第二章 八ツ目市民相談室 ②
3
午前十一時過ぎ。
市民相談室を辞した小花と太一郎は、市役所の地下一階にある食堂『
一般市民にも開放されているセルフサービスの食堂は、ほどよく冷房が効いており、桜色を基調としたテーブル席に、蛍光灯の白い光が差す明るい作りになっている。まだ十二時前ということもあってか客の数はまばらだったが、おかげで席取りには苦労せずに済んでいた。
ほどなくして、その広い空間に丼を置く硬い音が響いた。
「ごちそうさまー」
たぬき蕎麦の汁をきれいに飲み干して、湯気で曇った眼鏡を外す小花に、
「はいお疲れ」
意味不明な言葉が投げられた。
「何?」
備え置かれた紙ナプキンを使い、眼鏡のレンズを拭きながら小花が聞き返すと、長テーブルを挟んだ向かい側の席で、太一郎の口に運ばれかけたみそ汁の椀が不自然に停止した。ややあって、椀と唇の隙間から、ぼそぼそした声がこぼれる。
「ハンバーグセット、たらこスパゲッティ、ミニ酢豚丼、たぬき蕎麦……これだけのメシを二十分で食べ終わるの見たら、そりゃあ、お疲れぐらい言いたくなる」
テーブルの上に並べられた空の皿三枚と丼二つを眺めて、小花はつまらなそうに眼鏡をかけ直した。
「だって今日、朝ごはん抜いちゃったから」
「太るよ」
獅子唐の天ぷらを口に放り込んだ太一郎の余計な一言で、小花の額に青筋が浮いたのは言うまでもない。ちなみに、彼女の前にいる幼なじみが選んだメニューは、本日のB定食となる天ぷら御膳であった。
「朝の分を一緒に食べただけだから問題ないの。それに、ハンバーグがおかずで、スパゲッティがサラダで、酢豚がデザートで、お蕎麦がスープだって考えれば、ちょっとだけボリュームのあるランチと一緒じゃん」
独自の言い分を披露する小花のふくれっ面を、太一郎が珍しい生き物でも見るような目で見やった。
「……スパゲッティがサラダになるの?」
「シソが入ってる」
「酢豚は?」
「パイナップルが入ってるじゃない」
そんなこともわからないのか、という目で太一郎を見返してから、小花はあらかた平らげられた天ぷら御膳に視線を移した。黒い塗りのお盆の端に、まだ手のつけられていない小鉢がある。
その視線から庇うように小鉢を移動させて、太一郎が漬け物の残りを片付けた。
「もしかしてまだ足りない、とか?」
「ううん。もうお腹いっぱいです」
会話と共にさらに二回ほど場所を移動した小鉢は、しかし三回目にしてその逃亡を諦めて、自ら盆の前に進み出た。緑色の器に容れられた白玉あんみつと、あくまでもそれを控えめに押し出した太一郎の顔を、期待を込めた小花の瞳が行き来する。
「いいの?」
「酢豚のパインには劣るかもしれませんが」
了承に混じった皮肉は、彼女には通じなかったらしい。
「ありがと」
語尾にハートマークでも入りそうな、およそ似合わない礼を口にした小花の右手には、すでに臨戦態勢のスプーンがきらめいていた。純粋な喜びに頬を明るくして、白玉をすくい上げる様を、太一郎の半眼が見つめる。
「んんーしらたまー」
太一郎は冷めた緑茶を啜った。口の中で密かにつぶやいた、「腹いっぱいじゃないのかよ」という言葉は、幸せそうな表情で器を掻き回す小花にはもちろん届かなかった。
「そうそう、食事と言えば、夜型の狩りには気をつけたほうがいいよ」
取って付けたようなわざとらしさで太一郎が再び口を開いた時、白玉あんみつはすでに影も形もなくなっている。
最後の一口を飲み込んで、締めに水の入ったグラスを傾けていた小花の眉が、わずかにしかめられた。「夜型」という言葉が耳に入ったのだ。
