終章


 六月の河川敷は青い匂いに包まれていた。

 昨夜遅くに降った雨の跡は、午前中の快晴ですっかり消えて、午後になると蒸し暑い空気ばかりを漂わせるようになった。そのひどい草いきれの中に、館上たてがみ太一郎たいちろうはかれこれ二時間あまりも一人で腰を下ろしている。

 彼の頭には幾度となく、ある出来事が浮かんでは消えていた。


 約一ヶ月前のことである。

 鳥船学園高等部の屋上で、一人の女子生徒が自殺未遂を図った。

 その女子生徒は太一郎の幼なじみと同じ顔をしており、ゆえに常日頃から気にかかる存在だった。問題の日、彼女は放課後になっても帰宅せず、教室に鞄を残してふらりと屋上に向かったのを、太一郎は追ったのだ。

 思い詰めた様子で、屋上の鉄柵を乗り越えようとした彼女を、彼は引き止めた。別に彼女を思ってのことではない。ただ彼の知る幼なじみと同じ顔で泣き、同じ声で嘆き、同じ体で死んでほしくなかっただけだ。

 それに、彼女が死んだら幼なじみも死ぬ。

 子供の頃から客人として育った彼は、他の人間よりも世界の仕組みに詳しく、だからこそ放っておくことができなかった。そしてだからこそ、魔が差した。

 父母の離婚が確定し、家族が千切れてしまったことに傷ついている彼女に、太一郎はもう一つの世界への行き方を教えた。昔の契約のせいで顔見知りになった鴉天狗に頼んで、犬猿の中である男爵の従僕を襲わせ、その天邪鬼に彼女が取り入るお膳立てもした。すべてはこちら側に絶望した彼女が越境し、ダブルと入れ替わることができれば、もう一度幼なじみに会えると思ったからだった。

 計画は順調だった。

 懇意になった天邪鬼の手引きでいよいよ越境となった日、最後に彼女と会った太一郎はこれまで協力した見返りとして一つの願い事をした。

 もし入れ替わりが成功したら、ダブルにかかった調整役の施術を解くよう、天邪鬼に頼んでおいてほしい──と。

 あくまでも太一郎は、昔の幼なじみに会いたかった。調整役の干渉で都合よく記憶を書き換えられた幼なじみなど、らしくないと思っていた。

 結果、彼の願い通りに事は運んだ。

 彼女──米神こめかみ小花こはなの入れ替わりは成功し、昔のまま成長したハナは彼の手元にやってきた。通学路で見かけた彼女が、天邪鬼によって施術を解かれたハナだと知った時のうれしさを、太一郎は忘れられない。だがその瞬間に、今までは意識しなかった罪の意識が芽生えたこともまた事実だった。偶然のふりをして、何も知らない小花をこちら側に馴染ませようとすればするほど、その意識は強くなった。

 実際、卑怯だったのだ。

 小花がこちら側の和雪に失望して泣いた時にそれがわかった。

 もとの世界に帰ってしまえば、彼女が再びこちら側に来ることはないだろう。そして自分は、昔の契約に拘束されている限り、あちら側へは帰れない。

 だから、もう二度と会うことはできないのだと。

 そう思って、いた。



 境川の水面が、傾き始めた日差しを受けてきらめいている。

 それを太一郎は見るともなしに眺めている。

 小花が浄玻璃の鏡を抜けて二度目の越境を果たしてから、すでに十日が経過していた。

 常磐夫人の愛玩獣ペットを連れて先に戻った以空いそらの話によると、小花はあちら側でダブルと遭遇し、どこかへ跳ばされたという。ダブルとの遭遇が死を意味することは、太一郎も知っていた。そのためすぐに、面倒臭がる男爵を拝み倒して捜索をしてもらったのだが、二人の米神小花の姿は生きているものも死んでいるものも、見つからなかった。

 生死のわからない小花の不在は、太一郎を一気に怠惰にさせた。

 周囲の景色が急速に色褪せたものになり、何もかもがつまらなくなった。客人まろうどとしてこちら側に来てしまった時にも彼は似たような状態に陥ったが、今回は以前にも増して深刻だった。毎日、登校を装って下宿先を出るものの、学校へは行かず、諾々と町を歩き、疲れたらこの河川敷に来て日が暮れるまで座っている。黄昏れ時の危険など彼にはなんの意味もなさない。昨日も一昨日も一昨々日もずっとそうしている。

