第一章 あやしい朝 ②


     4



「ねえちょっと」

 前方から吹きつけてくる風圧に負けぬよう、小花は声を張り上げた。

「スピード、出し、過ぎっ」

 しかし太一郎からの応答はない。

 彼の容赦ない漕ぎ方で高速度を維持し続けている自転車は、通行人の間を器用に縫いながら歩道を西に向かっている。後ろの荷台に座った小花は、せいぜい足を縮めて振り落とされないようにするのがやっとだった。鞄ごと掴んだ太一郎のワイシャツは、すでに皺だらけになっている。

「ちょっと、ねえ!」

 いくら遅刻寸前だからと言っても、このスピードは異常だ。

 大体なぜ自分が、この男の自転車に乗せられなければならないのか。

 考えれば考えるほどわけがわからず、そういえば今日は朝からわけがわからない出来事ばかり起こっていることを思い出して、小花は無性に腹が立った。もう一度、太一郎に文句を言うべく顔を上げて──視界を横切った景色に目を疑う。

「あ?」

 歩道沿いに張られた塀の向こうに、煉瓦色の校舎の群れが林立していた。うちの一棟の屋上ではためいているのは、舟形の記章が染め抜かれた鳥船学園の校旗だ。

 その広大な敷地が、ものすごい勢いで後方に流れていく。

「って、なんで通り過ぎてんのっ? ねえ学校。学校過ぎてる! ちょ、聞いてんのか館上太一郎! 止まって。止まんなさいって。こら止まれ────っ」

 だが、小花の叫びも虚しく自転車は走り続けた。

 ようやく車輪の回転がけたたましいブレーキ音と共に停止したのは、学園より西にバスで一つ目の停留所近くにあるコンビニエンスストアの駐車場であった。

 自転車が止まるやいなや、荷台から転げ落ちるようにして地面に降りた小花は、青い顔をしてアスファルトの上にしゃがみ込んだ。「止まれ」を連発しすぎて酸欠に陥ったのに加え、ハイスピードに体がついてゆかず、三半規管がすっかり参ってしまったのだ。もともとジェットコースターや空飛ぶ絨毯の類には弱い質である。

「気持ちわる……」

 対して太一郎は、真っ赤な顔をしていた。

 朝とはいえ、初夏の日差しが降り注ぐ中、二人分の体重がかかった自転車を十分以上全力で漕いでいれば無理もない。汗みずくで、ぜいぜいと息をきらしてハンドル上に突っ伏している彼を、小花は白い目で見上げた。

「馬鹿」

 口の中でひっそりつぶやいたにもかかわらず、聞こえたらしい一言に、

「馬鹿はそっち」

 と、いまだ呼吸を荒くしたまま、太一郎が返した。

「な」

 たちまち目を三角にした小花が反論する前に、彼は続ける。

「あんなのと話して、後でどうする気だったわけ?」

 ハンドルから上がった真剣な眼差しを受けて、小花は一瞬たじろいだ。

 あんなのとは、先ほどのヤクザ二人組のことだろう。

「は、話してないよ。目が合っちゃっただけで」

「だけ?」

「だって、道歩いてたら上から人が落ちてきたんだよっ。普通、驚くでしょ。立ち止まるでしょ。救急車でしょ?!」

「呼んだの?」

「んでないけどっ。なんか生きてたしっ」

「じゃ、無視して通り過ぎればいいのに。普通はそうするよ」

 しねえよ。

 心の中で思いきりツッコミつつ、小花は深い溜め息をついた。当の太一郎はと言えば、暑そうに汗ばんだ首筋を手で扇いでいる。

「ぐずぐずしてるから、男爵だんしゃくと遭遇したりするんだよ。あの時、俺が西尾さんと歩いてたハナに気づいて引き返さなかったら、どうなってたと思う? 挨拶もなしに話なんかしたら、後で因縁つけられるに決まってる」

