其ノ肆――ゲニウス・ロキ
ヴィルジリオと大桑弼は腹ごなしに新宿御苑へと歩いていた。二人の横を、ジョギングシューズを履いた中年男性が通りすぎ、その後ろにはいかにも物見遊山という体の観光客がぞろぞろと屯している。
昨年十月、訪日外国人からの要請が多数あることを受け、環境大臣のもと試験的に早朝七時から開園した。そして当初の予定通り、この五月から早朝開園を実施したのだ。ちなみに秋に催される『菊を観る会』は環境大臣主催であり、この国を騒がせている『桜を見る会』は総理大臣主催で例年この新宿御苑で行われていた。
大桑が門を通り雪駄で歩を進めながら尋ねた。
「ヴィルジリオさんは新宿御苑の成り立ちはご存じですか?」
「いえ、知りません」
「御苑というからには天皇の庭なわけです。ヨーロッパで王室のもっている植物園があるでしょう、あれを真似しましてね。その昔は新宿植物御苑と言いました。その前は内藤新宿試験場です」
大桑はそこで端末を取り出して新宿御苑のHPの文言を読みあげた。
「【広く内外の植物を集めて、その効用、栽培の良否適否、害虫駆除の方法などを研究し、良種子を輸入し、各府県に分って試験させ、民間にも希望があれば分ける】だそうです」
はい、と大桑はメッセージアプリにそのURLを貼ってヴィルジリオへと送信した。
新宿御苑の歴史
https://fng.or.jp/shinjuku/gyoen/history/
彼は律儀にそれをひらいて読んだ。ちなみにIDは先ほど店を出る前に交換した。大桑が客商売らしく妙に手慣れた風で、ヴィルジリオはいささか照れくさかった。ホテルのバーで聞くほうがそれらしいやりとりだったのだ。
「富国強兵、殖産興業の一貫ということでしょうかねえ。きな臭い話しは別にして、この国になかった美味しい果物や綺麗な植物の恩恵に預かれるのは、先人たちの努力と研鑽のおかげです」
ヴィルジリオは大桑が何を言わんとしているのか探るようにその横顔を見た。大桑は背の高いプラタナスを見上げて続けた。
「ちなみにここで養蚕も営まれました。まあそれはいいです。あなたはイタリアから来たひとなので、キリスト教の神様がエデンの園という『庭』を作ったことをよくご存じでしょう。神様のつくった閉じられた庭を出てしまったことが人間の苦悩の始まりだそうじゃありませんか。すぐさま腑に落ちるかどうかはともかくも、わからなくもない。なにしろこの国は海によってずっと守られてきましたからね。とはいえ、グローバル時代に海なぞはもうなんの守りにもなりゃしませんし、黒船以降もかの国の発言力は大きくて、政府は何をおもってか明治維新に倣おうと躍起になるしでもうしっちゃかめっちゃかです。それでもさきほど話したとおり、夢使いが魔女や使い魔にならず今も残っているのはこの国だけらしくてですね。だからというわけでもないですが、太陽を抱える扶桑樹を、我々夢使いはただの伝説とは考えていません」
「大桑さん?」
「貴方もそう思ったからこそ、この国に来た。違いますか?」
ヴィルジリオは返答に迷った。それもひとつの理由だが、それだけではない。
「貴方が夢に見た巨木は我々の崇める扶桑樹です。ただ、滅多なことでは地上に生えません。そこまで育つには〈滋養〉がいる。しかも三代つづいたくらいじゃ苗床として不完全で不稔性のまま、つまり種ができなかったりするわけです。それに万が一にでも発芽したものはその都度我々が刈っています」
「大桑さん、扶桑樹は人間を栄養にして、要するに人間の命を食べて大きくなるんですか」
それにはわかりやすく難しい顔をした。
「大桑さん」
焦れて名を呼ぶと黒衣の夢使いは眼鏡の蔓を指で触れてからヴィルジリオを見た。
「これはアカデミックは話しではなくて、我々が過去の言い伝えをまとめたりしただけのことですが、扶桑樹には〈根茎〉と〈枝葉〉と〈花実〉、そして〈蔓棘〉があります。我々はその総体を〈花神〉と呼んでいます。人間にとって厄介なのは〈枝葉〉と〈蔓棘〉です。これが神話の時代から我々を誑かしてきた。〈枝葉〉は人体を模したものに化け、〈蔓棘〉は人体をのっとりそれを操ることが可能です。そして〈花実〉が増えれば扶桑樹がまた生えます。〈根茎〉は人間の体を、つまりその体組織を餌食にすることはありません。ただし、夢を喰らいます」
