第五章 越境 ①


     1


 わたしは一人じゃない。

 母さんが帰ってこなくても。

 父さんが母さんを見限っても。

 カズユキが口をきいてくれなくても。

 だって今ここでわたしが死ねば、あっちのわたしも死んでくれる。

 世界ってそういうものなんでしょ?

 一人でなんか死なない。

 彼女も一緒。

 だからわたしは一人じゃない。

 死ねばわかる。

 確認してみるんだ。

「あのさぁ、シリアスに思い詰めてるとこ悪いんだけど」

 ……なに。

 あなた誰。

 邪魔、しないで。



     2


 ガシャン。

 何かが派手に割れる音がして、小花はびくりと目を開いた。

 まず最初に見えたのは、前方の上り階段だった。

 次に階段の先にあるリノリウムの廊下と、右斜め前の下り階段。クリーム色の床に見覚えがある。なんだったかと少し考えて、自分がいつも通っている鳥船学園高等部の校舎の床だと気づく。学校内の階段の踊り場だ。そこに彼女は、背を壁に押しつけるようにして立っているのだった。

 あたりには誰もいない。

 ただ、今が昼間だということだけがわかった。踊り場の高窓から差し込む日の光が、床に窓枠の四角い影を落としている。

 壁から背中を離した小花は、その影の中に気になる物を見つけて、うつむいた。

 それは、一枚の割れた手鏡であった。

 スケルトンの白い水玉柄のプラスチックに、長方形の鏡がはまっている。どこの百円ショップでも売っているシンプルな代物だが、鏡の周囲とプラスチックの部分には、ラメの入ったシールでごってりと装飾が施されていた。加えて今は、鏡の表面に放射状に入ったひびがさらなる装飾になっている。

 ひびの数が十三本であることを小花は知っていた。

 なぜなら、その手鏡は彼女自身が一週間前に階段の上から誤って落とし、割ってしまったものだったからである。

「これ」

 なぜ今ここにあるのか。

 思わず身を屈め、拾おうとした手の先で──しかし手鏡は忽然とかき消えた。

 と同時に、今まで静かだった周囲が一変して騒がしくなる。

 無人だと思っていた階段を小花と同じ制服を着た生徒が行き交い、踊り場から見える廊下で多くの話し声が湧き上がった。人の気配と息づかい、足音、どこかで誰かが机を床でこする音──聞き慣れたいつもの学校の生活音に包まれる。

 そして、

「ハナ?」

 消えた手鏡に腕を伸ばした格好で固まっていた小花は、喧噪に続いて頭上から降ってきた声に驚いて背を伸ばした。

 前方の階段の上に立ってこちらを見ていたのは、親友の西尾志鶴だった。

「シヅ……?」

 つい例の愛称を言ってしまってから、慌てて小花は口を押さえる。一呼吸置いて、

「ニシオさん」

 ぎこちない口調と笑顔で応じた彼女に、しかし当の志鶴本人は「はあ?」とひどく不思議そうな顔をした。今朝、小花自身が態度のおかしい親友にそうしたように。

「なにそれ」

 思いきり訝られたことで、今度は小花が首を捻った。

「嫌じゃないの?」

「なにが?」

「私にシヅって呼ばれるの」

「なんで?」

「え…………あれ?」

 何かがおかしい。

 いや、おかしくはない。これが普通だ。いつもの志鶴だ。

 いつもの。

 戸惑いの表情を浮かべる小花の前に、踊り場まで階段を下りてきた志鶴が近づいた。

「どうしたの。大丈夫ハナ?」

「あ、ハナって呼んだ」

 やはりいつもの志鶴である。

「呼ぶよ。というか、なんで靴を履いてるわけ?」

 問われて、足元にやった志鶴の視線を追った小花は、自分が他の生徒と同じ白い上履きではなく、黒いローファーを履いたまま校舎に上がっていることを知った。

「しかも裸足だし」

「ああ、うん」

 それはそうだ。靴下は黒い獣に襲われた際に脱ぎ捨てて以来、男爵の屋敷で用意された新しい衣服の中にもなかったので、履いていないのだ。そう説明しようとして、なんとなく小花は思いとどまった。まだ自分がなぜ学校にいるのかが理解できない。