「……そんなこと言ったって、ドラマ以外でヤクザなんて初めて見たし」

 太一郎の手が止まった。

「ヤクザ?」

「うん」

「違うよ。あれは夜型よるがた五等爵ごとうしゃくの一人、ウェル男爵」

 小花の口がぽかんと開いた。

「うぇる?」

「ウェルテル・ウェルウィッチだん男爵バロンウィーとか、W3とかいろいろ言われるけど、単に男爵バロンだけでも通じる。有名人だよ」

「有名人? あ、芸能人だったの?」

 確かに、あれほどの美貌なら世間が放っておくはずがない。つい勢い込んで小花が聞き返すと、今度は太一郎が溜め息をついた。

「違うよ」

「え? だって今、有名人て」

「有名だよ。夜型のお偉いさんだし」

 だからそのヨルガタが、小花にはわからないのである。志鶴の時と同じく、微妙にずれのある会話に珍しく不安げな表情を覗かせた彼女を、太一郎はしばし真顔で見つめた。

「…………」

「…………な、なに」

 意味深長な沈黙に耐えられず、小花がしゃがんだままの格好で後ずさりをする。ややあって、へらりと太一郎が破顔した。

「いや、久しぶりに見たなーと思って」

 くだけた物言いに昔の面影が重なって見え、小花はかすかに狼狽した。

 言われてみれば、彼と会話を交わすのは、実に八年ぶりであった。小学三年生の時に絶交を宣言して以来、姿を見ることや隣を通り過ぎることはあっても、まともに顔を合わせるのは互いに避けていたのである。

 改めてそう考えて、小花は太一郎から視線を逸らした。

 さっきはうまく乗せられてしまったが、自分たちはもう親しくはないのだと思い直す。なぜなら小花はまだ彼を許してはいなかったし、彼の様子を見る限り当時のことを謝る気配は微塵も感じられなかったからだ。それほど、二人の間に刻まれた溝は深かった。

 ──はずだったのだが。

 無言で立ち上がった彼女の冷めた顔を、太一郎は事も無げに覗き込んだ。いたずらっぽく己の額の中心を指で示して、「ここ、ニキビできてる」と笑う。

 途端、小花の頬がぴくりと震えた。急いで額に手を当てて、短く悲鳴を上げる。先ほど自転車で風を切ってきたせいで、苦心して下ろした前髪が全開になっていた。

「嘘ぉぉぉぉっ」

 コンビニの窓ガラスを鏡に、涙目になる小花の後ろで、太一郎の笑い声が上がった。

「笑うなっ」

「ごめん。なんかいいね」

「何がいいんだ?!」

 すさまじい勢いで手櫛を入れていく小花の耳に、ストッパーを蹴り立てる音が届いた。振り向くと、駐車場の隅に自転車を停めた太一郎が、荷物籠に入っていたリュックサックを肩にかけるところだった。目が合って、また小さく笑われる。

 憮然とした小花に、太一郎はやけに楽しそうに弁解した。

「あ、悪い意味じゃないよ? やっぱりハナはいいって意味──ちょっと待ってて」

 そう言って、足早にコンビニへ入っていく。

 一人蒸し暑い駐車場に残された小花は、調子を崩されてすっかりむくれていた。八年間も目さえ合わせなかった相手に、以前と同じ態度で接されて内心穏やかではなかった。ああ言えばこう言う感覚で反射的に応じてしまうが、彼がわざわざ自分に関わろうとする理由がまったくわからない。

 悶々とすればするほど今さら髪を直すのも面倒になって、小花はのろのろと立ち上がった。再び銀色の自転車に近づいて、荷台に腰をかける。太一郎が日陰に停め直してくれたおかげで、風が涼しく感じられた。

 右手で後ろ髪をほぐして暑さをしのぎながら、左手でスカートのポケットから携帯電話を取り出す。八時五十三分。すぐに自転車で引き返して下駄箱から走っても、始業時間には間に合いそうにない。完全に遅刻だ。そう思うとつい今しがたまでの焦燥感が諦めに変わって、逆に気分が落ち着いた。

