第一章 あやしい朝 ①


     1


 米神小花こめかみこはなは朝から不機嫌だった。

 その日は、後に彼女の人生において忘れたくても忘れられない、歴史的な一日となる予定だったのだが、そんなこととは関係なしに、彼女の気分は最悪だった。

 まず夢見がいけなかった。

 昨夜見たのは、よりにもよってファーストキスの再現だったのだ。

 それはまだ彼女が幼稚園児だった頃、仲の良かった男の子に「目をつぶって」と言われ、その通りにした途端いきなり唇を奪われた過去で、思い出したところで甘酸っぱさの欠片もないひどいものだった。なぜなら、当時の小花は男の子よりも背が高く、相手は半ばジャンプするようにして顔を近づけたため、結果キスと同時に頭突きを食らわされるはめになったからである。

 ただ痛かった。目から星が出るのを初めて見た。

 だから、あれはもはやキスではなくて頭突きだったのだろうと小花は思うが、その様子を偶然目撃していた友だちに後でさんざんからかわれたことによって、客観的にキスだと認定されてしまった。おかげで今でも、記憶から抹消したい思い出ナンバーワンに燦然と輝いている。

 それを久しぶりに夢に見た。

 内容が内容だったせいか、目覚めてからもしばらく頭痛がし、続いて洗面所で見た鏡の中の自分に彼女は激しく失望した。

 髪が逆立っている。もとい、かつてないほど芸術的な寝癖がついている。指紋で汚れた眼鏡のレンズをティッシュで拭いて、小花は改めてショックを受けた。視界がクリアになったことで、もう一つ憂鬱なものを発見したからだ。

 寝癖で全開になった額の真ん中に、ぽつんと赤い点が浮いていた。

 ニキビだ。

 自分の顔と睨めっこをしたまま、小花は唸った。唸りながら、洗面台の棚からヘアスプレーとドライヤーを引っ張り出した。歯磨きも忘れて、たった一つのニキビを隠すために、逆立った寝癖との格闘を開始する。

 本日は金曜日。平日である。

 登校時間は刻一刻と迫っているにもかかわらず、十分弱を経過してもなお、小花はパジャマ代わりのジャージ姿で洗面所を占領していた。ほどなくして、その背後を人影がよぎった。二階の自室から降りてきた弟の和雪かずゆきであった。

 その姿を目に止めるや、小花は、

「ユキ、今何時?!」

 と声を張り上げる。

 答えは返らない。構わず続ける。

「あのさぁっ、トースト作るんだったら私のも頼んだ!」

 やはり答えは返らなかった。

 後ろの廊下を遠ざかっていく足音を耳に、小花は口の中で「返事ぐらいしろっての」とつぶやいた。鏡越しにちらりと見た弟は、すでに鞄を抱えた制服姿だった。几帳面な彼のことだから、余裕を持って早めに家を出るのかもしれない。

 小花より二つ年下の和雪は、中学に入ったあたりから、もともとの照れ屋に輪をかけて照れ屋になり、姉と口をきくことがそれまでの半分に減っていた。とはいえ、根の優しさは変わらないので、小花が頼めば大抵の言うことは聞いてくれる。今朝もてっきり、無言ながら承知してくれたものと、彼女は高をくくっていた。

 ところがである。

 どうにかマッシュルームボブの形を整えて、リビングに入った小花の朝食はまったく用意されていなかった。赤い格子模様のクロスが掛かったダイニングテーブルには、焼き上がった食パンどころか皿一枚出ていない。真っ平らだ。

 いつもなら、室内のどこかにいる母親の姿が見えないことに違和感を覚えつつ、小花は台所に立って牛乳を飲んでいる弟に声をかけた。

「ユキ、お姉ちゃんのトーストは?」

 しかし、いくら待っても答えは返らず、今日は彼も虫の居所が悪いらしいと察する。

 むう、と唇を尖らせ、彼女は自分で朝食用の皿を出した。が、いざパンを焼く段になって、トースターの脇にある籠が空になっているのに気づく。いつもはそこに、食パンや菓子パンが盛ってあるのだ。

