第三章 抜け首を追いかける ①
1
またユキがいじめられた。
ランドセルを泥だらけにして帰ってきた弟を見た途端、ハナは持っていたチョークを放り出して立ち上がった。自宅前の狭いアスファルトは、友だちと二人で描いた白い絵で占められている。その、今まで熱心に引いていた線をあっさり踏んで駆け出した。
「あー」
隣で、巻き添えをくった友だちが抗議の声を上げたが、ハナは聞いていなかった。
それよりも、真っ赤な顔で目に涙を溜めている弟のほうが心配だった。
ユキは体が丈夫ではない。生まれつきのアレルギー体質はもちろん、雨に濡れればすぐに風邪を引き、走ればすぐに転んでケガをする。本人もそれはよくわかっていて、だから自然に周囲の人間に気を遣う子供になった。
ハナとは違って、恥ずかしがり屋でとても優しい。色白で、少し女の子みたいにも見えた。そのせいか、男子の中に入ると浮いてしまい、しょっちゅう目をつけられるのだ。
駆け寄ってくる姉に気づいたユキは、瞬間的に浮かべた嬉しそうな表情を、たちまち困り顔に変えてうつむいた。のろのろ回れ右をして逃げ出そうとするのを、ハナは簡単に捕まえて事情を聞き出す。案の定、いつもの連中に悪さをされたらしかった。
「あのガキ」
自分も大差ない子供のくせに、そう言ってまた駆け出そうとしたハナのジャンパーを、今度はユキの細い手が掴んだ。
「やめてよ」
ハナが仕返しに行くたび、同じ言葉で止める弟のランドセルは、昨夜の雨が作った水たまりに落とされ、黒い革に乾いた泥水の茶色い膜がかかっていた。まだ買ってから一年も経っていないにもかかわらず、中心にはすでに大きな傷も見える。それが、一年生の弟が三年生の姉よりも遅く帰ってくる理由だった。
体の弱いユキ自身には手を出さず、持ち物のほうを痛めつける。そのいやらしさに、ハナはいつも吐き気がするほど怒っていた。
「イチ」
上着を掴む弟の手を引いて、一緒に遊んでいた友だちを呼ぶ。
「ちょっとユキ見てて」
ハナに踏まれた絵を、懲りずに直していたイチが「いいけど」と顔を上げた。
「川は行かないの?」
さっき二人で交わした、あとで河川敷で遊ぶ約束のことを言っているのだ。
「行く」
即答して、ハナはイチの手に弟の手を預けた。
「行く前に行ってくる」
「なに言ってんの」
「いいから」
ぽかんと目を瞬いたイチに背中を向けて、ハナは猛然と走り去った。
その後はいつも通りだ。すっかり顔と名前を覚えてしまった弟のクラスメイトを捜し出して文句を言い、売られたケンカを片っ端から買ってやる。やがて、騒ぎに気づいた近くの大人たちが介入。ハナは強制的に家へと連れ戻され、親に説教を受けるのだ。これが、飽きるぐらいに繰り返されたいつものパターンだった。
そして今日も同じ──いや、今日は少しだけいつもとは違っていた。
ハナの自宅の裏手から歩いて十分ほどの場所に、
八ツ目市と隣市との間に流れ、それ自体は決して大きくはない。が、適度に広がった河川敷は犬の散歩や子供の遊び場に都合が良く、ハナとイチも盛んに足を運んでいた。
とくに二月の今は、早朝か夕方によく行った。その時間帯になると、川端に流れ寄せる水の表面が、膜を張ったようにうっすら凍りつくことがあるからだ。最近の二人は専ら、その壊れやすい薄氷をいかに美しく取るかに関心を寄せていた。
二人だけの、他愛もない遊びであった。
他に友だちがいないわけではない。
ただ同級生の多くは塾や習い事で忙しく、たとえ暇であっても、冬はどちらかと言えば屋外で遊ぶより屋内でゲームをするほうに人気があるので、誘いにくかったのだ。
