挙句にこの騒ぎじゃねえか、よく言うよ」
「なんだとっ」
「何度でも言ってやるよ、お前さんが血の繋がった甥っこじゃなきゃ、いちんちだっておれの家においてやらねえよ、てめえみてえな可愛げのないクソガキの面倒を誰が好きこのんでみるもんか、ようやっと二十歳になるってんでこちとら御役御免で自由になれると思ったら勝手に仕事やめくさって、この始末たあ呆れるね」
「呆れてんのはこっちだよ、あんたなんて夢を買う客を馬鹿にして商売してんじゃねえか、頭へこへこさげてへりくだって、なのに腹んなかじゃうだつの上がらねえ奴だって舐め腐って、気色わりぃ。俺はあんたみてぇな夢使いには絶対ならねえし、あんたみたいに香音庵に都合よく使われたりもしねえっ」
「はぁ、そうかよ、口では何とでも言えらあな、お前さんろくすっぽ金を稼いだこともねえ癖に育ての親に説教かよ、笑わせるねえ」
「んだよっ、違うって言い返さねえのか、図星つかれてんじゃねえよ!」
大桑はかぶりをふってため息をついた。
「おれが内心どうおもっててもお客がおれを指名してるあいだはそれでなんも問題ない。誠心誠意尽くしたって、つぎに指名もらえなきゃ何の意味もねえんだよ。それにな、そもそもお前さんみたいな半端もんには香音庵からお呼びはかからないよ、組織に属するってのはそういうことです。ねえ野川さん、この大馬鹿野郎に教えてやってくださいよ」
大桑がヒロシを流し見た。
いきなり話しを振られた彼は首肯せず、さりとて無視もしなかった。
「娘の〈花実〉については組合から監視依頼があった。本来なら血のつながりのない人間がすべきものだが、特例として許可してもらった」
「先生?」
ヒロシはツムグではなく、ワタシを見た。見ながら、ぶん回しをあやつる手つきでツムグをしばる糸を切って、彼を背中に追いやった。
「娘のからだに種子が埋まっていたら、きっといつかきみがそれを見に来るだろうとおもっていた。言っておくが、きみに逢いたかったわけじゃない。いや、逢いたくなかったわけではないけれどね、それと娘の種子は別のことにしておきたかった。ぼくには娘の父親として、またきみの夫としての責任がある。さいわい何十年も前に組合を抜けて〈外れ〉たが、なにしろ十年ちかく〈枝葉〉と連れ添った経歴がある。香音庵はそれを無駄と退けはしなかっただけのことです」
夢使い協同組合香音庵は、野川大という稀有な人物を殺すことはもちろん黙殺もできなかったのだろう。
「娘の〈花〉が〈実〉を結ぶ前に必ず刈るはずだった。ただ、まさか〈枝葉〉がしのびこんでいたとは思いもよらなくて」
「昨日の夜からよ」
ヴィルジリオのくちを借りてつづけた。
「居座るつもりもないし、新宿の〈根茎〉はぜんぶ引き抜いていく」
「本当ですか?」
尋ねたのは大桑だ。ヴィルジリオが先に応じた。
「責任をもってプラハに連れていきます」
「貴方にそれが制御できますか?」
「あなたたちもできなくて、この体たらくじゃありませんか」
西新宿の上空に重い雲が垂れ込めた。
雷と豪雨のあとに新宿の高層ビルが崩落し、顔のないひとびとが逃げ惑う。地がひび割れて、次々に何もかもが呑みこまれる。昏い穴から這い出す緑、行き場をなくしたニンゲンの肺に藻類が潜み入り、横たえた肉体を苔が覆う。胞子を呑みこんだものたちが地平に羊歯を生やしていく。ワタシの根がかつてニンゲンだったものの肉体を吸いつくす。巨大な裸子植物が出現し、被子植物とともに摩天楼の森になる――ヴィルジリオの幻術――ではなく夢だ。
ヴィルジリオの夢、だ。
大桑弼の右手がさしあげられた。
袖からつきでた白いてのひらが翻り、くりかえされた悪夢が丸くなり表裏を返す。
夢違(たが)え――大桑の爪が夢の表層をなぞる。女の肌を愛撫するかのごとく甘くじれったい動きは、香音と呼ばれる夢の珠を燻らせる。香煙がたちのぼる。人間の嗅覚は視床下部から直接身体に影響を及ぼし得る。
反転した香音が視界を白く、朝のごとく明るくして、ヴィルジリオの欲望をあらわにする。
誰もいない緑の沃野にワタシが寝転んでいる。まるで、西風が花の女神を抱いて訪れる南イタリアの春のように――二月末にミモザの黄金の花があふれ、三月にアーモンドの薄紅と西洋花蘇芳の濃い紅が混じりあう。四月ともなれば野には雛罌粟が揺れ、勿忘草の青い群生がやすらいでいる。五月にはレモンとオレンジの白い花が馨しく咲き誇り、夏にはブーゲンヴィリアが燃えさかる――
