第四章 揚羽の森 ②



     3


 細良ささら神社の本殿の扉を開けると、そこは見知らぬ室内だった。

 縦に伸びた円筒形の部屋である。重厚な黒檀の大机を中心にして、丸みを帯びた壁一面をぐるりと黒い本棚が覆っている。本棚はいくつも連なって壁を螺旋状に上っており、延々と続くその先には果てがなかった。少なくとも、部屋に入った瞬間から度肝を抜かれてぽかんと首を上向けた小花には、天井がまったく見えなかった。

「あのー、ここは……」

「うちの書斎だ」

 塔の間違いではあるまいか。

 男爵の答えを聞いて、小花は痛くなってきた首を戻した。

 うちの、ということは、ここはもう彼の屋敷内と考えていいのだろう。まさに手品のような移動時間の短さだ。何しろここへ来るまでに彼女がしたことと言えば、細良神社の本殿の階段を上がり、扉を開いて中に入っただけなのである。そんなことで、二十数キロ離れた八ツ目やつめ市は揚羽森あげはのもり七丁目にあるという男爵邸に着いてしまったのだ。本当に。

 実にふざけている。

 しかも最初に入った部屋は、どう考えても家の屋根を突き破って存在しているとしか思えない、馬鹿みたいに天井の高い書斎ときた。もとの世界に帰してくれると誘われてつい

てきたのはいいけれど、この手の展開にもついていかなくてはならないとは──いささか早まった気がする小花であった。

 一方、そんな彼女の心情を察していたとしても気にしない男爵は、中央の大机に大股で歩み寄っていく。よく磨かれた机の隅には、臙脂色の羽ペンと同色のビロードを下敷きにした銀のハンドベルが置かれている。そのベルを男爵の白い手が取り上げた。

 円筒形の書斎に涼やかな音色が二度、響いた。

 すると、遙か上方から何かが落ちてきた。

 いや、下りてきたのだ。

 螺旋状に壁を上る本棚の前には、同じく螺旋状の階段が設けられていた。その階段を何かが転げるようにして駆け下りてくる。そうしてベルの音から十秒もせずに男爵の前に到着するや、すっくと立ち上がって頭を垂れた。

「お帰りなさいませ、旦那様」

 語尾が裏返る独特のイントネーションに、小花は聞き覚えがあった。

 手足についたかぎ爪に、薄い緑色の肌、子供のようにあどけない顔の額部分に生えた、五センチほどの一本角──天邪鬼だ。

 小花の斜め後ろで、黙ってついてきていたキーがばつが悪そうにうつむいた。

「ただいま。……本は見つかったかね?」

 ハンドベルをビロードの上に戻して、男爵は鷹揚に頷いた。

 キーによく似た天邪鬼が畏まる。

「それが一向に」

「ないのか」

「はい。ですが紛失したとも思えません。やはり先々週、山手やまのての先生がいらした時に誤ってお貸ししてしまったのではないかと。あれが収まっていた棚は、ちょうど先生がり抜いていかれた合成獣キメラの事典シリーズと同じ棚でございましたから」

 言いながら、主人の反応を窺うように視線を上げた天邪鬼は、その後ろに立っている小花と、さらにその後ろに控えているキーに気づいて表情を硬くした。

「やっぱり、あいつか」

 男爵が不満げに鼻を鳴らす。

「どうせ手当たり次第に持っていったのだろう。貸すのではなかったな。余計な面倒ごとが増えた」

「お許しいただけるなら、わたしが先生のお宅まで取りに行ってまいります」

「そうしてくれ。お前ならあいつも知ってるし、殺されることもなかろうよ。不愉快だから、ご自慢の可愛い奥方に、夫がプレゼントした犬は実験で生まれた合成獣の失敗作なのですよと教えてきなさい」

 そこで男爵は思い出したように小花を振り返った。

「ああ、だがその前に一つ用を申しつける」

「なんなりと」

 再び頭を垂れた天邪鬼の目が、わずかな好奇心を帯びた。

「彼女、」

 言いかけて、ふと口を噤んだ男爵は、記憶を探るような眼差しを小花に向ける。

「きみ、名前はなんだったかな?」

「米神小花です」

「そうだ、ブリュームヒェンだったな」

「……ぶりゅ……なんですか」

「気に入らないか? ではハナヒェンと呼ぼうか」

「ハナ変?」

 ひどい言われようである。

 憮然とした小花をよそに、タキシードの麗人は機嫌よく天邪鬼に向き直った。

「このハナヒェンは、例の娘のダブルだ。客人なので我らのこともほとんど知らん。よって常識に欠ける質問もするだろうが、手間を厭わず答えてやるように。身なりを整えさせたら、鏡の間に連れて来なさい」

「──承知いたしました」

 鏡の間と聞いた瞬間、物問いたげな視線をキーに流した天邪鬼は、だが何も言わずに主人の命に従った。「それから」と付け加えた男爵が、自分の背丈の半分ほどしかない従僕を眺めやる。

「見ての通り、二十二番目が戻った」

「はい」

「これで問題は解決だ。此度の件で尋ねてくる者があったら、そのように計らえ」

「は……あの、ではキーのご処分は」

「私にそこまで面倒なことをさせる気かね、アル?」

 主人の声がやや低くなったのを受けて、アルと呼ばれた天邪鬼が凄まじい速さで首を振った。男爵が淡く笑む。

「よろしい」

 それを合図に靴音も高く踵を返した彼は、背後で立ち尽くしている小花とキーの間を過ぎて、入口の黒い扉の前に立った。真鍮製しんちゅうせいのノブが鈍い光を放っている。

「先に行っているぞ、ハナヒェン」

「は、い」

 ぎこちなく応じた小花を斜めに振り返り、男爵が露わになっているほうの目でウインクをした。そしてそのまま、扉の向こう側に吸い込まれていった。比喩でもなんでもなく、実際に体が透けて吸い込まれていったのである。