その様子を知ってか知らずか、太一郎は勝手に一人で喋り出した。
「夜型と言ってもいろいろあるんだ。男爵みたいに昼型の俺らと話ができる人もいれば、まったく言葉の通じない奴もいる。とくに獣系は、特別なのを除いてほとんどが意志の疎通ができない。と言うか、あいつらは昼型を餌だとしか思ってないんだよ。愛玩用はまだいいけど、それ以外は普通に獲物として人間を襲う」
「へ……え」
なるたけ気のない相槌を打って、小花は空になったグラスをテーブルに戻した。溶ける間もなく水気を失った氷が、涼やかな音をたてて震えた。
「最近じゃ社会問題にもなってるんだよ。帰宅の遅くなった昼型の人間が、夜型のはぐれ獣に食われる事件が多くてね」
「そう」
「だから、ハナも夜は出歩くなよ。はぐれ獣というのは、主人の下を脱走して一匹狼になった異分子だから、凶暴なんだ」
「ん」
「俺ら昼型と違って、夜型の社会は完全にヒエラルキーで成り立ってる。支配する者とされる者、その両方、どの種族も基本的にこのピラミッド構造に当てはまる。そこから離脱すると、はぐれ者として咎を受けるらしい。はぐれ者に対する夜型の迫害は過激かつ執拗で、場合によっては追跡して排除することもあるそうだよ。──例えば、男爵が追ってる二十二番目の天邪鬼みたいにね」
氷が再び音をたてた。
手持ち無沙汰に、グラスの表面を撫でていた小花の指先が、力の加減を誤って弾いてしまったのである。適当な相槌が遅れ、沈黙した彼女に構わず、太一郎は一階の待合所から拝借してきた新聞をテーブルに出した。折り畳んだ状態のまま、注意を促すように掌を紙の上に置く。
「やっぱり今日の朝刊に載ってたよ。ほぼ一週間前、男爵が管理する二十四体の天邪鬼のうち、キーという二十二番目の名前を持つ天邪鬼が屋敷から逃亡してる。普段の彼らは、長い手鎖つきで外出を許されているらしいけど、キーはその手鎖を無理に外して逃げたんだ。どうやったと思う?」
「…………」
「腕を落としたんだよ。手首から」
瞬間、小花の眉が一気に寄った。
「夜型は昼型と違って再生能力が高い。だから最初はダメージが強くても、三日もすれば切り落とした腕は生えてくる。でも、普通はそんな無茶はしないんだ。そんなことをしたら、主人に逆らった従僕として二度と許してはもらえなくなるからね。男爵も面子にかけて追跡するだろうし、悪くすると仲間も連帯責任を問われて腕を──」
「で」
まだまだ続きそうな太一郎の台詞を、小花の声が強引に遮った。
「そういう記事が、今日の朝刊に載ってたと」
先ほど彼が口にした結論をそのまま告げた彼女に、
「社会面の小さな囲み記事だけどね」
苦笑混じりの肯定が返る。
「発生から一週間も経って情報を出すあたりが、ものぐさな男爵らしいよ」
小花の口から、短い溜め息が漏れた。
せっかく、白玉が忘れさせてくれていたのに、これでは台無しである。
悪夢のほうがまだましかもしれない現実を思い出してうつむく小花を前に、太一郎は目を細めた。
「キーっていう天邪鬼は、こっちの世界の米神小花さんと友だちだったんだ。多分、彼女の越境もそいつが関わってるんだと思う」
「……なんで、そんなことまで知ってんの」
ようやく、この話題から逃げるのを諦めた小花が、テーブルの上に頬杖をついた。
「そもそも、なんでその、もう一人の私は越境なんかしたの? そんな簡単にできるものなの?」
「さあ」
言いながら、さらに細くなった太一郎の目がついと横にずれる。何気なく向けられた視線の先では、食堂の男性従業員が長テーブルの布巾がけをしていた。その一際目立つ長身と、金色に染められたポニーテールを一瞥してから、彼は視線を戻した。
