第二章 八ツ目市民相談室 ①



     1


 国鉄駅「八ツ目やつめ」下車、徒歩三分。

 市バス停留所「八ツ目市役所前」下車、徒歩一分。

 交通機関を利用すれば、鳥船学園から二十分足らずで行けるところ、自転車の二人乗りで一時間弱かけて辿り着いた市庁舎は、小花にとって極めて馴染みの薄い場所だった。

 遠い昔、幼稚園時代に母親の用事で一緒に来たことがあるぐらいだ。その頃から変わっていない、黒ずんだ染みだらけの四階建ての建物に入りながら、小花はまた、ちらりと今朝の母親のいない台所を思い出した。だが同時に、幼稚園時代の例の頭突き事件をも思い出してしまい、慌てて意識を切り替える。

 現在その、不本意な思い出を共有しているはずの相手は、小花の腕を半ば引くようにして庁舎の中を歩いていた。彼の淀みない足取りは、窓口のカウンターと待合い椅子の間を抜け、職員らの仕事場を横目に通路の奥へと向かっている。ほどなくして、行き着いた先の天井からは「市民相談室」と書かれたプレートが下がっていた。

 入口からもっとも遠い位置に設けられた、受付の窓口である。そこに声をかける太一郎の後ろ姿を目に、小花は口中で「相談……」とつぶやく。つぶやいて即座に、「なんの?」と自問し、その答えとして湧いた不吉な想像に思わず頭を振った。

 まさか言えまい。

 通学路に落ちてきた墜落死体が実は生きていて、男爵とかいう美形の有名人と揉めている現場を目撃したら、なぜかその男爵の所有する野牛に追われるはめになり、危機一髪、お姐言葉の鴉天狗の力を借りて逃げてきました──などと。相談したら最後、いろいろな意味で居たたまれない。

 一人悶々とする小花は、しかしまだまだ甘かった。

 数分後、彼女にもたらされた現実は、予想を遙かに上回っていた。

 太一郎に促され、おずおず専用のカウンター席に腰を下ろした小花に、職員は開口一番こう告げたのだ。

「おおよそのお話は窺いました。客人申請まろうどしんせいのご相談ですね」

「…………」

 二十代と思われるその女性職員はにこやかであった。あまりにも普通、かつ感じの良い対応に、つい反射的に「はい」と笑い返してしまいそうになるのをぐっと堪え、小花は太一郎を振り向いた。

 が、てっきり隣にいるだろうと思った彼の姿はそこになく、探せばかなり離れた後方の待合い椅子に座っている。さらに、エアコンの真下で涼む顔は完全に明後日のほうを向いており、とても目配せをして呼べる状態ではなかった。

 これでは、どういう話をしたのか訊くに訊けない。

 膝の上で密かに拳を作って、小花は職員に向き直った。

「あの、私は別に、その、まろ──なんとかじゃないと思うんですけども」

 取り敢えず、わからないなりに否定しておく。

 職員は再び愛想良く笑った。

「はい大丈夫ですよ。皆さんそうおっしゃられると聞いております。客人というのは、並行世界からいらした方々をこちら側で呼ぶ際に、日本で用いられる呼称です。便宜的なものですから、あまり気になさらないでください」

 太一郎に見せられた変な雑誌に載っていた話と、同じことを言う。

 信じられない話を真っ正面から肯定されて、小花は二の句が継げなくなった。ここが市役所でなかったなら、今すぐにでも回れ右をして帰るところだ。公務員がこんなに冗談が通じる職種とは思わなかった。

「それでは確認をしますので、こちらの用紙に必要事項をご記入ください。住所・氏名・生年月日・年齢・電話番号・家族構成と職業──ええと、学生さんですよね? では、学校名を書いてください」

 平日に、制服姿で訪ねてきた学生を咎めもせず、職員はやはり笑顔で記入用紙を机の上に広げた。指サックを嵌めた手で当然の如くボールペンを渡され、懇切丁寧に記入箇所を示されては邪険に拒否もできない。結局、小花は釈然としないながらも、言われるがままに用紙を書き上げてしまった。

