第四章 揚羽の森 ①



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 彼は、相変わらず仕立ての良い夜会用の礼服を身にまとっていた。

 一度見たら忘れられないその美貌は、今朝と同様に左目付近のみ長い黒髪で覆われて、下の表情が窺えなかった。それが余計に妖しくも首の後ろがそそけ立つような魅力を放っている。

 ──ウェル男爵。

 通学路に降ってきた深泥みどろという男を、労るどころか平然と尋問していた彼は、いま再び平然と細良神社の本殿から現れて階段を下りてきた。

 無論、本殿には裏口など存在しない。そこから出てきたということは、つまり小花がここへ来る前から中に入っていたことになるが……長時間いたにしては、男爵のタキシードには埃一つ付いていなかった。

 背後から声をかけられた時のまま、小花はぽかんと口を開けている。

 その隣に淡々とした風情で並んだ男爵は、おもむろに白い手袋をした手を懐に差し入れた。そうして、およそ懐には収まらないであろう大きな丸い物体を取り出した。手品師も真っ青の所行に声もなく目を瞠った小花は、彼が取り出したバスケットボール大の代物を見て、開いていた口をさらに広げた。

 男爵が片手で持っているのは、佐藤女将の頭部であった。

「お……」

 女将さんと言おうとして、あまりの展開に舌が回らなくなった小花をよそに、男爵はまるで本物のボールを扱うように頭部を放り投げた。

「!」

 男爵の手を離れた女将は、投げられた勢いに乗って地面で跳ねた後、ごろごろとあの回転音を響かせながら藪の彼方へと消えていく。

「ちょ、なっ、」

 突然の出来事に制止もできず、狼狽しまくった小花は、「な、ななな、なっ」と大いにどもった後で、

「なにすんですかっ?!」

 ようやく男爵に抗議した。

「何とは?」

 男爵は面白そうに彼女の驚きぶりを眺めた。

「だからっ、あれ、今投げた……っ」

 小花が動揺でうまく話せずにいると、彼は適当に「ああ」とわかったようなわからないような相槌を打つ。

「あの飛頭蛮は、さっき神殿の中でカマドウマを食んでいたのだよ。うっかり踏みそうになったので懐に入れておいたのだ。それを放してやっただけだが?」

 だからって投げることはあるまい。

 と思いはしたものの、小花がそれを口にすることはなかった。

 どうも、男爵を前にすると妙な威圧感に負けてうまく喋れない。ふと上げた視線が彼の淡い笑みに行き当たって、それきり逸らすことができなくなった。ほんの少し唇の端を上げた程度の笑みなのに、異常なまでの吸引力がある。

「昼間はどうも失礼した」

 言って一歩距離を詰めた男爵は、小花の乱れたマッシュルームボブの髪を一房すくって右の目を細めた。不意に昼間の金気臭さが鼻先をかすめ、彼女の肩がびくりと波打つ。

「役人から連絡があったよ。きみは客人だそうだな。あの時は、私のヴォルフガングが恐い思いをさせてしまって申し訳ない」

「ぼるふがんぐ?」

「牛だ」

「あ、ああ」

「きみの体から私が捜していた従僕の臭いがしたのでね、つい追わせてしまったのだ。しかし人違いだったらしい。ヴォルフガングにも可哀想なことをした」

 確か、牛は例の鴉天狗と戦って負け、命を落としたと聞いている。

「それは、えと……ご愁傷様です」

 文句を言いたいのは山々だったが、いかんせん会話の距離が近すぎて、小花は心にもないお悔やみを口にした。

「ああ。ありがとう」

 真顔でやや視線を下げた男爵は、けれどさして悲しんでいるようにも見えなかった。

 それが証拠に、

「ところで、きみとは昼間挨拶を交わしていたかね?」

 と訊いた顔には一転して笑みが復活している。

「礼をとったのはきみではなくて、男子学生のほうだった気もするのだが。そういえば、あの彼はどうしたのかね? 一緒ではないのか」

 太一郎のことだろうか。

 ふと胸中で小花がつぶやいた一言に、

「そうだ。そんな名前だったかな」

 となぜか男爵は普通に頷いた。

 まだ小花は何も言っていない。

 にもかかわらず、彼は登場した時と同じく彼女の頭の内側を読んだかのように、口から出る答えを待たずして会話を進めた。

「ずいぶんと面白い子だった。あれは大抵の夜型は忌避きひするだろう」

 ──キヒ?

