第五章 越境 ②


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 どうして。

 同じ顔の人間が二人もいるのだろう。

 どうして。

 似たような世界が二つもあるのだろう。

 素朴な問いが浮かんでは消える。

「仕方なかろう」

 そんな小花の傍らで声がした。

「だが世界というものは二つこっきりではないぞ。ざっと数えれば十億だ」

 じゅうおく? と小花は声に聞き返す。

「左様。三千世界さんぜんせかいというのを知っているかね?」

 三千円がなに?

「お金の話じゃあないわい。正しくは三千大千世界という。きみの住む世界を一として、掛けることの千を小千世界。これにさらに千を掛けて中千世界。さらに千を掛けて大千世界。これが三つで三千世界だよ。ん? わからん? うむ。とにかく数で言えば十億だ。──ずいぶん昔、その十億のうちの二つが接触事故を起こしてね。その時に、多くの虫食い穴が空いた。穴を通して互いの空間にある有機物無機物が行き来した結果、よく似た世界が二つできてしまったのだ。それが、。迷惑な話だよ、まったく」

 声に混じって、溜め息を落とす気配がした。

「おかげでわしは大変だ。本来なら一つの世界の死者だけ裁くはずなのに、倍になった。仕事も倍だ。それを一千年も続けてみたまえ。そりゃあストライキぐらいしたくなる。ほらきみもね、さっさと決めてくれんかね。わしは静寂を好むのだ」

 決める?

「好きなほうを選びたまえ。二つのうちの一つを。ああ、もう決めてるのか」

 嘘。私なんにも決めてない。

「嘘じゃあない。わしは嘘がつけない体なのだ」

 うんざりしたように言って、声は不意にその大きさを増した。



「とにかく起きたらどうかね、きみ」



 馬鹿でかい声が耳元に降ってきて、小花は驚きの悲鳴を上げた。と同時に自分の悲鳴にも驚いて、バネ仕かけの人形のように横たえていた体を跳ね上げる。テレビドラマでよく見る、実際には絶対にそんな風には起き上がらないだろうと思われる目覚め方を、しかし彼女は初めてした。

「あ? え? え?」

 動悸の収まらない胸を押さえ、咄嗟に見回した辺りは暗い。

 暗いというより、闇だった。

 夜だからではない。

 そもそも、この場所が室内なのか外なのかさえ、小花にはわからなかった。空気はあるが風はなく、寒いのか暑いのかも定かではない。自分は確かに先ほどまで眠っていて、たった今目覚めたばかりのはずなのに、まだ微睡んでいるような気がする。それほどに不確かで、暗い空間に小花はいた。

 なぜか、あまり恐ろしくはなかった。

 中学校の修学旅行で京都に行った時、胎内巡たいないめぐりというものをしたことがある。お堂の地下に設けられた真っ暗闇の空間を、入口から出口まで張られた長い数珠を辿って抜けていくものだ。その時の記憶が蘇った。

 ならば辺りに何かないかと、適当に右手を伸ばしてみた小花は、ほどなく闇の中で何かごわごわしたものに触れた。布ではない。壁でもない。強いていうなら生き物の毛並みに似ているが、それならばすぐに伝わってくるはずの体温が感じられず、小花はそれを触りながら首を傾げた。

「なにこれ」

 試しに軽く掴んでみる。

 やはり感触がこわい。

 試しに軽く引いてみる。途端、

「痛っ、あたたたたたたっ」

 すぐ近くで太い叫び声が上がり、小花を死ぬほど驚かせた。やっと落ち着き始めていた心臓が、また跳ね上がる。

「何をしおる!?」

 闇の中から思いきり怒鳴られて、小花は慌てて手を離した。

「おわっ?! ご、ごめんなさい!」

「さっきから黙って見ていれば、ずいぶん失礼なことを──ほれ。こら。違う違う違う違いますぞ。わしはこっち! そっちじゃないわい!」

「え? あ? こっち?」

 まったく見えない中で相手に頭を下げるのは一苦労である。声を頼りに方向を定めようにも相手の声が馬鹿でかく、あちこちに響いていてかえって迷う。仕方がないので、取り敢えず正面に向かって小花は謝ったのだが、どうやら少しばかり方向がずれていたらしい。どこからともなく伸びてきた太い腕が、彼女の両肩をむんずと掴んで向きを修正した。

