其ノ伍――魔術師ヴィルジリオ他みな落ち合う

 ナポリはいくらか新宿に似ていた。観光地で、治安があまりよろしくなく、とにもかくも煩くて、妙なところで懐が深い。歌舞伎町にはアジア南米、はてはアフリカのマフィアまでいるらしいが、マフィアと言えばやはりナポリだ。

 ヴィルジリオはマフィアではなかったが、面倒事には呼ばれていった。そこで何をしていたかは知らないが、だいぶあぶなっかしい仕事をしているのは察せられた。ふつうの人間なら死んでいるだろうとおもわれる怪我をして帰ってきたこともあった。ワタシは多くを尋ねなかった。ヴィルジリオも、ワタシに何も聞かなかった。

 彼はふだんはもぐりの旅行ガイドや通訳などをして、ルポライターと名乗っていた。マフィアの斡旋で関連商社のWEBサイト用文章を用意していたので、どれもこれもまるきり嘘ではなかった。

 言葉はヴィルジリオにとって商売道具であると同時に、文字通り一個の人間などをはるかに超える大いなる存在だった。流暢にすぎるほどの日本語は、彼の類稀な努力によって習得された。教えることは少なかった。ただ世界でいちばん短い詩といわれる俳句については話して聞かせた。

 いっぽうワタシは、なんの特技もない「若い女」が世界中どこでも始められる仕事をしていた。繁殖の機会が欲しかった。それまでワタシはワタシの複製はつくれても、ワタシでないものができたのは初めてだった。野川大と全き人間の子供がつくれたのだから、こんどはワタシの遺伝情報を継ぐモノができあがるかと期待した。

 ところが、〈枝葉〉の幾つかはそこで失われた。男の暴力と、ワタシ自身が先走り過ぎたせいで、ニンゲンとしての体裁を失った。ワタシは少し、いや、だいぶ焦っていた。いざとなれば殺すのはかんたんだが、昔と違ってすぐ足がつく。ヒトを殺せば、ほうってはおかれない。そのための加減がわからなかった。

 そんな折、頭のうえに洗濯物がはためくスッパカ・ナポリでヴィルジリオと出会った。ワタシはさしだされた彼の手をとった。

「籍は、入れられませんでした」

 仏間で座布団に座ったヴィルジリオがそう述べた。言外に、自分に戸籍がないと匂わせた。

 ワタシの場合、野川と結婚するときに無戸籍だとわかった――という体でのぞんだ。ああ、ついうっかり昔のように野川などと言ってしまった。まあそれはいい。あとは役所の人間の懐に蔓棘で潜りこみ、手心をくわえた。マイナンバーカードなどない時代だ。今よりずっと簡単なことだった。

 それに、ワタシを産んだ母親がDV 夫から逃げて独りで子供を育てたという筋立てはけっして珍しいものではなかった。この国の無戸籍者は一万人とも言われるが、ずいぶん昔にできた民法772条によって追い詰められた人間がいるのだ。三十年ぶりに戻ってきて、まだ問題が解決されていなくておどろいた。

「ヴィルジリオさん、牡丹とは離婚が成立しています」

 仏壇の手前にあるワタシの写真の意味は、ヴィルジリオとて理解しているはずだ。

「では、なぜ彼女はここに」

 ヒロシは、眠っている娘をうかがった。察するに、なにも聞かれたくないのだ。ワタシはしゃべらない。口がないのでな。ヒロシのくちも、ヴィルジリオのそれも借りる気はないし彼らも貸す気はないだろう。

「さあ、私にはなんとも」

 にべもなく首をふった家主のかおを見て、 ずっと黙っていた大桑が問う。

「話すおつもりはなくても、聞くお気持ちはあるんじゃあないですか?」

 甥の手のなかに蔓棘を握らせているのをそう受け取ったのだろう。ところがヒロシは、正確にワタシの思惑を見抜いた。

「それはどうだか。私が思うに、彼女はたんに我々を観察しているだけでしょう」

 そのとおり。男や女の姿をとって、または乗っ取って婚姻を結んだ経験は何度もあるが、世に言う修羅場は珍しい。

 ヒロシは、ちらとこちらを見た。

「日本に戻ってきたのも大方じぶんの播いた種がちゃんと育っているか確認しに来たにすぎないと思いますよ。ヴィルジリオさんのところで彼女がどんなだったのか知りませんが、娘が生まれてからは浮き足立っていた。せめてこの子が成人してからにしてほしいと言いもしませんでしたけどね」