み避けて通るということだ。おそろしいからな」

 またもや小花が思っただけの事柄に勝手に答え、男爵は軽く落胆した様子で息をついた。

「まあ及第点だな。一応きみも挨拶を交わした人間ということにしておいてやろう。本来なら、不躾に声をかけてくる昼型は始末しておく主義なのだが、今は私も探し物が見つかって機嫌が良い。大盤振る舞いだよ。感謝したまえ」

 そう一人で結論づけると、すくっていた小花の髪を戻して身を引く。

「はあ……それは、どうも」

 例によってなんの話をされているのかは不明だったが、取り敢えず物騒な事態だけは避けられたようである。小花が漠然と安堵した時にはもう、男爵は隣を離れていた。賽銭箱を素通りし、参道の手前で立ち止まった彼の両手が大きく広げられる。

「やあ。こんなところに居たのかね」

 そこではっと小花は気がついた。

 何やら失念していたが、今は余裕で話をしている場合ではなかったのだ。自分を狙うあの黒い獣が、猫背の鬼を引きずって肉迫してくる──そんな危機的状況であった。

 がしかし。

 時間的に考えて、とっくの昔に境内に到着しているはずの獣が襲ってくる気配は一向になかった。それどころか、男爵の背中越しに見えた獣は、参道と境内の間にお行儀良く座り、犬のようにぱたぱた尾を振っていた。その尾の振幅は、男爵が近づくにつれて大きくなり、ついには傍らで尻餅をついていた鬼の頬を叩くまでになった。

 男爵の片手が、獣の頭に乗せられる。

「捜したぞ。我が二十二番目の従僕」

 だが、彼の視線と言葉が向けられたのは、傍らの鬼のほうだった。

 のろのろと顔を上げた鬼が、一瞬おののいて後ずさりしかけ、けれどすぐに諦めたように体の力を抜いた。

「……旦那様」

 薄く緑がかった頬には、疲労よりも畏怖の影が濃い。慣れた仕草で跪く頭上に、無感動な男爵の声が降る。

「まったく大胆なことをしたものだ」

「も、もっ、申し訳ありません。僕はあのっ、」

 男爵が小蠅でも払うように手を振った。

「ああ言わなくてよい。事情はアルから聞いている」

大兄おおえが?」

「つまびらかに話した上でお前の助命を嘆願してきた。兄弟全員の両の手首を私に差し出してな」

「!」

「案ずるな。皆もうそろっている。お前だってそうだろう」

 主人の物言いは事も無い。だが愕然と目を見開いた従僕の顔は大きく歪んでいた。まるで今にも泣き出しそうなその様子に、

「なんて顔をする」

 男爵の右の眉がわずかに持ち上がった。

「私の迷惑も考えてみたまえ。お前を除いて二十三人、合わせて四十六もの手首なぞ貰ったところで嬉しいと思うのかね。けじめだかなんだか知らないが、余計なことをしてくれた。おかげで大事おおごとになってしまった。私はどうでも良かったのに」

 心底嫌そうに言って、彼は獣の頭をわしわしと撫でまくる。

「ちょうど西のはくの使いが来ていてな。棚に並べておいた四十六の手首を見られてしまったのだ。事の次第がすっかりばれて、伯にはえらい剣幕で罵られたよ。鏡を無断で人間に使用されたばかりか、それを手引きした従僕にも逃げられるとはなんたる恥しらずかとね。……私より少しばかり位が上だと思って偉そうにあのじじい。面倒臭いからこの件は捨て置こうと思っていたが、伯があまりにうるさくてな。お前を捜すことにした」