「でも、彼女が天邪鬼と親しいって話は、同じ学年の奴ならだいたい知ってる。天邪鬼は夜型のヒエラルキーでも最下層にいる種族で、昼型にも嫌われてるんだ。学園近くで彼女とキーが会ってるのを誰かが見て、すぐに噂になった」
それが良い噂でないことは、今朝の志鶴の反応が雄弁に物語っている。
「どうして二人は友だちに?」
「別に夜型と昼型が親しくしちゃいけないっていう、決まりはないよ?」
「なくてもさー」
小花は納得ができなかった。これまでに聞かされた話のほとんどはまだ納得できていないが、その中でも一番わからない部類の話だ。自分だったら、アマノジャクなんてよくわからない種族の友人を欲しいとは思わない。
「まあ、おかげでなんで私が男爵に目をつけられたのかは、わかったけど」
顔も名前も同じらしいので紛らわしいが、要は人違いなのである。
「ああ、それはもう大丈夫だよ」
太一郎がからりと笑った。
確かに、男爵の件についてはすでに手が打ってあった。相談室を出る際、小花たちは市役所から彼にこちらの事情を説明してもらいたいと、海老原に頼んでおいたのだ。終始具合の悪そうな専門職員は、それでもカウンターから出てきて二人を見送りながら、青白い顔色で承知してくれた。
「むしろ、相手が男爵で良かったね。夜型五等爵ならすぐに連絡がつくよ」
「ふーん?」
何が良いのか、小花には今一つ理解できない。なおざりな声を出しながら、スカートのポケットから携帯電話を取り出して時刻を確認する。
午前十一時五十一分。
その時ふと、彼女は思いついて携帯電話の電話帳を開いてみた。母に電話をしようと考えたのである。海老原は行方不明だと言ったが、そう簡単に信じられるわけもない。
ところが、呼び出した電話帳はいつの間にか中身がシンプルになっていた。驚いたことに、真っ先に登録されているはずの両親の携帯電話の番号が消え、西尾志鶴が入った友人枠さえ見当たらない。あるのは自宅と、『カズユキ』と片仮名で入力された番号のみで、メールアドレスに至っては、誰の登録もされていなかった。
「これ私の携帯じゃ、ない──?」
そこで初めて小花は気づいた。
よくよく改めて調べてみれば、時刻で変化する内蔵の待ち受け画面は趣味ではなかったし、着信メロディを内蔵音にした覚えもない。機種やデザインこそ同じだったが、そもそも一つもストラップを付けていない携帯電話など、彼女にはあり得ない話だった。あれほど、カプセル自動販売機に小遣いを注ぎ込んで手に入れた、大事な戦利品の数々がごっそり消えている。
「うわ、なんで?」
「こっちの米神さんの携帯じゃないの?」
事も無く告げた太一郎に、小花の目が丸くなった。
「ええ? なんで?」
「ほら、海老原さんも言ってたじゃないか。ハナの記憶は攪乱されてるって。つまりハナは、自分でも知らない間に、少なくとも一週間はこっちの米神小花さんとして日常生活を行っていたことになるんだよ。携帯だけじゃなくて、その制服とか鞄とか、部屋も家もみんな違うはずだよ。本当の持ち主は彼女なんだから」
それは、今まで聞いたどの事柄よりも小花にとって衝撃的な話だった。海老原に客人だと断言された時よりずっとリアルで、愕然とする。その話が事実なら、こちらの世界には帰るべき家はおろか、下着一枚に至るまで自らの物はないということになる。
にわかに、小花は他人の制服を着ている自分に気持ち悪さを覚えた。
「じゃあ、そろそろ行きますか」
硬直してしまった小花をよそに、太一郎が椅子を後ろに引いた。
「客人カードに貼る写真を撮らないと。このあたりにスピード写真ってあったかなぁ」