 静かである。

 もともと山だった学園の周りは、近くに牛舎はあるが住宅は少ない。そのため生徒の登下校時間を過ぎると人の通りが絶えてしまう。時折、思い出したように車が道路を通過する以外、動くもののないコンビニの前で、彼女はよく晴れた空を眺めた。

 初夏らしい青い色を背景に、一つだけ白い雲が浮いている。その中心にハエのような黒い点があった。鳥だろうか。鳥にしては大きいようだが、他に思いつくものがない。どのみち、飛び方が不規則だから生き物ではあるだろう。

 そんなことを思っていると、コンビニの自動扉が開閉する気配がした。

「お待ち。ん、どうした?」

 後ろから聞こえた太一郎の声に、小花の指が空の黒い鳥を示す。

「あれ。なんだろ」

「ああ鴉天狗じゃない? このあたり時々、飛ぶ練習してる奴がいるから」

「カラス? にしてはデカくない?」

「違うよ。鴉天狗。大天狗の手下。行李背負って、団扇持って、高下駄履いて、お面かぶってるやつ」

 またも話が食い違い、小花は眉を寄せて隣を振り向いた。ソーダ味のアイスバーを口にくわえた太一郎が、サドルの上にコンビニの白い袋を置いて中をまさぐっている。

「なんの話をしてんの?」

「わからない? じゃ、これ」

 と、アイスバーを持ち替えた彼が、袋から取り出したのは一冊の雑誌だった。表紙にカタツムリのイラストが描かれた薄い月刊誌である。華美な色遣いのないモダンな装丁で、上部にはゴシック体で『月刊まろうど通信・六月号』と入っていた。

「まろうど?」

「漢字では『客人』って書くんだよ」

 それがどうした。

 ますます訝しむ小花の膝上に、太一郎はその雑誌の一ページ目を開いて乗せた。

「読んでみて」

「なんで?」

「いいから」

「……それよりさ、学校行かない? 私サボるつもりはないんだけど」

 だが、これには太一郎はあっさり首を振った。

「だめだよ。せっかくここまで離れたのに」

「は?」

「学園に戻ったら、たぶんまたあの男爵と鉢合わせになる。彼が自分の管理下から逃げた天邪鬼を探してることは、今朝の新聞にも載ってたし。天邪鬼が米神小花と親しかった話なんて、ちょっと調べればすぐに出てくるから。さっきはうまく誤魔化せたけど、男爵が学園にまでやって来たら今度は見逃してもらえない。しつこく事情を聞かれるよ。でもハナは、まだいろいろ理解してなくて答えられないだろう?」

 小花は瞬いた。目の前にいる太一郎は確かに日本語を話しているにもかかわらず、内容がまったく伝わってこなかった。

「言ってることがわからない? だったら、その雑誌を読んで」

 どうあっても、太一郎は雑誌に目を向けさせたいらしい。

 仕方なく、勧められるまま膝の上に視線を落とした小花は、巻頭部分を数行読んで顔をしかめた。



     5



 そこには、明るい調子で次のような文章が書かれていた。



 あなたはパラレルワールドを知っていますか?

 パラレルワールドとは、並行に存在する二つ以上の世界のことを言います。この世には、我々の住む世界とほぼ同じ条件を持ち、ほぼ同じ景色で、ほぼ同じ顔と名前の人々が住む別世界が存在しています。

 一九五〇年に発足した国際パラレル機構により、我々の世界ではこのパラレルワールドを正式に認定することになりました。それにともない、日本政府は、時に境界線を越えて「あちら」側から「こちら」側へやってくる人々を、『客人まろうど』と呼称することにしています。

 当方『月刊まろうど通信』は、その不慮の事故や諸事情により我々の世界にやってきてしまった客人の皆さんを応援するための雑誌です。客人の皆さんはもちろん、そうでない一般読者の方々も、ぜひ当雑誌を機会に互いの世界への理解の幅を広げてみてはいかがでしょうか。

 それでは、今月の特集を──



「何これ。アブナイ雑誌?」

 胡乱な表情で視線を上げた小花を、太一郎は苦笑混じりに見やって「全然」と首を振った。アイスバーはもう片づいており、唇の端から覗いた棒が笑うと上下する。

「そう思っちゃうハナのほうが変なんだよ」

 まるで相手にしない小花の膝に手を伸ばして、太一郎が雑誌をぱらぱらめくる。そうして目的のページを見つけると、指先で軽く紙面を叩いた。

「ここ。取り敢えずやってみて」

 彼の指が指し示した箇所には、やはりゴシック体で、



 あなたも知らずに境界線を越えているかもしれない?!