 一瞬、我が目を疑った小花だったが、すぐに小さく頭を振って息をついた。いちいち驚いていてはきりがないと思ったのだ。ここは男爵の屋敷なのだから、それは壁抜けや扉抜けぐらいはするだろう。ならば扉なんかいらないじゃないかという疑問は取り敢えず飲み込んで、夜型とはそういう生き物なのだと胸に刻む。

 ただ、それでも一つ納得しかねることはあった。

「ハナ変て……」

 どこを捻って出てきたニックネームだ。

「ハナちゃん、という意味でございます」

 小花の表情を読んだらしい天邪鬼のアルが言った。

「旦那様は東欧の出ですから、時々あちらの言葉を使われます。ヒェンというのは、小さいとか可愛らしいという意味がございまして、よく小さなお子様に使います」

 と、聞いてもいないことを解説する。慇懃な物言いなので親切にも思えたが、さらりと告げられた「小さなお子様」という言葉で、小花の納得しかねる気分は倍増していた。

 再び彼女が息をついた時、唐突に後ろで「大兄おおえ!」という叫び声が響いた。見れば、両膝を落としたキーが、書斎の床に額を擦りつけんばかりの勢いで平伏していた。

「大兄大兄、ごめんなさい。ご迷惑をおかけしましたっ」

 興奮して聞き取りづらさの増した謝罪文句に、

「迷惑をかけられました」

 アルはやはり慇懃に言って、自分と同じ顔をした弟を見下ろした。

「ごめんなさい大兄。勝手なことをして、ごめんなさい」

「謝るのなら、わたしだけでなく他の兄弟たちにも謝りなさい。みんな、自ずから旦那様に手首を差し出してお前の許しを請うてくれたのだから」

 小花の顔が嫌そうにしかめられた。いくら夜型は体の部位を失ったら生えてくるとはいえ、想像すると痛い話には違いなかった。

「とくに末のメガは泣いて大変だった。主人の手鎖を破っての逃亡は重罪。本来ならお前は閻魔庁に拘束され、死罪を申しつけられるところなのだよ。それを不問とは……旦那様の寛大なご処置に感謝しなくてはいけない。お優しい方だ」

 アルのしみじみした説教に、キーは伏していた顔を上げた。躊躇いながら首を振る目には、うっすら涙が溜まっていた。

「感謝はしてます。でも旦那様はお優しい方じゃありません。大兄、大兄もわかってるでしょう? あの方は僕の処分を免じてくださる代わりに、別の者を閻魔庁に差し出すおつもりだって!」

 荒い口調で言って、キーは小花を見やった。

「なに?」

「もう一度お前を越境えっきょうさせれば、向こう側に渡った小花がこちら側に戻ってくる可能性がある。旦那様はそう考えているんだ」

「だからなに?」

 それで元通りではないか。

 小花が安易に問い返すと、キーは馬鹿にしたような目をした。その彼に代わり、説明をしてくれたのはアルのほうだった。

「調整役の采配によりますが、もし娘が戻ってきた場合、彼女は捕らえられて閻魔庁の裁判にかけられることになります。通常であれば禁錮きんこ百年ほどの刑で済みますが、今の状態ですとおそらく死罪。つまり、ダブルであるあなたも同じ運命を辿ることになります」

 小花は大きく瞬いた。

「同じ運命って……え」

「理解力のない女だな。要するに、お前も死ぬってことだよ」

 キーが吐き捨てるように告げた。そのきつい物言いにむっとしたおかげで、驚いて停止しかけた小花の思考回路も復活する。

「んなことはわかってるのっ。私がびっくりしたのは、どうしてそうなるかってことで」

「お前がのこのこ旦那様にくっついて来るからだろ! ここでまた越境したらそうなる運命なんだよ!」

「はあああい!? なんで? だって私は帰るだけだよ? なのに死ぬって、死ぬっておかしい。理不尽じゃないのおもいっきり」

「お気の毒です」

 熱を帯びるキーと小花のやりとりに、アルの冷静な声が水を差した。

「確かにあなたに罪はございません。もう一人のほうも、越境したこと自体に罪はありません。問われるのは、夜型五等爵に名を連ねる旦那様の従僕を唆し、屋敷内に無断侵入した罪なのです」

「僕は別に唆されてなんかっ」

 キーが反発するものの、兄はそれには取り合わない。

「旦那様がそう判断したのだ。我らに口を出す権利はない」

「私にはあると思うんだけど……」

 もっともな小花の意見にも、彼はゆるく頭を振った。

「あなたはダブル。罪はなくとも運命が重なるのはどうしようもありません。おあきらめを」

「ええええええー」

 小花は盛大に不満の意を表した。

「おかしいおかしい。そんなのやですよ!?」

「ですが、ダブルとはそういうものでございます」

「聞いてません!」

「それは知りません」

 冷たく斬り捨てて、アルはしげしげと小花を眺める。神社で黒い獣に襲われて以来、彼女の出で立ちは凄惨を極めていた。今月出したばかりの夏の制服は、何度も転んだせいで泥だらけの上に、千切れてずたぼろになっている。その、ところどころ擦り剥けた肌が覗く制服を検分しながら、彼は言った。

「こちらの人間は諦めてしまいますよ」

 前から後ろから左右からと、ずいぶん熱心に制服を見つめられて、小花は居心地悪く身じろぎをした。これがいやらしい視線なら蹴り倒しているところだが、どちらかと言えば仕立てを探るような目つきだったため、大人しくしておく。