ハナの家は主にユキを中心に回っていた。両親は、風邪を引くだけで肺炎を起こすこともある弟に構いきりで、姉を塾や習い事に通わせる頭などなかったし、電磁波が体に悪いからと流行りのゲーム機を買うことも許さなかった。対してイチの家は、数年前に父親が経営していた
それぞれの家庭の事情で、ハナとイチは他の同級生たちとの間に小さな距離を持っていた。学校に行けば話もするし仲も悪くないけれど、家に帰って共に遊ぶことはない。そんな友だちがほとんどだった。
結果、もともと母親同士が大学時代の同級生で、家も近く幼なじみだった二人は、どちらからともなく一緒に遊ぶようになっていた。
この日、例によって弟をいじめた男子とその仲間──上級生もいた──とケンカをして、母親に叱られたハナは、夕方になって一人で境川にやってきた。
自分では憂さ晴らしのつもりだったが、実際はお詫びの電話をかける母親の姿を見たくなかったからと言ったほうが正しい。今日は珍しく、あれからすぐに帰宅したらしいユキの傍にもいたくなかった。
泥だらけの運動靴で踏みしめる土手が、強い橙色に染まっている。西に向かって流れる川の先に、半分以上体を沈めた夕日があった。その光を右手に受けて土手を滑り下りたハナは、河川敷に着いたところで足を止めた。
すでに五時を過ぎており、辺りは一日の終わりの静けさに包まれている。初め土手からちらほら見えた人影も、じきにばらけて遠ざかっていった。その河川敷にぽつんと、忘れられた置物のように動かない影があった。
川端にしゃがんで、水面を眺める少年の影だった。
「──何してるの」
一瞬、帰りかけたハナは、しかし思い直して影に近づいた。
肩を大きく波打たせて振り向いたのは、やはりイチだった。
「遅いー」
間延びした声に、ハナはやや目を瞠った。
「え、待ってたの?」
預けたユキが家に帰っていたので、てっきりイチも帰ったと思っていたのだ。
「だってハナ、来るって言ったよ?」
「言ったけどさぁ」
寒さで赤くなったイチの手に目を止めて、ハナは口ごもった。
「別に……待ってなくても良かったのに」
「でも来たし」
「そうだけど」
ひょいと、イチが立ち上がった。昔はハナよりも低かったイチの頭は、今では並ぶと同じぐらいの場所にある。成長と共に徐々に縮まる身長差が、ハナは悔しい反面で、早く追い越してくれればいいのにとも思っていた。
目線を合わせたイチが、ハナの顔を覗き込んだ。
怪訝そうに自分の唇の端を指して、「ここ、血が出てる」と教えてくれる。
ハナは思わず乱暴に顔を背けた。ケンカで転んだ際に、自ら噛んで作った傷だった。舌で触れると鉄味のする箇所を、拳でごしごし擦る。そうするうちに、今度は眼鏡がずれてきて視界が曖昧になった。これも、ケンカの際にフレームが歪んでしまい、調整がきかなくなってしまっていたのだ。
「あんまり、触らないほうがいいんじゃない?」
しきりに口の傷を気にするハナに、イチが小声で言った。
「赤くなってるよ」
「いいの」
ハナもつられて小声で返した。なぜか、眼鏡を直して見たイチの顔は、いつもより少し難しい色を浮かべていた。
「なに?」
問いかけると逆に「どうしたの?」と問い返される。
「どうって」
「ちょっと変。負けたの?」
何に、とは訊かない。弟のことでハナが飛び出して行った時、いつも何をして帰ってきているのかを、イチは充分に承知していた。ついでに言えば、関わるケンカのほとんどでハナが勝利を収めてくることも知っていた。
「勝ったよ」
面白くもない声でハナは答えた。「ふーん」とイチが首を傾げた。
「たまには負けてあげればいいのに」
「なんで」
聞き返したハナに、イチはのほほんと気の抜けるようなことを言う。
「だってそのほうが、かわいいじゃん」
「は?」
「たまには負けるほうが、女の子っぽいと思わない?」
「……思わない」