 毎号掲載・大好評まろう度チェック☆



 と書かれていた。内容は一つの質問に「イエス」「ノー」で答え、それぞれの矢印を辿って次の質問に移るシンプルなチェック方法で、最終的に「まろう度率」なるパーセンテージがわかるというものだった。

 まさに胡散臭さの極みである。が、これを太一郎はやれと言う。

「だからなんで?」

「いいから。はい最初の質問──理由もなく、家庭内が不和になった」

 まだ承諾していないのに勝手に進められ、小花は低く唸った。嫌々ながらも、ふと今朝の不愉快な食卓を思い出して、「……イエス」とつぶやく。

「次。知らない間に家族の嗜好や体質が変わっている」

「……それって……例えばアレルギーの子が平気で牛乳飲んじゃったとか?」

「飲んじゃったの?」

 小花は浅く頷いた。手短に弟のことを話すと、太一郎が納得顔で相槌を打つ。

「そうか。あっちの和雪くんはアトピーだったっけね。ああ心配しなくていいよ、こっちの和雪くんはアレルギー持ってないらしいから」

「なんであんたが知ってんの?」

「聞いたから」

「誰に?」

「米神小花さん」

「?」

 もはや疑問符しか発せられない小花を置いて、太一郎は質問に戻った。

「次。身に覚えのないことで、友人・知人に冷たくされた」

「……イエス」

 こうなれば小花もやけくそである。雑誌のチェックポイントをなぞっていく太一郎の指を目で追う。

「昼型・夜型・夕型ゆうがたと聞いて、なんのことかわかる」

「えっと、夜更かし?」

「不正解。次。今年は西暦と元号と黒譜こくふで何年か言える」

「西暦二〇一五年、平成二十七年。で、こくふって?」

「半分正解。半分不正解。今年は黒譜四〇二三番、黄泉軍よもついくさ足軽大将・平坂ひらさか蝿ヱ門じょうえもんの年になります」

 思わずまじまじと太一郎の顔を見た小花に対し、当人は至って涼しい表情をしている。

「次。天魔てんま信長を知っている」

「の、信長? 織田信長? テンマって……あ、ゲームとか?」

「次。業鬼ごうき光秀を知っている」

「明智じゃないの?」

「次。冥主めいしゅ秀吉を知っている」

「戦国アニメの設定?」

「次。最後の質問──妖怪変化その他諸々、夜に属する者たちの存在を信じている」

 小花は半眼で首だけを振った。頬のあたりが嫌そうに引きつっている。前半はともかく後半の質問はどう考えてもまともではないと彼女は思っていた。

 そう、まともではない。

 だから────

「はい出ました。ここ読んで」

 太一郎に示された診断結果を見ても、大してショックは受けなかった。



 あなたの「まろう度率」は百パーセントです!

 悪いことは言いません。今すぐに最寄りの地方公共団体にお問い合わせください。各市役所、区役所、町役場、村役場には客人のあなたをサポートする準備が整っています。まずは一人で悩まずに相談しましょう。道は必ず開けます。