 買い置きが切れているとは思わなかった小花の手が、パン籠に伸ばされた状態で宙を泳いだ。そもそも弟と同じく几帳面な母が、毎日の朝食で消費される食パンを補充し忘れるなど、初めてのことだった。

 珍しい。

 仕方なく、夕飯の残りご飯を期待して炊飯器に向かった小花は、しかしプッシュ式の蓋を開いてまた表情を曇らせた。ここも中身が空であった。誰かが食べてしまったのではない。灰色のお釜はつるりと乾いていて、最初から焚いた形跡もなかった。

 何で、と口にしかけて、小花は再び弟に尋ねる。

「ねえ、昨日の晩ご飯ってなんだっけ?」

 なぜか、自分ではすっかり忘れていた。

 食べた感覚はあるものの、具体的にどんな料理だったかと問われると一向に答えが思い浮かばない。遠い幼稚園時代のことは夢に見るほど覚えているのに、つい昨日のことが思い出せないなんて、理不尽な話だった。

 多分、麺かパスタか、いずれにしてもご飯を炊かないメニューだったのだろう。適当に予想をつけて炊飯器の蓋を戻した小花の視線が、冷蔵庫の前に佇む弟に向いた。

「で、お母さんは? まだ起きてないの?」

 和雪は一リットルパックに直接口をつけ、黙々と牛乳を飲んでいた。いつの間に持ってきたのか、左手には開いたポテトチップの袋があり、牛乳の合間につまみ食いをする様子が、似合わないはずなのにどこか手慣れている。

「かーずーゆーきー」

 依然として返事を寄越さない相手に、さすがにむかっ腹が立ってきた小花の声色が変わった。呼びかけが聞こえていないわけではない。それが証拠に弟は今、近づいてきた姉から顔を背けるように、わざとらしく身を反転させた。

「あんた何を怒ってんの?」

 中学校の白い夏服に包まれた背中を睨んで、小花が和雪の後ろに立った。

 少し前まで彼女より低かった彼の背は、ここ二三年で急激に伸びていた。今では一回り高くなってしまった、寝癖とは縁のない整った後ろ頭に小花の視線が突き刺さる。食べ物を咀嚼するたびに、耳の付け根がかすかに動くのは昔からの和雪の特徴だ。

 おもむろに、その耳を引っ張ってやろうとした小花は、しかしふと、ある重大な事実に気づいて動きを止めた。

 牛乳にポテトチップ。

 先ほどから平然とそれらを食べている和雪に、奇妙な印象は受けていた。今になってやっと、その理由に思い当たったのである。

「ユキ、馬鹿!」

 勢いよく、小花は弟の腕を掴んだ。

 おかげで牛乳パックを口に持っていき損ねた和雪が、驚いて反射的に振り返る。わずかに瞠られた細い目が、一瞬だけ姉を捉えて逸らされた。ひどく迷惑そうに。

 そんな彼の手から、小花は無理に牛乳パックを奪い取った。

「こんなの飲んだら、またかゆくなるじゃない」

 和雪はアレルギー体質だ。小さい頃からアトピー性皮膚炎を患っており、乳製品や卵、油を使った菓子類は食べることができなかった。牛乳は言うまでもなく、ポテトチップだって御法度である。口にすればじきに皮膚が赤く荒れてきて、かゆみが出る。そんなことは本人が一番わかっているはずだった。

 しかし。

 牛乳に続いてチップの袋も取り上げようとした小花の手を、和雪は迷わず振り払った。これまでと同様に一言も発しないまま、姉の体を乱暴に押しのけて台所を後にする。その力には加減というものがなく、半ば突き飛ばされる形となった小花は、脇の冷蔵庫へしたたかに肩を打ちつけた。

「っ」

 衝撃で牛乳パックから中身が溢れ、ブローしたての髪に白い飛沫が散る。痛みより、弟の予想外の態度に驚いて、小花の中で時が止まった。

 ややあって、

「な、なん、なんななん」

 前髪を伝った牛乳の雫が鼻頭に落ちたのを合図に、彼女の頬に怒りの朱がさした。

「何するかっ!」

 怒鳴りざまに、だんっ、と持っていた牛乳パックをステンレスの台に叩きつける。容赦のない勢いであったため、中身が再び小花の腕やジャージに飛んだが、もはや頓着することはなかった。