 流されている。

 基本的に我は通すが、長いものには巻かれろ主義でもある彼女の、悪い癖であった。いつも、気づいて後悔した時にはもう手遅れになっている。

「はい結構です。少々お待ちくださいね」

 心中穏やかならぬ小花とは対照的に、女性職員は実に爽やかに記入漏れの確認をして、席を外した。

 太一郎を問い詰めるなら今しかないだろう。

 小花は勢いよく、座っていた回転椅子を捻った。しかし途中で、何気なく視界に入り込んだ黒い物体に気を奪われ、無意識に体の動きを止めてしまう。

 誘われるように左方へと目をやった彼女は、瞬間的に慄然とした。

 市民相談室の専用カウンターは意外に長く、距離を置いて、小花の並びにもう一人相談者がついていた。黒い物体として捉えたのは、その人影であった。

 おそらく女性と思われる。確信はできない。おまけに年齢や顔もわからない。

 なぜならその人は、場違いな黒のアフタヌーンドレスに身を包み、黒い牛皮のポーチを膝に載せ、黒い石のネックレスに黒のショール、黒い長手袋、黒いハイヒール、鍔の広い黒の帽子を被った上、そこから垂れる分厚い黒のベールで、顔はおろか頭部をすっぽり覆い隠していたからである。

 見事なまでに全身黒ずくめ。まるでそこだけ中世ヨーロッパのゴシック様式の世界になったような、異様な光景であった。どうやら、その人の担当職員も今は席を外している最中らしく、一人待つカウンターに載せられた手が、苛立たしそうに揺れている。

 太一郎を呼ぶのも忘れ、小花は速攻で椅子を戻した。

 見てはいけないものだと直感が囁いていた。なんだかわからないが、あれは見て見ぬふりをしておいたほうがいい類の存在だ。

 けれど、一度意識してしまったものは、容易に無視しきれないのが人間の性。たまたまその時、相手方の担当職員が戻ってきたこともあって、己の直感とは裏腹に小花の耳はそばだてられた。

「──お待たせして申し訳ありません。やはり、お手数ですが今一度、夜の時間帯に来ていただいたほうがよろしいようです。昼の窓口ではちょっと、対処しかねますので」

 若い男性職員の言葉に、カウンターを叩く音が重なった。

「そんな悠長なことをしている暇はありませんわ!」

 ベールを通して聞こえてきたのは案の定、女性の声だ。やや鼻にかかっており、意外に可愛らしい。声だけで年齢を計るなら、小花と大差なく思える。

「あの子がいなくなって、もう一時間も経ってしまいました。夜を待っている間に、もし交通事故にでも巻き込まれたらどうするのですか?」

 切羽詰まった話が聞こえ、小花は少しだけまた左方に目を向けた。ちょうど、黒い女性が黒いポーチから黒いレースのハンカチを出して、黒いベールの下に差し入れているところであった。

「失礼ですが常磐ときわ様」

 涙声で取り乱す女に、しかし職員は冷静に応じている。

「先ほど調べましたところ、行方不明になっているペットは飼養許可のいる特定動物の中でも、さらにマル特扱いとなる夜型猛獣のAクラスに登録されております。ですから交通事故になって破損するのは車のほうで、ペット自体は損傷を受けないと推測されますが」

阿奴毘須アヌビスちゃんは、まだ四歳ですわ?!」

「子供でも立派なけんです。それに本来ならこういうお話は、警察のほうへしていただいたほうが」

 黒いベールの内側で、チンと鼻をかむ音がした。

「行きました。警察には最初に行ったのです。でも、こういう話は獄卒ごくそつの縄張りだから手が出せないの一点張りで。知ってますでしょう? 今の夜型は、まったく統制がとれておりませんの。本庁に訴え出たところで、誰も探してなどくれませんわ」

「しかし、夜型猛獣のAクラスですよ? 放っておけば人を襲う可能性も」

「あの子はそんな子じゃありません」

「ええああはい、まあ例えばの話です。もしそうなったら、また問題になりますし。動いてくれるのではないですか?」

「動きません。今や獄卒どもはまともに働いてはくれません。……頼れるのは、もうここだけなのです。どうかお願い致します。あたくしの阿奴毘須ちゃんを助けてください」

「そう言われましても。この時間帯の窓口は、基本的に昼型用になっておりますから、やはり夜型用の時間帯に来ていただくしか」

「ですから、そんな悠長なことをしている暇はありませんわ!」

 ……また変な話を聞いてしまった。

 小花はゆっくりと再び椅子を捻った。

 常磐と呼ばれた黒い女は見た目も十分に奇異だったが、話している内容も十分すぎるほどに奇異だった。彼女だけならまだしも、市役所の職員までもが同調しているのだから、救いようがない。