「ねえシヅ。……今って昼? 夜じゃな、いよね」

 恐る恐る訊いた彼女に、志鶴が再び「はあ?」と訝る。

「当たり前」

「だよねぇ……んじゃ、何時?」

「三限が終わったとこだから、十一時四十分ぐらいかな」

「もしかして休み時間とか?」

 クイズの答えでも当てるような調子で言う小花を、志鶴が呆れたふうに見つめた。

「そうだよ。ホントに大丈夫? なんか変じゃない?」

 軽く教えてくれるが、声にはやや案じる色がある。それを敏感に感じ取りつつ、小花は無意味に己の右手を開いたり閉じたりした。笑ってごまかす心中は穏やかではない。

 本当に何がどうなっているのか、まったくわからなかった。

 男爵に背中を押され、浄玻璃の鏡に手をついてしまったことは覚えている。太一郎の声が遠くで聞こえたことも覚えている。その後、強い目眩を覚え──気がついた時にはもう学校の踊り場だったのだ。

 意識を失っていたという感覚はない。

 何やら正体不明の人物の独白を聞いたような気もするが、目眩が起こったのはほんの一時で、おそらく十秒もなかった。たったそれだけの間に、周囲の景色がいきなり夜の男爵邸から昼の鳥船学園に変わってしまったわけである。挙動不審にならないほうがおかしいと、小花は思う。

「ちなみに、今日って何月何日だっけ?」

「ハナ……」

 いよいよ本気で心配し始めたらしい志鶴が、それでも真面目に答えてくれた日付は小花が頭に思い描いた今日の日付と同じだった。ということはつまり、時間のみが半日ほど戻ったことになる。

 マッシュルームボブの髪を掻き上げて、小花は低く呻いた。

 十一時半すぎといえば、確か八ツ目市役所の食堂で太一郎と昼飯を食べていた頃だ。当然、学校にはいない。そもそも今日は登校すらしていなかった。

 にもかかわらず。

 ちょうど階段を上がってきた同じクラスの女生徒が、踊り場に佇む小花を目にして、こんな声をかけてきた。

「あれ、コメカミさん。トイレは?」

「え?」

「もう済んだんなら、このプリント教室で配ってよ。日直でしょ」

 そう言う彼女の手には、印刷の臭いをさせたわら半紙の束が抱えられている。横から覗くと、小花のクラスの担任教師が不定期に発行している学級便りであった。

「日直?」

 首を傾げて疑問を口にする小花を見て、女生徒は志鶴と似たような表情になった。

「忘れてんの? さっき担任が呼びに来たんだよ? コメカミさんがトイレ行ったの知ってたから、あたしが代わりにプリントもらってきたんだけど」

 小花はさらに傾ける首の角度を深くする。

 今さっき自分がいたのは、トイレではなく男爵邸の鏡の間だ。呼び出しなど受けられるはずもない。解せない彼女の胸に、女生徒がわら半紙の束を押しつけた。

「掃除の代わりに、みんなで簡単に教室のゴミ拾いしとけって。終わったらすぐにホームルーム。で、一斉下校だそーです」

 小花の顔の中にまた疑問符が湧く。

「一斉下校? 四限は?」

 女生徒が志鶴と顔を見合わせた。一拍ほど置いて、「校内放送、聞いてなかったの?」と言ったのは志鶴である。小花がふるふる首を振ると、彼女は小さい溜め息を挟んで再び口を開いた。

「近くのコンビニで事故があって、今日は授業が切り上げになったんだよ」

「事故?」

「学園の一個先のバス停あるでしょ? その前のコンビニに大型トラックが突っ込んだんだって。けが人は出なかったけど、お店はめちゃくちゃで、道路も規制されてるみたい」

「臭いとかひどいらしいよ。牛の」

 と付け足したのは、プリントを持ってきた女生徒だ。

「……牛」

 小花が既視感を覚えたのは言うまでもない。否応なく思い出されるのは、鴉天狗が男爵の使役する牛(ヴォルフガング)を殺したという今朝の出来事である。小花自身は見ていないので詳細を知るべくもないが、近くのコンビニがその巻き添えを食らって半壊したとの話は知っていた。