「例えばあちら側の人間が自殺を図り、その影響でこちらのダブルも死んだとして、誰もおかしいなどとは思いません。大抵は、ダブルが死んだのだから仕方なかったのだと諦めます。それが、普通なのです」

 小花は眉をひそめた。アルは続ける。

「世界の仕組みを知っていることと、無知であること。どちらが幸せなのかはわかりません。が、いずれにしても、ダブルの運命に例外がないことは確かでございます」

 言って、一通り制服を見終わった彼は顔を上げた。そうしておもむろに体を返すと、大机の脇を抜けて螺旋階段の手前にある本棚へと歩み寄る。本棚の隣の壁にはいくらかのスペースが設けられており、黒いダイヤル式の電話が取り付けられていた。アルはその電話を操作して、どこかへ連絡を入れた。

 やがて、古びた受話器が送話器に戻されるのを待って、小花は再び口を開いた。

「あ、あのー。でも……いくらなんでも、刑が重すぎるんじゃないですか? 禁錮百年もちょっとアレですけど、屋敷に無断侵入したぐらいで死罪というのはないんでないかと」

 ふん、と沈黙していたキーが鼻で笑った。

「確かに重いさ。でも、それこそどうしようもないことなんだよ」

「どうしようもないのです」

 弟と同じ台詞を繰り返して、アルが壁際から戻ってくる。

「以前の閻魔庁であれば裁判が正しく行われ、禁錮刑で済んだと思います。が、今は裁判がまともに機能しないので、ほとんどが死罪にされてしまいます。総帥の不在で獄卒の統制がとれていないのです」

 似たような話を、小花は佐藤女将の口から聞いていた。

「それって、百年ぐらい後任が決まってないっていう偉い人のこと? えんま庁ってことは、もしかして総帥はえんま大王だったりして」

 半ば冗談ぶくみの言葉に、しかしアルとキーは大真面目に頷いた。

「ご明察です」

「そういうことは客人でもわかるんだな」

 意外にあっさり認められ、言った小花のほうが絶句する。アルがふと書斎の高すぎる天井を見上げた。

「百年前、わたしども天邪鬼の一族は閻魔庁に務めておりました。今のような少人数ではなく、獄卒と肩を並べるほどの大所帯でございました。一族はいつも総帥のおそばに仕え、その手足となって雑務をこなし、大変に可愛がってもらったものです」

「は、あ」

 つられて天井を見上げた小花が、吐息に似た相槌を打った。

「じゃあ、どうして今は男爵に仕えているんですか。えんま様が亡くなったから?」

 女将によれば、確かそんな噂が流れていたはずだ。

「いえ、総帥は亡くなられてはおりません」

 問いかけをやんわり否定して、アルは細い目に遠い色を浮かべた。

「ある日、突然に出奔なされたのです。相談を受けたお側仕えの天邪鬼数名は、その手助けのために、閻魔庁の最重要器物である浄玻璃じょうはりの鏡を壊しました。鏡は十三片に割れ、次元を超えて四方に散ったそうでございます。混乱に乗じて総帥は姿を隠し、それから一度も閻魔庁には戻っておられません。残された我ら天邪鬼は、鏡を割った大罪のために夜型の最下層に墜ち、以降二十四体しか生存を許されぬ業深き一族となったのです」

 小花は首を戻した。

「……それはまた、なんと言うか、スペクタクルな」

 あまり感情の伴わない感想を漏らしつつ、もう一度尋ねる。

「で、なんで今は男爵なんですか」

「あの方はご親類なんだ」

 兄よりも早く答えを口にしたのは弟のキーであった。

「総帥が行方不明になった後、その甥御が大陸から召喚されることになった。それが旦那様だ。総帥の起こした事件の後始末を任されたんだ。つまり僕ら天邪鬼一族の管理と、浄玻璃の鏡の保管だな」

「ふうん。あれ? でも鏡は割れたってさっき」

「十三に割れた鏡のうち、一片だけがどこへも流れずに閻魔庁に残っていたのです。旦那様が任されたのはその一片の保管です。とはいえ、もともと浄玻璃の鏡は半径五十メートルもの巨大な丸鏡でしたから、割れても普通の姿見を二つ三つ合わせたぐらいの大きさはあります。現在、所在が明確になっているのはこの一片のみで、他はどこにあるのかわかりません」

 弟のぶっきらぼうな説明を、アルがていねいに補った。

 ふんふんと兄弟二人の話を聞いていた小花は、腕を組んで眉間に皺を寄せる。

「んー。それでその鏡が──」

 なんとなくではあるが、理解はできていた。だが現実味はほとんどない話だった。それでも「要するに」と彼女が自分がもっとも知りたい話題に繋げようとしたその時、言葉を遮るようにノックの音が鳴り響いた。

 アルが即座に反応して入口の黒い扉を開ける。ぴょこん、とウサギのように分厚い扉から顔を出したのは、またしても額に短い角を生やした天邪鬼だった。

「できました大兄」

 あどけない声で言って、アルやキーと同じ顔をしたその少年は、腕に抱えていた代物を差し出した。

「ご苦労様」

 それはアルの手を経由して、まっすぐ小花に渡された。軽い手触りの、見覚えのある衣類である。今朝、学校に行く前に彼女が身につけ、夜の神社で獣に引き裂かれた──鳥船学園高等部の夏服だ。

 目を丸くしている小花に、天邪鬼の長兄は頷いてみせた。

「どうぞこれにお着替えください。急ごしらえなので細部に誤りはあるかもしれませんが、サイズは合っていると思います」

「え、え? 作ったんですか、もしかしてあの電話で!?」

 小花はアルが先ほど制服をつぶさに観察していたことを思い出した。彼は巻き尺で正しい長さを測ったわけではない。メモを取っていたわけでもない。目測した内容を、つい今しがた電話で誰かに伝えただけなのだ。なのに、渡された制服はまるで買ってきた物のようによくできていた。