ヴィルジリオ、そうか、あなたはワタシを……ワタシと、永遠の春を望んだのか。
しかし、それは叶わない。
ヴィルジリオ、人の世の終末が、こんなのどかであってたまるものか。あなたは我々にニンゲンの顔を見せなかった。顔のない人体、凹凸と輪郭しかないものに尊厳なぞ宿るものか。あなたはわかっているはずだ。そこにヒトの顔を当てはめることができなかったのだから諦めろ。
ヴィルジリオがこの国に来たのは、東京の破滅を憂いただけではない。だからやすやすと何もかもを明け渡しはしなかった。蔓棘で上辺だけのぞかせて、ワタシを泳がせた。
憤るより前に、笑ってしまう。
あなたの孤独を埋めるためにここに迎えに来たつもりか。
その不安な夢はこの新宿にあっては未来のひとつだが、すべてではない。
ワタシが我を忘れたら殺すつもりできたくせに、下手な延命なぞしなくていい。
「ヴィルジリオさん」
呼びかけに視界がひらけた。
大桑弼が手をおろし、目の前に立っている。
欲望をあらわにされたうえ、すっかり間合いを詰められて、ヴィルジリオが瞠目する。
「ヴィルジリオさん、花神の〈蔓棘〉は連れていってかまいません。ですが、〈根茎〉は置いていってもらいたい」
ヴィルジリオが額にたれかかる金髪を指ではらった。
「大桑さん、あなたは僕と彼女を新宿御苑に閉じこめようとして失敗した」
その通り。香音庵はワタシという扶桑樹を〈庭〉に閉じこめようとした。新宿御苑はそれに相応しい場所だった。
「そうですね。金田の力を借りて出入り口を封鎖してもらう予定でした。彼は元警察の人間でしてね、私にもよくわからない伝があって人足を集めるのに不自由しない。あなたが私の客と揉めていると言ったら快く手を貸してくれました」
「そんな理由で?」
大桑は軽く首をふって問いを流した。〈外れ〉と呼ばれる夢使いが反社会的集団と近い関係にあるように、金田は大桑が、「半グレ」であると理解していた。他人を操れるだけの特殊能力持ちだからこそ、使いどころを得て重宝される。
「大桑さん、そうまでして彼女をここに止めおこうとする理由は何ですか」
ヴィルジリオが一歩前に出ると大桑がさがる。すぐ後ろのツムグがこたえた。
「夢使いはこいつの根っこに寄生してるからだよ」
「紡、余計なことを言うな」
「んだよ、そいつは一か月も時間を無駄にして聴きまわったんだ。教えてやってもかまわないだろ。夢は扶桑樹、いや視界樹の根におりていく。夢使いはそのお零れを掠めて生きてんだよ。いなくなったら夢使いは夢使いじゃなくなっちまう」
「なるほど、ですが彼女の根がこのまま腐り果ててしまうより、なんらかの処置をしたほうが」
「こちらでも処置はしています。それに、たかだか一介の魔女に花神を容れるうつわが用意できるとは思えません」
大桑がそう言い切るとヴィルジリオは難しい顔をした。ヴェラには悪いが、正直なところワタシも信じてはいない。
大桑はヴィルジリオの沈黙に畳みかけた。
「あなたの腕に絡まっているそれは、この新宿を離れては生きてはいられません」
ヴィルジリオはワタシを見ずに大桑だけを見つめている。黒衣の男はそのつよい視線に怯むこともなくつづけた。
「いえ、あなたの御友人のお力で生きてはいけるのかもしれませんが、それはもう、恐らく〈枝葉〉を新しく生やすことも〈花実〉をつけることも難しいでしょう」
「信じない」
ヴィルジリオが仁王立ちで否定した。その海の青をうつした両眼はワタシを見ない。
いっぽう大桑はいたって神妙なかおつきでうなずいた。
「ええ、それも当然です。私の話しはあくまで推測でしかありません。科学的になんの根拠もない。なにしろ前代未聞のことです。ただし、言い伝えでは、〈根〉を抜いていったあとには何もなくなる。そして、我々香音庵の調べでは〈枝葉〉はもう、この世にはない」
ツムグがこちらを見た。ああ、君は知らなかった。知らされていなかったのか。そうか、そうだな。だから躊躇いなくワタシを斬った。野川大も、知らなかったから―――……
「牡丹」