 とはいえ、相変わらず周囲は真っ暗闇なので、それが本当に合っているのかすら小花にはわからない。どこを向いても同じだろうというのが、第一の感想だ。

 しかし、

「同じなものか。きみは誰かと話をする時、明後日あさっての方向を見て話すのかね?」

 胸中で思っただけの事柄に対して、相手からコメントが返った。

 瞠目した小花は、否応なく同じ能力を持った人物を思い出した。男爵である。不躾に人の心を見透かして勝手に会話を進める、あの美形の夜型が目に浮かぶ。しかし、先ほど聞こえた声はどう若く見積もっても五十代ぐらいの中年男の声だった。

「あなた誰?」

 恐る恐る小花が尋ねると、

「わしかね? 訊かんほうがいいと思うぞ」

 やはり太い男の声が返った。

「あ、わ、私は米神小花と言いまして」

「知っている」

「え、なんで?」

 思わず聞き返した小花の問いには答えず、男は「名乗らんのも不便かの」と独り言にしては大きな声でつぶやいた。

「わしのことは、さすらいのヤマさんと呼びなさい」

「は…………い」

 この手の相手が人間である確率は非常に低い。これまでの経験で予想はついていたが、一応小花は確認しておく。

「あのー。さすらいのヤマさんは、もしかしなくても夜型、ですよね?」

「そういうカテゴリ分けには反対なんだが──そうである」

 案の定である。

 いささか憮然とした返事をしてから、ヤマさんは続けた。

「先に言っておくが、読心どくしんは別にわしの能力というわけじゃないぞ。これは鏡の所有者なら誰でも備わる力なのだ。言ってみれば所有者特典なのだ」

「鏡って、えっ、と」

「浄玻璃の鏡だよ。飲み込みが悪いなきみは」

 余計な一言についむっとしたものの、それよりも気になることがあって小花は「でも」と漏らした。

 浄玻璃の鏡は、確か百年前に割れて散り散りになってしまったはずであった。全部で十三ある破片のうち、所在がわかっているのは男爵が所有する一片だけと聞いている。

 ──というようなことを、首を一つ傾げる間に思っていると、

「わしが持っとるのは、その行方不明になった破片の一つだ」

 読心をしたヤマさんが勝手に説明を始めた。

「獄卒どもの追っ手をには、痕跡を残しにくい浄玻璃の鏡で移動するのが一番でな。最初から持っていく計画ではあったのだ。しかし、もとのサイズだと大きすぎてバックには入らんから、破片にしたのだよ」

「はあ」

「だが誤算であった。破片ではわしの気質が影響しすぎて、普通の夜型のように自由に跳べないのだ。不用意に移動すると、殺人現場やら臨終場面やら心中部屋やらに出くわす。これは非常に不愉快だ。せっかく忘れている仕事を思い出してしまう。三百年近く悩んでやっと実現させた自主休暇バカンスだというのに……」

 闇の中で、深い溜め息が落ちた。

「しょうがないから、最近はここに引きこもって読書に専念しておるわけだ」

 ヤマさんの話は、はっきり言って意味不明であった。

 視界が効かない状態で会話をしているだけでも異常なのに加え、話の内容が理解できないとなると相槌も打てない。少し考えた後、小花は敢えて今聞いた話には触れないよう、口を開いた。

「あーじゃあ、ここはどこなんですか?」

 それが一番の問題であった。

 せっかくもとの世界に帰れたと思ったのに、もう一人の自分に遭遇したことでどうやらまた跳ばされてしまったらしい。しかも、真っ暗闇だから二つの世界のどちらにいるのかもわからない。本来なら最初に言うべきだった彼女の質問に、ここの常連らしいヤマさんが「あわいだ」と答えた。

「あわい?」

「あっちとこっちの間。もしくはこっちとあっちの間。要するに二つの世界の境目だ」

 小花の頭に、瞬間的に閃く事柄があった。

「ってことは、まさかあなたが調整役?」

 だが、返ってきたのはぶんぶんという、手を大きく振った時の風圧だった。

「違うわい。だってきみ、自分のダブルに会ったのだろう?」

「はい。なんで知ってるんですか?」

「さっき自分で話しとったじゃあないか。ああ、思ったのかな。寝てる間に夢と一緒にぐちゃぐちゃ考えていたのだよ。思考が入ってきてうるさいから、わしが質問に答えてやっていたのだ。覚えてないのかね?」