 頭蓋が軋むほど力任せに頭を撫でられ、獣の尻尾が地面に落ちた。次第に怯えた鳴き声を出し始める姿を横に見て、鬼が同調したように身を縮める。

「それは、お手数を、おかけしまして……」

「まったくだな、キーよ」

 媚びる声で許しを乞う獣から手をはずし、男爵は後ろを振り向いた。ただ成り行きを見守っているだけだった小花が、急に視線を向けられて一歩身を引く。

 キーと呼びかけられた鬼──天邪鬼あまのじゃくも同じく、主人にならって彼女を見つめていた。

 いや、見ていたのは小花ではなく、その容姿に重ねた別の人物の面影だった。

 男爵が口を開く。

「人間の娘に入れ込むのは勝手だ。屋敷に招きたければ招けばよい。鏡を使わせたければ使わせればよい。不愉快なのは私を素通りしたことだ」

「…………」

「なぜ話さなかった? 正直に越境させたい人間がいると願い出れば、聞いてやらんこともなかったものを」

「で、ですが、昼型が鏡に触れることは禁止と」

「ふん。私は西の伯のように生真面目ではないからな。しかるべき理由とそれなりの代価があれば、人間にも鏡の使用を許可している。お前とてそれぐらい知っていよう?」

 キーは力なく項垂れて首を振った。

「代価を支払える余裕はありませんでした。ですから無断で。それに」

 言いさして、再び小花を見やる。

「それに?」

「彼女はもう帰らないつもりだったので」

 男爵が思案げに腕を組んだ。キーは追い立てられるように言葉を繋いでいく。

「越境した昼型は二十四時間以内にもとの世界に戻らなくてはならない。その時間を一秒でも過ぎれば調整役の介入を受けて移動させられる──それを承知で彼女は越境しました。二人の米神小花のうち、調整役がどちらを選んで動かすかに賭けたんです」

「ふん。そんなものは決まっているじゃあないか」

 小馬鹿にしたように言って、男爵は己の後方に立つ小花を顎でしゃくった。

「世界のことわりを知る者と知らぬ者。どちらを選ぶかなど聞くまでもない」

「はい。結果は彼女の望み通りになりました。調整役は越境を図った米神小花ではなく、無知なダブルのほうを動かしてこちらに寄越した。入れ替わりは成功です。だから」

「だからお前は、私のもとから逃げたというのか?」

 キーの台詞を奪った男爵が、組んでいた腕をほどいた。もう一度、小花へと露わになっている右目を流す。

「なぜだ? あれのどこがそんなに良い」

 声を潜める気遣いもなく、あれ扱いされた小花の頬がぴくりと引きつった。そこへさらに、追い打ちをかけるようなキーの声が届いた。

「いやいやいや。とんでもないです旦那様」

 彼は懸命に首を振った。

「外見は同じでも中身は真逆です。彼女はあいつとは違って、もっと大人しくて気の優しい、ふわふわした感じの。ああ、綿飴みたいな子なんです」

「わたあめ?」

「は、はいっ。僕のような天邪鬼の下っ端にも声をかけてくれて、笑いかけてくれて、話をしてくれました。因縁をつけてきた鴉天狗に折られた角を、拾って付けてくれたんですよ?! あんなふうに人間に接してもらったのは初めてで」

「それで娘の願いを聞いてやる気になったのか」

「はい。ですから彼女とあのダブルは違います。断じて違います」

 ずいぶんと失礼な言い様である。

 離れて聞いている小花の頬の引きつりが、いっそう増した。視線の先では、男爵がマイペースに首を傾げている。

「しかし納得がいかん。なぜ逃げる必要があったのだ?」

 キーは答えを迷うような素振りを見せた。だが、やはり主人には逆らえないようで、やや間を置いてから緑色の薄い唇を開いた。

「彼女との約束がありましたから」

「ほう」

「もし入れ替わりが成功したら、ダブルにかかった施術を解いてほしいと、言われて」

「なんのために?」

 さもありなん質問に、キーは再び押し黙った。今度は答えを躊躇っているのではなく、答えを持たないがゆえの沈黙であった。それを察した男爵が「ふむ」とつまらなそうな声を漏らして、くるりと体ごと後ろを振り向く。

「だ、そうだ」

 彼が声をかけたのは無論、もはや逃げる気も失せてひたすら夜型二名の会話を聞いていた小花だった。

「……どういうことですか」

 慎重な彼女の反応を受けて、男爵の眉宇がかすかにひそめられた。

「聞いていなかったのかね?」

「聞いていましたよ」

 だからこそ、コメントに迷うのだ。

「いちおう、そこにいるのが、あなたが捜してた天邪鬼だってことはわかりました」

 ついでに言うと、天邪鬼が先ほど獣から庇ってくれたのは、今いる小花自身を案じたわけではなく、もう一人の米神小花を死なせないための行動だったこともわかった。それだけでも軽く不愉快になる事柄だというのに、小花を客人にしたそもそもの発端からして図られていたとあっては、どういうことかと問いただしたくもなる。