ヒロシに震える声で名前を呼ばれた。
初めて出会ったときと同じ声だ。
あれは遅い春だった。
牡丹の咲く寺で、ワタシたちは向き合った。
ヒロシは写生をしにそこに来ていた。生まれ育った土地だ。先祖の墓もそこにあった。墓地には藤の花が咲いていた。線香の煙の向こうに熊蜂の羽音が聞こえた。お互いに不意打ちだった。ワタシにとっても、彼にとっても。刈るものは、刈られるものに誤って名前を与えてしまった。
香音庵はワタシたちの関係に難色を示した。ヒロシは将来を嘱望されていたのに〈外れ〉た。
運のない出会いだったが、ワタシたちはきっと幸福だった。人間と番になって、もっともうまくいった相手だった。男とも、女とも寝たことも暮らしたこともあるが、他の誰のときよりも穏やかに過ごしていた。
今になれば、わかる。
あれはワタシの最良の時だった。
「きみは、もしや藍が生まれたときに」
じぶんの衰えに気づいたのはもっと前だと言おうとして、ヴィルジリオは喉をかしてくれない。
ワタシはじぶんの終わりを娘のせいにしたくなかった。もちろん夫のせいでもない。
「牡丹さん」
ヴィルジリオが名を呼んだ。ワタシは呼びかけを無視して彼から蔓棘を抜いた。抜いて、行き場を失ったワタシを捕まえたのがツムグだ。
いい子だ。きみは本当にいい子だ。そう伝えたかったがやめた。
くちを借りる。
「娘にはなんの関係もない。ワタシだって気づかなかった。ナポリで〈枝葉〉を次々に失って、あの土地に根をおろすことができなくて、初めて理解した」
そう言い切ったとき、ヴィルジリオがヒロシとワタシのあいだに立ちはだかった。
「紡、どきなさい」
押しのけたのは大桑弼だ。
「ヴィルジリオさん、重ねていいますが、〈花神〉がここに根を置いておくなら、我々香音庵が腐った根を除去しながら見守ることも可能です」
「大桑さん、それはもしものときに野川さんが彼女を刈るという意味です」
野川大の表情は変わらなかった。はじめから互いに覚悟はできていた。ワタシが人間に不利益をもたらすとわかったときには迷わず刈ると誓っていた。
ヒロシは香音庵の石頭どもと違ってワタシという〈自然〉を管理できると考えてはいなかった。ワタシもワタシがどこまで、いつまで、自身の連続性を保っていられるかわからなかった。
だからヴィルジリオの見た夢は、ワタシが滅びていくとき人類やその他の何もかもを巻き添えにするかもしれない未来のひとつだ。
くりかえすが、かつて人間はワタシのうちがわにいた。いたはずだ。いや、今となってはワタシがそとがわになったのか、人間が出て行ったのかもう、わからない。わからなくなってしまった。
ワタシは人間のうちがわにおりていける。だから昨夜は娘のなかにいた。けれど、もっと昔はどんな人間のうちがわにでも這入ることができた。
ワタシには人間との境目がなく、そのうちがわにあって時間そのものを揺蕩うことができた。ワタシは人間の肉体をかるがると移動した。何人もの、はたまた何代もの人間のあいだを彷徨うことができた。
それが、〈夢〉だと知ったのはいつだっただろう。
ワタシは夢使いに捕まった。
こちらが捕まえたとおもったが、捕まえられてしまったのだ。
意識は彼らにすくわれて、たまに操られ、ときに刈られた。腹を立てたワタシは彼らをふくむ人間たちを猛然と駆逐した。しかし人間もまたしぶとかった。
その長くつらい攻防がいつしか互いへの依存へと変わり、いまワタシと夢使いは共に同じ〈ちかい〉という闇でつながっている。
ワタシはさかしまに立つ樹木のようなものだ。ひとのいる地上に枝葉をたくさん生やせない。そのかわり人間のうちがわに根をはって、ひかりのない〈ちかい〉に生きている。
「あんたはどうしたいんだよ」
ツムグが問う。
金髪と黒髪の男が対峙するその間に移動して、ツムグがもういちど口をひらく。
「もし新宿に根っこをおいといて暴走するなら俺と先生が刈ってやるから安心しろ。あんた、娘が心配で帰ってきたんだろう? なあ、違うのかよ?」
若い男の大きな目が、倒れたままの娘に向けられている。
母親としての情がまったくないとは言わないが、ワタシは君のほしいこたえをくれてやれない。ましてや君の母親を知らないし、事実として君が期待するほどの何かを娘に抱いてはいない。