「はい」

 何を驚いているのかと不思議そうな面持ちで、アルが首肯した。

「わたしどもはこういう作業が得意ですから」

「すごい!」

 昔から家事全般、とくに裁縫と料理にかけては右に出る者がいないほど無惨な才能を発揮する小花は、素直に感動した。綺麗にアイロンまで当てられている制服を抱きしめる顔に、自然に笑みがこぼれる。

「ありがとうございます!」

 対して、天邪鬼たちは大いに戸惑う様子を見せた。アルだけでなく、キーも、制服を持ってきたもう一人の少年も、思いがけないことを言われて惚けた表情になっている。ややあって我に返ったアルが、

「そんなに喜んでいただけるとは思いませんでした」

 とつぶやいて、最後に使いの弟から受け取った紙袋を差し出した。

 中にはおしぼりと、新品の黒いローファーが一足入っていた。

「時間の都合で靴下が揃えられず、申し訳ありません」

「これも? もらっちゃっていいんですか!? えーいーですよ靴下なんてもう」

 わーすごいいいいっ、とまたひとしきり感動してから、小花はふと真顔になって三人の天邪鬼たちに視線を合わせた。

「え? 着替えるって、ここで?」

 その言葉に、再び呆気に取られていたアルが小さく咳払いをして居ずまいを正す。

「いえ。ただいま更衣室にご案内いたします。──メガ」

「ハイ」

 制服を持ってきた天邪鬼が返事をして、ちらりとキーを盗み見た。気づいたキーが顔を向けると、嬉しそうにはにかんで頬を紅くする。だがそれも束の間、彼は急に何かを思い出した様子でアルに声をかけた。

「あ、あの大兄」

「どうした? 早くこの方をご案内申し上げなさい」

 小花を書斎の入口へ促そうとするアルに、メガと呼ばれた天邪鬼は手足をもじもじ動かしつつ、口を開いた。

「実は今、お屋敷の門のところにお客様が来てるんです」

「客?」

 アルの声質が硬くなった。別に怒られたわけでもないのに、メガは首を竦めて「ハイ」と答える。

「昼型の狩人さんだそうです。旦那様に鏡のことで御用があるって」

「お一人か?」

「いいえ。お連れが一人いて、だからお二人です」

「事前に連絡はなかったのだな?」

 さらに硬くなった兄の声を受けて、さらにメガの首が小さく竦んで縦に振れた。

「イオにいが、お屋敷に入れて良いものか大兄に指示を仰ぎたいって、言っていました」

 アルが溜め息をついた。

「そういうことは早く言いなさい」

「……ごめんなさい」

「まあいい。メガ、お前は同じことを旦那様にお知らせして、ご足労願いなさい」

「え、ぼくが?」

 メガの顔が、驚きと恐怖が一つに合わさったような複雑な表情を浮かべた。アルは再び溜め息をついた。

「キー。お前も頼む。メガだけでは心もとない」

 有無を言わさぬ口調で言って、侍従頭の天邪鬼は最後に小花を振り返る。

「そういうことですので、わたしどもは少し席を外します。戻ってくるまで、申し訳ありませんが、こちらで着替えてお待ちください」

「はあ」

 突然のことに目を瞬いた小花が、「いいですけど」と付け足した時にはもう、三体の天邪鬼は退出している。男爵のように扉を抜けて行きはしなかったが、それは風のような素早さであった。



     4


 しかし彼らは容易には戻ってこなかった。

 新しい制服に着替え、身なりを整えた小花は、しばらく書斎の本棚を眺めるなどして時間を潰していたが、すぐに飽きた。と言うのも、ここの本棚には日本語で書かれているものがまったくなく、英語のものさえもほとんどなく、どこの国のものか判別できない文字で綴られた書物ばかりで、眺めてもさっぱり内容がわからなかったのである。

 おまけに、どういうわけかそれらの書物は本棚から取り出すことができなかった。小花がいくら指に力を込めて引き出そうとしても、まるで接着剤ででも貼り付けてあるかのように抜けないのだ。これはもう読む以前の問題だった。

 従って瞬く間に暇を持て余した小花が、書斎入口の扉に歩み寄るまでそう時間はかからなかった。

 木製の黒い扉に似合いの、真鍮製のノブを彼女の右手が掴む。

 施錠はされてなかったらしく、そっと捻ると扉は抵抗なく動いた。

 まずは細く開いた隙間から部屋の外の様子を窺ってみて、小花は「うお」と思わず声を漏らした。

 書斎の外は左右に伸びる廊下であった。それもとてつもなく長い。どれぐらい長いかと言うと、左右の果てが霞んで見えないぐらい長いのである。廊下を挟んで壁にはずらりと扉が並んでいた。すべてこの書斎と同じ形と色の扉だ。小花が軽く首を巡らせただけで十以上は数えられる。廊下に窓はなく、薄闇の空間を照らしているのは、天井から無造作に垂れる自在鉤に吊された洋燈ランプだけだった。

「……こわ」

 わずかな空気の流動で揺れる洋燈と、それによって出来上がるいびつな影を目に、小花の喉が上下した。ちょうど、遊園地のホラーハウスにこんな作りの廊下があったことを思い出す。もちろん本格的なのはこちらのほうだ。何しろ、住んでいるのが神出鬼没の男爵と天邪鬼たちなのだから、笑えない。

 けれど小花は、せっかく開けた扉を閉じて書斎に戻る気にはなれなかった。しばらくその場に佇んだ後、廊下に誰の気配もないことを確かめて、部屋から滑り出る。後ろ手に扉を閉めた音だけが、静けさに包まれた空間で異様に大きく聞こえた。