 掲載文を読むなり、小花は膝に載せていた雑誌を閉じて太一郎に突き返した。ショックではないが、なんとはなしに腹が立っている。馬鹿馬鹿しい。

 そんな彼女を静かに見つめて、太一郎は雑誌を受け取った。くわえていたアイスバーの棒と共にコンビニの袋に放り込んで、自転車のハンドルにかける。

「信じられない?」

「当たり前」

 間髪入れずに言葉が返り、彼は嬉しそうにまた笑った。

「それこそ、ハナが客人だって証拠なんだけどな」

「なんでそうなる?!」

「だって、一般の人はみんな信じる以前に知ってる話だよこれ。『まろうど通信』って政府広報の出版物だから、ふざけるどころか大まじめな雑誌だし。あのねハナ。さっきのチェックにあった昼型・夜型・夕型っていうのは、生き物のカテゴリー分けのことを言うんだ。昼型は主に人間を始めとしたノーマルな動植物のことで、夜型は妖怪変化その他諸々いわゆるアブノーマルな生き物、んで夕型は昼型と夜型の混血や、そのどちらにも属さないエキセントリックな生き物のことを指してる。この三つに区分けされた生き物が、昼夜入り乱れて一緒に暮らしているのが、今のこの世界なんだよ」

 大丈夫かこいつは。

 小花は本気でそう思った。だが太一郎は淡々と話を続けている。

「天魔信長も、業鬼光秀も、冥主秀吉も、昼型から夜型に転じた実在の人物だよ。中学生の教科書にも載ってる。それを知らないとか、おかしいとか思うほうがおかしいんだけど……あ、俺が言ってることわかる?」

「わけないでしょ」

 完全に白けている小花を前に、太一郎が頭の後ろを掻いた。

「んー、できれば早く信じといたほうがいいと思うよ。あっちの常識で考えてると、こっちでは疲れちゃうからね」

「だーかーらー」

 これ以上、変な話に付き合っていられないと、荷台から降りて太一郎に向き直った小花の顔が、次の瞬間硬直した。ちょうど太一郎の右肩の奥に向けられた目が、大きく瞠られて固まっている。「ん?」と彼女の視線を追うように振り向いて、太一郎もまたわずかに訝しげな表情になった。

 そこには黒い鳥人間がいた。

 いや、黒い鴉の面を被った山伏姿の男であった。柳行李を背負い、手甲を当てた右手に太い樫の丸木杖を持ち、足に一つ歯の高下駄を履いている。それだけならば、ただの風変わりな人で済んだのだろうが、もう一つ見過ごせない事実があったために小花は度肝を抜かれていた。

 彼は浮いていたのだ。

 行李の両脇から生えた黒い翼がゆるく上下に動き、小柄な体を滞空させている。翼の大きさは左右合わせて有に二メートルはあった。

「もし」

 太一郎の眼前ではばたくその人は、腰帯から下げていた団扇を手に取り、上品に鴉の面の嘴に当てた。団扇は人が手を広げたような巨大な葉で出来ている。

「お取り込み中のところ宜しいかしらぁ。お久しぶりねぇん、昼型の少年」

 甲高い男の声に、びくりと硬直を解いた小花の前へ、太一郎が進み出た。

「お久しぶりです。……僕らに何か御用ですか?」

 その声は、多少驚いてはいるが落ち着いている。

 鴉天狗と聞いて、小花は先ほど空を飛んでいた巨大な鳥を思い出した。んな馬鹿な、と心の中で思う。思うが実際にそれは目の前に存在していた。

「用というほどのことでもないのですけどぉ。ぼくたち、もしかしてウェル様と関わりがあったりしますぅ?」

「ぼく……たち……?」

 見た目はなかなかに胸板の厚い男にもかかわらず、リアルに作られた鴉の面を被っているにもかかわらず、発せられるお姐言葉の恐ろしさに、小花の背筋が男爵を見た時とは別の意味で粟立った。