 憮然とした小花の答えに、男爵は面白そうに頷いた。

「きみは運が良い」

 そう告げて、石畳に伏せていた黒い獣の前に屈む。

 彼の手荒い愛撫に怯えてすっかり大人しくなっていた獣は、それでも再び頭に手を乗せられると尻尾を振り出した。

 さっきまでの獰猛さはどこへやら、まるで愛玩犬のようなその様子に、小花は胡乱うろんげな溜め息をつく。

「どこがですか。最悪ですよ」

「そうだ。最悪に運が良い」

「は……?」

「キーが言った通り、きみが客人になったのは偶然ではない。はかりごとのようなものだ。きみはダブルにしてやられ、かつキーによって記憶攪乱の施術を解かれ、混乱のうちに現実を受け入れざるを得なくなった。そういう意味では今日は、素晴らしくも最悪な日であることに変わりはない」

 大仰に喋りながら、男爵は頭を撫でていた獣の腹に腕を差し入れて立ち上がった。土佐犬ほどもある巨大な黒い塊が、決して太くはない腕に抱きかかえられ、驚いたことに軽々と宙に浮いた。

「しかもきみは私に会った。一度目は今朝、二度目は今……なのにまだ生きている」

 まるで男爵に会った者はみんな死んでしまうような言い方である。小花の感想が伝わったのか、彼はひどくさり気なく次の言葉を口にした。

「もともと私は人間が好きではなくてね。キーをそそのかした娘がどうであれ、取り敢えず殺しておこうと思っていたのだよ。いや今でも思ってはいる」

 男爵の傍らに控えていたキーが顔を跳ね上げた。

「だっ、旦那様。僕は唆されてなど」

「お前の意見は聞いていない」

 狼狽して言い募ろうとする天邪鬼を一言で黙らせ、男爵は小花を振り返った。彼の腕に抱えられた獣の四つ足が、ぶらんと所在なげに揺れた。

「きみも同じだ。どうせ一方が死ねば、もう一方も命を落とすのだから、役人の話など聞かなかったことにして、先に殺そうと思っていた」

「…………」

 小花は無言で後ずさった。が、退げたふくらはぎが背後の賽銭箱にぶつかり、たちまち移動ができなくなった。

「さっきまではな」

 獣を腕にしたまま、男爵は彼女に歩み寄る。

「きみは運が良い」

 もう一度先ほどと同じ台詞を繰り返して、彼は抱えていた獣を賽銭箱の上で解放した。

 戸惑ったのは獣である。賽銭用の切れ込みが入った不安定な箱の上に載せられて、すっかり落ち着きをなくしている。しかし余程男爵に畏敬の念を抱いていると見えて、不満の鳴き声を上げることもなければ、勝手に箱から飛び降りようともしなかった。

「気が変わったよ。考えてみればきみも被害者、さすがにここで殺してしまうのは忍びない。可哀想だ」

 哀れんでいるにしては明るい口調で頷いて、男爵は小花に改めて笑顔を向けた。

「そこで提案したいのだが。見たまえ」

 言うなり、白い手袋をはめた手が一つ打ち鳴らされる。

 その音を合図に、賽銭箱の上で身じろいでいた獣の姿がかき消えた。

 箱から降りたのではない。消えたのだ。

 闇夜に溶ける黒い毛並みも、五つの目も、骨太の体躯もすべて皆、男爵の柏手と共に忽然とその場から消滅していた。

「……何をしたんですか」

 恐る恐る小花が質問すると、

「越境させたのだよ」

 との答えが返ってくる。

「この神社は昔から座標が歪んでいてね。参道の延長線上にはしょっちゅう虫食い穴が空いている。とくに賽銭箱の上が顕著で、夜型ならここを利用してあちら側へと越境することも可能だ。──何が言いたいか、わかるかね? 要するに、越境とは我らにとってそれぐらい造作ないということだよ」