「右か左」

 無意味に独りごちて、長く伸びた廊下を交互に見やった小花は、少し考えて左側を選んだ。とくに理由はない。勘だ。こういう時は直感に頼るのが一番であった。

 選択に従って歩き出す彼女の足音は、廊下一面に敷かれた臙脂色の絨毯に吸収されて響かない。不規則に並んだ黒い扉と扉の間を繋ぐ壁の色もまた、臙脂色だ。基本的に周りが薄暗いため、その深い赤はうっかりすると血の色のようにも見えた。

 その長い廊下を小花はひたすらに歩いた。

 書斎の扉はたちまち遠ざかり、振り返ってもすでにどの扉だったのか見分けがつかなくなっていた。一応、迷わないように数を数えていたのだが、さすがに三十を越えてくると正確さに自信がなくなった。

 いまだ廊下の突き当たりは見えない。

 神社の参道といい屋敷の廊下といい、この世界はやたらと道のりを長く伸ばすのが好らしい。そういえば、今日は朝から走ったり歩いたりと移動が激しかったことを思い出し、小花は今さらのように疲れを感じた。扉の数は四十五枚まで数えたあたりから記憶が怪しくなっている。自力では書斎に戻れない可能性が出てきたことで、彼女の頭に浮かぶのは先ほどの天邪鬼たちとの会話であった。

 彼らの話では、小花は再び越境するとダブルの巻き添えで死ぬかもしれないという。にわかには信じ難いが、もしそれが本当なら、いっそのこと書斎には戻らずに出口を探したほうが賢明な気がした。たとえもとの世界に帰れたとしても、近いうちに死んでしまうのでは意味がない。

 小花はスカートのポケットから携帯電話を取り出した。ぼろぼろになった制服は紙袋に入れて書斎に置いてきてしまったが、その他の物は新しい制服のポケットに入れ直していた。待ち受け画面に表示された時刻は、午後八時過ぎ。アンテナは電波障害を受けた時のまま、相変わらず圏外だった。

 あれから太一郎はどうしただろうか。

「…………」

 小花は今度こそ本気で、安易に男爵の誘いにのってしまったことを後悔した。客人は自分だけではないのに、一人でもとの世界に帰ろうとしたことを、恥ずかしく思った。

「出よ」

 玄関でも裏口でも窓でもいい。とにかくこの屋敷から出る場所を求めて、手近な扉に手をかける。やはり鍵はかけない主義なのか、ノブはすんなり回って扉は開いた。

 ──が、扉の向こうはまたも長い廊下だった。

 臙脂色の絨毯と壁、そこに並ぶ黒い扉と天井から下がる洋燈も同じ。ただ今度は開けた扉に対して廊下が左右ではなく、前後に伸びていた。つまり、小花が開いたのは廊下の突き当たりの扉だったというわけだ。

 そしてそれは、次もそのまた次に開いた扉も同様だった。

 廊下に次ぐ廊下、扉に次ぐ扉で、出口どころか部屋にさえ行き当たらない。最初のうちは慎重に開けていた小花も、次第に手当たり次第になってくる。

「なんの意味が」

 つぶやいて扉を開く。また廊下。

「あってこんな」

 適当に次の扉を選んで開く。また廊下。

「無駄なもんを」

 さらに扉を選んで開く。また廊下。

「作ってあんだ」

 さらにさらに扉を選んで開く。

「っての!」

 またしても廊下が現れて、小花は一番手近な位置の扉を力いっぱい蹴りつけた。これまでも何度か手荒く開閉をしていたが、頑丈な黒い扉はびくともしなかった。それを承知していたからこそ、軽く助走をつけて跳び蹴りをかました。

 ところが、そんな時に限ってがうんと鳴った扉の向こうで、

「きゃ」

 という声がした。

 字面じづらだけなら可愛らしい、けれど耳で聞いた音はどう考えても男としか思えない声であった。おまけにその妙にしなのある男声に、小花は聞き覚えがあった。

 一瞬躊躇った後、恐る恐るノブを回した小花は、開いた扉の向こう側に初めて廊下ではない景色を見た。

 ホールとでも言えばいいのだろうか。よく磨かれたココア色の床に高い天井。そこから下がる二つの豪勢なシャンデリアが、華やかな光を部屋中に振りまいている。さながらダンスフロアのようではあるが、シャンデリア以外に目を引く調度品はなかった。ただがらんと広い二十畳ほどの部屋だ。

 そこに一人。

 洋風の屋敷にはそぐわない人影が浮いていた。精巧な鴉の面を被り、山伏の格好をしている背中に黒い翼の生えた男性である。前に背に負っていた柳行李やなぎごおり丸木杖まるきづえ、一枚歯の高下駄は見当たらなかったが、紛れもなく昼間会った鴉天狗からすてんぐだった。

「あらぁん?」

 一つ目のシャンデリアの下で滞空していた彼は、現れた小花の姿を認めて例の不自然な声を上げた。

「あの時の子じゃなぁーい」

 嬉しそうに言って、背の翼をはばたかせて近寄ってくる。

 だが、入口で佇んでいる小花に辿り着く一歩手前で、その筋肉質な体は高圧線にでも触れたかのように弓なりにのけぞって停止し、暴風にでも晒されたかのように部屋の中心付近まで吹っ飛んだ。