「昼の窓口は昼型用、夜の窓口は夜型用、って?」

 これまでの会話を総合して導き出した推理を口にして、後悔した。

 妄想だ。唸りながら椅子を一回転させる。

 ぐるりと横に動いた景色の中に、待合い椅子に腰かけた太一郎の姿があった。くつろいだ格好で、どこから手に入れてきたのか、今日の朝刊を広げている。折悪しく、新聞をめくる際に上げた彼の視線と小花の視線とが偶然に触れた。

「ばか」

 唇の動きのみで言った彼女の子供っぽい悪口に、太一郎は笑った。朝から何度も見せている親しみ深い笑顔で、小さく手を振る。

 小花は──なんとはなしに痛いものを感じて、彼から視線を逸らした。無論、手を振り返したりはしない。調子を崩されて、もはや文句を言う気も失せていた。



     2


 相談が再開されたのは、その五分後のことであった。

 左隣の押し問答はあれからしばらく続いていたが、じきに出てきたもう一人の職員の計らいで場所を移すこととなり、常磐は案内されて通路の奥へと消えていった。

 その黒い姿と入れ違いに出てきたのが、小花の担当職員であった。

 先ほどの女性ではない。歳は同じぐらいだが、面長で目の細い男性だ。

「お待たせしました。客人担当まろうどたんとう海老原えびはら典男のりおと申します」

 カウンターの向かい側に座りながら告げた彼の声は、果てしなく暗かった。数分前に応対してくれた女性の対極に位置するような無愛想さで、にこりともしない。顔色も病み上がりのように青白く、目の下の血管が透けて隈のようになっている。

「まろうど担当……?」

 まだ三十代だろうに、整髪料で完璧に固められた彼の七三分けに目を泳がせて、小花は聞き返した。

「はい。各地方公共団体には、客人についての教育を受けた専任職員を一人以上置くよう、法律で定められております。八ツ目市では、昨年まで出張所と合わせて三名の専任職がいましたが、今年からわたし一人になりました」

 じっとりした声音で、海老原が答えた。その不健康そうな色の唇から漏れる言葉は、まともな内容にもかかわらず、どこか怖ろしく響き渡る。

「──冷やかしが大変に多いもので」

「? ……はあ」

 海老原の声が一段と湿り気を帯びた。

「我が市においてこの十年間で客人申告に訪れた人数は、のべ一〇一四名。しかし、その中で本物だと認定された方はその一割にも満たず、現在市内で生活されている方は二名となっています。各出張所に担当者を置いていては、偽称の人数が増えるばかりで人件費もかかります。一昨年、それがようやく問題になりまして、人員が削減されました」

 別にそんなことは訊いていない。

 単に反復しただけの言葉に、どうでもいい事柄を付け加えて答えられ、小花は内心で呆れた。物言いが沈みすぎているせいか、それとも意図的なのか、ほとんど恨み節を聞いているような気分になる。

「……もしかして私も冷やかしだと言いたいんですか?」

 肯定されても構わない。いっそのこと、肯定して追い返して欲しい。

 そう思って口にした彼女の問いに、しかし海老原は「いいえ」と暗く否定した。

「あなたは本物の客人です」

 はっきりと断言する。

「先ほど諸々の確認を致しました。あなたは少なくとも、こちらに本籍のある米神小花さんではありません。相当に手の込んだいたずらでもない限り、客人と判断してよろしいかと思います」

「確認?」

「指紋の照合です」

 予想していなかった返答に、小花は瞬いた。その前へ、海老原によって書類が広げられる。先ほど住所や名前等を書かされた用紙であった。続いて、記入の際に利用したボールペンも隣に並べられた。

「こちらのボールペンに付着した指紋で、照合させていただきました。失礼だとは思いますが、客人の判定にはこのような抜き打ち方法を取ることになっておりますので、ご了承ください。その旨は、毎月の公報にも載せております」