 そして今日も、暑い草地で一日が終わろうとしていた。

 いつしか夕焼け色に変わった空を、太一郎は茫洋と見上げた。

 この境川の景色と空の色だけは、昔、最後にハナと遊んだあちら側と同じに見えた。あの時も、河川敷に座って来ないかもしれない彼女を待っていた。そこへ、背後から怒ったような声がかけられたのだ。

「──何してるの」

 そうこんな風に。

 しみじみ思い出しては暗くなる太一郎の丸くなった背中に、黒いローファーが勢いよくめり込んだ。不意に後ろから蹴倒されて、顔面から草いきれに突っ込んだ彼は、しばしその状態で硬直してから、がばりと起き上がって振り向いた。

「別に今回は待ち合わせしてなかったと思うけど」

 目の前で、米神小花が唇を軽く尖らせるのを、太一郎はほうけたように見つめた。ややあって、あまりに長い沈黙にしびれをきらした彼女が、再び口を開いた。

「なんか言うことありませんか、イチ?」

 いなくなった時の制服姿──ただし靴下は履いていない──で睨まれ、太一郎はようやくこれが夢ではなく、現実なのだと理解する。

「今、イチって呼んだね」

 応じる声が少しかすれた。

「……それだけ?」

「何も蹴らなくてもいいのに」

「だっていると思わなかったから、びっくりしてつい」

「びっくりすると蹴るんだ?」

「先に声はかけたもん……他には?」

「うん。おかえり、ハナ」

 ここで太一郎は初めて笑った。

 かすかに目を瞠った小花が、拗ねたような顔を作って隣に座り込んだ。

「ただいま」

 かろうじて耳に入るぐらいの小さな声で言う。太一郎は急に、彼女のマッシュルームボブをかき回したい衝動に駆られた。怒られるだろうとは思ったが、我慢できずに実行して案の定、暴れ出した小花に殴られる。

「……何も殴らなくてもいいのに」

「殴るよばかっ」

「十日間もいなかったにしては元気だね」

 ど突かれた箇所をさすりながら太一郎がぼやくと、髪に手櫛を入れていた小花の顔が訝しげに変化した。

「十日?」

 どうもぴんとこない様子に、太一郎はこの十日間のことを大まかに説明した。それを聞いて、小花はことのほか驚いたようだった。

 なんでも、彼女が跳ばされたのは二つの世界の境目にある暗闇で、そこにいた夜型の手助けでこちら側にやってきたのは、つい今しがたのことであるらしい。境目に留まっていた時間はせいぜいが二、三時間だと聞いて、太一郎も軽く首を捻った。

「じゃあ、その境目だけ時間の流れが違うってことかな。ほら、浦島太郎みたいな」

 小花はいまだ納得し難い表情をしている。

「したら、あのヤマさんは何歳になるのよー」

「夜型の年齢なんて考えるだけ疲れると思うけど」

「おじいさんじゃなくて、おじさんっぽかったよ? なんか、ごわごわしてたし」

「……触ったんだ?」

 太一郎の小さな指摘に、小花が慌てて話を逸らした。

「えっとだから、その夜型さんの言葉の通りにしたら、なんとなくこの境川が頭に浮かんで、気づいたらここにいて、イチが目の前に座ってて」

「ふうん。なんとなく、ね」

 しどろもどろになっている小花を見る太一郎の目つきが、不意に真面目になった。それを素早く察知して、

「なっ、何」

 身じろぎつつ彼女が視線を逸らす。

「そんな理由でこっち側に来ちゃって、良かったの?」

 自分でも意外なほど冷ややかな声音で言った太一郎の質問に、小花が咄嗟に何事か言いかけて、それを飲み込んだ。「わからない」と言おうとしたのだと彼は思った。

 やがて、

「いーんですよ!」

 川面のほうへ視線をくれたまま、ほとんど自棄気味に彼女は宣言した。

「いろいろ考えると、これが一番穏便な選択だし。私がこっちにいる限り、ダブルの身が危険になることもないし。取り敢えずダブルが無事なら、私も安心して暮らせるし。イチもいるし。まるまる一日振り回されて、もう修正がきかないんだってことがわかったわけですよ私は」