 しかし志鶴の話では、コンビニに突っ込んだのは牛ではなくて大型トラックだという。

「なんで牛?」

 小花のつぶやきに、女生徒がちらりと階段下に目をやって、

「突っ込んだのが、牛運搬用のトラックだったの」

 と踊り場の壁に身を寄せた。

「興奮した一頭が暴れて死んだって噂もあるよ」

「一頭が……」

 女生徒の説明を反駁する小花の胸に、うっすらと違和感が広がった。コンビニが被害に遭ったことは確かだが、自分が知っている出来事とは微妙に異なる印象があったのだ。コンビニ、牛、一頭死亡、それぞれのピースは合っているのに、はまる位置が違っている。ほとんど瓜二つにもかかわらず細部にはわずかな差異が生じるもの──その事象には心当たりがある。

 即ち、

 並行に存在しているという二つの世界の有り様である。

「ねえシヅ」

 階下から男子の集団が上がってきた。先に移動していた女生徒にならって、小花と志鶴も壁際に寄る。そのしなに発した呼びかけに「ん?」と色素の薄い親友の目が応じた。

 小花はやや迷うように視線を泳がせた。

 すぐ脇を同じ学年らしい男子が五六名、賑やかに通り過ぎていく。踊り場に立つ女子三名を気に留めたのか、うちの一人が顔を向けた。小花と目が合ったのは、おそらく偶然だったろう。

 交わってすぐに、これといった感情もなく視線を外した男子生徒の横顔を見ながら、小花は喉にせり上がった質問を吐き出した。

「……『月刊まろうど通信』って知ってる?」

 なぁにそれ。

 傍らで聞いていた女生徒と共に、胡乱げに出された声が小花の耳でうつろに響いた。

 残りの階段を上がり、廊下の角を曲がって去った男子の集団を見送って、彼女は無感動に応じた。

「うん、わかった」

 たった今すべてが。

 つまり小花は帰ってきたのだ。

 浄玻璃の鏡に触れたことで再び越境し、もといた世界に戻ったのだ。

 その事実を彼女は唐突に悟っていた。質問に対する志鶴の答えを待つまでもなく、目の前を横切った一人の男子生徒の顔を見て知った。

 今いるこの世界は、同級生の西尾志鶴が親友で、彼女以外に小花をハナと呼んでくれる人などいない世界だ。コンビニが破壊されてもそれはもちろん、夜型と称される化け物同士の戦いが原因ではなく、不運な事故でしかない。市役所から客人の認定をされることもないし、酒屋の女将が居眠りをして頭が床に落ちることもない。

 小花が家に帰ればきっと母がいて、いつも通りに「おかえり」と言う。弟の和雪は変わらずアレルギー体質で、けれどいつも通りに姉に笑いかけてくれる。そして、そんな可愛い弟をいじめた憎たらしい幼なじみのあいつとは、きっといつまで経っても昔のような間柄にはなれないに違いない。

 だって彼はただの館上太一郎で、イチではない。

 学校で小花を見かけても、目が合っても、声をかけるどころか何も思わない人物だ。

 そんな幼なじみのいるところが、小花の世界だった。

「…………」

 先ほど目の前を通り過ぎた館上太一郎の横顔を思い出して、小花は密かに唇を噛んだ。

 なんだか無性に腹立たしい。悔しいのかもしれなかった。

 冷たい横顔に続いて脳裏に浮かんだのは、数時間前まで一緒に過ごしていたやはり館上太一郎の面影だ。同じ名前と顔。けれど別人だと、彼女は身に染みて理解した。

 どうしてそんなことが起こったのかはわからない。だがおそらく八年前、太一郎の両親が亡くなった時か、あるいはその直後に二人は入れ替わってしまったのだろう。小花が学校で再会した時にはもう、彼はイチではなかったのだ。

 そんなことに今になって気づいたのが、小花は悔しくて堪らなかった。

「うちらも教室戻らない?」

 不意に黙りこくってしまった小花を横目に、女生徒が口を開いた。ちょうど予鈴が鳴ったことも手伝って、誰ともなく踊り場から上の階へと移動し始める。小花も志鶴の後に続いて歩き出したものの、ふと思いつくことがあって足を止めた。