「夢を食べられた人間はどうなるのですか?」
食い下がられて、大桑は眉をさげた。
「たんじゅんに弱ります」
「弱る」
「ええ、睡眠は脳のメンテナンス、夢は記憶処理時のノイズだなどと言われますが、いっぽうで癒やし、感情整理の方便でもあるそうです。その機能を奪われるわけですが」
「死ぬほどのことではない」
ヴィルジリオが後を引きとると大桑は見るからに気まずそうな顔をしてこたえた。
「因果関係を計測して立証できませんからね」
「つまり何らかの被害は出ていると?」
「科学的に誰も検証していないものをどうこう言うことはできませんでしょう? 通常の植物は花芽から開花、受粉を得て結実しますが、扶桑樹の受粉はおそらく人間の夢を介した自家受粉かと思われます。人間が夢を見ることだって、まだ解明されていないんですから」
大桑がのらくら躱した。
「しかし、げんに東京が壊滅する夢を見ているのは僕だけではないし」
「もちろんです。我々夢使いはそのあたりをきちんと把握しています。旅行者に言われるまでもありません。たとえ貴方がナポリ城に卵をおいて結界を貼った、あの伝説のナポリのヴィルジリオそのひとであろうとも」
夢使いは漆黒の双眸でヴィルジリオの青い目を見た。
だって、貴方は正真正銘のエイリアン(Alien)じゃありませんか――そう語るように。
ヴィルジリオは言い返す言葉をさがしあぐねた。
大桑の態度はおおむねこの国の術者たちに共通していた。曖昧に微笑んで愛想よく話すが、肝心の内容には踏み込ませない。むろん詳細を教えもしない。これなら始めから拒絶されたほうがましなくらいだとため息をつく。
ふいに大桑の端末が鳴った。
失礼、と数歩離れて電話に出た。ヴィルジリオも距離をとった。ほぼ定型文の挨拶の後だ。大桑の声が今日初めて上擦った。
「え、まさか、そんな……?」
大桑はヴィルジリオを見た。そのままスーツの腕をとる。ヴィルジリオの知る限り、日本人はたいていボディタッチを好まない。目を白黒させて見つめると、大桑が告げた。
「花神が降臨した……」
ヴィルジリオは驚かなかった。ただ、大桑に捕まれた腕を見た。
彼らはどちらもワタシを見なかった。
ワタシは〈蔓棘〉を新宿御苑の地面から引き抜いて別の場所に移動した。
宮入紫苑は電話を片手にワタシを一瞥した。牛込矢来町の一軒家はこの女が時間と金をかけて築き上げた独り住まいの城だ。年代物の船箪笥、江戸時代の絞りの小袖、イタリアの古い家屋の扉、スペイン現代アートの巨匠の版画などが飾られている。女はシンプルなルームウエアの肩にふわりと藤紫の牛首紬を羽織ってくちをひらいた。
「いきなりあらわれてイタリア人を探ってくれだの、こんどは夢使いに電話をかけてくれだの、本当にいい御身分ですこと」
ワタシはうなずいた。恐らく三十年ぶりのはずだ。女はあのころより細くなって、なおも清潔で婀娜めいていた。
「私がお嬢さんを誑かしたとでも思っている?」
首を横に振ろうとしてやめた。眉がつりあがっている。
ワタシはこの女に礼を言うだけでよかった。だが、相手はそうではないのだ。それに紫苑とは交接に至っておらず、娘とちがって躰を容易に明け渡す隙もない。蔓棘をもぐりこませられないのだから頭をさげて頼むしかない。昔から妙に勘がよかった。ワタシの正体をそれとなく察したので話しをしておいた。夫がいることよりも娘を置いてきた事実を気に病んだ。ニンゲンでないものを不人情だと罵りたくてもできなかった女のきもちを汲んで、ワタシはこの家を後にした。
長くこの世界にいるが、この女くらい魅かれたものもそうはいない。だが、そういう相手の傍らにいる時間は不思議と短い。
ソファに腰かける女の傍らに寄った。その手をとって、御礼代わりにくちづける。そのまま掌にある電話を奪って操作した。
ここへ?