「この髪にどんだけ時間かかったと思うよ?! 大体さっきから全部無視ってなに? 話しかけてんだから、うんとかすんとか返してよ。こっちばっかり喋ってて寂しいじゃない──って和雪。ちょっと聞いてんの。ねえ聞いてんのかって訊いてんの。てか聞け!」

 姉の怒りを尻目に、和雪はリビングに置いてあった鞄を取って廊下に出た。その背に小花の声が追いすがる。声だけでなく、彼女自身も台所を回り込んで追いかけてはいたのだが、和雪の退出のほうが一足早かった。

 まるで計ったように、入口のドアが小花の鼻先で閉められた。

「…………」

 要するに彼女は、腕を掴んだあの一瞬を除いて、徹頭徹尾、弟に無視されたのである。

 珍しい。と言うより、初めてのことだった。

「反抗期かあいつ」

 眼前を覆う磨りガラスの板を睨んで、小花は犬のように低く唸った。

 大量に乳製品を摂った和雪は、おそらく後で発作に苦しむだろう。気にならないと言えば嘘になるが、自業自得だとも思う。

 後で泣きついてきても、看てやるものか。

 そんな決意を固めつつ、それでも二分間ばかりどんよりしてから、牛乳で汚れた髪をセットし直すためにもう一度洗面所に向かう。そのまま朝食は取らずに自室に戻り、制服に着替えて再び一階に降りてくれば、もう遅刻ぎりぎりの時間である。

 廊下から覗いたリビングに人気はない。

 いつも出勤の早い父はさておき、いまだ母の起きてくる気配がないのは妙であったが、それらを確認する余裕は今の小花にはなかった。

 いちいち寝室に呼びかけるのも面倒なので、

「行ってきまーす!」

 一つ馬鹿でかい声を張り上げて、鍵を手に家を飛び出した。



     2


 自宅から最寄りの駅までは、歩いて十五分の距離がある。

 走れば十分、全力疾走して七分のところ、この日六分半の新記録を叩き出した小花は、無事に目的の電車に飛び乗ることに成功した。

 車内は満員よりやや少なめといった混雑具合であった。小花が突進した扉は四両目の一番前で、彼女は扉と手すりとサラリーマンの間に出来たわずかな空間に身を入れて、荒くなった呼吸を整えていた。

 電車はすでに駅を出発し、次の停車駅のアナウンスが乗客の頭の上を流れている。

 ほどなく到着した次の駅で開いたのは、小花が背を預けていた側の扉だった。乗り降りする人の波に押され、小花の体が右の手すりに押しつけられる。弾みで、持っていた通学鞄が手すりの向こうに座る乗客に触れた。

「あ」

 すみません。

 そう言おうと反射的に顔を上げて、小花は気づいた。

 座席の端に腰かけていたのは、自分と同じ制服を着た女子高生であった。それもよく知っている親友の──西尾志鶴にしおしづるである。

「シヅ」

 使い慣れている愛称を口にして、小花は彼女の長い髪を見下ろした。染めてもいないのに地で茶色い髪が、もともとの天然パーマと相まっていつも通り理想的な巻き髪を作っている。それが、オーストリア人を祖母に持つ彼女の顔立ちに大変よく似合うことを、小花は知っていた。

 果たして、呼びかけに応じて振り向いた志鶴は、浮かない表情をしていた。自分に声をかけた人物を知って、色素の薄い瞳が軽く広がる。

 小花はにまっと笑った。

「おはよ」

「……。おはよう」

 返された志鶴の挨拶はややぎこちなかった。

 その傍らへ、小花は少し身を屈めるようにして近づいた。

「珍しいね。今日は朝練休み?」

 声を潜めて尋ねるのに、「……ん」と短い返答がある。志鶴は一年生の時から吹奏楽部に所属している。小花と親しくなったのは、クラス替えで一緒になった二年生以降のことだから、朝の登校時間が重なることはほとんどないのだ。ちなみに小花は、限りなく幽霊部員に近い放送部で、もちろん朝練などはなかった。