「あなた」

 ワタシの声にぎょっとしたのはヒロシだけではなかった。娘の声帯は、牡丹だったもののそれとほぼ変わりなく操れた。

「言ってくれたらよかったのに」

「言いませんよ」

「でも」

 ヒロシは、膝を起こして向き合った。

「きみはぼくに愛想をつかしたんですよ。この子がただの人間で、二番目の子は流れて、もう一緒にいても意味はないと、そう思ったんでしょう」

 その声に怒りはなかった。子供を諭す言い方だ。ワタシがなにか言いかける前に大桑が口をはさんだ。

「席を外しましょうか」と甥っ子に視線を向けた。ヴィルジリオも腰をあげかけたところで、それには及びませんとヒロシが引きとめた。

「しかし」

「紡くんがいないとそいつが逃げます」

「それは野川さん、貴方が」

「私が次にそいつに触れるのは、刈らなきゃならんときです」

 ヒロシは、大桑でなくヴィルジリオを見て言った。ワタシはそいつ呼ばわりされても腹を立てはしなかったし、ヒロシも淡々とした調子でつづけた。

「ですから、どうぞそいつを連れて行ってやってください。ぼくは気にしま」せんと言い終える前にくちを出す。

「うそおっしゃい、あなたが台所で泣いてたってこの子が」

「きみね、きみのやってることは」

「しかたないじゃない。ほかにどんなやりかたがあるの」

 ヒロシは口をきつく結んだあと、すまなかったとあの当時いくども聞いた言葉を吐きだした。

「……あなたの、そういうところ変わらないわね」

「どういう意味だい」

「何の解決もしないのに、その場を納めるために自分が謝ればすむと思ってるところよ」

「きみだって、じぶんが人間じゃないから仕方ないとしか言わなかったじゃないか」

 ヴィルジリオはじっとヒロシを見つめている。大桑は客商売らしく底の見えない顔つきで茶を啜った。ツムグはしんと冷たい眼で、師匠と崇めているはずの男を見ていた。そこに軽い失望と過去が透けたがなるほど、おっと、蔓を引っ張られた。そうは簡単にうちがわには入れさせない、か。君はそれでよろしい。ヒロシの跡を継ぎたいのだからな。

「あなたみたいになんでもかんでも謝ったらそれでどうにかなったの」

「そんなことは言っていませんよ」

「じゃあ、なんなの」

 声にはっきりと険が含まれて高くなった。あまりしゃべるとさすがに藍が目をさましてしまう。そう思ったとき、ずっと礼儀正しく正座していた大桑がかるく挙手した。

「お話し中、御無礼を承知でよろしいですか」 

 場を支配するのに慣れている声だった。ヒロシも、そしてヴィルジリオもそう感じたらしい。いや、そもそも大桑が目の前にあらわれてからずっとヴィルジリオはこの黒衣の男の言いなりだ。

「すみませんが二点ほど確認させてもらえたらありがたいんですけどね、えっと、そうですね、大きな声をだすと娘さんが目を覚ますといけないんで、瞬き一回ではい、二回でいいえとこたえてもらえますか」

 いちどだけ瞼をおろす。ありがとうございます、と口の端だけあげた男は殊勝に見えて、度し難い。面倒なことになったとワタシは少し後悔しはじめている。

「一点目、あなたが日本に戻ってきたのはさきほど野川さんのおっしゃったとおり、あなたの播いた種子及び芽、花といったものの成長の確認でよろしいですか?」

 ゆっくりといちど瞬きをする。

 ありがとうございます、と返す声は滑稽なほど慇懃だ。

「二点目、あなたがここ新宿におろした根は腐りはじめている」

 ほう、そこまでわかっている、と。ワタシは一回だけ瞼をさげた。

 ヴィルジリオがこちらを見据えている。膝の上に乗った手がきつく握りしめられていて、よくこんな初心な態度で魔術師などやっていられるものだと呆れた。まあしかし、そうだったな、この男だけはきっとわからないのだ。いや、だからこそ確信がなくて海を渡ってこんなところまで来てしまった。

 ヒロシが異国の客人へと口をひらく。

「ヴィルジリオさん、どうかそいつを連れていってやってください。ぼくは彼女とどうあっても添い遂げられません」

 そう言って、座布団からおりて頭をさげた。

 野川大は物分かりのいい男だ。

 だから別れるしかなかった。ワタシは人間の女としてこの男を愛することができない。それを残念におもう自分に気づいて、そばにいられるほど恥知らずではなかった。

「紡くん、手をはなしてやりなさい」

 ヒロシの命令にもツムグは手をゆるめない。それどころか折り畳んでいた長い脛をまっすぐにして立ち上がる。この場でもっとも若く背の高い男は座っているものたちを睥睨し、ぶっきらぼうに問う。

「先生、本当にいいんすか?」

「なにが」

「たぶんそいつ俺らみたいにコレに触ることすらできないんすよ」

 あごをしゃくって提示された言葉にヴィルジリオは軽くあたまを揺すって凪いだ海の両眼で若者を仰いだ。

「君の言うとおりだよ。そうやって自分に縛りつけておかなくてよかったと今しみじみ思っているところだ」

「紡、謝りなさい。ひとさまの家庭のご事情にそれ以上の立ち入りは不躾ですよ」

 大桑の叱責がとんだ。いや、どちらかというとあなたのほうがずっと失礼だったよと文句を言うのをやめた。何故なら、ツムグが毛を逆立てて叔父へ怒鳴り返したからだ。

「てめえは黙ってろよっ、こいつがせっかくしゃべるっつうのに黙らせやがって。先生も先生だ、捨てられたのもわかんねえで迎えにきた野暮天相手にすごすご引きさがんのかよ、こどもまで作っといてナニやってんだよ」