 そこで彼はちらりと境内周辺に広がる藪の中に視線を流した。けれど、すぐに小花へと向き直って右目を細める。

「きみ」

「は、はい」

「再び越境してみる気はないか?」

 小花の瞳が、ずれた眼鏡の奥でわずかに拡大した。

 いささか麻痺しかけていた脳髄に、電撃を受けたような衝撃が走る。

「私がもとの世界に帰してあげよう」

 ひどく優しげな男爵の囁きは、キーの不安げな顔をひと撫でして、小花の耳にするりと忍び込んだ。



     2


 夜の細良神社に五つの人影がある。

 男が三人に女が二人。男性はみんな人間だったが、女性二人は夜型と夕型であった。

「……それでお二人は揚羽森あげはのもりに」

 閉めきられた社務所の前で話しているのは、夕型の女性だ。先ほどから専ら一人で事の次第を説明しているが、その口調にはまったく覇気がなかった。どこか眠たそうで、ところどころ呂律が回らなくなるのは、もしかしたら胴体がないせいかもしれない。

 そう思い、賽銭箱の前に佇んでいた以空いそらは声のするほうに顔を向けた。

 社務所の近くには、昨年の星祭りに植樹された山茶花の若木が生えている。飛頭蛮と人間の混血だという彼女の頭部は、その若木の上に載っていた。見た目から推測する年齢は六十代から七十代。神社から一町と隔てていない近所の酒屋の女将で、最初に佐藤タマと名乗っていた。

 もっとも、夜型と夕型に関しては、見た目と実年齢が一致しないというのが世間一般での常識である。

 佐藤女将の向かい側、正確には女将の頭部が載った若木に相対しているのは、八ツ目市役所職員の海老原典男だ。雑木林を吹き抜ける風に七三分けの髪型を乱されるたび、神経質そうに指で直すその顔色はいつにも増して青白い。おそらくは時間外に呼び出されたのが不満なのに違いない。

 そう思い、左のシャツの袖を捲り上げた以空は腕時計を確認した。

 午後八時〇三分。

 現場に到着してから、かれこれ二十分は経過している。

「獄卒、来んですなぁ」

 誰に言うでもなく彼がぼやくと、賽銭箱に突っ伏していた二人目の女性が上体を起こした。彼女の場合、それだけで闇がもぞりと動くような圧迫感があった。

「だから……っ」

 嗚咽混じりの声は黒いベールの奥から発せられている。鈴の音を転がすような、という表現がぴったり当てはまる声の主は、しかし夫以外には誰にも素顔を見せないことで有名だった。

「だからだからだから、言ったのですわっ」

 ついた通り名がベール夫人。本名を常磐累ときわ るいという。

「腑抜けた獄卒どもは、あたくしの阿奴毘須アヌビスちゃんがどうなってもいいと思っているのです。ペットだからって馬鹿にしているのです。あの子はケルベロスの遠戚ですのに。それもブラックドッグと昼型のドイツ犬とをかけ合わせた、とても貴重な子ですのよ? 血統書も付いておりますし、簡単に手に入れたわけでもありませんわ。うちの人がわざわざあたくしのために大陸まで出向いて買い求めてくだすったのです。その苦労を彼らはちっともわかってませんの」

 今日も今日とて、彼女は頭のてっぺんから足の先まで中世ヨーロッパ風の黒い衣装でくるんでいる。春夏秋冬いつでも似たような出で立ちで平然としていられるのは、さすが夜型と言うべきだろうか。

 そう思い、彼女の話のほとんどを聞き流していた以空は適当に相槌を打った。

「そら、わからんでしょうなぁ」

 しかし選んだ相槌は失敗だったようで、衣擦れの音を響かせて振り向いた常磐の全身からは怒りが感じられた。

「あなた本当にお役人ですの?」

「へえ。まあ一応、嘱託職員ってことになってます」

「でも狩人かりうどなのでしょう?」

 警戒感をにじませる常磐の視線が、以空の右半身に注がれている。黒いベール越しではあるが、それがわかる。

「へえ。まあ一応」

 同じ台詞を繰り返して、以空は右手の得物を持ち直した。

 穂先の両側に枝の付いた長さ約二・五メートルの十文字槍。それを用いて、あちら側に越境した夜型のはぐれ者を〝連れ戻し〟あるいは〝討滅とうめつ〟するのが彼の仕事である。

「まさか阿奴毘須ちゃんを狩る気ではないでしょうね」

 以空の鎌槍に注意を向けたまま、常磐が言った。

「そんなこと許しませんわ」

「わかっとりますって。捕獲すんだけです。対象が越境先あちらさんで人間を喰ろうたり、我を失うて手がつけられんようになっとらん限りは、討滅なんてせえへんです」

「……阿奴毘須ちゃんは良い子ですわ」

「なら安心や」

 以空はにんまり笑った。常磐は何も言わずに彼の槍から意識を逸らして、再び賽銭箱の上に突っ伏した。佐藤女将の目撃談によれば、その賽銭箱の上がくだんの魔犬が越境の前に身を置いた最後の場所であるらしかった。