 そこで一旦、顔を上げた海老原は、小花の物問いたげな視線にぶつかり、すぐに合点顔で言い直した。

「ああ、すみません。あなたは客人ですから、ご存じありませんでしたね。では、出生から一年以内に指紋の登録をすることが義務づけられているのです。登録は、それぞれ本籍地の独立コンピューターのみにされております。そのため照合には時間がかかることもありますが、米神さんの場合は本籍地が八ツ目市なので早く出ました。結果は不一致。あなたは米神小花さんではありません」

 それはそうだろう。

 指紋登録なんて小花はした覚えがない。そもそも、義務化されたという話からして過去も現在も聞いたことがなかった。

 海老原の指が、首から下げた職員証の位置を神経質そうに直している。青い作業着の胸前で揺れるカードには、彼の証明写真が入っていた。陰鬱そうな表情だ。

 それと寸分違わぬ顔が、目の前で話を続けた。

「学校のほうにも先ほど連絡を取りまして、高等部入学時に提出された書類の写しをファックスで送っていただきました」

 言葉と共に、カウンターの上に新たな紙が載せられる。それは、海老原の職員証にあるのと同じ証明写真のカラーコピーだった。ただし、当然ながら写っているのは海老原ではなく、一年前の小花自身である。

 いくらか取り澄ましてはいるが、見慣れた自分の顔を眺めて彼女は眉を寄せた。

「これが?」

「書類に添付された証明写真です。……あなたですね」

「はあ」

 だからどうしたのか。

 写真の顔と実際の顔とを湿った視線で見比べられ、ますます小花の眉間が険しくなる。

「確かに顔は米神小花さんです。が、指紋は一致しない。つまり、あなたは米神小花さんと同じ顔をした別人ということになります。戸籍を調べても、小花さんが双子だという記載はありませんでした。整形手術で顔を変えたとか、この偽称のために用意周到な準備をしているのであれば話は別ですが」

 そこでまた、海老原はじっとりと小花を見た。

「失礼ながら、そういう風には思えません。あなたはどうやら、客人という言葉さえご存じなかったように見受けられます。大昔ならともかく、今どき就学者でそんな人はいません。さらに加えて言えば、あなたを客人だと言って連れてきた方は……」

 海老原の細い目が、今度は小花の後方へ向けられる。わざわざ視線を追わずとも、そこに太一郎の姿があることは、想像に難くない。

「八ツ目市で二人いる客人のうちの一人です。最初の職員が、証明カードの提示を受けておりますので間違いありません。客人が客人を紹介するケースは初めてですが、あちらの世界でのお知り合いだと言われれば、こちらは否定できません。むしろ説得力がありますから、あなたの信憑性も増します」

「信憑性……」

 げんなりした調子でつぶやいた小花に、海老原が改めて断言した。

「おそらくあなたは、あちら側──並行世界の米神小花さんだと思われます。即ち、こちら側で言うところの客人になります」

「は、あ」

 もちろん小花はまったく納得していなかった。ただ、ここまで大人しく聞いていて、彼らが言わんとしていることは、大体わかってきていた。

「要するに、私が二人いるってことですね」

 そして、この世界に住んでいるのはもう一人の彼女のほうで、自分は客人と呼ばれる余所者だと言っているのだ。他でもない、市役所の人間が。

「厳密には同一人物ではありませんが、仰る通りです」

 真顔で首肯する海老原を、小花は軽く睨んだ。

「でも。私は今朝だって普通に自分の部屋で起きたし、普通に自分の家を出て学校に向かっていましたよ? まあ、ちょっと変なことはあったけど、いつもと同じ朝でとくに異常な感じは、何も……」

 ないはずだ。多分。

「本当ですか?」

 言葉尻が小さくなった小花の顔を、海老原の暗い顔が覗き込む。その明らかに胡乱げな様子に腹が立ち、弟の和雪と親友の志鶴に覚えた違和感や、男爵やら深泥やら鴉天狗やら常磐やらのあり得ない姿を、小花は思わず記憶の中から抹消した。

