第三章 抜け首を追いかける ②



     3


 柱時計が鳴った。

 何度目かの音に応じて小花の瞼が開く。今度は頬杖がずれることもなく、ちゃぶ台に触れた肘のわずかな痺れに、眠りに落ちていた時間の短さを知った。うん、と伸びをして改めて見回した茶の間は、先ほど以上に強い赤で彩られている。西を向いた店側のガラス窓を通して、夕日が斜めに差し込んでいるのだ。光を受けて、茶箪笥や回りっぱなしの扇風機からは細長い影が伸び、畳の上に風変わりな模様を描いていた。

 その赤みを帯びた光と影の間に、女将の小さな背中が見えた。

 いつ戻ってきていたのか、やはり土間に足を置いたまま茶の間の隅に腰かけ、左肩を仕切り戸にもたせかけている。時折、頭が上下に動いているところからして、どうやら彼女も微睡んでいるようであった。

 小花はスカートのポケットから例の携帯電話を取り出して、時刻を確認した。

 午後五時三分。

 気づかなかったが、表でも時報が鳴ったのだろう。大きな欠伸を一つしてから、強ばった体をほぐすように立ち上がった彼女は、強い西日に目眩を覚えた。自然、すがめられた瞳の先で、女将の頭が船を漕ぐ。

 そして、ぼた、と落ちた。

「…………」

 あたまが。

 

 前のめりに揺れたしなに、老婦人の頭は首の付け根からすっぽ抜け、生々しい音をたてて土間で跳ねた。そのまま、落下の勢いに乗って店舗のほうへと転がっていく丸い頭を、小花は呆然と眺めやる。

 回転の間にちらりと見えたその顔は、確かに先ほどまで話をしていた女将のものであった。両の瞼を閉じた穏やかな表情をしており、眠っているようであった。いや実際、眠っていたのに違いない。現に頭を落とした体のほうは、変わらずゆらゆらと前後に船を漕いでいる。今の今まで頭が乗っていた位置の、ぽっかり空いた襟ぐりの奥が暗い。

 その暗黒を凝視しているうちに、ようやく小花の中で固まっていた感情が動いた。

「──は」

 まず吸うのを忘れていた空気を肺に取り込む。

 吸ったはいいが、吸いすぎて大いにむせた。

 けれどおかげで、凍りついた体に血が通った。同時に今のが、自分が寝ぼけて見た夢ではなく現実だということを思い知る。何度目を瞬いて見返しても、仕切り戸にもたれた女将の体には頭がなかった。

「あたま」

 ぽつりとつぶやいて、小花は頭が転がっていた店の側へと身を乗り出す。

「おっ」

 体と頭、どちらに呼びかけたらよいものか一瞬迷い、すぐに頭のほうを選んで、小花は土間に下りた。隅にあったもう一組のサンダルをつっかけ、酒屋の中を歩き回る。

「女将さんっ、頭。あたまが」

 しどろもどろに言う彼女は、自分でも馬鹿だと思えるほどに動揺していた。

「落ちましたよ?! ちょっと」

 小さなレジを置いたカウンターを出て、焼酎の一升瓶が並んだ棚を横切り、黄色いビールケースが積まれた店先に至る。閉め忘れたのか、入口のスライド式の扉は、なぜか半分ほど開いていた。

 嫌な予感を覚え、残りの半分を開いて店の外へ出た小花は、思わず絶句した。

 西向きに建つ佐藤商店は、北と南に伸びる細い通りに面していた。その北側の道の数メートル先に、女将の頭部らしき丸い影があった。茶の間からそこまで転がり出たことにも驚くが、今もなお動いているとはどういう仕組みか。しかも前方回転で進んでいる。

「…………」

 女将が人間でないことは、小花も聞いて知っていた。

 とはいえ見た目はどこにでもいる普通のおばちゃんだったので、さっきまで人間のような認識で会話をしていたのだが──とんだ勘違いであったらしい。なかなかどうして、素晴らしい化け物ぶりである。