 つまりそれは。

 彼女もまた、客人としてこちら側で生きるということだ。

 ひたすら川面を注視して早口で喋る小花を見て、太一郎は静かに頷いた。

「そうか」

 彼の望みは現実のものとなった。

 けれど、それは彼の心に取り返しようのない罪悪感を刻む現実でもあった。

 ふと思いついて、太一郎は小花との距離を詰めた。

「ハナ」

 振り向いた彼女が、相手の意外な近さに驚いて反射的に身を引きかけた。それを太一郎が腕を捕まえて止める。

「目をつぶって」

「…………は!?」

「もう俺のほうが背が高いから、今度は頭突きにならないと思う」

「な、な、なに!? な、なんでそういうことになる!?」

 主語をぼかした言い方をしたにもかかわらず、どうやらまだかつての頭突き事件のことを覚えていたらしい反応の良さに、太一郎は悪戯っぽく笑った。この会話が通じるのは、彼女がハナで彼がイチであることの証しのようなものだった。

 背後の夕焼けに負けず劣らず真っ赤になった小花との距離を、さらに太一郎が詰める。

「ちょっ、ちょと、ちょっと待っ。今日は別に泣いてないしっ」

「嘘つけ。瞼が腫れてる」

 だからきっと、ここへ来るまでに彼女はまた泣いたのだ。

 呆気なくそういう結論に達した太一郎の手が、おろおろしている小花の眼鏡をそっと掴んで外した。また蹴飛ばされるかとも思ったが、今度は大丈夫だった。

「閉じて」

 言って、太一郎は身を屈めて目線を合わせる。しばらく迷うように瞬きを繰り返していた彼女の瞼が、やがて観念して落ちた。

 ほぼ同時に、西日を受けて長く伸びた男の影が動く──。

「失礼」

 二人の背後に突如として湧いたその影は、聞き覚えのあるバリトンの声をしていた。

 驚いて目を開いた小花が、外された眼鏡を引ったくるように奪い返してわたわたと離れた。同時に思いっきり腕をはたき落とされた太一郎が、深い溜め息をつく。

 今さら考えるまでもなく、二人が振り返った先に佇んでいたのは、蒸し暑い陽気にも涼しげな顔でタキシードを着こなす美貌の青年であった。

「男爵」

 非難めいた太一郎のつぶやきに、神出鬼没な夜型五等爵の一人──ウェルテル・ウェルウィッチは微笑んだ。その露わになった右目が、赤い顔で眼鏡をかけ直した小花へと向けられる。

「おかえりハナヒェン。二度目の入れ替わりが成功しなくて残念だ」

 微笑みにどことなく凄惨なものを感じて、小花は思わず身を引いた。男爵は続ける。

「ところで、きみが境目で会った夜型は浄玻璃の鏡を持っていたそうだね。なおかつヤマさんと名乗ったとか」

「? はい」

 別に教えた覚えはなかったが、半ば気圧されて小花が頷くと、

「詳しく話したまえ」

 男爵の顔から波が引くように笑みが消えた。

「その男はおそらく、私の叔父貴おじきだ」

「おじ……?」

「そうだ。叔父貴は百年ほど前まで、八万の獄卒を率いて夜型の中核を担う本庁の総帥をしていた。浄玻璃の鏡を天邪鬼たちに破壊させて、行方知れずになった閻魔大王えんまだいおうと言えばわかるかね?」

 沈黙が下りた。

 とてつもなく長い沈黙であった。

 それを破って、

「ええええ────?」

 と悲鳴にも似た驚きの声を上げたのは小花である。

「ふん。あのヒゲダルマめ、これ以上待っても帰ってこないつもりなら、無理にでも連れ戻してくれる」

 表情こそ穏やかだが、独りごちる男爵の声には毒がある。

 その直後、太一郎の頭に小さな記憶のつまづきが起こった。

「ヒゲダルマ」

 男爵の一言をきっかけにして、何かが彼の中で蘇る。その何かは、最初はなぜか隣にいる小花と同じ顔をしていた。しかし、見つめるうちに次第に輪郭を変え、恰幅のいいこんもりした男のシルエットになる。

 年の頃は四十代後半から五十代前半。黒い山高帽を被り、黒いインバネスに身を包んだ中年の──頭髪ともみあげと頬ヒゲと口ヒゲと顎ヒゲが一つに繋がった男。

「あ」

 

 沈みゆく夕日を受けて、彼は八年ぶりに取り戻した記憶に声を上げた。



 数日後。

 八ツ目市役所から米神小花に、正式に客人証明カードが発行された。

 奇しくもその日、気象庁からは例年より早い梅雨明け宣言がなされ、小花の額にあったニキビもきれいさっぱり消え失せた。

 さてこれからが夏本番、というわけである。



                          了

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はないちもんめ 夏野梢 @kozue_kaze

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