されど、そうやって今ここで正直に否定するのは得策ではなかった。
「紡くん、それは」
ヒロシが続ける前に、ツムグが声をあげた。
「先生も黙っててくれよ! 」
怒鳴られてヒロシはくちをつぐんだ。
それでも、この場でいちばん幼い人間の願いにワタシは折れた。いや、賭けたと言ってもいい。
「花落花開自有時(はなおちはなひらくおのずからときあり)」
ワタシの言葉にツムグが不審をまとった。わからないか、そうだな。自然界の法則だ。ワタシは誰よりもそれをよく識っていた。しっていた、はずだ。根を張った場所が駄目になったなら花を咲かせ受粉し種をつけて生き延びなければならない。おそらく、原初のワタシもそうだったに違いない。あのころの貪欲さを取り戻さなければ。
生きることの過酷さを思い出し、ワタシはツムグの喉でわらった。
「むかしは自分がただ生きるためにヒトを利用したらよかった。今もそうだ。けれど大きく育つ前にワタシは容易に刈られてしまう。そのせいで時間は短く感じられ、自力で移動するのがむずかしくなり、ついにはとても弱くなった。もういちど大きくなりたい、大きくつよくなって人間をうちがわに取り込んでしまいたい。そう願って、ヴィルジリオの夢に望みをかけた……」
ヴィルジリオが東京の破滅を夢見たのはワタシのせいだ。
予知夢などではない。
ワタシの望みだ。
もう自力で遠くへ移動できなくなっていた。〈枝葉〉をいくつも失い、あきらかに不調をきたし、とうとうヒトとしてのうつわを失ったワタシに怯えるヴィルジリオに夢を見せるのはかんたんだった。
ヴィルジリオは夢のなかでさえ、ヒトの顔を見分けようとしなかった。陳腐なパニック映画のごときものではワタシの再生には程遠い。ワタシは夢を〈滋養〉にして生きている。
それでも、魔術師ヴィルジリオの夢に共鳴した新宿の根は滋養を得た。
根は育ち、いくつかは〈ちかい〉をくぐって遠くまで伸びた。
ゆっくりと衰えていっていた根が勢いを吹き替えし、大桑弼は香音庵の打診をうけた。
ヴィルジリオの暗殺だ。彼が、たかだか数十年生きただけの人間に殺されるほど弱くないと信じもした。それでも念のため、宮入紫苑に監視をたのんだ。
紫苑は大桑を知っていた。客商売の顔の広さのせいではない。香音庵は何十年も前からワタシと関係のある人間をあらかた洗い出していた。
ヴィルジリオなぞは日本の空港におりたったときから包囲網を敷かれていた。香音庵によって新宿に入らせないよう、あの手この手を尽くして邪魔されていたのだ。
ワタシは仕方なく〈ちかい〉を伝って娘のうちがわにしのびこんだ。
さきほどの話しでは、大桑は新宿に残した根をよりわけて生かすだろう。
その算段通りなら、ワタシはより安全な道をえらぶ。
昨夜は娘の誕生日の前日で、ワタシのいなくなった日だ。
その記憶が侵入を容易にした。
もとより野川大の留守を狙うつもりだった。
何故なら、ワタシの〈枝葉〉に一番ちかいのは、娘の肉体だからだ。娘は正真正銘ワタシの分身になるうつわなのだから、魔女ヴェラの用意するものなぞよりずっといい。
ワタシは娘をもらっていく。
オオクワツムグの肉体を使ってな。
「紡?」
ワタシは大桑の腹をツムグの長い脛で蹴った。同時に娘のうちがわに残しておいた蔓棘を引き抜いてヒロシを背後から打つ。ヴィルジリオの喉を締め上げる。詠唱などされてはおしまいだ。
それに、このくらいであなたは死ぬまい。
少なくともあなたがローマ時代から生きているのは知っている。
マフィアの抗争で心臓を撃たれても死にはしなかったのだから、首を絞められるくらいなんてことはないはずだ。
膝をついたヒロシの手に黒い翳が集う。
ワタシはかつて抱き合った男の肉体に己の蔓を絡ませた。藤の木が巻きついた樹木を絞め殺すように、閨で相手を引き寄せて接吻したときほども強く。ヒロシの手のさきで環になる寸前に翳が消える。これがなければヒロシはただの人間だ。
念の為、足も縛っておく。
大桑はまだ動けない。打ちどころが悪くないといいのだが。そうやって情けをかけた刹那、その手指から白い糸が迸る。ワタシはそれを蔓棘で絡め取る。ぶちぶちと糸の切れる音がする。よわい。どうしたことか。この男はもっと強いとおもっていたが――ああ、なるほど。大桑の眼に得心がいった。このからだに傷をつけられないのか。そうだな、さっきもこの肉体を縛りあげただけだったか。なら、反撃はもうないだろう。