 それとも夕型は、居眠りをすると頭が落ちて転がる習性があるとでも言うのだろうか。

「……夢遊病、みたいな?」

 嫌な想像が意外にもあり得そうな気がして、小花は右手に握りしめたままだった携帯電話を掲げた。前方の頭部はごろごろと回転を繰り返し、住宅街のほうへ遠ざかっていく。その後を追って歩きながら、今日の昼間に新規登録された番号を押す。

『もしもーし』

 ややあって通話口に出た間延びした声に、小花は思いきり怒鳴った。

「早く帰ってこおいっ!」

 電話の相手は、言うまでもなく太一郎であった。

『どしたの?』

「女将さんの頭が落ちた」

 普通ならば通じないであろう簡潔な言葉に、しかし束の間の沈黙を経て、彼は『ああ』と声を漏らした。

『もしかして居眠りかなんかで?』

 その察しの良さには、言った小花のほうが驚いたぐらいだ。

「なんでわかんの」

『いつものことだから。女将さんは夕型だって説明したろ? 父親は人間だけど、母親が飛頭蛮ひとうばんっていう夜型なんだよ』

「ひとうばん?」

『簡単に言うと、ろくろ首かな』

 平らな道路にもかかわらず、小花の足がもつれた。見つめる視線が向かう場所には、相変わらず縦に転がっていく女将の頭部がある。意外に移動速度が速く、小走りに追っているにもかかわらず、さっきよりも影法師が小さくなってきている。

「でも、それって首が伸びるんじゃなかったっけ?」

 女将の場合は伸びたのではない。落ちたのだ。そもそも、頭に長い首が付いた状態で前方回転などしたら、絡まって仕方ないだろうと──小花はこの際どうでもいいようなことを真面目に考える。

『種類がいろいろあるんだよ。伸びるのもいれば、抜けるのもいるわけで。女将さんの場合は抜けるほう』

「大、丈夫なの?」

『もちろん。飛頭蛮は、睡眠時に首の付け根から頭を抜いて、捕食に出かける習性があるだけだから』

 やっぱり。

 女将の頭部に続いて、細い路地に入る小花の目に呆れの色がともる。

「捕食って、どうするの?」

『よく茂みに入って、ちっさい虫なんかを摘んでるね』

「……見たくない」

『見なくていいよ』

「そんなこと言ったって──あ、れ?」

 携帯電話を片手に、住宅の建ち並ぶ路地をいくつか折れたところで小花は足を止めた。サンダルの音がやみ、辺りが静けさに包まれる。それに加えていつの間にか、頭蓋骨とアスファルトが接触して起こる硬い回転音までもが消えていた。

「いない」

 天高く広がる空は、西日で真っ赤に燃えている。

『誰が?』

「女将さん」

 転がる老婦人の頭部どころか、周囲には人っ子一人いなかった。帰宅時間だというのに車も通らなければ自転車も通らない。まるでゴーストタウンのような黒狛三丁目の住宅街に、小花はつくねんと佇んでいた。

「見失っちゃったよ」

 あんな移動方法でどうやったら追っ手をまけるのかは知らないが、ともかく女将の姿はどこにも見当たらなかった。

『ハナ』

 いまだうろうろと視線を巡らせる小花に、太一郎が呼びかけた。

『まさか、追いかけたのか?』

「え、うん」

 あっさり頷いた小花の足が、再び動き出して適当な路地を曲がる。が、やはりいない。碁盤の目のように整備された三丁目の界隈は、土地勘のない人間にとっては迷路にも等しい構造をしている。

『今、外にいるのか? どこにいる?』

「それがね……どこだか」

 実を言うと、現在地は女将の頭部を見失った段階でわからなくなっていた。やたらと路地を曲がってきたせいか、引き返すにも正しい帰り道を見分ける自信がない。見知らぬ住宅の前に放置された三輪車を避けて進みながら、小花がそう正直に告白すると、電波越しに短い舌打ちの音が聞こえた。

