負けイベントはどれだけ足掻いても結局自己満足にしかならない。

『今回の期末テスト。一位は能因らしいぜ』


『二位の“天使様”とは六点差……あの博学才穎はくがくさいえい、容姿端麗、文武両道の三拍子揃った白崎さんでも最近の能因には勝てていないからな。……一体何があったんだろうな、あの変態に。って、元々よく分からない奴だけど』


『……おいおい、大きな声で言っていると変態さんに聞こえちゃうぜ』


 聞こえてるよ。……変態で悪かったな。

 てか、お前ら面と向かって言えねえからこそこそ群れて陰口叩いてるんだろう。臆病な癖に人一倍悪口を叩く陰険どもが、余計なお世話だ!

 まあ、陰口を叩きたくなるのも致し方ないかもしれない。奇行が目立ち“天使様”ですら匙を投げるような俺に話しかける度胸が臆病な彼らにある筈がない。

 面と向かって言えないが、溜まった鬱憤を発散したい。それ故に陰口を叩くのだが、それをあえて聞こえるところでやるのは負け犬の遠吠え的なものなのだろう。


 ところで、廊下で陰口を叩いていた男子高校生達が言っていた通り、俺のテストの総合成績は二学期の中間テストから学年一位を維持している。

 別に学年一位に拘りがあるとか、「俺賢いんだぜ!」って自慢したいという訳ではない。


 俺は、既にこの高校一年生の二学期から大学受験を見据えて勉強を開始している。

 理由は勿論、浅野ゼミに入るためである。

 あの大学は国立ということもあり、一筋縄では入らせてくれない。全国からやってくる強豪達と一次試験、二次試験を争い、そこで競り上がらなければ大学に入学できないのだ。

 その倍率はなんと21.1倍。衰退しつつあるという文学部でそれなのだから、他の学部ではこれ以上の数字を叩き出している。


 勿論、大学に入学するルートは一つではない。

 一次試験、二次試験を争う以外にも県内枠限定の公募制推薦を利用するという手もある。

 だが試験を課さない分挑戦者が多く、更に枠が少ないため一次の小論文でほとんど落とされ、二次の面接まで上がるためには相当な鍛錬と時の運が求められるだろう。

 ちなみに、浅野ゼミで出会った毎日白シャツを着て登校し、毎日チョコレートスコーンと胡桃パンを食べるルーティンを繰り返す通称白シャツさん(そのまんまか! ……でも、ゼミのみんなは普通にこう呼んでいるし、きっと公式愛称だ)はこの推薦を勝ち上がったそうで「どうして俺が上がれたのか今でも不思議だ」と今でも疑問に抱いているらしい。


 現在は四時間目が終わった後の休み時間の後半。食事も粗方食べ終わり、生徒達はおしゃべりや勉強、読書やじゃれ合い(子供か!)、スマホゲームやポータブルゲームに勤しんでいる(スマホとポータブルゲームは校則違反だが、こんなことはこの高校では日常茶飯事)。

 食事を終えた俺も机の中からファイルを取り出し、三枚のレジュメを机に広げた。

 ここでプリントと言わないのは、これが高校で配られたものではないからである。


 このレジュメは浅野教授が主催する「『源氏物語』〜青表紙本を巡る旅〜」という旅行の資料である。

 平安時代中期に成立した日本の長編物語『源氏物語』の写本の系統の一つである、藤原定家が作成したとされる青表紙本の内容の古典籍が所蔵されている場所を巡り、浅野教授と学芸員の注釈を聞く、古典籍好きにとっては夢のような(逆に勉強嫌いにとっては悪夢の如き)内容で、毎年文学部の学生と他学部の希望者、一般の応募者が参加している旅行らしい。

 毎年同じ内容ではなく、昨年は平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆『枕草子』の伝本系統(三巻本、能因本、堺本、前田本)の最恵本を巡る旅が行われていたようだ。

 ……知っていれば這ってでも行っただろうに、残念である。


 ちなみに、この旅行について教えてくれたのは浅野教授だ。

 その時にはこんなやり取りが交わされた。


『草子君、今度「『源氏物語』〜青表紙本を巡る旅〜」と題して青表紙本の古典籍を巡る一泊二日の旅行をするんだが、どうだ? 参加しないか?』


『面白そうな企画ですね。……なになに、一般からの参加は抽選ですか……これでは、参加は厳しそうですね』


『ん? 何を言っている? 君は我がゼミの仲間・・ではないか。何、企画者は私だし他の教授共にも准教授達にも文句は言わせない。……それで、どうするんだ?』


『それは、参加できるというなら参加したいですけど……本当に大丈夫なんですか? 特別扱いでゼミに参加させて頂いているのだけでも申し訳ないのに、その上旅行まで』


『君は、未来の浅野ゼミ生だろう? どこが部外者なのだ?』


 「そもそもまだ入学していないので、部外者なんですが!」と心では叫んでいたが、決して口には出さずに「それなら、是非参加させて頂きます」と返答した。

 今では守衛にも顔を覚えられていて顔パスで学内に入れるし、他学部の教授や准教授からも「やあ、草子君!」と名前付きで挨拶されるし……「本当にそれでいいのか、国立大!」と叫びたくなる。

 ……俺の立場って、一体。


 俺はレジュメに目を落とし再度内容を確認すると、ポケットからスマホを取り出した。

 「『源氏物語』〜青表紙本を巡る旅〜」の事前学習として、浅野ゼミの学生には『源氏物語』の伝本に関して調べるという課題が出されている。

 俺は完全にゼミ生ではないため「別にやる必要はないよ」と浅野教授に言われたが、未来の浅野ゼミ生としてゼミに参加させてもらっている手前、ゼミ生と同じ課題をやらずに参加するというのはあまり気分のいいものではない。