「痛、あたたた、熱っ!? あちちちちちっ」

 叩きつけられた床をしばらく滑った後、鴉天狗は大騒ぎで起き上がった。見れば、摩擦熱で肘や臑にほのかな煙が立っている。それを翼で必死に消しながら、

「ええいくそっ。あの若造。次に会ったらただじゃおけん。踏んでやる刻んでやる焼いてやるいてやるぞ、ちくしょうめ!」

 ひとしきり喚き散らした彼は、呆然としている小花に目を止めて、えへんおほんと無意味に咳払いをした。ややあって、また空中に浮かび上がって近寄ってきた時には、もういつもの調子に戻っている。

「驚かせてごめんなさいねぇ。線が引かれてたのすっかり忘れてたわ」

 わずかに焦げ臭い鳥人間を前に、小花はもはやどちらの言葉遣いが素なのかは考えるまいと思った。

「その節は、どうもありがとうございました。おかげで助かりました」

 取り敢えず礼を告げておく。

「で、ここで何をしてんですか?」

 続けて問うと、少し照れた風情を見せていた鴉天狗が、「何って」とさらに照れた仕草をした。

「捕まっているのよぉん」

 照れることか。

「ウェル様のぉ、使い魔をぉ、殺っちゃったらぁ、あとから来たウェル様にぃ、しばき倒されて捕まったのですぅ」

「ああ……」

 うっとおしい喋りと共に身をくねらせる男から視線を逸らし、小花は確かにそんな話も聞いていたことを思い出した。

「すみません。私たちのせいで」

「あら気にしないでくださいな。こっちもいい憂さ晴らしさせてもらったわけだしぃ」

 そういえば、天狗族と男爵とは折り合いが悪いとも聞いていた。

 若干遠い目をした小花を見て、鴉天狗は顎先に太い指を当てて首を傾げた。

「あなたこそ、こんなところでどうしたのかしらぁ? もしかして一人? 彼氏の館上くんは一緒じゃないのですかぁ?」

「彼氏じゃありません」

 素早く否定して、小花は今自分が置かれている状況を大まかに説明した。

 いろいろと言動に疑問点はあるものの、基本的には良い人 人間ではないが であるらしい鴉天狗は、話を聞き終えてひどく同情を示した。

「それは困ったわねぇ」

 しみじみ言って、静かに床に着地する。

「──確かに、男爵も天邪鬼も嘘は言ってない。今の閻魔庁が罪人をすべて死刑にしちまうってのも本当の話だし、この屋敷にある鏡を抜ければ、あんたがもとの世界に帰れるってのも本当だ」

「そ、れなんですけど」

 いきなり男言葉になった鴉天狗に面食らいつつ、小花は書斎でアルに訊きそびれたことを口にした。

「越境って、具体的にはどうしたらいいんですか?」

 これまでに交わした会話の内容から、男爵が持つ浄玻璃の鏡というものを使うらしいことはわかった。が、詳しくはまだ誰にも教えてもらっていなかったのだ。

「鏡に体を映してから触れればいい。それであっちに抜けられる」

 重々しく言って、鴉天狗は黒い翼を二三度その場ではばたかせた。

「浄玻璃の鏡は、もとは閻魔庁で総帥が罪人の嘘を暴くために使用していた鏡だ。あの鏡は前に立つ者の因果を映す性質があるからな。現在・過去・未来。姿を映した瞬間から、鏡はその者に縁のあるすべての事象と繋がる。昼型だったら、自分と運命を共有するダブルとも繋がる。──要するに、境界線の向こう側へ至る道が開けるってわけ。だから、昼型が安全に越境するには鏡を使うのが一番なのよ。ま、あたしらは、空間の歪みさえあればさくっと行けちゃえますけどねぇ」

 ホホホと笑う彼の物言いが途中で変わったのは、再び空中に体を浮かせた後だった。

 鴉天狗の言動について、理由はわからないが、なんとなく法則はわかった気がして、そっちにばかり意識を取られていた小花が適当に相槌を打つ。

「つまり鏡にタッチすればいいと」

「そーよ」

「すみません。あの、あともう一個いいですか」

「なぁに?」

「この屋敷の出口ってどこですか?」

 小花の前で、鴉天狗が目に見えて脱力した。

「あたし捕まってるって言わなかったかしらぁ。知るわけないじゃないよぉ。ここはウェル様のテリトリー内なんですから」

 それはそうである。

 道理だとは思ったものの、小花は「でも」とつぶやく。

「ここの扉って、開けても開けても廊下に出ちゃって、ちっとも外に出られないんです」

 彼女の疑問に、しかし鴉天狗は事もなく答えた。

「それは鍵がかかってるからでしょ」

「え? かかってませんでしたよ」

「でも開けたら廊下だったんでしょお? 部屋に入れてもらえないってことは、当然そういう鍵がかかってるってことじゃないですかぁ」

「そうなんですか?」

「だ・か・ら、ここはウェル様のテリトリー内なんだってばぁ。実際に揚羽森にあるのはただの一軒家だけどぉ、その玄関から先はウェルテル・ウェルウィッチの支配領域になるわけですよぉ。物理空間だけじゃなくて精神空間にもリンクしてるわけでぇ……わかるかしらこの話。わかるかしら?」

「…………」

 首を斜めにしたまま眉を寄せている小花を見て、鴉天狗が「仕方ないわねぇ」と小さく肩を竦めた。そうしてから、筋肉の浮き出た右腕を背中に回して己の羽を一本引き抜く。

「はいこれ。あげるわ」

 それは、ゆうに三十センチはある長い羽だった。手触りは意外に硬く、墨を吸い込んだような黒の色には艶がある。

「はい?」

 渡された勢いで手にした羽に、小花は物珍しげな視線を注いだ。それを見て、鴉天狗がやや気恥ずかしそうに身をよじらせる。

「それに下から息を吹きかけて飛ばしてみてね。あなたが望んでいる場所に連れて行ってくれるわん」

「望んでいる場所?」

「そ。即席のしるべですわぁ。あなたが本当に屋敷の外に行きたければ出口に。そうでなければそうでない場所に導いてくれるのぉ。ちなみに使用回数は一本につき一回こっきり。反応はデリケートだから気をつけてねん。例えば、息を吹きかけた時に生理現象を起こしてると問答無用でトイレに導かれちゃったりしますからぁ」