「私はさぁ、なんか今日はダメだ。普通に起きたのにこの時間。髪爆発だし、ニキビ出るし、弟冷たいし、ご飯ないし。これで遅刻したら確実にへこむ……」

 手すりに掴まったまま項垂れる小花を、志鶴が怪訝そうに見た。その視線に何を思ったのか、小花はたじろぎ「もしかして、わかる?」と鞄をかけた手で己の額を隠した。

「え?」

「ニキビ」

 志鶴の表情がさらに曇った。

「それは別に」

「ホント?」

「……うん」

 実際、小花が気にするほどそれは目立ってはいなかった。洗面所で苦闘しただけのことはあり、前髪でうまく覆われて自己申告しない限りはわからない。短く安堵の息を吐いた小花は、ずれてきた青灰色の眼鏡フレームを押し上げた。

「ごめん、あとで確認したいからシヅの手鏡貸して?」

「…………」

 何気ない一言に、志鶴の眉間に小さな皺が生まれる。

「自分のは?」

「あー、まだ新しいの買ってないんだ」

 一週間前、小花は愛用の手鏡を誤って割っていた。学校の授業で教室移動をした際、人にぶつかって階段の踊り場に落としたのだ。運悪く階段の角張った部分に当たった鏡は、見事に十三本ものヒビが入って使い物にならなくなっていた。

 そのことは、居合わせた志鶴も見て知っている──はずだったのだが。

「新しいのって?」

 彼女はまたも怪訝そうに聞き返した。

「?」

 話が通じなかったことに瞳を瞬いた小花が、改めて手鏡を割ったことを告げても、思い出す様子はない。初めて話を聞いたような顔で、適当に相槌を打たれる。

「そういうことなら、貸してもいいけど」

 どこか不満げな志鶴の応えを聞いて、初めて小花は真顔になった。

「シヅ? もしかして具合悪い?」

 志鶴は何も言わなかった。わずかに目をすがめて、首を振る。

「でも、」

 小花の首が電車の揺れに合わせて傾げられた。

「なんか変だよ。いつもと違う」

 今度の質問には、志鶴の口が開いた。

「変なのは米神さんのほうだと思うけど」

「へ……?」

 ──コメカミサン?

「今日はどうしたの? こんなに話すの珍しいよね」

 質問したつもりが、逆に尋ねられて小花の目が点になった。加えて、何のことを言われているのか、まったく見当がつかなかった。

「話すって、普通だよ?」

 昨日とも一昨日とも一昨々日とも、変わっていない。いつもと同じ調子で小花は志鶴に話をしているつもりだった。

 だが、一向に怪訝な表情を崩さない志鶴は、さらに驚くようなことを口にする。

「そう? 米神さんっていつも無口だから、人と話すの嫌いな人かと思ってた。あたし、こんな風に話したことなかったし」

 眼鏡がずり落ちてくるのも忘れ、親友を見返す小花の顔が疑問符でいっぱいになったのは言うまでもない。

「え、あ、シヅ怒ってるの?」

 それぐらいしか言うことが思いつかず、彼女が不用意に発した言葉に、志鶴は押し黙った。確かに少し怒ってはいるらしい。表情や口調がいつも学校で対する時のような親しげな感じとは、明らかに異なっている。

 大体、小花を「米神さん」と呼ぶことからして、普通ではなかった。いつもは、下の名前を略して「ハナ」と呼んでいる。無口だの話したことがないだのというのは、もはや論外だ。それが本当だったら友だちですらないことになってしまう。