 ワタシはもう娘が起きてしまうから静かにしてくれ、と懇願する気を失った。この子はきっと……

「紡、おまえ」

「だから黙ってろってっ言ってんだろ。つーか、俺を冷静に観察してるつもりのあんたもだよ」

 くい、と蔓棘をひっぱられた。

「俺の口、貸してやっから、そのひとんなかから出てこいや。そんで、そのひとにもこの情けない状況を見せて、喋らせてやれよ」

 それは、それはな、

「紡くん、それは駄目だ。やめてくれ、ぼくたち夫婦は、なにがあろうと娘だけは巻き込まないと決めたんだ……」

 ヒロシの懇願にもツムグは引き下がらなかった。

「巻き込まないってなんだよ、もう十分すぎるほど巻き込んでんじゃねえかっ、親だぞ、親なら親らしくちゃんとしてやれよ、じゃなきゃこいつがこの国に来た時点で追い返せ。俺は警告したし、花芽を摘んだ。なのに結局こうやって来ちまったじゃないか!」

 若者の正論をぶつけられて年老いたものたちの精神は蹌踉とした。いや、それは我々元夫婦とヴィルジリオだけだった。ツムグの叔父は白面をそよとも揺らがせない。

 ヴィルジリオが、慣れない正座をほどいて腰をあげる。

「ぁんだよ、やンなら表でろ」

 凄むツムグはそれでもワタシを手離さない。健気だ。真面目なのだ。若いともいう。だが視野が狭い。

 ヴィルジリオは座ったままのヒロシの横をすり抜けた。いよいよ目の前に迫られてツムグが呼吸を変えた。

「牡丹さん」

 ヴィルジリオはツムグを一顧だにせず名前をよんだ。ワタシは動かない。

「牡丹さん」

 言い終える前に胸の端末がふるえた。ヴィルジリオはポケットから取り出したそれを見た。もう、その眼を借りることがかなわなかった。ここにつくまでずっとからだを貸してくれていたのに。

 だがツムグは遠慮も何もなく画面をのぞいて眉を寄せた。

 ヴィルジリオは端末を元の場所に落とし込んで膝をついた。

「プラハの友人ヴェラが、新しいからだを用意してくれるそうです」

 ここずっとヴィルジリオが魔女ヴェラとやりとりをしていたのは知っている。

「一緒に来てもらえますか? 今までどおり、貴女から手を伸ばしてもらえたら大丈夫なはずです」

 野川大は身動ぎひとつしない。ツムグは濃い眉をぎゅっと寄せて師匠を見おろしている。

 どちらにせよ、ワタシの居場所はここにない。娘のからだの花も散ってしまった。ヴィルジリオに頼るのが今は無難か。

 ため息のかわりに、そろりと蔓棘を伸ばした。

 ツムグは端をはなさない。

 その大きな目は雄弁にすぎる。君はこの仕事をするならもっと表情を取り繕うべきだ。君の叔父さんのように、とは言わないまでも。

 ワタシはヴィルジリオの手に自分の蔓棘を絡ませる。〈枝葉〉とおなじ要領で彼らに見えるようにして、ずりゅりと音を立てて娘の胎から蔓棘をひきあげた。

 では、これで失礼しますとヴィルジリオが頭をさげた。まっすぐに立つと同時にその背中から胸へと黒い翳が集う。

 ツムグが、ははっと哄笑する。

「てめえの好き勝手にはさせねえよ」

 今まさに、その翳が胸の前で土星の環のように完成すると見えたとき、ヴィルジリオがつぶやいた。

「De nihilo nihil.」

 黒い円が形を失って霧散した。

 ツムグは目の前の出来事に声もあげられずに立ち尽くす。

 ヴィルジリオは金髪を指ではらって、ツムグへと目を向けた。

「さっきヴェラから背中に気をつけろと忠告が届きました。君がチェコ語を読めなくて命拾いした」

 激昂したツムグの手から二つ目の環が繰り出される前に、ワタシはツムグの握る蔓棘を切った。

「ちょ、待てよっ」

 ツムグが声をあげた。せんせい、せんせいってば、いっちまうぞ! 見送りもせず顔を伏せたままの師匠の肩を揺すっている。

 ヒロシが動かないと悟ったツムグが立ちあがる。長身の若者の背に一喝が飛ぶ。

「紡、やめなさい」

 大桑の制止にツムグが吠えた。

「さっきからてめえはうっせーんだよ!」

 ドタドタ音を立ててツムグが仏間へ戻る。

 ヴィルジリオは三和土におろしかけた足を戻す。ほうっておけばいいと言いかけてやめた。

 ヒトの倒れる音がした。

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