無論、写真を撮るのは太一郎ではなく小花だ。携帯電話を見つめたまま嫌な汗をかいていた彼女は、だが反射的に「やだ」と返して、椅子から立ち上がりかけた幼なじみを中腰にさせた。
「ハナ?」
「証明写真はまだ撮らない。確かめて、納得したら考える」
言ってもう一度、携帯電話の電話帳を呼び出す。
「考えるだけ?」
拍子抜けしたような太一郎の声を耳に、『カズユキ』の番号を探して選んだ。
「どうやって確かめるの?」
「ユキに聞く。母さんのこととか……いろいろ」
いきおい通話ボタンを押す小花を、太一郎がやや不満げに見やってまた腰を下ろした。
呼び出すこと数秒、しかし電話は一度繋がってすぐに切れてしまった。
「切れ方に悪意を感じる……」
今朝の無視攻撃もあって暗くなる小花の向かい側で、太一郎がのんびりとリュックサックから自身の携帯電話を取り出した。
「当然だよ。だってまだ授業中」
「へ?」
中学校の時間割など、すでに小花の脳裏から消えて久しかった。
「そうだっけ?」
「確か、四限って十二時半ぐらいまでやってたと思うよ。でも米神さんちは姉弟仲があんまり良くないみたいだし、その携帯からの着信には弟くん出ないかもね。あとで俺が試してみるから、番号見せてみ」
言うが早いか、太一郎は小花の手から携帯電話を取り上げた。ついでに、空の器が載ったトレイと己の荷物も掴んで席を立つ。器用に足で椅子を戻した彼が、食器の返却口へ向かうのを見て、小花も慌てて椅子を引いた。
「え? なっ、ちょっ、待っ」
最後にグラスの氷を一つ口に入れて追いかける足に、あちこちの長テーブルや椅子がぶつかって賑やかな音をたてていく。
折しも時刻は正午である。市役所中に響いた時報の鐘の音に、「おおきにー」と食堂を出る高校生たちに向けた、金髪従業員の声が重なった。
4
米神和雪は、意外なほどにあっさりと呼び出しに応じた。
とはいえ、かけ直した小花の電話は一度も繋がらなかったのにもかかわらず、太一郎が自分の携帯電話でかけた途端に話が通じるという、いささか理不尽な経過を辿っての、待ち合わせではあったが。
約三十分後、指定された八ツ目市役所前の駐車場に現れた弟の姿を、小花は複雑な面持ちで見つめた。
駅のほうから歩いてやってきた和雪は、隅のベンチにいる小花たちを見つけても、とくに表情を変えなかった。ベンチには雨除けの屋根がついており、それが今はちょうど良い日陰になっている。昼の強い日差しを跳ね返していた和雪の白いワイシャツが、屋根の下に入って鈍く翳った。
「こんにちは」
真っ先に声をかけたのは、太一郎だった。
ベンチ前に停めた自転車のサドルにもたれ、つい今しがたまで耳にかけていたメタリックブルーのヘッドホンを、慣れた手つきで首にずらす。その彼から半歩下がった位置に、小花は立っていた。
「ずいぶん早かったね」
気さくに笑いかける太一郎に、和雪は姉のほうには一瞥もくれずに「どうも」と浅い会釈をした。
電話の件からすでにふて腐れていた小花は、それだけで一気に不機嫌になる。
「ユキあんた」
「今日は金曜日だから六限までだろう? 午後はどうしたの?」
小花の体から発せられた怒りの波動を明るく遮って、太一郎が身を乗り出した。当の和雪は、姉の睨みにも臆することなく堂々と無視をしている。
「午後の授業はないです。特別に一斉下校になったんで」
「ん? 中学が?」
小花の分まで笑みを張り付けたまま、太一郎が首を傾げた。
「いや学園全部」
対する和雪の態度は素っ気ない。彼が立ち止まった場所は、小花たちと話をするには問題ないが、手を伸ばして触れるには遠すぎる、微妙な地点だった。