「言われなくとも」
紫苑がつんと顎をそらした。
そうか、紫苑はむすめの気持ちに応える用意がある、ということか。
なんとも言えず奇妙な空気が入り込む心地がした。
それに気づいたのか、紫苑は肩をそびやかす。
「頼みごとがすんだらもう用済みってわけ?」
ワタシは女のくちをそっと吸う。口紅は苦かったが女の眉はひらかれていく。蛾眉という言葉通りのそれを見ながら、あいている手で花茎のような女のうなじを撫でた。誰かに愛おしまれて当然とおもってそこにある襟足だ。ワタシは女の美貌や才知を愛でるのでなく、離れていた年月にふりつもったはずの遣る瀬無さを取り払ってやるつもりで愛撫した。むろん、この女がずっと独りだったとおもったわけではない。だが初恋だと言っていた。
機嫌を直した女は手をはなした。いや、その手を掴みなおして指の背にくちづけた。
「お名残惜しゅうございますわ」
芝居がかった物言いも似合っていた。蓮っ葉な口をきくかとおもえば、こういう言葉を吐きだして恥じらうそぶりもない。この女相手ではさぞかし娘の分が悪かろう。
ワタシは掴まれていた手をそっと引き抜いて女を見た。今生で会うことはないと告げなかった。もしこの女を傍らにおけるなら、きっと娘はよろこぶに違いない。
羨ましさを祝福に代えて微笑むと紫苑が瞼を伏せてため息をつく。ワタシはその瞬きの間に退去した。
新宿に住む人間に根をおろしている。
根付きやすい土地なのだ。名が示す通り、その昔から人間の行き来が多い。大桑の言っていた植物園があったせいもある。ゲニウス・ロキというものは存外馬鹿にできない。
しかも、都内の在日外国人五十五万人のうち実に四万人を越えるものたちが新宿区に住んでいる。彼らは若い。いずれ国に帰るか、はたまた違う国へ移り住む。
ワタシはもっと遠くへと根を張りたい。
ちかごろは地下ケーブルなぞというものがあって、あれを真似て遠く海のしたにも根を伸ばせるが、どうもその先で滋養を得られない。
人間がいないとやはりダメなのだ。
この国が肥沃だった時代は終わっている。こんどの帰国であらためて感じた。
花実が咲くには根を腐らせないことだ。
いつから此処にいるのか覚えてはいない。
ただ、はじめは水の中にいた。恐らく三十五億年はいたはずだ。
それから、〈何か〉がやってきてワタシは目覚めた。
今のようなカタチになったのは最近だ。一万年くらいだろう――いや、もっと前かもしれない。とにかくも、〈根〉をおろせば〈枝葉〉が増える。〈枝葉〉は〈花実〉を増やし、ワタシはそうして偏在した。かつて、もっとたくさんのワタシがいた。あれもこれもワタシだった。たぶん人間はワタシのうちがわにいた。いまはもう、ワタシはワタシしかいなくなってしまった。
刈られはじめたのはこの五千年だ。人間が、ワタシのそとがわになった。
そのころから事あるごとに〈枝葉〉はもちろん〈花実〉も刈られてしまう。そのため、ほとんど出来ないことがないくせに繁殖だけは不自由している。ワタシが生まれるのと彼らが生まれるのでは圧倒的に後者が多い。とはいえ、彼らの数も減っている。
だから今度こそ、上手くいくと思ったのだがな。
時刻は十時四十五分、下落合の家で若い男は倒れた娘の横に立っていた。ワタシの〈蔓棘〉を伸ばしておいたせいでもなく、娘の身を案じているようにも見えた。ただしやることは雑だった。娘の足の先だけ廊下に出たままだ。
直してやりたいとおもった瞬間、懐かしい足音が聞こえた。
ちら、と若い男がこちらをうかがった。たしかオオクワツムグと言ったな。ツムグは完全に気配を消し、ポケットに手を入れたまま仏間に隠れたままでいる。
その掌にあるのはぶん回し、紋章上絵師のつかう自作のコンパスだ。円規、根発子などとも呼ばれるそれは、古代中国神話で兄の伏羲とともに人類を創造した女媧のもつものだった。
ツムグはぶん回しをひと撫でし、玄関の向こうの声に集中する。
「おい、鍵かけてないのか」
不用心だなと呟いてドアを開けて入ってきたのは野川大(ひろし)――かつての夫だ。
「牡丹……」
くちを開けて立ち尽くすヒロシの視線に晒されるほうをワタシは選んだ。
「きみ、どうして」
ここにいるのが〈枝葉〉だとヒロシは気づいていない。いや、気づいた。
その眼が倒れたままの娘の足を見た。声にならない絶叫がワタシを貫いた。ヒロシは我を忘れて突進する。
あまりにも無防備で見ていられない。
ツムグが完全に気配を消していたのはこのせいか。未熟だが狡猾だ。だが、さすがに捨て置くわけにはいかなかった。娘の保護者だ。むざむざ傷つけさせるつもりはない。