「ハナ?」

 その気配を敏感に察して振り向いた志鶴に、

「手鏡……割れたよね」

 と脈絡なく尋ねる。

「私、一週間ぐらい前にこの階段で手鏡落として割っちゃったよね」

「ああ」

 同じく立ち止まった志鶴を、隣にいた女生徒が一瞥して軽く肩を竦めた。そのまま何を言うでもなく、二人を置いて階段を上って行く。廊下を曲がる彼女の背中を眺めてから、

「でも昨日、新しいの買ったじゃない」

 と志鶴は小花に視線を戻した。

「私が?」

 小花がきょとんと瞬いた。それに小さく頷いて、「学校の帰りに二人で」と志鶴が付け加えた。

「それも忘れたの?」

「あ……う、ん」

 呆れるのではなく、深刻な顔で歩み寄ってきた志鶴に、小花は笑って誤魔化しながら少し距離を取った。無論、手鏡を購入した覚えなどなかった。その証拠に、彼女は現物を持っていない。

「ハナ、やっぱり変だよ」

 志鶴が肩口に流れた巻き髪を後ろへやって、溜め息をついた。

「最近すごく忘れっぽくない?」

「そ、そうかなあ」

「そうだよ。だって、ちょっと前までは手鏡を割ったこと自体、忘れてたじゃない」

 小花の笑みが瞬間的に固まった。

 即座に改めて笑い直したが、心に広がった動揺は抑えようもない。

「なんか、雰囲気もちょっと変わった気がするし」

「えー気のせいだよ。気のせい気のせい」

 大げさに体を揺すって否定した小花だったが、不自然な間を置いて、唐突に先ほど女生徒から渡された学級便りのプリントを志鶴に差し出した。

「な、なに?」

 驚く志鶴に向かって、勢いよく頭を下げる。

「ごめんシヅ! これ持って先に教室行っててくださいっ」

「ええ? なんで?」

 当然と言えば当然の問いかけに、小花は「ちょっと……」と言い淀んでうつむいた。日だまりに落ちた窓枠の影の中に、自分の黒いローファーが溶け込んでいる。

「靴をね……そう。そうそう靴をねっ、履き替えてこようかなって!」

 明らかに今思いついたような口ぶりであったが、もっともな理由でもあったのが幸いしたらしい。相変わらず土足でいる小花を見つめて、志鶴は一応の納得した。

「だからなんで靴を履いてるのって……まあいいわ。じゃ、教室でこれ配っててあげるから、早く来るのよ」

「ありがとおっ!」

 溜め息混じりにプリントを受け取ってくれた志鶴に、小花は全力で感謝の意を伝えて身を翻した。上りかけた階段を再び踊り場まで下り、さらに階下へと向かう。どうやら今までいたところは一階と二階を繋ぐ階段だったようで、昇降口へはすぐに辿り着いた。予鈴が鳴ったせいか、幸い付近をうろついている生徒は一人もいない。

 小花は慣れた足取りで自分の下駄箱に直行すると、薄い鉄製の扉を開けた。

 中履き用と外履き用に仕切られた三十センチ四方の棚に、一足の履き物がある。入っていたのは、小花が履いているものとほぼ同じ型のローファーだった。

「────」

 思わず、扉を叩きつけるように閉めてしまってから、小花は一つ息をこぼした。

 そうなのだ。

 自分はもとの世界に戻ってきた。けれど、まだ完全にもとに戻ったわけではない。館上太一郎が二人いるように、米神小花もまた二人いる。二度目の入れ替わりが成功するかどうかは、二十四時間後に調整役が干渉してきた時に決まるという。つまりそれまでは、一つの世界に同じ顔と名前をした人物が二人存在することになるのだ。

 手鏡が割れた過去を知らず、けれど志鶴と一緒に新品を購入し、今日の日直をこなして先ほどトイレへ行ったという、この二足目の靴の主──もう一人の米神小花もまた、学校のどこかにいるに違いなかった。


     3


 小花はしばらく、ただその場に立ち尽くしていた。

 土足のままでは教室にも行けないし、かといって替えの上履きもない。職員が使う特別教室棟の玄関に行けば来客用のスリッパを借りられるが、それで解決する問題ではない気がした。

 教室には、もう一人の米神小花がいるかもしれないのだ。

 もうホームルームは始まっている頃だ。なのに誰も呼びに来ないということは、即ち小花よりも早く彼女が教室に戻ったという証拠ではないか。二人が遭遇すればきっと周りは騒ぎになるだろう。それを承知で彼女に会いに行く勇気は、小花にはなかった。