 校内でスマホを使うのは校則違反だが、「バレなければ犯罪じゃない」みたいな風潮が校内に流布している以上、頑なに校則を守る方がかえって窮屈だ。

 真面目な“天使様”はきっちり校則を守っているようだが、校則違反を犯している生徒を突き出したりしない。その空気が読めるところも人気の理由なのかもしれない。

 ちなみに、ほとんどの先生が面倒なためか、校内でスマホを使っているところを見かけても見て見ぬ振りをしている。校則は最早形骸化していた。


 論文検索サイトC●Ni●を開き、「青表紙本」と検索ボックスに入れて検索。……う〜ん、ほとんどが国会図書館デジタルデータベース所蔵だな……。やっぱり大学の図書館でパソコンの使用願いを出すか、県立の図書館に行かないといけないか。……なんで、高校の図書館はアクセス権を持ってないんかな。全く使えないよ。


 とまあ、そんな感じで俺はいつも通り休み時間を過ごしていた。

 そうして、いつまでも平和な日常が続くと信じて疑わなかった。


 ――そんな考えを抱けていた自分は一体どれほど幸せだったのだろう?


 クラスではぼっちだが、大学に行けば浅野教授と浅野ゼミの学生が暖かく出迎えてくれる。

 どれだけ幸せなことでもそれが日常となれば、幸せを感じられなくなる。俺にとって、クラスでのぼっちな生活も浅野ゼミでの楽しい時間も全てがただの日常と化していた。


 もし、あの時の起きた最悪の事件に一つだけ良点があったとすれば、それは誰もがその時の日常を幸せだったと思うことができたことだろう。

 ――幸せとは、失って初めて気づく。先人の残した言葉は確かにその通りだった。


 突如、教室の床が輝き始める。巨大な三つの円が教室の床に広がっていき、二本目と三本目の間に見たことのない文字が浮かび始めた。

 それだけでは終わらない。中心部の円から白い線が伸び始め、アレイスター・クロウリーが用いたとされる一筆書きの六芒星に似た紋章が一筆書きで描かれていく。


 俺は一目でそれが何かを理解した。近年、一部のネットサイトを中心に広がりブームを巻き起こしている異世界召喚。

 そのテンプレの一つである異世界召喚の魔法陣だ。


 俺も文学少年を自称する以上、メジャーな本辺りは読み漁っている。

 正直、異世界召喚や転生ものも飽きるほど読んだ。

 ……もう正直満腹だ。異世界と繋がって異世界の者達が地球にやってくるとか、地球とか太陽系とかの単位で異世界に召喚されるとか、異世界に召喚されたと思ったら一人だけ別の異世界に召喚されたとか、それくらいのものならまだ需要があるだろうが……ってかそれ面白そうだな。出版されないかな?


 だが、俺の心は「テンプレ異世界召喚なんて、もう飽き飽きだ」という以上に、別の感情に支配されていた。


 今週の土日には、「『源氏物語』〜青表紙本を巡る旅〜」があるのだ。浅野教授やゼミ生達は「必ず来いよ」と言ってくれた。

 あの約束を違える訳にはいかない。ここで異世界に召喚されてしまえば、もう浅野教授やゼミ生達とは会えない。

 初めて俺のことを認めて、ゼミに誘ってくれた浅野教授の思いを踏み躙る訳にはいかない――。


 ――そんなの嫌だ!


 身体は勝手に動いていた。教室にいた生徒達が状況に困惑し、教室の外側――結界の外に取り残された生徒達が立ち尽くす中、俺は椅子の脚を掴み、窓に思いっきりぶん投げだ。


『…………草子……君…………』


 遠くで華代さんの声が聞こえたような気がしたが、振り返っている時間が惜しい。

 やはり、異世界もののテンプレ通り結界が張られているようだ。この手の魔法的な結界を物理攻撃で破壊することは不可能だが、だからといって諦めていいということにはならない。

 諦めたらそこで試合終了だ。少しでも可能性があるのならば、どれだけ無様でもそれに縋り付く。


「――絶対に諦めないッ! 俺は、必ず大学に入学し、浅野教授のゼミに入る!! 約束したんだ、そのために頑張ってきたんだ!! その思いを、浅野教授との約束を絶対に諦めてたまるものですかァァァァァァァァァ!!!!!!」


 何度椅子で窓を殴っただろうか、遂に決して壊れない結界にヒビが入り始める。

 俺はその結界の綻びに向かって思いっきりタックルを喰らわせた。

 生徒達がどんな目で俺のことを見ているかは分からない。だが、そんなことはどうでも良かった。


 教室の床に現れた魔法陣が光を増し、教室中に広がっていく。そして、その光の一部は綻んだ結界の外に飛び出し、触手のような動きで俺の身体を捕らえた。


 ああ、どうやらこれは負けイベントだったようだ。どれだけ足掻いたとしても、例え勝ったとしても強制的に負けにされてしまう、あの悪魔の如きイベント。

 異世界召喚の結界を破壊するという快挙も結局は無駄。ただ徒らに体力を無駄にしただけでしかない。


 拝啓、浅野教授。浅野ゼミの皆様。どうやら、皆様と旅行には行けないようです。

 浅野教授、すみません。折角こんな俺にも手を差し伸べて下さったのに、こんな結果になってしまいました。


 その日、心の底から止め処なく溢れる謝罪の言葉と共に俺の身体は地球から消えた。

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