 しかし、当の志鶴は小花が気にしていることとはまったく別の理由で怒っていた。

「ねえ……しずって、あたしのこと? もしかして、しづるのしづ?」

 何を今さら。

 半年近く使ってきた愛称を指摘されて、小花はきょとんとした顔のまま縦に一つ首を落とした。同時に、志鶴の呆れたような溜め息が漏れる。

「悪いけど、それやめてくれる?」

「へ」

「そんな関係じゃないと思うし。米神さんにそういう呼ばれ方されると、ちょっと困る」

 生真面目に言って、志鶴は席を立った。気づけば、いつの間にか電車は目的の駅に着いていた。扉が開くと共に動いた乗客の波に、小花も志鶴も巻き込まれて外に出て行く。

「ちょ」

 人に押されて遠くなった親友の後ろ姿を、それでも小花はいつもの癖で追いかけた。

「待ってよ、シ──」

 けれど、呼び慣れた愛称だけは口に出す寸前で、思わず呑み込んでいた。



     3


 私立鳥船とりふね学園は、八ツ目市北部の山間部を開拓して設立された、幼稚部・小学部・中学部・高等部・大学・大学院から成るマンモス校である。

 小花はその高等部に、弟の和雪は中等部に通っており、学園までは最寄りの鳥船駅を降りてバスなら一停留所、徒歩なら約十二分ほどの道のりがある。始業時間の気になる小花は、今日はやや早足でその道を辿っていた。

 彼女の視線の一メートルほど先には、同じく早足で通学路を行く志鶴の姿があった。

「待ってー」

 モデル体型の親友とは違い、コンパスの差で遅れ気味になる小花の呼びかけは、再三に渡って無視されていた。

「ね、私なんか変なこと言った?」

 根気がいいと言うよりは、しつこい彼女の呼びかけに志鶴が大げさに息を吐く。

「別に」

 足を緩めずに応じたのは、苛立たしさを隠しもしない尖った声だった。

「怒ってるわけじゃないから。気にしないで」

「するよ。怒ってる」

 即座に切り返した小花が、足を速めて志鶴の隣に並んだ。

 志鶴が視線を逸らす。

「怒ってない」

 あからさまに嫌そうだ。

「怒ってる」

「怒ってない」

「怒ってる」

「ないったら!」

「るっ!」

 二人は揃って鬼のような早足で歩きながら、不毛なやりとりを続けた。その姿は、傍目にはむしろ仲が良いようにも見え、周りを行く数人の生徒たちからは好奇な目が寄せられていく。

 同じ高等部の制服を着た男子生徒が、自転車で彼女らを追い抜きざまに、ちらりと振り向いた。その銀色の車体が、前方にそびえる高層マンションを学園側に左折するのを視界に入れて、小花は口元を緩める。

 変なの。

 この手の言い争いは、長引けば長引くほど滑稽になってくるものだ。実際、小花と志鶴のケンカはいつもそうで、大抵は些細なきっかけから勃発し、くだらない応酬で呆気なく終わる。今回も同じ展開になるのだろうと踏んで、傍らを行く親友に笑いかけた小花の頬が、しかし不自然に固まった。

 笑顔の先にある志鶴の顔は、洒落にならないほどに剣呑であった。

 彼女は本気で怒っていた。

「……シ、シヅ?」

 思わずそう呼びかけた小花の足が止まる。場所は、ちょうど先ほど自転車が通り過ぎた高層マンションの前である。

「それやめてって言ったじゃない」

 笑顔の強ばった小花を睨んで、志鶴は今まで堪えていたものを吐き出すように言った。

「別に友だちじゃないんだし。勝手に呼ばれて、みんなに勘違いされたら困る。あたし、天邪鬼なんかと親しくしてる人と気軽に話せない。迷惑だから声をかけてこないで」

 はっきり拒絶の意志を示されて、小花は絶句した。完全に立ち止まってしまった彼女とは対照的に、志鶴の足は小走りになる。たちまち距離が開いた。

 置いて行かれた小花が、かなり遅れて、

「は?」

 と漏らした時にはもう、親友の姿は見えなくなっていた。

「何、それ」

 彼女が走り去った方向を目で追って、小花は強ばった笑顔を引っ込めた。

 志鶴に友だち付き合いを断られる覚えもなければ、志鶴が語った理由に納得もできなかった。どうも最初から話が食い違っているらしく、わけがわからない。だいたい変なことを言っているのは、志鶴のほうであろう。何より──。