 ゆえに動けずにいる。

 その時、つくねんと立ち尽くす彼女の耳に、不審な音が侵入した。

 生き物の息づかいである。

 同時に、どこか近くに何者かの気配が生まれた。昇降口の下駄箱は学年ごとに数列に分かれて並んでおり、小花はうちの一番左端の下駄箱前に佇んでいた。息づかいは、その右側からゆっくり近づいてくる。

 やがて、外側から通路を回って姿を現したものを見て、小花は盛大に顔をしかめた。

 それは黒いドイツ犬だった。

 シュナウザーという種類で、見た目は可愛いと言えなくもないが、油断して近づくと腹の下の影が増幅して実体化し、人間を捕食しにかかる化け物だ。少なくとも、小花の目の前にやってきたのはそういうことができる犬だった。

 見間違いではない。細良神社で小花を襲い、男爵によってこちら側に越境させられたあの黒い獣である。

 その証拠に、五メートルほどの距離を置いて地面に座ったシュナウザーの影は、建物の中だというのに黒々と濃く、かつ異様に大きかった。

 うぉん!

 後ずさった小花を見据え、シュナウザーは一声吠えて立ち上がった。が、神社の時のように襲いかかってはこず、踵を返して歩いていく。外に出る扉の一歩手前で立ち止まり、振り返ってまた一声吠えた。

「……え、っと」

 ずり落ちた眼鏡を指で押し上げて、小花は情けないほどに震えた独り言を口にする。

「もしかしてついてこい、とか?」

 うぉん!

 半疑問形のつぶやきに返事をされて、小花は憮然と首を振った。

「遠慮しときます」

 自分を喰おうとした化け物に、誰がのこのこついていくものか。そう思って顔を背けた彼女の前に、再びシュナウザーがやってくる。嫌がっているのを悟ってか、今度は首を伸ばして制服のスカートの裾をくわえた。

「げ」

 前に着ていた制服をぼろぼろにされた記憶が蘇り、小花は慌ててスカートを取り戻そうとする。しかし、そこは見た目は犬でも夜型の化け物、力で敵うはずもなし。食いちぎられるのを恐れるあまり、シュナウザーが引くに任せて歩く彼女は、呆気なく校舎の外へと連れ出されてしまった。

「ち、ち、ちょ、ちょっと、はな、離し、離してって! 私はきみに用がないんだって。食べたって美味しくないからっ」

 いくら小花が喚けども、暑い日差しに照らされた校舎の周辺には、悲しいぐらいに人の姿がなかった。

 そうして聞く耳を持たないシュナウザーに引きずられること一分少々。ちょうど校舎の裏手にある中庭の片隅まで来たところで、やっと小花のスカートは解放された。くわえられただけとはいえ、生地に牙の穴がくっきり空いたのは言うまでもない。

「あーあああああ……たらしいのに」

 埃ではないのだから手で払って穴が消えるはずはないが、小花はスカートの裾を押さえて嘆かずにはいられなかった。その後頭部に、

「今度はえらい賑やかさんやなぁ」

 とのんびりした声が当たる。

 反射的に振り向けば、普通教室棟と特別教室棟の間に横たわった渡り廊下の暗がりに、長身の男が一人立っていた。二十代前半ぐらいの若い男である。長袖のシャツにジーンズというラフな格好をしているが、金髪のポニーテールと右手に持った細長い袱紗包みが否応なく人目を引いた。

 どこかで見たような人に思えて、小花は驚くよりも先に訝しんで後ずさった。彼女をここまで連れてきたシュナウザーが、甘えた声を上げて男の足元に駆けていく。

「お前もごくろうやったな、阿奴毘須アヌビス

 犬の黒い頭を撫でてやりながら、金髪男は小花に笑顔を向けた。

「たぶん今度は正解やで」

 リラックスした様子で歩み寄ってきた彼は、まず自らを以空いそらと名乗った。次に、自分は所謂あちらの世界の人間であり、小花と同じく浄玻璃の鏡を通ってこちら側にやってきたことを明かした。