蔓棘ではよわい。ならば致し方ない。
〈枝葉〉を二人のあいだに置くだけで介入は果たされた。水分をありったけ含んだ〈枝葉〉は物理的な障壁として作用する。ツムグの手指から放たれた黒い環が、〈枝葉〉を掻き切って散じた。床はもちろん、天井や壁まで水がぶちまけられている。
なるほど、香音庵の回し者か。夢使いは扶桑紋を身に着ける。その紋を描くのは紋章上絵師だ。彼らの描く円は宇宙だ。禅において悟りや真理をあらわすそれは、力ある者が扱えば円のうちがわに諸々の事象を閉じこめるものとなる。まして、日本の家紋のほとんどが植物なのだ。
明治以降、ワタシは紋章上絵師の描く環のうちがわに閉じこめられたにも等しい。香音庵はそれを守護だと言うつもりだが、恐らく事実はそのどちらでもないだろう。
ツムグは動かずに、ヒロシを見守った。まさか邪魔されぬと思っていたわけではあるまいが、あまりにもあっけない。
いっぽうヒロシは〈枝葉〉が散ったため正気を取り戻した。
「娘に何をしたっ」
「花を刈っただけです」
ツムグは悪びれもせず棒立ちでこたえた。なるほど、さきほどの術はヒロシに殺されないための防御か。たいしたものだ。この男にくちで何を言おうと無駄だからな。
「もしも」
「何かあったら死んでお詫びします」
続きを取り上げたくせに胸を張って立ったまま手のなかの花をさしだした。ヒロシは血肉をおもわせる花弁とツムグ、そして倒れている娘をじゅんぐりに見た。
ヒロシの眉は釣りあがったままだが、ツムグは何も恥じることはない、という顔をしている。真面目で年若いニンゲン特有の態度だ。ヒロシのことも怖くはないのだろう。それだけでなく、ありていに言ってさきほども死ぬ覚悟があると見せつけた。度胸があると褒めてやってもいい。
だがな、野川大はワタシの知るかぎり一度たりとも声をあげて怒ったことはない。それが訓練によるものか、生来の気質か知る間もなくワタシはこの家を出た。
ヒロシは太い息を吐いて、ツムグのピンク色のてのひらの上の花びらを片手で払う。花びらは床にも落ちず、中空で消えた。
それから靴を履いたまま娘のかたわらに膝をつき、ゆっくりとかがんだ。
ワタシは〈蔓棘〉になって娘のなかに身を浸し、かつての夫を見あげた。今なら刈られてもかまわなかった。実際もう〈枝葉〉を失ったからには物理的に無力だ。
娘の目で見なくなると髪がかなり白い。背も縮んだ。筋肉が落ちて腹に余分な脂肪がついた。だが、これでなかなか好い顔をしている。植物にも視力がある。フィクトクロムという光受容体の研究は始まったばかりだ。
ヒロシの手が、腹に触れた。
娘よ、ニンゲンの手はくちよりずっと嘘がつけない。この状態では難しかろうが、お前のはらに正確に、だが容赦なく手を突っ込んだ輩との違いをおぼえておいてほしい。今さら言うのも滑稽だが、この男が娘の父親として果たした長い月日を思い遣らずにはいられなかった。
ヒロシが娘のからだをひととおり検めて息を吐いた。それから自分の着ていた上っ張り――この男はそう呼んでいた――を娘にかけた。その直後、ツムグは玄関を見た。
「野川先生、奴が来ます」
「きみの先生になった覚えはない」
ヒロシはのそりと立ち上がる。同時にツムグがワタシの蔓をひっつかんだ。なるほど腕もいい。それは認める。
ふたりぶんの足音が玄関に近づく時間が随分と長く感じられた。ヒロシはそれをもてあまし、靴を脱いで三和土にそろえた。と同時に声がかかる。
「すみません、野川さんいらっしゃいますか?」
呼び鈴を押して返答がないので大桑が声をはりあげた。ドアの鍵はあいている。娘はまだ目を覚まさない。寝ていろ。お前が見ていいものではない。
「あれ、開いてる?」
大桑がドアを引いた。さあ、と促されてヴィルジリオが中に入る。
「どちらさんですか?」
ヒロシの鋭い誰何にも大桑は顔色を変えない。
「お返事がなかったもので勝手にお邪魔しまして申し訳ございません。大桑弼と申します。そこの」と彼はじぶんの甥を目でさして続けた。
「紡の叔父です。お噂はかねがね」
ヒロシはいくぶん納得のいかない顔つきでさしだされた名刺を受けとって、職人としての習い性だと言わんばかりに頭をさげた。
その頭のあがるのを待って、もうひとりの招かれざる客人が挨拶をする。
「ヴィルジリオです。牡丹さんを迎えに来ました」
ヒロシの手から、名刺がはらりと落ちた。
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