 細良神社の周辺で電波障害が発生しているとの第一報が入ったのは、午後六時半のことである。通報者は女将ではなく、その下宿人の男子高校生だった。その後、彼からは神社で夜型のはぐれ獣が越境したことや、そこに居合わせた女子高校生が、これまた居合わせたウェルウィッチ男爵と天邪鬼に連れて行かれたことなどが追って通報された。

 第一報が夕方。

 第二報が夜。

 問題だったのは、この第一報の時間帯であった。

 基本的に、夕方に起きた事件は昼型も夜型も関知したがらない傾向が世間にはある。仮に第一報が無視された場合、続く第二報も同様の扱いを受けるケースが多く、現に通報を受けた警察は関与を躊躇った。この件に巻き込まれたのが客人だということで、話は役所のほうに回され、結果、担当職員の海老原と嘱託職員で狩人の以空に処理が一任されることとなったのである。

 一応、はぐれ者狩り専門の獄卒にも連絡はいっているはずだったが、彼らが現れる気配は今のところない。

 きっと来ないつもりなのだろう。

 そう思い、金髪の頭を掻いた以空は首を巡らせた。

 賽銭箱の延長線上には長い参道が延びている。空間の歪みがひどいことで知れているその参道と境内の間には、黙然もくねんと五人目の影が立っていた。

 例の通報者の男子学生である。館上太一郎という名の彼は、役人たちの間ではちょっとした有名人であった。客人として保護された小学生の頃から庁舎への出入りが頻繁で、以空もこれまでに何度か見かけたことがある。実は今日もお昼に食堂で顔を合わせているのだが、彼がそれを覚えているかは定かではない。

 太一郎の足元には、土で真っ黒に汚れた靴下と突っかけサンダルが一足分まとめて置かれていた。男爵に連れて行かれた女子高校生が履いていたものらしい。

 彼女の置きみやげを前に、太一郎は長い参道を眺めていた。

 顔に表情は浮かんでいない。

 それは現場に関係者が集まった時からずっと変わっていなかった。いや、もともとそういう人物であることを以空は知っている。庁舎で見かける彼はいつも無愛想で、必要最低限の会話しかしなかった。それが常態だ。食堂で連れの女子高校生と明るく話している姿のほうが、異様な光景だったのだ。

「大丈夫や」

 不意に口を開いた以空の言葉に、太一郎が振り向いた。

 しばし無言で見つめ返してから、

「……………………なんですか?」

 とぽつりと訊く。

 以空は安心させるように微笑んだ。

「あの色男の男爵さんが、人の彼女を攫うほど女に飢えてるとは思えん。何か事情があったんやろ」

「そうですね」

 対して太一郎のほうは、眉一筋も動かさない。

「でもいなくなったのは俺の彼女じゃありません。幼なじみです。それに」

 足元の置きみやげに軽く彼の視線が落ちる。

「攫われたとは限りませんよ。自分からついて行ったのかも」

「そのようですね」

 太一郎の意見に同調したのは、いつの間にか社務所の前を離れていた海老原だった。佐藤女将の聴取を終え、手帳を懐にしまいながら以空と太一郎に歩み寄ってくる。

「嫌がっている素振りはなかったとのことです」

「ちゅうても、女将が見てた場所は藪ん中やろ? 話もところどころ聞き取れてへんみたいやし、正確なことはわからんとちゃう?」

「ええまあ。ですが、手荒く連れて行かれたわけではないことは確かです。ウェルウィッチ殿とて夜型五等爵の一人に名を連ねる御方、まさか客人の娘を取って食ったりはしないでしょう。──問題なのは魔犬のほうですよ」