まず、弟の敵討ちに行こうとする時点で可愛いくはないだろう。
ハナは短い息をついた。夕日はとうの昔に落ちて、辺りは残照の赤い色に満ちていた。この付近の川は流れが極めて穏やかなので、せせらぎの音はあまりしない。
「思わないけど」
ジャンパーのチャックを無意味にいじりつつ、ハナはまた口の端の傷を舌で舐めた。
「負けたほうがいいのかも」
負けて、呆れられて、女子だから仕方ないと大目に見てもらって、それで興味をなくされたほうがいいのかもしれない。
そんな内容をつぶやいたハナに、今度はイチが「なんで?」と訊いた。
「誰かになんか言われたの?」
「ん」
「誰?」
「いつもユキをいじめる奴の、兄キ」
「が、なんて?」
「私がいつも庇うから、ユキが目をつけられるんだって」
初めは些細なじゃれ合いだったのだと言われた。
なのに、服を汚して帰ってきた弟を見て、ハナはすぐに相手に文句を言いに行った。それがいつの話なのか、自分ではまったく覚えていなかったが、その時の言動が向こうにはひどく生意気に映ったらしい。返って刺激をして、余計に意固地にさせたのだそうだ。
やがて、ユキへのからかいは本格的になり、そのやり方がエスカレートしていくに従って、ハナの干渉も増えていった。相手に文句を言うだけでは止まらず、たちまち手を出すケンカに発展した。それも、下級生、同級生、上級生と相手が変わり、最初は力の差で敵わなかったものが、次第に要領を得て強くなってしまうまでに、回数を重ねた。
ユキはいつも「やめてよ」と困った風に止めていた。
なのにハナは、弟のために戦っている気でいたのだ。自分が原因になっているなんて、考えもしなかった。
そのことに、今日初めて気づかされた。
「ね、イチ。私──うっとおしい?」
今日、非難された言葉を自分でも使ってみる。口に出したら、想像以上に痛かった。
「ユキも、そう思ってるかな」
イチは答えなかった。自分で訊いておきながら、良かったとハナは思った。もしイチにまで肯定されてしまったら、しばらく立ち直れない。今でも家を出てからずっと両目の奥がじくじく痛んでいるのに、このままでは情けないことになってしまいそうだった。
「泣いてる?」
不意に、その心情を見透かしたようにイチが言った。
ハナは慌てて、うつむけた顔を明後日のほうへ向けて首を振った。
「泣いてない」
人前で泣くのは大嫌いだった。とくにイチの前ではいけない。昔うっかり泣いてしまって、とんでもないことをされた覚えがある。
その時の記憶で、無意識に額のあたりを手で押さえてから、ハナは繰り返した。
「泣いてない」
「じゃあ、そいつの家を教えて」
「え?」
振り向いて見たイチの顔は、穏やかだった。
「そいつ?」
「ハナにうっとおしいって言ったやつ」
「……どうして?」
「俺ちょっと行って、オトシマエをつけてくる」
物騒なことを言うイチは、あまり怒っているようには見えなかった。
だが、その目はいやに真剣で、ハナは不安になる。
今の話をどう辿ればそういう結論に至るのかはわからなかったが、そんなことは駄目だと思った。だって相手は体の大きい上級生だ。男子の中でも小柄で、ケンカ慣れしていないイチに勝てるわけがない。
「やめてよ」
その言葉は、自然にハナの口を突いて出た。
「ケガするよ」
「ハナだってしてるよ」
間髪入れずにイチは返した。
今にもこの場から走り去ってしまいそうな雰囲気に、ハナは困ってイチの服を掴む。
「そういうのは、いいから」
「何がいいの?」
「私は別に平気だもん」
ケガをするのは確かに痛くて嫌だったが、ユキがいじめられて泣くのを見るよりは全然ましだった。もちろん、イチが似たようなケガを負うよりもいい。