「いつもの朝でした」

 海老原の薄い唇が、不自然な形に歪んだ。笑ったらしい。

「無理をなさらないでください。客人の方々にとって、わたしどもの世界は少しばかりこわいそうですから。ここへ来るまでいろいろ大変な思いをされたでしょう?」

 何やら怖気の立つ、それこそ恐ろしい笑顔で気を遣われて、小花は言葉に詰まった。

「それに、先ほどのあなたの記入には間違いがあります」

 海老原の手が証明写真のコピーを退ける。例の記入用紙に生白い指が走り、家族構成の欄を示して止まった。

「父・母・弟・自分の四人家族となっています。が、こちらで調べましたところ、あなたの母親の蔦子つたこさんは七年前に自宅を出られて以来、行方知れず。今年になってご主人の鱒司さんが裁判所に失踪の申し立てをされて、先月その審判書と共に離婚届を提出、受理されています。ですから、本来ならここには現在一緒に住んでおられる、父・弟・自分の三人家族と書くべきところで」

「嘘」

 小花は海老原の説明を最後まで言わせなかった。いや、さすがに最後まで黙って聞いていることができなかった。

 母が七年前から行方不明──。

「嘘だそんなの」

 今朝の不審な不在を知っているからこそ、彼女には受け入れ難い話であった。

「事実です」

 海老原は静かに告げた。

「一応、鱒司ますじさんにも連絡を取って確認しました。今月から長期の海外出張に入られているそうで、今はラオスにおられました」

「ラ、ラオ……? 嘘。うそうそうそ、私そんなの知らないっ」

「ということは事実上、今は小花さんと弟の和雪さんの二人暮らしになりますね」

「だから、知らないですってば!」

 ついに声を荒げて立ち上がろうとした小花を、しかし後ろから両肩に手を乗せて押しとどめた者がいた。

「いいんだよ知らなくて」

 太一郎である。

 振り向いた小花の強い視線を、彼はなんでもないことのように落ち着いて受け止めた。小脇に折り畳んだ新聞紙を挟んでいる。

「お母さんが行方不明になっているのも、お父さんがラオスにいるのも、こっち側の米神小花さんの家庭事情なんだ。ハナを産んでくれた人の話じゃない。多分、ハナのお母さんはどこにも行ってないと思うよ。あっち側で普通に生活してる」

 太一郎をちらりと見やった海老原が、「ええ」と頷いてから後を継いだ。

「二つの世界は限りなく同じに等しいようですが、実は少しずつずれがあると聞いております。顔や名前や住居の場所は瓜二つでも、指紋を初めとする細かい身体的特徴、性格や環境、個々の事情となると差が生じるとか。混乱するのも無理はありません。見たところあなたは、少し記憶が攪乱されているようですから」

「…………」

 小花は浮きかけた腰を椅子に戻して、肩に乗った太一郎の手を払った。

 彼らの話を信じたわけではない。論理的に話をする海老原に、感情的に抗っても無理だと悟ったのである。

 ふて腐れた表情で黙ってしまった彼女に、海老原はさらなる説明を加えた。

「客人にはポジティブとネガティブの二種類があります。つまり、積極的・能動的に世界の境を越えた客人と、消極的・受動的に越えた客人のことです。ポジティブな場合は、本人の自覚がありますから越境の日時も正確にわかり、とくに問題はありません。対して、ネガティブな場合は本人の意志に関わりなく連れて来られたわけですから、自覚がまったくありません。施術によって記憶が攪乱され、自分が別世界にいることにさえ気づかない人がほとんどです。あなたはその、ネガティブのほうではないかと思われます」

 ネガティブ客人。

 嫌な呼称を使ってくれる。

 読経のような口調と相まって、内容の大半は小花の右耳から左耳へと抜けていった。しかし、一つだけ気になる言葉を見つけて口を差し挟む。

?」

「はい。ネガティブな客人は十中八九、調整役の干渉により越境させられています」

「調整役?」

「はい。並行に存在する二つの世界の境界線におられる方です」

「………………誰?」

 話がとてつもなく高いところへ飛んだ気がして、疑問符ばかりを浮かべる小花に、海老原は至って平然と答えた。

「人ではありません。二つの世界の均衡を保つ存在、とでも申しましょうか。人の姿で現れることもあるそうですが、本質的には昼型でも夜型でも夕型でもなく、生き物ですらないものです」

 彼の物言いは終始一貫して淡々と変わりなく、どんな話でもうんざりするほど現実的に響いた。たとえその話が、漫画や映画の中でしかあり得ないようなファンタジックな内容であろうと、まるでキャスターがニュース原稿を読むように伝えてくる。おかげで聞くほうは笑い飛ばすことも、怒ることもできない。