 海老原が暗い声を出した。もともとお経のような物言いが板についている人物ではあるが、より淀んだ雰囲気が細長い顔面全体から出ている。

「男爵の手助けで越境したのは事実のようです。しかも飢えている状態で」

「あちゃあ」

 以空はわけもなく天を仰いだ。二メートル近い長身の彼の頭上には、雑木林の黒い葉影と星の見えない夜空が広がっている。

「それはあかんなぁ。向こうで人間を喰ろうてもうたらアウトや」

 討滅しなければなるまい。

 暗に示した台詞を察したのか、再び大仰な衣擦れの音が賽銭箱の前でした。常磐が凄まじい勢いで振り返ったのだ。

「阿奴毘須ちゃんは良い子ですわっ!」

 激昂した彼女の叫び声は、文字通り周囲の空気を凍りつかせた。

 賽銭箱から本殿、社務所、石畳を伝って参道の半ば付近まで。

 基本仕様でかかった「ですわ」の長いエコーと共に、常磐を中心にして蜘蛛の巣状の氷が張り巡らされる。もちろん、境内にいた以空や海老原や太一郎も例外なく巻き込まれ、皆の靴の表面には薄氷のコーティングが施された。ただ一人、山茶花の若木に載っていた佐藤女将の頭部だけが無事で、慌てた彼女はさらに社務所の屋根に避難していった。

「勘弁してえな、奥さん」

 ばりんと音を立てて、以空は凍りついた地面から靴を剥がした。幸い、常磐のほうも瞬間的にが出てしまっただけらしく、氷は六月の夜気に触れてたちまち溶けていく。

「……革靴なのに」

 海老原が、水浸しになった己の靴よりもさらに湿っぽい表情になった。太一郎は無言で水になった氷を眺めている。

「ごめん、なさい……でも、でも、でも、ぉ」

 ベール越しに聞こえる常磐の涙声は幼かった。まるで小学生が駄々をこねるように、何度も首を振る。

「あの子は本当に可愛い子なんです」

「お気持ちはわかりますけど」

「狩るなんて非道です」

 以空の言葉を最後まで聞かず、常磐が三度賽銭箱に突っ伏した。

「むごいですわ鬼ですわ悪魔ですわ血も涙もありませんわっ」

「んなこと言われても」

「ウェル男爵もウェル男爵ですわ。前にうちに遊びに来た時に、阿奴毘須ちゃんとは会っておりますのよ!? あの子も男爵には懐いておりましたわ。気づかないはずはありませんわ。なのに、どうして保護してくださらなかったの!? それどころか、うちの人やあたくしに断りもなく越境させるなんて、させるなんて、させるなんて!」

 二度目のボルテージが上がり始めた常磐に、以空は小さく溜め息をついた。また氷を張られては堪らないと思ったのか、なだめに向かう海老原にこの場は譲って、太一郎のほうへ体を向ける。──と、すでに彼の姿はそこになかった。見れば一足早く境内を離れ、参道のほうへ歩き出している。

「ちょ? 待ってえな。どこ行くん?」

 早口で以空が引き留めると、太一郎は憂鬱そうに足を止めた。

「揚羽森です」

 男爵の屋敷が建つ八ツ目市郊外の地名を言って、首を後ろに捻った。

「行って、どうするんや?」

 太一郎の右手には、例の女子高校生の靴下とサンダルが静かに収まっていた。

「幼なじみに会いに」

 以空は「ああ」と務めて明るい声を出した。

「それやったら、おれも一緒に行くわ。常磐さんちの阿奴毘須ちゃんを捕まえに越境せなあかんから、どうせ男爵のとこ行くし」

「……鏡ですか?」

「せや。浄玻璃じょうはりの鏡を使わせてもらうんよ」

 太一郎は確認をするように一つ頷いた。が、わざわざ引き返して以空と肩を並べて歩く気はないらしく、そのまま参道を神社の入口に向けて去っていく。

 そこに、追いかけられることを拒む空気を察し、以空はやれやれと肩を竦めた。

「ようわからん奴やなぁ」

「もとに戻っちゃったわ」

 独りごちた直後、隣で上がった声に彼は大きく一歩飛びすさった。

 知らぬ間に左側に並んでいたのは、佐藤女将であった。胴のない彼女は、頭部を地面に落としてバウンドしては空中に浮き、また落としては浮くのを繰り返しつつ、思案げに太一郎の冷めた背中を見つめていた。