「近くのコンビニが夜型に破壊されたらしくて、警察と消防が来て、学園の周りが騒ぎになって──」
知らないのか? という目を和雪に向けられて、同じ学園内に通う小花と太一郎は沈黙した。もちろん、今日は登校すらしていない二人にそれらを知る術はない。従って、コンビニ破壊事件のことは初耳だったが、騒動の原因のほうには大いに心当たりがあった。
「あーそっか。そういえば、そんなことを聞いた、ような」
すぐに怪しい相槌で誤魔化した太一郎とは違い、小花の反応は実にわかりやすかった。
「その夜型って、もしかして牛と鴉?」
「ハナ」
ぎょっとした太一郎が振り向いた時はすでに遅く、彼の前に進み出た小花は、咄嗟に身を引いた弟を問答無用で掴まえて、自分のほうへ顔を向けさせていた。
「どっちが勝ったの?」
「は?」
「どっちが勝ったって訊いてるの。牛? それとも女言葉の鴉?」
真剣に尋ねる姉の様子に、和雪も無視しきれずに記憶を探る表情になる。
「……牛が頭からコンビニに突っ込んで死んだ、とは聞いた」
「鴉は?」
「知らない」
口早に言って、和雪は思い出したように小花を振り払った。またしても姉と弟の距離は開いたものの、今朝のように小花はその隔たりにショックを受けたりはしなかった。それよりも、おそらくコンビニ前で激突したのであろう件の牛とお姐言葉の鴉天狗の戦いが気になって仕方ない。
和雪が疑わしげな顔を太一郎に向けた。
「関係者なんですか?」
「まさかあ」
即座に力強く否定する太一郎の声に、
「ね、お客はいなかったみたいだけど、コンビニの店員さんは大丈夫だったの?」
とその答えを簡単に覆す小花の質問が被る。
疑いの色をますます強くした和雪が、軽く首を振った。
「死んだのは牛だけで、人間の死傷者は出てないそうですよ」
質問したのは自分にもかかわらず、敢えて太一郎に向けて話されたことに、今度は小花も気がついた。「そう良かった」と口では穏やかなことを言いながら、つかつかと弟に歩み寄り、再び捕らえて無理に視線を合わせる。
「和雪、なんか私に恨みでもある?」
先ほどと同じく振り払おうとする彼の腕を、小花は今度は頑として放さなかった。小さい頃から和雪にはケンカで負けたことがない。いや、和雪だけでなく、昔はどの男子にも腕っ節で負けた記憶はなかった。
「文句があるなら今すぐに言いなさい。ないなら、今すぐに無視はやめなさい。お姉ちゃんにそんなことしたって無駄よ。はっ倒してでもこっち向かせてやるから」
説教なのか脅しなのかわからない台詞で詰め寄る小花を、和雪が初めて正面から見た。なにぶん、小花の力が強いので見させられたと言ったほうが正解だったが、ともかく瞳に捉えたことは事実だった。そうして、
「やっぱりあんた客人だ」
弟が冷たくつぶやいた一言に、小花の手は呆気なく緩んだ。
「な」
和雪は、今までのようにすぐに姉の手を振り払おうとはしなかった。ただ見つめ返しただけである。家族には決して向けないであろう、他人の眼差しで。
「だからねハナ」
声を失った小花の肩を、口を差し挟むきっかけを見つけた太一郎が、ぽんと叩いた。
「前にも言ったけど、彼はこっち側の和雪くんで、ハナの弟じゃないんだってば」
客人。並行世界。入れ替わり。
海老原のお経のような声と共に、脳裏にいくつかの単語が蘇って、小花は眉を寄せた。
言われてみれば、今朝あんなに乳製品を摂取した和雪の顔は白く、少しも荒れたところがない。小花のよく知る弟なら、とっくの昔にアレルギーを起こして苦しんでいるはずであった。そうでなくては、おかしかった。