 小花は改めて羽を見つめた。その話が本当なら、実に便利な代物だった。だいたい天狗の羽など簡単に手に入るものではない。少なくとも彼女の感覚ではそう思う。

「もらっちゃっていいんですか。てか、なんでこんな……?」

「んふ。あたしと取引しませんこと?」

「え?」

 小花の体が、にわかに強ばったのは言うまでもない。その緊張した空気を、鴉天狗はひらりと片手を振ってほぐし、

「簡単なことですよぉ」

 と床の上を指さした。

 彼の指先は小花の足元──入口の扉から三歩ほど進んだ位置に引かれた白線に向けられていた。言われて初めて気づいたその白線は、学校のグラウンドで使う石灰の線によく似ており、扉と並行に左右の壁と壁とを隙間なく結んでいた。

「その羽をあげる代わりに、この線を消して欲しいの」

 鴉天狗曰く、これは男爵が彼のために施した結界なのだという。鴉天狗以外の者にとってはただのチープな線にすぎないが、彼はこれから先の空間に出ることができず、少しでも越えれば先ほどのように弾かれてしまうのだそうだ。

「あなたが来たってことは、この部屋の鍵はかかってないってことになるわぁ。なら、結界さえなくなれば自由に動けますものぉ」

 要するに、逃亡の手伝いをしろと言うことであろう。鴉天狗には貸しがあるが、男爵にはとくに義理立てする理由が見つからなかった小花は、彼の申し出をあっさり承諾した。

「消せばいいんですね」

「じゃ取引成立。どこでも一カ所、足で切ってちょうだいな」

「どこでも……?」

 小花の足が床に引かれた白線を、おっかなびっくり十字に交わるように縦に切った。

「こう?」

「そう!」

 切った瞬間、明るい声で叫んだ鴉天狗が手を伸ばす。男ものの分厚い掌が、小花の肩に載せられてやや乱暴に叩いた。彼の腕は明らかに白線を越えた位置にあったにもかかわらず、今度はその体が吹っ飛ぶことはなかった。

「ありがとっ」

 豪快に、しかしどこか女っぽい調子で言われ、

「どう、いたしまして」

 小花は作り笑い気味にもう一度足元に視線を落とす。壁から壁へと引かれていた一本の白線は、彼女の真新しいローファーによって遮られ、糸が切れたように一カ所が消えていた。本当にこんなことで結界が解けてしまったらしい。

 嬉しそうに広いホールを一周してきた鴉天狗は、小花の前でくるりと回転をして、床に降り立った。

「これで鞍魔くらま親父おやじんとこに帰れるよ。じゃ、館上くんによろしくなっ」

 今度は男っぽい調子で言って、入口に向かって歩いていく。音もなく開いた扉が、器用に折りたたまれた黒い翼を飲み込んで閉まる。そこまで茫洋と眺めていた小花は、扉が閉まりきる寸前にあることに気づいて「え? あ、待ってください」と慌てて引き留める声を上げた。

「帰るんなら私も一緒に、」

 行きます──。

 続く言葉は、鴉天狗を追う形で廊下に出た途端、喉の奥で行き場を失った。

 臙脂色の壁紙と絨毯で囲われた細長い空間は、相変わらず薄暗い。人気もない。静まり返ったそこに、今しがた出て行った鴉天狗の姿はどこにも見当たらなかった。瞬間的に硬直した小花は、すぐに思い直して部屋に戻ってみたが、そこにも彼はいなかった。がらんとした室内に隠れる場所などないことは、見ればわかることである。

 気づくのが遅かった。

 夜型はだいたいが神出鬼没だと、知っていたはずなのに失念していた。彼らについていくには、もっと瞬発力が必要のようだ。軽い後悔の念と共に、小花は無駄に豪華なシャンデリアを見上げて部屋を後にした。

 廊下に戻って、手にしたままだった鴉天狗の羽を眼前に晒す。

 これに息を吹きかけて飛ばせば、自分が望むところへ導いてくれるという。別にその話を全面的に信じたわけではなかったが、他にできることもないので、試しに使ってみることにする。

 説明された用法通り、小花は羽を己の息で吹き上げた。

 羽は音もなく浮いた。

 軽く吹いただけにもかかわらず、それは空気の上を滑って廊下の奥へと飛んでいく。落ちそうで落ちない浮遊はしばらく続き、やがて廊下に並んだ一つの扉のノブに着地して停まった。

 のろのろと後を追って歩いていた小花は、床に落ちずにノブに引っかかった黒い羽を拾い上げて低く唸る。

 羽の飛び方は驚くほど普通で、男爵の扉抜けや鴉天狗の消失に比べればずいぶん地味な感じであった。ただ飛んで、ただ引っかかっただけに見える。これで玄関に辿り着けたら苦労はしない。そう思ってもう何枚目がわからない扉を押し開けた彼女は、現れた細長い空間を目に、

「やっぱし」

 と淡く膨らんでいた期待をしぼませた。

 最初また廊下かと思ったそこは、よく見れば壁紙が濃い緑色をしていた。どうやら部屋であるらしく、扉と同じ横幅をした狭い空間がひたすら縦に長く伸びている。窓もなく、灯りは高い天井から下がる数個の洋燈のみだ。