 狩人でありながら不覚をとってしまったことに苦笑して、以空は上下する老婦人の頭部に話しかけた。

「戻ったて、館上くんがですか?」

「ええ」

 女将は眠そうな目を数回瞬いた。

「知ってるかしら。あの子は調整役の手を介さずに越境してきた客人なの」

「知っとります。ポジティブ客人さんやね」

「ええ。だから記憶の攪乱はされてないはずなの。……でも、一つだけどうしても覚えていないことがあるのよ」

「ああそれ、越境した時のことやね」

 以空が答えを先取りすると、女将がかすかに目を瞠って顎を下げた。

「そう。初めは不慮の事故で虫食い穴に落ちたのかと思われたけど、違ったわ」

「てえことは、たぶんどっかの夜型が手を貸して越境させたんやないですか? ポジティブ客人にはそういうのが多いて聞きますで。夜型は越境さす代わりに、何かもらったり、約束させたりするんです。取引っちゅうか、契約やな。館上くんもその口やないかな。夜型と契約して越境したもんは、大抵その時の記憶がすっぽ抜けとるもんやし」

 以空の言葉に、女将の上下移動が早くなった。

「おっしゃる通りよ。おかげであの子はその契約に縛られて、二度と越境ができない体になってしまったわ。なのに契約の内容はわからないの。当時あの子はまだ十歳足らずで、そのへんのことがはっきりしないみたいなのよ」

「せやなぁ。子供に契約さすなんて、悪い夜型や」

「ええ本当に。──しかもそいつ、ただの夜型じゃなかったのよ」

 声を潜めた女将が、あたりを窺うように目を走らせた。本殿前では、まだ海老原が常磐を宥めており、時どき激昂をくらって大事な七三分けを凍らされ、どんよりしている。それらを一瞥して、女将は口を開いた。

「少なくとも上位クラス。あるいはもっと上の可能性もあるって聞いたわ」

「もっと上て……そんなの数えるぐらいしかおらんやないですか」

 以空は無意識に鎌槍を体に密着させた。

「だから、昔からあの子の周りには、中位以下の夜型は恐ろしがって近寄って来ない。逆に中位以上は面白がってわざわざ見に来たりする。これがどういうことだかわかって? 客人だというだけでも心理的負担が大きいのに、子供の頃から年がら年じゅう夜型の関心が寄せられていたのよ? あの子が無愛想になったのはそのせいだわ。施設を出てうちに来た時にはもう、あんな感じだったもの」

 言って、女将は参道に目を向けた。太一郎の背中はすでに見えなくなって久しい。

「せめて、契約した夜型の名前がわかればねえ。捜し出して文句を言ってやるんだけど」

「やめといたほうがいいんとちゃいますか。殺されかねんで」

「そう? まあ、あの子が覚えてないんだから言っても詮ないわね。とくに、が邪魔をするみたいで」

「ある人物?」

 ふっと女将の顔が綻んだ。嬉しいような寂しいような不思議な笑みである。

「米神小花さん」

 それは、例の男爵に連れて行かれた女子高校生と同じ名前であった。

「太一郎に契約時の質問をすると、決まって返答が彼女との思い出話にすり替わっちゃうのよ。きっと契約した夜型に何か細工をされてるんだろうけど、これがまた嬉しそうに話すのよねえ。彼女に関わる時だけ、自覚なしに表情が変わるの」

「そうみたいですなぁ」

「あら、知ってるの?」

「今日、二人でいるとこを見かけましたんや」

 以空の脳裏には昼間の食堂の光景が広がっている。

「いやあ普通に青春を謳歌しとりました」

「そうなのよねえ。彼女が客人としてこっち側に来たって聞いた時は驚いたけど、太一郎がにこにこ笑ってるのを見たら、あたしも嬉しくって細かいことはどうでもよくなっちゃったわよ。せっかく会えたんだしね。でも……彼女がいなくなった途端にあの顔。もとに戻っちゃった」

 先ほどよりも少し沈んだ調子で言って、佐藤女将は地面に頭部を着地させた。それきりバウンドして空中に浮いてこようとはせず、ただ黒い土の表面を凝視している。ややあって、鼻先を通過した灯蛾とうがを器用に舌で舐め取ったのを機に、かれたように虫の捕食に取りかかる様子を見て、以空はそっとその場を離れた。

 夕型の言動には、常人には理解できない波があるのだ。

 彼は、賽銭箱の前で常磐の愚痴を聞いている海老原に声をかけ、参道を歩き出した。

 頭の中には、自然に米神小花という女子高校生のことが浮かんでいた。

 ──契約時の細工で思い出される娘が、客人になってこちら側に現れた。

「えらいおもろい偶然やな」

 果たして本当に偶然だろうか。

 そう思い、彼は刃も露わな鎌槍かまやりを肩に担いだ。

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