 そこで小花はようやく思い出した。

 越境の直前、鏡の間には多くの人影が駆け込んできた。その中には太一郎もいたが、隣に確か背の高い金髪の見知らぬ男がいたことも朧気に覚えている。そう言うと、

「ホンマはもうちっと前にも会うてるんやけどなぁ」

 以空は首の後ろを掻きながら苦笑の形に笑みを変えた。

「もうちっと前?」

「いや、気にせんでええよ。こっちの話やから」

 ひらひら手を振ってから、ふと以空は真顔になった。

「事情は男爵から聞いてんで。きみがハナちゃんのほうやな」

 急にあだ名で呼ばれて、小花が目を瞠る。どこか引っかかる言い方だった。ハナではないほうがいるのかと考えて、「ああ」と呻くような声を出す。

 以空が軽く頷いた。

「せや。さっき間違えてもう一人のほうを阿奴毘須が連れてきてしもてなぁ。同じ匂いでわからんかったみたいや。どうも話が噛み合わんと焦ったわ」

 では、やはり学校内にいるのだ。

 もう一人の米神小花が。

「話したんですか」

「話したよ」

 言って、以空は紺色の長い袱紗ふくさを持ち直す。敢えて指摘はしなかったが、前に見た彼は長い槍のような得物を手にしていたことを、小花は思い出していた。

「きみと違って、あっちは記憶の攪乱がなかったさかい、おれが名乗った瞬間に顔色変えよってな。連れ戻しに来たんですかと言うから、違いますと答えたんやけえど……じゃあなんで声をかけたんかしつこく尋ねられてなぁ。しょうがのうて、きみが越境してこっちに戻ったて話をしてもうたよ」

「え……」

「もう一人の子も驚いとったで? しまいにはどうしようって泣くもんで、調整役が干渉せえへんことには二人がどっちの世界に行くかわからんて慰めたったんや」

 それは慰めてないだろう。

 というか、余計なことを言ってくれたものである。

 べらべらとよく喋る金髪男を前に、小花は知らず眉間に皺を寄せた。先ほどから、なんとはなしに時間の経過の仕方に違和感を覚えている。

 何しろ、小花が越境してきてまだ三十分も経っていないのだ。にもかかわらず、以空はすでにもう一人の米神小花に会って話を交わしたという。先に越境していたシュナウザーがうろついているのは納得できるが、小花の後に越境してきた以空にそんな時間があったとはどうしても思えなかった。

 第一、男爵邸では夜だったのに、越境したら時間が昼に戻っている理由からしてまだわからない。自力では解決できそうもない小花の疑問に、しかし以空は訊かれた途端にさらりと答えた。

「別におかしないで。越境した先が同時刻になることは、まずあらへんからな」

「あらへん……?」

「普通は、越境した時を中心に前後二十四時間どこかの時間帯に到着するんや。おれみたいに何度も越境してる奴は、ある程度コントロールできるけえど、素人さんには難しいんとちゃうかな。あ、夜型は別やで? あいつらは阿呆みたいにうまく越境しよる。こっちの苦労も知らんと、ほんま腹立つわ」

 以空の視線が下に落ち、小花もつられて地面に座っているシュナウザーを見た。どういうわけか、犬は小花を見てもいまだ本性を現さず、大人しく尻尾を振っていた。

「つまり、あなたは越境した後の到着時間をコントロールして、私よりも先にこっちに着いてたってこと、ですか?」

 彼の話と現在の状況を重ね合わせると、そういう結論に至る。

「せや」

 小花の質問に、以空は大きく首肯した。

「おれの仕事は、飼い主に頼まれてこの阿奴毘須ちゃんを連れ戻すことやってん。腹かせとるっちゅう話やったから、最悪こっちの人間食ろうてる可能性もあると思って、半日以上遡った時間帯に到着設定したわけや」

「はあ」

「ま、おかげさんで気配たどってすぐ見つけることはできたけえど……こいつ、人間やのうて牛を食っとってなぁ」

 また牛である。

「このガッコの近くに牛舎あるやろ? そこで一頭丸飲みしてん」

「牛を?」

「だけで満足せんと、出荷のトラック追いかけてからに」

 小花は嫌な予感がした。話を聞かなくても、おおよその見当がつくような気がする。

「挙げ句の果てに事故らせよって。荷台におった牛の一頭に噛みついてるとこを、どうにかこうにか御用や。人間らう前でよかったで」

「でも、コンビニは半壊しましたよね」

 さり気なく小花が突っ込んだ核心に、以空は面目なさそうに左手で顎をさすった。

「なんだ知っとったんか。まあその、被害は建物だけやったさかい、ぎりぎりセーフっちゅうことで。二頭ばかし牛を死なせてもうたけどな。けど代わりに、こいつの腹が膨れて大人しくなったから、しばらくは人間を襲う心配もないやろ。飢えてなけりゃ、言うことをよく聞くお利口さんや。きみをここへ連れてきてくれたわけやし」