『なんで追いかけたんだよ』

 低く責める彼の口調は、珍しく怒りを孕んでいた。

「なんでって、寝てる人間の首が落ちて転がってくの見たら、誰だって驚くでしょ。追いかけるでしょ?」

『普通は追いかけない』

「お、追いかけるもん」

『追いかけない』

 二度続けてぴしゃりと言われ、小花の唇が不満げに尖る。

「だってね! ほら、拾ってあげなきゃ、女将さん帰れなくなるかもしれないし」

『帰れる』

「え?」

『帰れるんだよ。寝てても無意識下でわかってるんだ。ほっといたってそのうち自分で帰ってくる。それに、追いかけたって見失うに決まってるじゃないか。飛頭蛮の首は転がるだけじゃなくて、飛んだり跳ねたり自由に動くんだぞ? 瞬間移動することもあるから、まず追いつけない』

「そんなの聞いてないよっ?」

『だから、飛・頭・蛮、って言ったろ?!』

「名前だけでわかるか!」

 妖怪博士ではないのだ。

 苛立つ太一郎につられ、小花も怒鳴り返す。

 この場にいない相手の代わりに茜空を睨めば、東の家々の合間にこんもりとした雑木林が見えた。現在位置から考えるに、近くの丘上にある林のようだ。碁盤のような路地に飽いた彼女の足が、見晴台を求めてそちらへ向いた。

『女将のことはいいから、ハナは早くうちへ帰れ』

「言われなくても帰りますけどね、きみの家じゃなくて自分の家に」

『駄目だ。ハナの家じゃ遠すぎる。俺んちでいい』

「結構です」

 電話の向こうで、太一郎が盛大な溜め息をついた。

『わかってないな……もうすぐ日が落ちるんだ。夜になると危ないんだよ。出歩くなって言ったの覚えてるか? 今だってもう』

 そこで唐突に通話が途絶えた。

 キーンという耳鳴りに似た雑音を挟んで、再び復活した後に届いた太一郎の声はやけに切迫していた。

『──ナ、ハナ?!』

「そんな連呼しなくても聞こえてる」

『なに落ち着いてるんだよ──近くに誰かいるのか?』

「いないけど?」

『人じゃなくても、犬とか猫とか』

 小花は歩きながら改めて周囲を見回してみる。が、家並みの静けさは相変わらずで、そう言えば犬猫の気配さえなかったことに今頃になって気がついた。たまたま通りかかった家の庭にあった犬小屋の中は、なぜか空っぽであった。

「いないよ。気持ち悪いぐらい、誰も、なんにも」

 さすがに訝しく感じられて慎重な声を出す小花に、太一郎がさらに慎重な声で応じる。

『今は昼型が引っ込んで、夜型が出てくる前の時間帯なんだ。どっちの管轄ともつかない間はみんな外に出たがらない。何が起こるかわからないからな』

「おどかさないでよ」

『事実なんだよ。強いて言うなら夕型の管轄だけど、夕型は数が少なくて統制も何もないから、役に立たない。つまり、例えばこの時間に何か事件が起きたとしても、それはケアされない』

「…………」

『いいかハナ。今はもし誰かを見かけても無視し』

 また太一郎の台詞が切れた。

 例の妙な雑音が入り、通話が乱されたのだ。数秒待ったものの、今度は容易に復活しなかった。

 気になるところで会話が遮られてしまい、小花は立ち止まって携帯電話を持ち直した。

 折しも場所は、遠目に見たあの雑木林の前であった。そこは住宅地よりも一段高い公園になっており、道路から林までを緩やかなスロープが繋いでいる。スロープは途中で二股に分かれ、右は森林公園、左は赤い鳥居の下にそれぞれ辿り着けるようになっていた。

『ハナ』

 不意にクリアな声が耳を打って、小花はかすかに肩を震わせた。つい辺りを見回してしまってから、「急に呼ばないで」と太一郎に文句を言う。

 だが、彼からはそれに関するコメントはなく、代わりに『今どこなんだ?』との質問だけが返ってきた。言葉の前後にはあの雑音が入り、どうも彼女の声が正確に届いていないと思われた。