「同じ顔と声をしてるくせに、そんなの……反則」
「そういう問題でもないと思うんだけどね」
太一郎が苦笑して、小花の手を和雪からやんわりと外させた。
「これでわかったかな? 彼女はきみの姉さんのダブルだ。つまり、きみの姉さんはこっち側にはもういない」
電話で話をつけたのは太一郎である。だから小花には、彼がどういう呼び出しの仕方をしたのかわからない。が、どうやら、今の姉が客人だという説明は、簡単にしてあったらしかった。
「信じますよ」
小花の掴んだ腕を擦りながら、和雪が短く息をついた。
「その人は違う。同じ顔と声なのに、全然違う」
ついさっき、小花が言ったのと似たようなことを口にして、小さく笑う。その目はもう小花から逸らされることはなかった。むしろ、不躾なほどに頭の上から足の先まで、なぞるように眺められる。
「客人なんて、
言って、へらりとまた笑った。嫌な笑い方だった。
冷えた頭がまた熱くなる予感を覚え、小花は気を紛らわすように太一郎を振り向いた。
「館上太一郎が客人だって話は、みんな知ってるの?」
「そ。俺もいちおう有名人。カード持ってるからね」
小花の苛立ちを感じ取ったのか、太一郎がごく軽い調子で答える。
「カード?」
「さっきハナも申請書を書いたでしょ? 客人の証明カード。あれ便利なんだよ」
彼の言葉を「そうそう」と引き継いだのは、和雪であった。
「あなたも、まだ持ってないんだったら早く作ったほうがいいですよ。あれ見せるだけでなんでもフリーパスになるって話だから。電車もバスも乗り放題、買い物もつけができるし、金がなくなったら担保なし上限なしで銀行から借りられるそうです」
「く、詳しいわね」
和雪が鼻を鳴らした。小花が客人だと知って以降、砕けた態度に合わせて顔には薄笑いが張り付いている。
「常識だよ。みんな知ってるし、みんな欲しがってる。本物か偽物かはともかく、カードを持ってさえいれば特別扱いされて、楽に暮らせるわけで」
海老原が言っていた冷やかしが多い理由がそれなのだろう。
沈黙した小花に、何か勘違いしたらしい和雪が、急いで言葉を続けた。
「別にあなたが偽物だとは言ってないよ。あなたはあいつじゃないから、たぶん本物の客人なんだと思います。僕が証明してあげてもいい」
「…………」
大きく揺れた小花の瞳が、弟と同じ顔をした中学生を見て足元に落ちた。
「ね、訊きたいことが二つあるんだけど」
「はい?」
いくら顔が見えなくても、応じる声もまた同じときている。始末が悪いと内心苦々しく思いながらも、彼女は口を開く。
「こっち側の母さん──行方不明って本当?」
訊いた途端「ああ」と声を漏らした和雪の答えは、相変わらず尋ねた側が拍子抜けするほど素っ気ないものだった。
「そうですよ。男と出て行ったんだか、一人で出て行ったんだか知らないけど、七、八年ぐらい前にいなくなって」
「……探さなかったの?」
「さあ? この前、親父が離婚したって言ってたから、もう関係ないんじゃないですか」
まるで他人事のように話され、再び小花の視界が揺らぐ。中学校指定の運動靴が、無意味にアスファルトの地面を撫でているのが見えた。
「ま、あいつは会いたがってたみたいだけど」
あいつとは、彼の姉のことに違いない。決して家族らしく呼ぼうとはしない和雪の物言いを耳に、また頭の芯が熱くなる感覚を抱きつつ、小花は二つ目の質問を口に乗せた。
「きみ、お姉さんが嫌いなんだ?」
それは問いではなく、確認の形を取っていた。そして、この質問にも和雪の答えは簡単に返された。
「まあね」