 太一郎がわざとらしい咳払いをした。

「どうしてですか?」

「さっき上空うえから見てわかったのですけどぉ、もうすぐこの場所にウェル様のバイソンが突っ込んでくるみたいなのよねぇ。あと三分後ぐらいかしらぁ」

「バ、イソン?」

「野牛ですわぁ。ウェル様のは黒くて大きくて暴れん坊だから危険ですよぉ」

「なんでまた」

 さすがに絶句した太一郎の前、アスファルトから一メートルほど離れた空中で、鴉天狗が薄気味悪く笑った。

「ぼくたちに用があるんじゃないかしらぁ? あの御方って、超面倒くさがり屋だからいつもやることが極端なのよねぇ。昼型の子をご自分の使い魔に追わせるなんて、普通やりませんよぉ。もしそれで道路を破壊したら、後でいろいろ大変ですしぃ。だいたい然るべきところに話を通せば、出頭要請できる身分なわけですしぃ。それをわざわざ牛なんか出しちゃうあたり、豪快っていうかぁ、足らないっていうかぁ……馬鹿?」

 最後の一言はいやに低い地声で言って、鴉天狗は太一郎に流し目をくれた。

「で、どうしますぅ?」

 身の危険を感じたのか、反射的に一歩引いた太一郎が小花を振り返る。

「どうする?」

 相談されても、小花には答えられない。この、普通ならば理解不能な現状を、自分なりに解釈しようとするだけで精一杯である。

「私に振るな」

「でも男爵はたぶんハナに用があるんだと思うよ?」

「な、なんの用よ?」

 まさか、深泥の墜落現場を目撃した口封じではあるまい。

「もしかしたら勘違いしてるのかもしれないけどね。男爵が本当に探してるのは、天邪鬼と親しかったもう一人の米神小花さんだと思うから。ハナは客人だから、関係あって関係ないんだ。説明すればわかってもらえるんだろうけど、それには客人の申請して証明を取ってからのほうがいいんじゃないかな」

「……お願いだから日本語で喋ってください」

 何度も繰り返すが、意味がわからない。

 なのに、お姐言葉の鴉天狗はその太一郎の説明であらかた事情を察したらしく、物珍しそうに小花を眺めた。

「ああん。そういうこ・と・ね? あなたが例の……なら先に役人のところへ行ったほうがいいわぁ。ウェル様には、その後でご説明差し上げればいいことですもの。しょうがありませんわね。じゃあ、あの牛はあたしが引き留めておいてあげますぅ」

 そう言うが早いか、彼は翼を畳んで地面に降り立った。丸木杖がアスファルトに触れて硬い音をたてる。

「けっ、帰化した身で男爵とは笑わせる。鞍馬の親父を馬鹿にしたあいつだけは許せん」

 今までとは打って変わって、男口調で杖を構えた鴉天狗の遙か後方に、ぽつんと黒い影が現れた。同時に臨場感たっぷりの小さな地鳴りが、足の裏から伝わってくる。もしあの影が付近の牛舎から逃げ出した食用牛などではなく、先ほど鴉天狗が教えてくれた野牛なら、この震動はそれが駆ける蹄の音になるのだろうか。

 幸いにして、コンビニ周辺には車も人通りもなく、あたりは閑散としている。その公共の道路を、小山の如き牛が走ってくるという異常事態に小花は目眩がした。

 空飛ぶ鴉人間に、追いかけてくる野牛。

 あり得ない。あっていいはずがない。これで混乱するなと言うほうが無理な話である。

 半ば自失状態に陥った彼女の右腕が、再び強く引かれた。太一郎だった。

「行こう。……すみません、お願いします」

 彼は鴉天狗のほうに会釈をするや、呆けた小花を荷台に乗せた。直後、鴉天狗から「まかせといてぇ」としなを作った声が返り、意味不明の奇声と共に羽ばたいた鳥影が、牛に向かって飛んで行く。

 そそくさと自転車に跨った太一郎のワイシャツを、小花の手が無意識に引っ張った。

「どこ行くの?」

「八ツ目市役所」

 伸びたワイシャツに気づいた太一郎が、体を捻って後ろを振り向く。いつになくうつむき加減になった小花に何を思ったのか、マッシュルームボブに左の掌を載せて、ぐしゃりと掻き回した。

「ちょっ」

「大丈夫。ハナだけじゃないから」

「え?」

「実は俺も客人だったりして」

 数秒後。本日二度目の急発進を遂げた自転車にのけぞりながら、小花はもうどうにでもしてくれと思ったのだった。

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