「だからわからないってば」

『何か──しるし──は?』

「? しるし? 目印?」

 いっそう強くなってきた雑音に眉を寄せつつ、小花は目の前のスロープに足を乗せた。

「公園があるけど。あと神社も」

『名前は?』

 次に届いた声は再びクリアだった。雑音は不安定な波の如く、強弱を繰り返しているらしい。波が弱いうちに、言えることは言っておいたほうがいいかもしれない。そう考え、小花はスロープを駆け上がる。分岐点で選んだのは、公園よりも近い鳥居への道だった。

「ちょっと待って」

『この電波障害は変だ』

 通話口から聞こえる太一郎の声は、つい数分前に比べて明らかに焦りを増している。

『近くに殺気立った夜型がいると、こういうことがある』

 小花の足が止まった。

「だからっ、おどかさないでってば」

『脅かしてるわけじゃない。俺のほうかハナのほう、どっちかはわからないけど』

 では自分の側ではない可能性もあるわけだ。

 反射的に胸を撫で下ろしかけた小花は、しかしすぐに太一郎もまた外にいることを思い出して、不安になった。すっかり忘れていたが、彼は配達中だったのである。

「あ、の。えーっと、そっちは平気?」

 今さらながらに口にした問いは、しかし『俺は大丈夫』との即答で終わった。

『それより公園の名前』

「あ? ああ、公園はわかんないけど、神社なら……」

 言いながら、小花は辿り着いた鳥居を見上げ、掲げられている額を目でなぞった。耳に入る雑音が、またしても多くなってきている。

「ええっと……ほそよし? さいりょう? 細いに良いって書いてある」

 早口で小花が答えた途端、

『──れは、ささら』

 と返されたのを最後に、ついに通話自体が切れてしまった。

 慌てて携帯電話を耳から離して見れば、表示が圏外になっている。こんな住宅街でそんなはずはない。だが、いくら振っても少し場所を移動しても、もうアンテナが復活することはなかった。当然、この状態では通話ボタンを押してもどこにも電話は繋がらない。

 小花は途方に暮れた。

 いつの間にか日は落ちて、夕空には夜の色が混じり始めている。突っかけサンダルでずっと歩いてきたため、小石が足裏にまで入り込んで痛かった。

「ささら──細良ささら神社ね」

 もう一度、鳥居を見上げてから、小花は片方ずつサンダルを脱いで中の小石を出した。ここで待っていれば、そのうち太一郎が捜しに来てくれるだろうか。所在なげに泳ぐ彼女の視線が、下段に広がった黒狛三丁目の家並みを無感動に撫でていく。連なる屋根瓦は灰や濃緑、海老茶と色も形もまちまちだ。にもかかわらず、赤黒い空に覆われているだけで整然と統一されているように見えた。

 ────と。

 その屋根の上を、何か丸い影が移動していた。

 影は棟から棟へ、ぽーんぽーんと気まぐれに跳ねながら神社のほうへ近づいてくる。

 最初、まるでバスケットボールのようにしか見えなかったそれは、距離が縮まるにつれて輪郭を鮮明にし、小花に短い声を上げさせた。

「女将さんっ」

 影は人の首であった。

 白髪混じりのお団子頭に、小皺の刻まれたふくよかな容貌──先ほど見失った佐藤女将の頭部だ。

 相変わらず瞑目したままの女将は、家々の屋根を踏み台に空中を跳ねて移動し、あっという間に小花の前にやってきた。かと思うと、軽々と頭上を飛び越え、背後の鳥居の中へと去っていってしまう。

 実に刹那の出来事であった。一瞬の邂逅に驚き、一瞬で行き去った神社の奥を唖然と眺めた小花は、ややあって我に返った。

 思い出したようにサンダルを履き直しつつ、女将を追うべきか迷う彼女の視界に、ふと今度は別の影が映り込んだ。首を巡らせて見た先は、神社からなだらかに下るスロープの入口付近である。

 そこに、どこから現れたのか一匹の犬がいた。

 黒い小型犬だ。

 垂れた耳と角張った体つき、密度の濃い被毛には見覚えがある。以前、西尾志鶴の家でじゃれ合った飼い犬がそんな容姿をしていた。確かシュナウザーという犬種だったかと、小花が思い出している間にそれはスロープを上りだした。