「俺はあんまり平気じゃないよ」
ハナにトレーナーの裾を掴ませたまま、イチは言った。
「だから、ハナがケンカをするのは好きじゃない」
やや怒ったような口調だった。いつもなら、「どうしてよ」と反発するところだが、この日のハナにはイチの気持ちが理解できてしまった気がして、何も言えなかった。
「──ユキもきっとそう思ってる」
重ねられた言葉に、溜め息がこぼれる。
同じだと思ったのだ。
親しい人が痛い思いをすると、なんだかとても苦しくなる。腹立たしくて不愉快だから嫌いだ。それならいっそのこと、自分が出て行って戦ったほうが清々していい。言葉では説明しきれない感情の流れが、自分以外の人間にも同じようにあることを、ハナは初めて思い知った。
しばらく二人は無言で川端に立ち尽くしていた。
日が落ちて、気温はどんどん低くなる。
ややあって、わずかに身震いをしたイチが、
「ああでも一応言っとくね」
と口を開きながら歩き出した。ハナもつられて動き出す。申し合わせたように向かう先は、いつも薄氷が張る溜まり水の辺りであった。
「俺、ユキのことは嫌いじゃないけど、好きでもないからなあ」
ぼんやり告げたイチの言葉に、なんとなくまだ掴んでいたトレーナーの裾からハナの手が離れた。
「なにそれ」
むっとする。
ハナは、弟の悪口を言われるとすぐに頭に血が上るのだ。
それを知っているイチが、少し笑った。
やがて遊びの時間も終わり、完全に暗くなった河川敷を後にした二人は、ハナの家よりも境川に近いイチのアパート前で別れた。
「じゃ、ばいばい」
「また明日ね」
そう交わした約束はひどく軽かった。お互いに、また明日も一緒に遊べることを疑いもしない、単純で純粋なものだった。
だがこの約束は、以降二度と守られることはなかった。
翌二月十一日未明。
自宅のアパートで、イチの両親が死んだ。
多額の借金を苦にした自殺だった。死因はガスストーブの不完全燃焼による一酸化炭素中毒で、発見は当夜どういうわけかパジャマ姿でアパートの外にいたイチを、不審に思った通行人の通報からだった。おそらく、一家心中になる寸前で親が子供を哀れに思い、外に出したか、たまたま目覚めた本人が自分で逃げたのだろうというのが、調べた警察の見解であった。
しかし本当のところは誰にもわからない。イチ本人は、事件のショックで記憶が曖昧になっており、何も覚えていなかった。
一週間の入院後、一人っ子だったイチは近所に住む親戚の家に引き取られた。学区が変わらなかったことで、また同じ小学校に通えると知った時、ハナは少なからず安堵した。
だが久しぶりに会ったイチは、イチではなかった。
以前のように話しかけても素っ気なく、ハナをハナとは呼ばなくなった。最初、事件のことが原因でそんな振る舞いをしているのだと思ったハナは、辛抱強くイチがもとに戻るのを待った。けれどイチはいつまで経っても冷たかった。
そしてある日、信じられないことが起こった。
イチがユキをいじめたのだ。
河川敷での反省から、ケンカを控えるようになっていたハナは、いつも弟をからかう男子の中に、イチが混じっていることを知って愕然とした。「ユキのことは嫌いじゃないけど、好きでもない」──そう言われたことを思い出した。
怒りに任せて絶交を宣言したハナに、イチはやはり淡泊だった。驚きもしなければ悲しみもしない、謝ることさえしなかった。
それきりだ。
それきり二人は会わなくなった。
幼なじみの少年は、ハナにとって「イチ」ではなくなり、ただの「館上太一郎」になってしまった。
2
がくり。
大きく船を漕いだ瞬間、頭の重みを支えていた頬杖が外れて、小花は目を覚ました。
「……っ…………」