 一瞬、傍らに立つ太一郎を見上げた小花は、たちまち諦め顔で脱力した。

 太一郎の表情に変化はない。あくまで普通に聞いていた。普通に、だ。

「じゃあその調整役が、どうして私を客人にしたんですか?」

 どこか投げやりな調子で質問した彼女を、海老原の湿った瞳が見返した。

「おそらくは、入れ替えたのではないかと」

「は?」

「わたしの予想ですが──こちら側の米神小花さんが、なんらかの事情であちら側に越境されたのが原因ではないでしょうか。調整役は、同じ顔と名前を持つ人間が一つの世界に二人揃うことを嫌います。ですから、こちら側の米神小花さんがあちら側に移った代替として、あちら側の住人のあなたをこちら側に連れてきたのではないかと思います」

「俺もそうだと思う」

 唖然とする小花に代わって、同意の言葉を述べたのは太一郎だった。丸めた新聞紙を手に持ち直し、己の肩口を掻きながらしきりに頷いている。

「小花さんを元に戻すより、何も知らないハナを動かしちゃったほうが手っ取り早かったんだろうね」

「ちょい待ち」

 呑気な台詞を聞いて、小花が我に返った。

「何その理由?」

 隣家の敷地との境を跨ぐような簡単なものではないのだ。いまだ国境だって越えたことがないのに、世界の境など越えたくはない。

「ものすごい迷惑だと思うんだけど……もちろん私が」

 ずり落ちてもいない眼鏡の、青灰色のフレームを押さえる小花の指がわなわなと震えている。それには、「そうですね」と海老原の冷静な声が応じた。

「しかし、調整役も無闇に客人を作るわけではありません。ネガティブな客人には大抵、記憶を攪乱させる術が施され、自分が客人だという事実に気づくことなく、普通に生活を送れるよう取りはかられています。そのまま一生を終える方も少なくありません。むしろ、あなたのように途中で術が解けてしまったケースのほうが稀なのです」

「いやそれでも迷惑……ん? じゃあ、なんで解けたんですか?」

 もっともな小花の言葉に、海老原は初めて迷いを見せた。

「そこまではなんとも。あなたは心当たりがおありですか?」

「ありません」

 即答してしまってから、小花はふと自分が客人だという前提で話をしてしまっていることに、自己嫌悪を覚えた。馬鹿げている。

 改めて否定しようと考えて、先ほど抹消したはずの記憶が脳裏に蘇る。弟や友だちとの不和ならまだ解決のしようもある。だが、深泥や男爵の所行は笑って済まされるタイプのものではなかった。大体、彼らの正体からして不明瞭すぎるのだ。そしてだめ押しに、お姐言葉の鴉天狗──あんな生き物いてたまるかと思う。

「周囲との認識の違いに気づかれたのは、今日ですか?」

 海老原の質問はまだ続いている。

「もし正確な日時がわかるようなら、教えていただきたいのですが」

「さあ」

 今の小花に言えるのは、昨日の夕飯のメニューを思い出せないことぐらいである。

 首を傾げる彼女に代わり、口を出したのはまたもや太一郎であった。

「俺、一週間前にこっちの米神小花さんに会いましたよ」

 海老原の視線が上がる。

「確かですか?」

「ええ。その時はまだ、ハナはいませんでした」

「では、一週間前に入れ替わりが行われたと仮定して──ずいぶん早く術が解けたよう ですね。客人の知り合いがいることといい、あなたは珍しい客人です」

「それはどうも」

 ちっとも驚いていないような暗い顔と声で言われ、自然に小花の声も平板になる。変わっているのはあんたらのほうだよとは、もう言える状況ではなくなっていた。

 数十分後、再びいくつかの質問に答えつつ、正式な客人申請の書類を書いて、ようやく小花の手続きは完了した。あとは証明用の顔写真を撮って提出すれば、数日で客人の証明カードが出来上がるという。

 海老原の長い解説をふんふんと聞き流しながら、小花はこれは本格的にまずいことになってきたと考える。どうやら、自分は客人とかいう別世界の人間らしい。

「……帰りたい」

 ぽつりとつぶやいたその時、彼女の腹の虫が盛大に賛成の声を上げた。

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