 時折、足を止めては顔を上向けて鼻を動かし、何かを探すようにしている。半ばまで来たあたりで、鳥居の下に佇む小花に気づいたのか、一度大きく尾を振った。小走りにやってくる姿が人懐っこい性格を物語っている。

「きみも迷子?」

 自然、綻んだ小花の呼びかけに、また尻尾が振れた。首輪はついていない。黒い毛並みに埋もれがちな丸い目の上にある、カモメ型の眉が可愛らしかった。

 思わず手を伸ばした小花は、しかしあることに気づいて動きを止めた。

 夕刻の影は細く長い。それは無論、小花にも犬にも言えることで、日中よりも多少影が大きく見えるのは、なんら不思議なことではなかった。とはいえ、実体の二倍三倍に膨らむことなどあり得ない。

 そのあり得ないことが、犬の影には起こっていた。

 やってくるのはただのシュナウザーだ。けれどその足元から伸びる影は土佐犬、あるいはもっと巨大な猛獣にしか見えなかった。つまり、実体とそれに付随する影が一致していないのだ。

 そんなものが普通の犬であるはずがない。

 すぐ目の前まで近寄った犬が、身軽に後ろ足を蹴った。

 ──殺気立った夜型。

 脳裏に蘇った太一郎の言葉に、小花が伸ばした手を引っ込めるのと、犬の影が実体化して、シュナウザーの外見を呑み込むのとが、ほぼ同時だった。

「!」

 次に地面に着地したそれは、もはや犬とは呼べない黒い獣に早変わりを遂げていた。垂れていた耳は鋭く立ち、細長く精悍な顔には白目のない黒い眼球が、左右二つずつに額に一つと、合計で五つもついている。剥き出しにされた太い牙を伝って、地面には絶え間なく涎がしたたった。その様からは、さっきまでの可愛い仕草はどこへやら、とても友好的な雰囲気は感じられなかった。

「……はは」

 にじり寄ってくる獣を前に、もはや小花は乾いた笑みをこぼすしかない。

「冗談、」

 日は暮れ、あたりは藍色の景色に変わってきている。

「じゃないっつーの!」

 叫んで、迷わず身を翻した。

 逃げ道は一つ、今しがた女将の頭が向かった鳥居の奥しかなかった。



     4


 細良神社の中は暗かった。

 周囲に鬱蒼と茂る雑木林が、宵の気配を一足早く夜の空気に変えている。

 住宅街にぽつんとある小さな神社である。神主が常駐しているわけもなし、本殿と閉めきられた社務所のほかには、こぢんまりとした末社が一つあるだけだ。薄暗がりの中に佇むそれらの様子は、参道を走る小花にも朧気ながらに見えていた。

 繰り返すが、小さな神社である。

 本殿だって決して大きくはない。

 最初にくぐった鳥居からして地味な雰囲気ではあったのだ。

 なのに。

 参道は異様に長かった。

 ゆうに百メートルはあろうか。

 鳥居から本殿まで伸びた長い道のりには不揃いな石畳が敷かれ、その両脇には木製の灯籠が等間隔に並んでいる。ところどころ灯籠には灯が入れられており、橙色の光が参道を弱く照らしていた。ゆえに遠目でも建物の配置や輪郭ぐらいはわかるのだが……誰がいつどうして灯を入れたのかまでは、定かではなかった。

 境内には、先ほど向かった女将の頭部は見当たらず、加えて人の気配もない。

 誰もいなければいないで恐ろしいが、誰かいたら、それはそれで恐ろしいかもしれないと思いつつ、小花は石畳を駆けていた。後ろを振り向いている暇はない。見なくともおおよその見当はついていたし、何よりそんな余裕がなかった。