ワタシはことさらゆっくりとツムグの足をすすめた。
あなたたちが暴れなければきちんと返す。ワタシにも、この若い男は有用なのだから。
ヒロシの制止がうるさい。そのくちに蔓を突っ込んだ。
人間は鼻で息ができるからだいじょうぶよね。
それにね、あなたはそうやっていつもワタシを悪者にするけれど、この子を世間からは守ってやらなかったじゃない。どんな仕事でも一生懸命やればいいとかそんな杓子定規な正論ばかり口にして、就職氷河期に生まれて苦しんで疲れきったこの子に何もしてやらなかった。さすがにあなたは娘に結婚しろとは言わなかったけれど、社会全体に怒りはしなかった。せめて後に入った男性に追い抜かれて落ち込んでいたこの子のために、勤め先に文句のひとつも言ってあげてもよかったのよ、まあでもよその家を見ても、父親はそういうことしないみたいね。
ヴィルジリオが畳を這いずる音が迫ってくる。
おっと、足をとられた。
ワタシはその手を踏む。茶色の足で、つよく踏む。
ヴィルジリオ、あなたはやさしい恋人だったけど、いつも保護者みたいに先回りばかりして、なにひとつまともに話してはくれなかった。
ワタシになんの相談もなく、ヴェラに勝手に連絡をとった。
たかだか五百年ばかり生きてるだけの魔女にワタシのなにがわかるというの。
その点、娘はかわいらしい。その夢のなかのワタシはうつくしかった。
人間の子供くらい親を愛するものはそういない。男や女が互いを愛するよりもずっと、または親が子供を大事にするよりも強く、生物として成熟するまで時間がかかるせいで親を必要とするからなのか、たいていの子供はどんな親でも愛そうと努力する。
たとえば、ワタシのようなものでも。
娘は仰向けのまま眠っている。
ワタシはツムグの膝を折って、そのかおをのぞきこむ。
しみもしわも目立たないのに、若いころと違って水分と密度をうしなった化粧気のない肌をした四十歳のおんな、昨夜知った情報ではほとんどなにもよいことがなく、それでも真面目に生きている娘。
ワタシがそばにいたら、何かが変わっていただろうか。少なくともこの子は変わっていたと考えていた。
宮入紫苑と縁づいたら今より幸せになれるだろうか。
しあわせ。
そんなものは瞬間でしかない。まして恋人や伴侶がいたらそれが得られるわけではない。相手がいることで、いらぬ苦労を強いられることもある。ワタシはそういう人間をたくさん見た。ただし、自分自身で幸福と感じられた瞬間のあるなしが人生を左右することがあるのは知っている。でも、母親とはいえ、そんな込み入った物事はワタシの論じていいものじゃない。
それなのに、赤ん坊だったこの子のふくふくとした頬に手を触れた記憶がよみがえる。
思わず手を伸ばして触れようとして、じぶんの手が、ツムグのそれだと気がついた。
無骨な男の手が癪に触った。
このまま蔓棘になって潜ってしまおう。
そうして〈ちかい〉につれていく。冥府の神が地下へと娘を連れ去ったように、母であるワタシがあなたを闇の底へと攫っていこう。あなたをやわらかな根で編んだおくるみで包み抱いていこう。〈ちかい〉にはあなたを苦しめるものはない。
だから目をさまさずに、夢を見ておいで――……
電話が、鳴った。
〈ちかい〉のくらがりに、音が容赦なく侵入する。
娘の着ている服のうちがわから電子音が高らかに鳴り響く。
宮入紫苑、なんというタイミングでかけてくるのだ。ワタシは笑いそこなった。怒るに怒れない。笑ってしまいそうだ。いや、たぶん、ワタシは……
藍の睫毛がふるえる。
うっすらと眼が、あいた。
あいて、しまった。
「……おかあさん?」
ワタシは、蔓棘の先端をひっこめた。娘に伸ばしていたものだけでなく、そこにあったすべての蔓棘を〈ちかい〉におろす。
野川藍の目の焦点が合う。
黒目に若い男の顔がうつった。
「きゃああああああああああ」
絹を引き裂くような悲鳴が迸った。
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