弾みで肘がちゃぶ台の角にぶつかり、指先まで走った痺れるような衝撃に悶絶することしばし。声もなく、無事なほうの手で畳をばんばん叩いて痛みをやり過ごしていると、近くでサンダルの底を地面で擦る音がした。
「あら、どうなすったの?」
穏やかに声をかけられ、小花は慌てて畳を叩くのをやめにする。なんでもないという風に首を横に振りつつ、
「ちょっと……居眠り、を」
上げた視線が行き着いたのは、人当たりの好い老婦人の笑みだった。
七十前後と見えるその人は、小花のいる六畳間より一段低い土間に立っていた。土間の先は表の通りに向けて開いた店舗になっており、据え付けられた棚にはずらりと、大瓶・中瓶・小瓶に樽、缶や紙パック等──いずれも酒類ばかりが並んでいる。
「疲れてるのねえ」
エプロンを締めながら、老婦人は小花に向ける笑みを深めた。
八ツ目市は
二時間ほど前に太一郎に聞いた話を思い出し、小花は少々ばつが悪い思いで赤面した。
「すみません。私も手伝います」
ずれた眼鏡をかけ直して立ち上がろうとするのを、しかし女将は「いいのいいの」と手をひらひら振って押しとどめる。
「あなたはお客さんなんだし。寝てても構わないのよ。いろいろ大変だったでしょう?」
「いえ、あの、まあ……少し」
曖昧に頷く小花に、女将は意外に若々しい笑い声をたてた。
「そらそうだわ。あっちとこっちは、見た目はそっくりだけど中身は大違いだもの。あの子も最初はショックが大きくて、食べない寝ない喋らないで衰弱しかけたって話よ」
あっけらかんと言われ、小花は「はあ」としか返せない。ちなみにあの子というのは、太一郎のことであった。
あれから──無闇に住宅街を闊歩して疲れ果てた小花は、巡り巡って彼の下宿先へとやってきていた。自発的な訪問とは少し違う。歩けなくなったのを機に、彼に勧められてうっかり例の自転車に乗ったところ、どこへ行くとも告げずに出発されて、気づいた時にはもう佐藤商店だったのだ。
無論、最初は抵抗もあった。だが和雪と嫌な別れ方をした以上、平気な顔をして家に帰ることもできず、迷っているうちに店の外に出てきた女将に捕まった。あれよという間に中に引っ張り込まれて、そのままずるずると現在に至っている。
とはいえ、まさか茶の間で居眠りをするほどにくつろいでしまうとは、小花も思わなかったのだが。
「えーと、太一郎、くんは?」
呼び方に苦慮しつつ、姿の見えない幼なじみの所在を尋ねてみる。表の通りから届く午後の日差しは、すでに西へ傾いて赤みを増していた。
「ちょっと配達にね」
浅く頷いて、女将が土間から手を伸ばして茶の間にあった扇風機のスイッチを入れた。
「悪いとは思ったんだけど、注文の品が溜まってたもんで頼んじゃったのよ。ごめんなさいね。つまらないでしょう」
「いえ全然」
下手に二人きりにされるほうが、よほど困る。
躊躇いもなく首を振った小花を、女将は興味深そうに見やった。扇風機の頭にある摘みを操作し、固定から首振りに変える。有に二十年は使われているであろうレトロな青いプロペラが、大きなモーター音と共に室内の生暖かい空気を掻き回し始めた。
店のどこかで柱時計が四つ鳴った。お客は現在、誰も訪れていないようである。
「それにしても、まさか本当に会えるとはね」
土間に足を置いたまま茶の間の端に腰を下ろした女将が、目を細める。小花も引き込まれるように無意味に笑いながら、寝ぼけて崩れた居ずまいを正した。
「あなたとは、初めて会った気がしないのよね」
その話は、最初に挨拶をした時にもしていた。
太一郎があちら側からこちら側に渡って来たのは、九歳の時だという。小花とは違って記憶の攪乱がなく、保護された当時から客人の扱いを受けた彼は、だがなにぶん子供であったために越境のショックから立ち直るのに時間がかかった。その際、離れた世界を懐かしんでよく口にしていたのが、幼なじみの小花のことであったらしい。それは今でも変わりなく、ゆえに女将は小花を見ると無性に親近感が湧くのだそうである。