 自分の背後、腰よりわずかに低い位置で、獣の荒い息づかいがしている。

 ぶ厚い舌が、牙に溜まった涎を舐める音さえ鮮明に届くほど、その距離は近かった。全力疾走をしているのにもかかわらず、迫られているのだ。

 そうこうするうちに、生暖かい息が半袖から伸びた肘に触れて、

「ひゃあっっっ」

 と小花は素っ頓狂な悲鳴を上げた。

 反射的に両腕を体の前に引っ込めると、驚くほど近くで──がちん、と牙と牙とが触れ合う音がする。

 つられて向けた小花の視線が、己の右脇腹付近に顔を覗かせた黒い獣を捉えた。瞳孔のわからない五つの空虚な目と、彼女の目が合った。

「────」

 がちん。

 もう一度、打ち鳴らされた牙は、今度は空振りではなかった。

 衣の裂ける甲高い音がして、小花の右腰周りのブラウスがごっそり持っていかれる。咄嗟に体を捻り、生身に牙が通るのだけは防いだ彼女が、バランスを崩して派手に転んだ。

「っ」

 サンダルが二足とも脱げる。

 両膝と左腕が石畳で強く擦れ、裂けた皮膚に熱い痛みが走った。

 反射的に体を丸めて頭部を庇った小花は、そのまま勢いに任せて参道を転がり、灯籠の一つにぶつかって停止した。

 衝撃で唇の端を噛み切ったのか、口中に鉄の味が広がっていた。

 思わず呻き声を漏らした彼女の視界には、悠然と尻尾を振る黒い獣の姿がある。

 犬によく似た形態の化け物は、もぎとったばかりの制服のブラウスを弄ぶように咀嚼していた。その口元で揺れる白い布地は意外に大きく、ぎょっとした小花が自らの体を見下ろすと、右側のブラウスがほとんどなくなっていた。

 袖の下数センチほどを残して、他はすべて食いちぎられている。かろうじて下着部分は隠れているものの、剥き出しになった肌が闇の中にくっきりと浮かび上がり、寒々しくも情けない有様だった。

 泣きたい気分を抱えつつ、小花は大きくずれた眼鏡を直して起き上がる。しかし次の瞬間、目にした景色に体の動きを止めた。

 視線の先には石畳の参道が続いていた。

 本殿までの長い道のりである。

 ゆうに百メートルはあろうか。

 いや、そんなはずはない。

 たった今小花自身がそこを駆け、半ばを過ぎたところで転んだのだ。残りはせいぜい五十メートルあるかないかのはずであった。

 にもかかわらず、前方に伸びる参道は長かった。

「ええ?」

 確かに走った。

 なのに移動していない。

 参道が勝手に伸びたのでもない限り、あり得ないことだった。

 しかし戸惑っている暇はない。小花は、立ち上がると同時にもう一度長い参道を走り出した。ちょうど獣がブラウスを飲み込み、彼女のほうを向いた直後であった。

 そうしてまた追いつかれる。

 真後ろに生臭い息づかいを感じた時にはもう、制服のスカートには獣の前足がかけられていた。今度は鋭い爪でプリーツが切り裂かれる。小花の体は、その反動でつんのめるように前へ倒れた。

 さっきよりは軽い転び方だ。が、それでも擦り傷は確実に増え、どうにか身を起こして行く手を見ると──また参道が伸びていた。

「…………」

 小花は肩で息をしながら立ち上がった。三度、走り出す。

 サンダルを失い、真っ黒になった靴下でじかに石畳を蹴る。

 獣は容易に飛びかかってはこなかった。小花が逃げれば追いつめ、服や皮膚を浅く傷つけて転がすものの、立ち上がるまでは待ってくれる。遊んでいるのだ。

 そして転んで起き上がるたび、神社の参道は嫌がらせのように伸びていた。いくら同じ石畳を蹴り、同じ灯籠の間を通過しようと、いつまで経っても本殿は遠いままだった。

 何度目かの横転の後、顔を上げた先で相も変わらず長々と伸びた参道を見て、ついに小花の堪忍袋の緒が切れた。

「どーなってんの、この神社はぁぁぁっ?!」

 ハムスターの運動器具か。

 ぜいはあ息を乱しながら喚いた彼女に、近寄りかけた獣の足がぴたりと止まる。ややあって歯列の間から漏れ出でた威嚇の声は、これまでの遊びの空気を打ち消す獰猛なものに変わっていた。何が気に障ったのかは知らないが、どうやら怒らせてしまったらしい。