「アマノジャクってナニ?」

 どこから出てきたそんなこと。

 すっかり混乱し、考えあぐねたすえに、もしや新手の遊びなのではとさえ思い始めた小花の頭上に、その時影が差した。

 道路の西側に建つ高層マンションには、東から斜めに朝の日差しが降り注いでいる。小花のいる場所もその延長線上にあり、やや暑いぐらいの日溜まりになっていた。周囲に木陰はない。雲一つない青空は澄んでおり、日の光を遮る飛行機やヘリコプターも存在していない。

 にもかかわらず、不意に影は生まれた。大きい影だった。

 視界が翳ると同時に、正体不明の塊が迫ってくる感覚に囚われて、小花は上を見る。

 そこで、男と目が合った。

 痩せた初老の男である。頬骨が高く、目の下の隈が濃い。薄い白髪が、風圧でもずくのように乱れている。身につけているのは鶯色のブリーフ一つきりで、それも半分脱げかけて全裸に近かった。やはり風圧で大の字に広げた手足の皮がぶるぶると震え、青白い腹部が波打つ。その腹と、肋骨の浮き出た右胸には胡麻斑がある。

 小花がそれらを見たのは一瞬であった。

 時間にして一秒にも満たない。けれど、まるでストップモーションのように網膜に焼き付いた男は、次の瞬間には歩道のアスファルトで潰れていた。

 人間が砕ける音を、小花は初めて聞いた。

 堅いのに湿っている変な音だった。

「────」

 人は心底驚くと声も出ないものだ。

 いつだったか、テレビドラマで聞いた話を小花は思い出している。

 実際には、動かないのは声帯だけではないらしい。なぜか、手も足も感覚が麻痺したようになっていて、一向に力が入らなかった。かろうじて呼吸だけはできているが、視線が外せないのが厄介だ。二つの眼球が、男の凝視をやめてくれない。

 距離にして二メートルばかり。歩いて三歩もない位置に、空から降ってきた男はうつ伏せていた。地面に激突したわりに外傷は見られず、不思議なことに出血もしていない。ただ、左足が太腿の付け根から不自然な方向に折れ曲がっていた。

 普通に考えて、高層マンションのどこかから落ちてきたとみて間違いないだろう。

 自殺か事故かはわからないが、もし自殺だとしたら、もう少し服装を考えられなかったのだろうかと、小花は一つ瞬きをする。男の下着は落下の衝撃ですっかりずり落ちて、貧弱な尻が丸見えになっていた。あれでは後で身内が困りはしないか。動かない体とは裏腹に、妙に冷静な頭の中でそう思った。

 目の前で人間が死んでいるというのに、この際どうでもいいことに意識がいってしまうあたり、彼女の心もある意味で相当に衝撃を受けていたのかもしれない。

 一体どれだけの間、その場に立ち尽くしていただろう。

 数分か、それとも数秒か。

 長くて短い硬直の時間の後、傍らの道路を一台の車が通り過ぎた。その何気ないエンジン音を機に、小花は我に返った。

 耳の奥で消えていた生活音が聞こえ始め、手足に血が通い出す。ぎこちなく、倒れた男から距離を取るように一歩退いた彼女の隣を、鳥船学園の生徒が二人ほど連れだって歩き過ぎた。二人は、うつ伏せた男に驚くこともなく、わずかに一瞥して前を素通りした。

 当然、彼らもこの事態を知って血相を変えると思っていた小花は、予想が外れて再び動きを止めた。そのそばから、新たな通行人が墜落死体の脇を横切って行く。一人二人三人四人……誰もが、死体に気づいてはいるものの、なぜか無視をしていく。

「ちょ」

 ちょっと待て。

 いかにクールな現代人とはいえ、これはない。死んでいる人を見て、足も止めず騒ぎもせずに己の通勤・通学を優先させるなんて──普通はしない。

 だが、現実にそのあり得ないことは起こっていた。

 野次馬は集まるどころか、男に関心を払う者さえほとんどいない。その様子があまりにも自然に行われているので、もしかして目の前の男は単に路上で寝ているだけで、先ほど落下してきた光景は自分の白昼夢だったのかと、小花がいらぬ妄想を抱いたほどだった。