 薄暗い。狭い。そして怪しい。

 瞬く間に嫌な空気を察知し、一旦は入室した小花の体が本能的に反転した。

 考えるまでもなく、入ってきた扉を開けて廊下に戻る。そのはずだったのだが……。

 どうしたことか、これまですんなり開き続けていた扉が動かなくなっていた。

「な。うそでしょ。ちょっと!」

 格闘すること一分少々。

 ノブは回るものの、扉は押しても引いても叩いても開くどころか揺らぎもしなかった。

「オートロックかっ」

 人が中に入ると鍵がかかる扉なんて聞いたこともない。そういうのは、オートロックではなく罠と言うのだ。

 埒もないことを考えて、小花はやがてノブから手を放した。もう一度身を反転させ、圧迫感すら覚える細長い室内を奥へ向かって歩き出す。四方に配る視線が探すのは、入口以外の他の扉であった。

 それにしても奇妙な部屋である。

 おそらく、部屋の形は上から見ると細長い扇形をしているのだろう。入口付近は扉と同じだった横幅が、一足進むごとに広くなっている。普通、真っ直ぐに伸びた道は手前が太く奥が細く見えるものだが、この部屋は奥に行くに従って幅が広がるため、遠近感が狂ってくるのだ。

 ホラーハウスの次はトリックハウスだ。

 げんなりと、額を押さえて前方にこらした小花の目が、さらにすがめられる。

 今では人間二人が肩を並べて歩けるほどに幅の広がった部屋の先に、人影が立っているのが見えたのである。天邪鬼のように小柄でもなければ、男爵のように美しくもなく、もちろん鴉天狗にも見えないその人は、小花の歩みとほぼ同じ速度でこちらに近づいてきていた。白い半袖のブラウスに、膝丈よりやや短い紺色のプリーツ・スカート。裸足で黒のローファーを履いている。

 そこまでわかる距離まで近づいて、小花は視線を上げた。

 前方の、マッシュルームボブの髪型をした眼鏡の女子高生もまた、同じように視線を上げた。青灰色のフレームに嵌ったレンズ越しに、目が合う。

 現れたのは自分だった。

 手を伸ばせば触れる位置で立ち止まり、

「…………か、がみ……?」

 小花はかすれた声でつぶやいた。

 それに合わせて、相対した小花の唇が動いた。

 彼女の背後には細く長い部屋が伸びている。

 それは小花自身が歩いてきた場所でもあった。

 この部屋は、奥の壁一面がまるまる一枚の鏡になっていたらしい。そのために、部屋の長さが必要以上に長く、果てしなく見えたのだ。

「鏡?」

 周囲が薄暗いせいもあろうか。

 一部屋の壁と化した巨大な鏡面は息を飲むほどに美しく、つぶさに室内の光景を映し出していた。それはあまりにも鮮やかで、一体どこまでが実体でどこからが鏡像なのかもわからない。

「鏡」

 三度つぶやいて、小花はなぜ鏡があるのだろうかと自分に問いかける。もしかしたらという思いは、向こうから近づいてくる自身の姿を見た瞬間に感じては、いた。

「鏡の間──だったりして」

 まさかね。

 笑い飛ばそうとした彼女の言葉に、しかし答えはすぐ背後からやってきた。細良神社の時のように。

「正解」

 小花の両肩に、白い手袋に包まれた男の手が置かれた。右耳の裏から首筋にかけての皮膚が、自分ではない人物の髪に撫でられて粟立つ。後頭部に視線を感じた。

「待っていると言ったのに、遅れてすまないな。少々取り込んでしまってね」

 深みのある男爵の声に、だが小花は振り向くことができなかった。

 不意に背後に立たれて驚いたのもある。けれどそれよりも、真後ろにいるはずの人物が目の前の鏡には少しも映っていないことに戦慄を覚えて動けなかったのだ。

 鏡の中で小花は一人だった。

 なのに、後ろには明らかに男爵のいる気配がしていた。

「あ、あ、あの、あの、私は」

 前を向いたまま、どもりながらこの場を逃れる方法を探す彼女に、男爵は「言わずともよい」と無機的に先を制した。

「勝手に書斎を出て、屋敷内で迷ったのだろう? どうやら私が捕らえておいたかごの鳥とも会ったようだね。逃がしてしまったのか……あれとはもう少し遊びたかったのだがな」

「す、すみ、すみません。あの」

「まあいい。きみ自身はこの鏡の間に辿り着いてくれたのだから」

 肩に乗せられた手に力がこもり、小花は思わず大きく頭を振った。

「ちっ、違います! 私もなんでここに来ちゃったのか──」

 あの嘘つき鴉天狗め。

 胸中でそう呪う彼女の耳元で、男爵が低く囁いた。

「嘘つきではあるまい。だってきみは帰りたいのだろう?」

 その心があったからこそ、この部屋に導かれたのではないかと告げて、本来なら鴉天狗にもらった羽のことなど知らないはずの彼は手をはずした。同時に小花の体を支配していた緊張も解ける。何度も思考を読まれ、さすがに腹が立ってきていた。

 ここは一つ文句を言ってやるべきだ。

 彼女はそう思った。

 しかし一瞬早く、肩から下りた男爵の手がその背をぽんと押していた。

「あ」

 どこか遠くでけたたましく扉が開く音がした。

 直後、鏡の間になだれ込んだ数名の人々が、長い室内を駆けてくる。

 キーがいる。アルがいる。メガがいる。異様に背の高い、槍を持った金髪ポニーテールの男性がいる。それから。

「ハナ!」

 太一郎がいた。

 強く叫んで駆けてくるその姿を、小花は男爵に押されて眼前に迫った浄玻璃の鏡の中に見た。反射的に伸ばした掌が冷たい鏡面に触れる。


 イチ。


 唇から転がり落ちた声は、鏡の歪みに吸い込まれて消えた。

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