 赤く裂けた口を開け、獣は一気に距離を詰めた。

 牙は彼女の顎の下、喉笛の位置に正確に狙いを定めている。避けられるタイミングではなかった。瞬く間すらなく、小花には死が訪れる──はずだったのだが。

 喉に牙が埋まる寸前、その体は左側から強く突き倒された。

 がちん、と。あの牙と牙が打ち鳴らされる音がして、獲物の代わりに空中を噛んだ獣が口惜しげな声を上げる。

 思いがけない方向から衝撃を受け、傍らに佇む灯籠へと抱きつくはめになった小花は、突如として自分と獣との間に割り込んできた存在に、呆然と視線を送った。

 人、というには少し妙であった。

 ひどく小柄で背が曲がっている。

 肩口まで伸びたぼさぼさの髪に、垢で茶色くなったTシャツ。膝丈の短いズボンから伸びた枯れ木のように細い裸足には、かぎ爪が生えている。両脇に下がった二本の手も同様で、そのせいか一本一本の指が長く歪んで見えた。さらに付け加えると、皮膚の色はうっすらした緑色だ。

 人に似ているが人ではない。

 狸か狐か、どこかの妖怪が無理に人間に化けたかのような、中途半端な姿であった。

「おい」

 その猫背の人物が、獣の前に立ち塞がったまま、小花に声をかけた。

「逃げろ」

「…………」

「聞いてるか」

「……まあ」

 それは聞こえている。

 だが、突然どこからともなく降って湧いた妖怪人間に逃げろと言われて、はいそうですかと応えられるほど、小花は素直にできてはいなかった。

「あなただれ」

「んなことはどうだっていんだよっ」

 いまいち反応の薄い小花に苛立ったのか、それとも単に短気なのか、猫背男が舌打ち混じりに振り向いた。

 どこか音程の狂ったような声とは裏腹に、意外に若い顔立ちであった。

 若いというより幼い。少年だ。

 おそらくカテゴリは夜型に入るのだろう。彼の額に生えた五センチほどの一本角を目にしても、もはや驚かなくなっている自分に、小花はむしろ驚いていた。

「……鬼?」

「見りゃわかるだろ」

「なんで助けてくれるの?」

 鬼と言えば、昔から人間を食べるものと相場が決まっている。助けてくれる話のほうが稀だ。しかしその問いに、まともな答えはもらえなかった。

「いいから逃げろってんだ! それともお前、魔犬まけんに食い殺されたいってか!?」

 彼が怒鳴った途端、呼応するように眼前の獣が高い唸り声を上げた。

 臨戦態勢に入ったその黒い毛の塊に、鬼が体ごとぶつかっていく。細い腕を首の下から頭部に回し、抱きすくめることで獣の動きを封じた彼は、背後で立ち上がった小花を再び怒鳴りつけた。

「逃げろ! お前に死なれちゃ僕が困る!」

 言われなくとも、ここで死んで一番困るのは小花本人である。

 急かされて、戸惑いながらも彼女は移動を開始した。

「本殿まで走りきれ。参道の途中で止まらなければ!」

「戻されない?」

「さっさと行・け。馬鹿!」

「ば」

 会ったばかりの、縁もゆかりもない鬼に馬鹿呼ばわりされる筋合いはない。

 瞬間的に頭に血が上った小花は、しかしそこをこらえて前方を睨むことに専念する。

 日が暮れた夜の神社の参道は、相変わらず長く伸びて、両脇に並んだ灯籠が本殿までの道のりを朧に照らしていた。鬼曰く、本殿へはこの参道で立ち止まらなければ着けるらしい。そういえば確かに、獣の攻撃で小花が転ぶたび、行く手の参道は伸びていた。

 小花は、泥だらけの靴下を手早くその場に脱ぎ捨てると、地面を蹴った。

 およそ百メートル。

 体力の消耗で全力疾走とまではいかなかったが、一度も立ち止まることなく走り通した結果、本殿はいとも簡単に姿を現した。鬼の言葉通り、今度は参道が不自然に伸びることもなく、すんなりと境内に辿り着く。