 やがて、彼女をさらに狼狽えさせる出来事が、目の前で起こった。

 今まで微動だにしていなかった墜落死体が、ぴくりと動いたのである。

「!」

 まず最初に右肩が上がり、続いて左肩に右足。アスファルトにへばりついていた生白い体が、そろそろ動いて上半身を起こしにかかる。両の掌で路面を押して頭を持ち上げた男が、起き上がるしなに、脱げた鶯色のブリーフを正しく履き直したのを見て、小花は呆れた。呆れるしかなかった。

 生きている。

 四つん這いから中腰を経て、斜め座りに落ち着いた男が「ふぅ」と息をついた。皺と隈の刻み込まれた顔は、額を少々すりむいている程度できれいなものだ。あの時確かに聞いた人間の体の潰れる音はなんだったのかと、小花は自分の記憶に文句を言いたくなった。

 だって男は生きているのだから。

「あーあ。やっちまった」

 お姉さん座りをしたまま、ブリーフ男がぼそりとつぶやいた。冷めた眼差しが折れた左足を検分するように行き来している。その彼の独り言に、

「大したことはあるまい」

 どこからか応じる声があった。

 視線を巡らせれば、男が落ちてきたマンションの入り口から誰かが出てくる。

「ちぎれたのならともかく」

 怪我人を前に悠然と言い放ったその人は、朝だと言うのに夜会用の礼服──いわゆるタキシードに身を包んでいた。若い男である。黒々とした長い髪が、歩く速度に合わせて緩くたなびいている。

 小花はかすかな金気臭さを覚えた。次いで、近づいてきた青年につられて目を上げた途端、ぞくりと背筋が粟立った。

 タキシードの青年は息を呑むほど美しかった。

 顔の左半分、主に左目付近は黒髪に覆われて見えなかったが、小花の側に晒された右半分はまるで彫像のように端正であった。血の気を感じさせない白皙の頬に高い鼻梁、秀でた額に切れ長の黒い目、酷薄な唇の形に至るまでもが異様に整っている。

 線の細い麗人ではない。

 十分に男性的な美人、とでも言うべきか。現に、

「それより、話す気になったかね」

 落ちてきた男を見下ろして言った声は、深みのあるバリトンだった。

「ひどいですよ旦那」

 自分より明らかに年下の人物を前に、ブリーフ一枚の男は媚びる表情を浮かべた。

「おらぁ、旦那と違って下から三番目のつまんねぇ野郎ですぜ? 再生だってへたっぴなんでさ。それを十四階から落とされたとあっちゃ、たまらねえ。打ち所が悪かったら、死んでますよ」

 打ち所が悪くなくても、普通は死ぬ。

 こうして生きているだけで、テレビで取り上げられるような奇跡だろうに、彼らは実にのんびりと会話を交わした。

「あれぐらいで死んでどうする。まぁ、必要なら後で医者を手配してやろう。私の知り合いに良いのがいる」

「それって、もしかして山手やまのての先生のことですかい? ベール婦人の夫の? だったら丁重にお断りしやす。申し訳ねえですが、あの先生に診られるぐらいなら、旦那にられたほうがいくらかましです」

「では、話してくれるかね?」

「だから話すも何も、おらっちは知らねぇですよ。旦那にシラぁ切る気はねえ。こっちだって情報屋しょうばいなんだ、ネタがあれば自分から売り込みに行ってますって」

 ブリーフ男が卑屈に笑うと、タキシード青年はおもむろに片足を上げた。

深泥みどろ

「へえ」

 返事を返した男のすでに折れている左足の膝頭に、黒い革靴が乗せられる。それはひどくスマートな仕草で、青年の靴の底から不気味な音が聞こえてもなお、傍観者の小花には咄嗟に何が行われたのか理解ができなかった。

 一拍遅れて、膝の皿を破壊された深泥の悲鳴が上がった。これにはさすがに、何人かの通行人が視線を投げたが、すぐにまた無関心に逸らされていく。

「だ、だだ旦那」

「私は面倒臭いのが嫌いだ」

「ひ、ひでぇ……これじゃ治るもんも治らねぇ」

「なんならか?」

 深泥の首がぶんぶんと大きく左右に動いた。奇妙なことに、膝を潰された瞬間こそ苦痛に歪んだ彼の顔には、もう以前と同じいやらしい笑みが復活している。傷は見るからに重そうにもかかわらず、あまり応えた様子がない。