「うちに下宿を始めたのは高校からだけど、あの子いまだにあなたのことを話すもの。それも決まって小学生の頃の思い出ばかり」
「はあ」
お爺さんの茶飲み話でもあるまいに。
聞いた話にどう反応していいやらわからず、
「なんか、若さがないですね」
思ったままの感想を小花が漏らすと、わずかに瞬いた女将が声を上げて笑った。
「まあね。施設を出たと言っても、まだ十七だもの。
「施設?」
「ええ。あの子は中学まで児童養護施設にいたのよ。うちに来たのもそこの紹介でね。当時は客人とはいえ子供だったし、こっち側における館上太一郎の両親もすでに亡くなっていたそうだから」
「ああ……」
ガス心中のことを言っているのだと、小花は思った。しかし、続けて女将が告げたのは彼女の記憶にはない事柄であった。
「高速道路で玉突き事故があってね、館上さん夫婦の乗った軽自動車が、トレーラーとボックス車に挟まれたの。即死だったそうよ。事故があったのは、ちょうどあの子が越境してきた翌日で……だからよく覚えてるって、施設の人が言ってたわ」
今度は小花が瞬く番だった。
「自殺じゃないんですか」
そう首を傾げて、自分が知っている太一郎の両親の話をする。
やがて、話を聞き終えた女将が、皺んだ唇から短い溜め息をこぼした。
「──それは、あなたがいた世界での、館上夫婦の最期だと思うわ。そっちは自殺でもこっちは事故死。でも亡くなったことには変わりない。並行世界は連動してるから」
「連動って」
「顔と名前が同じだけあって、お互いに無関係ではないということね。少なくともあたしは、こちら側で死んだ人間に、あちら側で会ったという話を聞いたことがないわ」
「はあ」
毎度ながら、こっちだのあっちだのとややこしい。
「つまり、こっちが死ねば、あっちも死ぬってことですか?」
小花の場合は、調整役とかいう奴のおかげで入れ替わってしまった、もう一人の米神小花の生死と連動しているということになる。
女将は小さく肩を竦めた。
「らしいという話よ。詳しくは知らないの。ダブルが存在するのは昼型だけで、夜型や夕型にはないものだから」
「ダブル?」
またも気になる言葉を耳にして、小花はオウム返しに問いかける。
そういえば、太一郎が和雪にも同じことを言っていた。
「ダブル、ドッペルゲンガー、
「そのダブルが、夜型にはないんですか?」
小花の声に扇風機のモーター音が被った。微風の設定にもかかわらず、古いせいか首を振るたびに喧しい音が響く。
「昼型と夜型では、世界への関わり方が根本的に違うの。昼型はダブルがあるから簡単には越境できないのだけれど、夜型はダブルがないから自由に二つの世界を行き来できる。そうしても、調整役の介入は受けないわ」
小花はやや眉間に皺を寄せた。「不公平」とつぶやいて、はたりとまた首を傾げる。
「でも、あっちの世界では夜型なんてほとんど見かけないですよ? 自由に行き来できるんだったら、もっと目についてもいいはずなのに」
そもそも小花の感覚からいけば、「夜型」などという言葉があることからして信じられない。天邪鬼だの天狗だの魔獣だの、妖怪変化の類が公に認められ、人間と普通に生活しているなんて、正気の沙汰ではないのだ。
「まあ、あっちは住みにくいらしいからねえ」
ガラス戸に寄りかかる背を少しずらして、女将が笑った。
「だって夜型の存在自体に懐疑的なんでしょう? 下手に人間の前に姿を現すと殺されることもあるって、噂で聞いたけど」
「殺され……あ、お