「おかげでまたスカートに穴が空きましたけどね」

 恨みがましく付け加えた小花を見て、さらに以空が困った顔をする。「それは堪忍や」と言い訳するのを遮って、

「で、なんの用なんですか」

 憮然としたまま、小花は尋ねた。

「用っちゅうか、おれは館上くんから言づけを頼まれてん。彼、言うとったで」

 顎をさすっていた手を、以空がまた首の後ろに回す。

「ごめん──て」

 以空の薄い唇がその四文字を刻むのを、小花は瞬きもせずに見ていた。しばしそのままの状態で息を詰める。初夏の風が二人と一匹の間を渡り、いい加減長くなった沈黙に耐えかねてきた頃、

「他には?」

 と彼女は訊いた。

「それだけや」

 なんだそれは。

 詰めていた息を大きく吐き出して、小花は続く呼吸で「なんで謝るかな?」とつぶやいた。以空が肩を竦める。

「さぁてな。おれが頼まれたんはそれだけやし。きみを連れ戻してくれとは、彼は言はへんかった」

「それは……言わないと、思いますけど」

 小花の顔がほんの少し曇った。昼の静けさに包まれていた中庭に、風に乗っていくつかの話し声が流れ始めてきている。ホームルームが終わり、一斉下校の生徒たちが校舎の昇降口に集まってきたのかもしれない。

 そんなことを思いながら、小花は言う。

「私もイチも、もとはこっちの人間なんで」

 連れ戻すというのは違うのだ。

「んーまー、そうやなぁ」

 同意しつつ、以空はどこかもどかしそうに体を揺すった。その足元で、地面に伏せていたシュナウザーの耳が、ぴくりと動く。つられて顔を上げた小花の目が、以空の背後に吸い寄せられた。誰かが普通教室棟の影から出てきたのだ。なんとなく悪い予感がして、向かい合う長身の影に隠れた彼女の耳に、軽い足音が届いた。

 最初は遠かったその足音は、次第に大きく、それも小走りで近づいてくる。小花と同じくそれを聞き咎めた以空がちらりと振り返り、たちまち硬直した。

「!」

 不審を覚えた小花は、以空の影から出ようと頭をもたげる。刹那、

「あかん!」

 凄まじい勢いで制止された。

「あかんあかん、あかんでっ。来たらあかん! 見たらあかん!」

 怒鳴りまくる以空の声の合間に「あのっ」という女の声が入る。

「話しかけたらあかんて! なんで来とんのや!?」

「だってっ」

 悲鳴のような以空の声に誰かの声が重なる。それに小花は聞き覚えがあった。知りすぎている声といってもいい。誰のものかなど考えるまでもない。毎日聞いている、体の内側から発せられる──自分の声だ。

 長年親しんでいるはずなのに、第三者としては滅多に聞かないそれに反応して、小花の顔が隠れていた影から出る。真っ青になった以空が腕を引いて阻止しようとしたが、それよりもわずかに早く、二人は対面していた。

 自分がいた。

 鏡像などではなく、ずっと強い存在感を持った一人の人間として、そこに立っていた。

 マッシュルームボブの髪型も、青灰色のフレームの眼鏡も、上気して赤くなった頬も、今にも泣き出しそうな表情も、固く握りしめた両の拳も、躊躇うように立ち止まった足の形も、すべて米神小花そのもの。

 紛れもない自分自身の姿ドッペルゲンガーだった。

「あ──」

 そう声を上げたのは、自分だったのか彼女だったのか。


 ごめんなさい


 太一郎と同じことを、もう一人は言った。

 なんでみんな謝りますか。

 ぽつりと感想を抱いた小花の周囲が白くなる。

 急速に遠くなる世界のどこかで、

「ダブル同士は会うたらあかんのやー!」

 と完全に遅れた忠告をする以空の叫びが響いていた。

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