なんのてらいもなく、食べ物の好き嫌いでも訊かれた時のように頷く。小花が思わず視線を上げて見た彼の顔には、罪悪感も悲しみも窺えず、ただ冷えた嫌悪感だけがそこはかとなく漂っていた。
「……どうして?」
考えてもみなかったという風情で、和雪は首を捻った。
小花は、彼の実姉のものである携帯電話を思い出している。自分のものではないと気づいたあの電話は、まるで持ち主の性格を表したかのような、ひどくシンプルで不器用な状態だった。
「わかんないですよ。あいつとは話さないんで」
しばし考えた後、諦めてそう告げた和雪は、例の笑みを浮かべていた。
「なんで話さないの」
「えー? なんでか……んー、うっとおしいから?」
「うっとお……」
「いいじゃないですか。あいつはもういないんだし。あ、ってことは親父が帰ってくるまで一人暮らしか。いいなそれ」
聞き咎めた小花の声を遮って、彼は笑みを深めた。その表情を見れば見るほど、小花はわからなくなる。二人の和雪の境、彼の姉と自分との境に見分けがつかなくなる。
初夏の昼日中に外で立ち話をして、空気の暑さに当てられたのだろうか。ふと目眩を覚えた小花の眼前で、弟がつぶやいた。
「良かった」
直後、和雪の頬で乾いた音が鳴った。
彼のつぶやきが聞こえた瞬間、一息に距離を詰めた小花が打ったのだ。
「────って」
容赦のない力を受け、頬を押さえた和雪の顔がしかめられる。さすがに笑みは消えた。だが、かといって今の仕打ちに怒りが芽生える様子はなく、ひたすら驚いた表情を浮かべている。もし反撃してきたら、二発目をお見舞いしようと構えていた小花は、その必要もなかったことに失望して唇を噛んだ。
にわかに熱を帯びた掌で拳を作り、何も言わずに踵を返す。
屋根の下から出ると、すぐに直射日光に炙られた肌から水分が噴き出た。
今日は日焼け止めクリームを塗っていない。こんな風に紫外線に当たったら、額のニキビが悪化する。治るものも治らない。どうでもいいことを思いながら、彼女はずんずん足を前に進めた。市役所前の通りを横切り、細い路地に入る。平日の昼間の住宅街は人気がない。路地から路地へ、無目的に歩いていく。
やがて、暑さに息切れを起こして歩みを緩めた頃、初めて自分の後ろをついてくる車輪の音が聞こえた。手押しで進む自転車のゴムタイヤが、アスファルトの小石を噛んで回っている。それに、歩幅の広い足音が続いている。
「馬鹿だね」
小花の様子に気がついたのか、後ろで太一郎の声がした。
「泣くぐらいなら、叩かなきゃいいのに」
「泣いてない」
小花はぶっきらぼうに言い返した。けれど振り向くことはできない。顔中に広がった水気を、眼鏡の下から乱暴に手でこすって歩いていく。
なぜ和雪を叩いてしまったのか、自分でもわからなかった。本当はもっと訊きたいことがあったのだ。これではわざわざ呼び出した意味がないと、後悔をしている。
だがその反面で、先ほどの衝動は抑えようがなかったことも、小花は知っていた。理由は自分でもわからないが、我慢ができなかった。姉が消えて「良かった」と言えてしまう弟が腹立たしくて──恐ろしかった。
彼女が自己嫌悪に陥る一方、頬を腫らした和雪をすげなく置き去りにして後を追いかけてきた太一郎は、とくに何を尋ねるでもなく「はいはいわかってますよ」と短く返した。
その緊張感のない調子に、小花もつられてむきになる。
「信じてないでしょ?」
「信じるから、こっち向いてみる?」
「お断りします」
というわけで二人は、しばらく縦に並んだまま住宅街を歩いていったのである。
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