「そうそう。夜型の生存権がないみたいだし、並行世界が存在してることも一般的に知られてない。いつも隠れて住まなきゃならないなんて、息苦しくてかなわないわよ。だから、よっぽどの物好きか、はぐれ者以外はみんなこっちに住んじゃうの」
そう言う女将は、太一郎の紹介によると昼型と夜型の混血だそうである。いわゆる
当年とって百五十二歳。
彼女の実年齢を聞いた時、小花はなんの冗談かと反応に困ったものである。
実は今でもまだ半分、冗談ではないかと疑っていたりもする。
「じゃあ、あっちには夜型が少ないんですか?」
小花の問いに、女将は片頬に手を当てて考えながら「そうねえ」と返した。
「こっちに比べれば、ね」
「それで均衡を保ってる……?」
「んー、均衡は単なる重量や数の違いには左右されないみたいよ。夜型が世界に影響を及ぼすのは、熱量だとか
「はあ」
よくわからない。
気持ち、小花が傾ける首の角度が深くなった。
「きかなくなった、って?」
「本庁が機能しなくなったのよ。長年、
「そ、そんなに」
「後任を決めるために、長老方が
「百年も?」
「百年も」
死んでるんじゃないか長老。
思わず小花が抱いた感想は、さすがに口には出せずに胸の中にのみ留めておく。よく喋る女将の話は、次第にワイドショーの様相を呈し始めていた。
「おかげで最近じゃ、余計な問題まで出てるわ。長老方の一人に天狗系の大御所がいるんだけど、五十年ほど前に夜型五等爵の代替わりがあった時、次の男爵候補がその大御所の息子さんだったらしいの。知ってるかしら、鞍馬天狗」
反射的に小花の首が縦に振れる。
どこかで聞いた覚えのある名前だった。
「でも、父君が会議中で発言できなかったものだから、ウェルウィッチっていう大陸から移住してきた若造に取られちゃってね。以来、男爵と天狗族は犬猿の仲なのよ。今日もお昼のニュースでやってたわ、男爵の
「あ」
小花の表情の変化に気がついたのか、女将が大きく頷いた。
「そう。確か、あなたたちの学校の近くだったわね。鴉天狗はすぐに男爵が捕まえて屋敷へ連れて行ったそうだけど」
「鴉、捕まっちゃったんですか?」
「まあ男爵相手じゃ仕方ないわよ」
女将はさらりと言ったものの、話が事実ならそれはそれで由々しきことだと小花は思った。裏事情はどうあれ、あのお姐言葉の鴉天狗は、小花たちを逃がすために野牛に立ち向かっていったのだ。
そのあたりを詳しく訊こうと彼女が口を開いた時、柱時計が四時半を告げた。時報に続いてカランと響いたのは、酒屋の入口に垂らした小型の鐘の音である。来客のようだ。
「いらっしゃい」
慣れた様子で立ち上がった女将が、サンダルを鳴らして出ていく。それきり、客との話が弾んでしまったのか、容易に戻ってくる気配はなかった。
質問の機会を失った小花は、手持ち無沙汰に再びちゃぶ台の上に頬杖をついた。
佐藤商店の茶の間は、昔のドラマに出てくるような古い匂いのする座敷だった。色褪せた六枚の畳に、黒い茶箪笥。中の綿が潰れた煎餅座布団と、不安定に揺れるちゃぶ台。定期的に小花の顔を撫でる扇風機の風が、表から差し込む気だるい西日をゆっくりと攪拌していく。
知らず、小花は目を閉じていた。
瞼の裏が夕日色に染まっている。
なんとはなしに、先ほどの居眠りで見た夢のことを考える。目が覚めた瞬間に忘れてしまったそれは、いやに懐かしい色をしていた。思い出したいのに、思い出したくないような、奇妙な感覚が尾を引いている。
内容はわからない。
ただ、誰の夢かはわかっていた。
「──最悪」
思わずつぶやいた彼女は、それからまた少し微睡んだ。
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