「ぜんぜん」

 またヤマさんが吐息をついた。小花が尋ねる。

「ダブルに会うと境界に跳ばされるんですか?」

「寝ても覚めても質問が多い子だな、きみは」

「しょーがないじゃないですか。わかんないんだもん」

「少しは自分の頭で考えるとかだね……いや、考えんでよろしい。わしがうるさくてかなわん。ええと、ダブルの話だったな。つまりあれだよきみ、ダブル同士は会っちゃいけない決まりなのだ」

「なんで?」

「死んじゃうから」

 あっさりと言われて、小花の中でしばし時間が止まった。

「……………………は?」

 やっとのことで返せた反応は、その一言だけだった。

 闇に包まれた彼女の正面で、わずかに笑う気配がした。

「聞いたことがないかね? 自分の幻影を目撃した人間は死ぬという話を」

「し、知りません」

「では今すぐ覚えるといい。わしが教えてやったのだ。ありがたく思いたまえ」

 大げさな衣擦れの音がして、ヤマさんが胸を張った。実際に見えはしなかったがそんな気配が小花には伝わった。

「じゃあ私は死んじゃうんですか?」

 にわかに周囲の闇に恐ろしさを感じて言った小花に、しかしまたしてもヤマさんはあっさり答えた。

「あ、きみは例外」

「え?」

「きみの命は、わしが一時預かりをすることになっとるからね。調整役もそこらへんを考慮して、まずわしのいるところへきみを跳ばしたのだろう。おそらくもう一人の米神小花もこの境目のどこかにいるはずだ。わしがきみの命を奪うか否かで彼女の運命も決まるということだね」

 小花の顔に疑問符が浮かんだ。何が何やらまるで話が見えなかった。だいたい、どうして自分の生死が見ず知らずの夜型に決められなければならないのか。戸惑う彼女をよそにヤマさんは容赦なく話を進めていく。

「以前、わしはある人間と契約を結んでね。きみの命がその契約の担保になっとるのだ」

「は、タンポ?」

「相手が契約に違反したら、きみには死んでもらうことになる」

「な」

「だがまだその人間は契約に違反しとらん。よって、わしにはきみの命を奪う理由がないのだ。むしろ死なれたら担保がなくなるから困る。だから今は、できれば死なないでほしいのだが、どうかね?」

「ど、ど、どうって、ちょ、ちょっと待って」

「なに、死にたいのかね?」

「そうじゃなくて!」

 話がずれていきそうになるのを、小花は悲鳴混じりに止めた。

「た、たん、担保ってなんですか。私は聞いてませんよ?」

「そりゃそうだろう。言ってないですからな」

 自分で言った言葉に、ヤマさんはうけけと気味の悪い笑い声をたてた。

「わしと契約者だけの取り決めだ。まあもっとも、その契約者も記憶を少しいじっておいたから覚えていないだろうがね」

 小花の顔が冷ややかに、しかし嫌そうにしかめられる。

「詐欺じゃないですか」

「だが折に触れて、きみの顔が脳裏にちらつくよう細工はしてある。封印も一過性のものだし、違反しそうな時は思い出すので問題はない」

 大ありである。

 契約者が誰かは知らないが、この件に関して小花はまったく承知もしていなければ了解もしていない。よりによって自分の命がかかっている話に、それはないだろう。

 無論、彼女は怒っていた。担保の話をきっかけにして、何やらここへきて今日一日の出来事が目まぐるしく頭の中に思い出され、今さらながらに不愉快になってきていた。

 そもそも小花自身に落ち度はなかったはずだ。

 いつも通りに生活していたに過ぎない。なのにいつの間にかネガティブ客人にはされ、黒い獣には食われかける。もとの世界に戻りたくて男爵についていけば、もう一度入れ替わるとダブルが夜型の裁判で死罪になると言われ、一度は逃げたものの結局は越境するはめになる。そうしたらダブルに遭遇して、世界の境目に跳ばされて、挙げ句の果てには自分の命が誰かさんの契約の担保になっているときた。