 暗闇に沈む賽銭箱に手をついて、小花は荒い息をついた。振り返ると、長い参道の半ばではまだ獣と鬼が激しい揉み合いをしていた。

 灯籠の灯りを受けて、大小の黒い影が気味の悪い生き物のように蠢いている。獲物を逃していきり立つ獣の影と、顔も体も小学生と見紛うばかりの小さな鬼の影だ。やがて小花の呼吸が落ち着く頃、二つの影の勝負には決着がついていた。

 相手の頭突きを胸に受け、「ぐえ」と潰れた悲鳴を上げて地面に這いつくばったのは案の定、鬼のほうである。それきり動かなくなった彼を捨て置き、獣はたちまち体の向きを変えた。宙を滑った五つの目が、賽銭箱の前でへばっている小花を見つけるのに十秒もかからない。

「……はは」

 嬉々として尻尾を振る獣を眺めて、彼女は鳥居の前で浮かべたものと同じ笑みを顔に貼り付けた。

 倒れた鬼が起き上がる気配はない。死んだようにも見えなかったが、それにしてもあっさりと負けすぎであろう。

「どうせ助けるんなら、もうちょっと時間かせぎしてほしかったな」

 聞こえていないことを承知で独りごちた小花の言葉に、しかしこたえは驚くほど早く返ってきた。

「だから逃げろっつってんだろ!」

 怒鳴り声は、獣の足元から響いてくる。語尾が裏返るおかしな音程は、今しがた呆気なく沈んだと思われた鬼のものだった。少なくとも五十メートルは距離を隔てているにもかかわらず、小花の独り言が聞こえたようだ。

「地獄耳」

「普通だっ」

 しかもいちいち賑やかに反応を返してくるあたり、頭突きによるダメージはないも同然らしかった。夜型は傷の回復が早いという話を思い出して、しみじみ顔をしかめている小花に、さらなる叱咤が飛んでくる。

「だあああっもうっ。何やってんだ馬鹿野郎! 逃ーげーろ!」

 見ればいつの間にか起き上がっていた彼は、参道をこちらへ向けて走ろうとする獣の尾を掴み、全身で踏んばって移動を食い止めているところだった。薄い緑色の顔面は真っ赤に染まり、必死な様子が見て取れる。小花としてもその行為は申し訳なくも有り難いものだったが──しかし、である。

「これ以上どこへ逃げんのっ?!」

 神社の入口は一つだ。

 狭い境内は雑木林に囲まれており、無理をして藪に分け入らない限りは敷地から出ることはできない。隠れる場所もない。つまり、参道が獣と鬼によって塞がれている以上、もはや逃げるところなどないのだ。にもかかわらず、鬼のほうは馬鹿の一つ覚えよろしく、逃げろしか言わない。

 なおも迷う小花の視線の先で、鬼が獣の力に負けて転倒する。幸か不幸か尾だけは離さずにいたために、獣が動くに任せてそのまま体が引きずられた。

 ずるずるずるずる────尾っぽに鬼をぶら下げて、黒い獣が参道を駆けてくる。まっしぐらに目指す場所にいるのは、もちろん本殿前で立ち往生している小花だ。

 逃げなければ、と小花は思う。

 だが、もう動くのが辛かった。体力的にも精神的にも限界になっている。迫りくる獣の影を前に、虚ろな表情で立ち尽くす彼女へ、焦ったように鬼が叫んだ。

「小花!」

 なぜ名前を知っている。

 虚ろだった小花の表情に疑問符が生じた。彼女には鬼の知り合いなど持った覚えはなかった。それだけでも奇妙なことだというのに、さらに続けて奇妙なことが起こった。

 口に出して言ったわけでもない小花の問いに、答えが返ってきたのである。

「それはそうだ。あれはの知り合いなのだから」

 ゆったりとした物言いと共に、背後の本殿──閉ざされていた両開きの木製扉が開いた。続いて床板を軋ませて出てきたのは、漆黒の青年であった。

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