「あー、ああああああああああー、もうやだ。もうやってらんない」

 髪をぐしゃぐしゃ掻きむしって、小花はその場に座り込んだ。どうせ暗闇で見えないのだからと、スカートにもかかわらず胡座をかいて腕を組む。

「つまり私に死ねと? そーいうことですか」

 自棄気味に極論を述べた彼女に、ヤマさんが呆れた声を出した。

「逆だろう。わしは生きててほしいと言ったのだ」

「だって、もとに戻っても裁判でダブルが死ぬから私も死ぬし、ダブルと会っても私が死ぬし、ヤマさんと契約を結んだ人が違反しても私が死ぬんでしょ。なんかもう私に死ね死ね言ってるみたいにしか聞こえませんよ」

「だがきみは生きている。まだ死んでおらんだろう」

「でも一歩間違ったら死んじゃう状態ですよ。身動きとれませんよ。風前の灯火ですよ。てか、誰なんですかその契約者って。私になんの恨みがあるんですか」

「気持ちはわからんでもないが、ちょっと落ち着きたまえ」

「無理ですよっ」

 叫んで、小花は両手で顔を覆った。泣くのは嫌だった。どんなに感動する映画を見ても、人前では涙を流さないようにしているぐらい嫌いだった。けれど、瞬間的に瞼に溢れたものはどうしようもなく、頬を伝って流れ落ちていく。

 気づけば彼女は声を殺して泣いていた。誰かのためにではない。自分の身に起こったことを、自分の中で処理するための涙だった。

 やがて、小花の嗚咽が小康状態になったのを見計らって、うおっほんとわざとらしい咳払いが響いた。

「今のところ、わしがきみの命を奪うことはない。契約者の名前もその内容も明かすことはできんが、きみが境目から出る手助けぐらいはしてやってもよいぞ」

 心なし優しく感じるヤマさんの言葉に、小花はのろのろ顔を上げる。

「帰りたいのだろう?」

「……です。でも」

 どこへ──?

 いくら小花が泣けど叫べど、身動きが取れない現状に変わりはなかった。二つある世界のうち、どちらへ行くのが良策なのか、その結果もう一人の米神小花はどうなってしまうのか、気になることを挙げていけばきりがない。

 しかしヤマさんは、そんな彼女にひどく不思議そうな調子で言った。

「どこって、きみはもう決めているじゃあないか。自分でわからないのかね?」

「?」

「さしあたって帰る場所だよ。ほれ。もう泣いてないで立ちなさい。女の子がスカートで胡座をかいて泣くなんて、目の毒だ」

「……見えてんですか」

「まぁね」

 一拍ほど間を置いて、小花がものすごい勢いで立ち上がったのは言うまでもない。赤い顔で無意味に方々を睨む彼女を宥めるように、暗闇から伸びた手がマッシュルームボブの髪をひと混ぜした。

「感謝したまえよ。特別にわしの鏡を使わせてやるのだ」

 髪から下りた大きな手が、

「お代は……そうだね」

 と言いつつ小花の肩を滑って、さらに下のスカートのポケットにもぐり込む。たちまち出てきた彼の指にはあの鴉天狗にもらった黒い羽がつままれていた。らしい。小花はまったく見えなかったのだが、ヤマさんが説明してくれたので、そうと知れた。

「ちょうど本の栞が欲しかったところだ。この風切り羽をいただこう」

「わざわざお代を取るんですね」

 そういえば、鴉天狗も結界を解く代わりにその羽を差し出してきたことを、小花は思い出した。

「何かを得る代わりに何かを失うのは当然だよ。これを怠ると後で因縁が発生してしまう。わしら夜型は因縁には敏感でね。時に命に関わることもあるから、小さなことでも取引にしておくのだ」

「はあ」

「きみも、二つをいっぺんに得ようとしてはいかんぞ。どちらかを得ただけでもよしとしたまえ。まあ、取り敢えず好きなほうに行けばよい。ダブルの行方もそれで決まる。細かいことは調整役に任せておきなさい。こういうことのために、あれはいる。きみが選ぶのはさしあたっての明日だけだ」

「さしあたって」

「そう。さしあたってだ」

 ヤマさんの言葉を口の中で転がしながら、小花は目を閉じてみる。黒一色に塗り込められた瞼の裏側に、ほのかな橙色が浮かび上がった。

 夕日の色だった。

 彼女が何かを言う前に、二つの世界の間で男が笑う。

「了解した」

 厳かな言葉に遅れて、膨れたボストンバッグが開く重い音がした。

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