「隠すな。お前からはあいつの臭いがする」

 深泥の膝から足を下ろして、青年が言った。

「これが最後の問いにするぞ。我が二十二番目の従僕はどこに逃げた?」

 ヤクザだ。

 ここにきてようやく、小花は悟った。

 何がどうなっているのかは知らないが、要は一般人が関わり合いになりたくない類の人たちなのに違いない。おそらくマンション内のどこかで二人は話していて、一人が地上に落下し、運良く助かったというのにまだ揉めているのだろう。

 一部の展開に疑問は残るが、取り敢えずあり得そうな想像で小花は自分を納得させる。そうと決まれば長居は禁物だった。

「だから居所は知らねって、何度言えばいいんすか! 臭いがついたって言うんなら、一週間前にちっとばかし声をかけた時でしょうよ。キーはここ一ヶ月ぐらい人間の小娘に夢中で学園に通ってましたからね、からかってやったんだ」

 深泥の声を聞きながら、小花はゆっくり後ずさりを開始する。

 ところが。

「学園?」

「へえ。ほれそこの」

 ひょいと、唐突に男の顔が向けられて、再び目が合ってしまった。

 狼狽する小花を、しかし深泥は平然と細い指で指し示した。

「お嬢ちゃんが着ている制服のガッコですよ」

 その言葉に、タキシードの青年が振り向く。この世のものとは思えない美貌と正面から向き合って、小花はどういうわけか動けなくなった。まずい。そう思いはするものの、すでに自分に近づいてくる青年から目が離せなくなっている。視界が次第に狭くなっていくかのような危険な高揚感の中、近くで自転車のブレーキ音が聞こえた。

 続いて、

「ハナ!」

 と右腕を強く掴まれた。

 途端、目の前が弾けるような軽い衝撃があって、小花は大きく瞬いた。

「え?」

 何度も瞬きを繰り返しながら、傍らを見上げて、そこに──自分と同じ高等部の制服を着た男子生徒がいるのを認める。どこか既視感があると思ったら、少し前に志鶴と争って歩いている脇を追い抜いて行った自転車の学生だった。

 サドルに跨ったまま地面に足をついた彼は、左手でハンドルを支え、右手で小花の腕を引いている。背が高い。小ぎれいに刈り込まれた短髪から、メタリックブルーのヘッドホンをかけた耳、ヒゲの生える気配もない顎までのすっきりしたラインを眺め、小花はふと眉を寄せた。

 さっきは気づかなかったが、見覚えがある。いや、知っている顔だった。

 最近では口をきくどころか、顔を合わせることさえほとんどなくなっている。けれど、断つに断てない腐れ縁とでも言うべきか、小・中・高校と同じ学校に在籍し、なぜか互いの生活圏から離れられない厄介な相手だ。奇しくも今朝方、幼少期における彼との思い出を夢に見たばかりの小花は、思わず嫌な顔をした。

「あんた……」

 そんな彼女を、男子学生は一瞬瞳を細めて見てから、ヘッドホンを首にずらした。

 跨っていた自転車から一旦降りて、小花に歩み寄る途中で足を止めていたタキシードの青年に向き直る。

「ごきげんよう、夜型よるがた男爵バロン。こんな時間までお勤めご苦労様です」

 言葉と共に深く頭を下げた彼に、それまで深泥を尋問するにも真顔を通していた青年の口元が綻んだ。

「これはご丁寧に。ごきげんよう、昼型ひるがたの少年。君たちの時間を騒がせて申し訳ない。私どものことはどうぞ気にせず、やり過ごされよ」

「はい。それでは失礼します」

 再び自転車に跨り、もと来た方角へ向きを変えた男子学生を、しかし「ああ」と男爵と呼ばれた青年が片手を上げて引き留める。

「きみ名前は?」

館上たてがみ太一郎たいちろうです。こっちは、友人の米神小花。じゃ、僕らは学校があるので……ハナ、乗って」

 勝手に紹介された上に勝手に荷台へ乗るよう促されて、小花は当然面食らう。

「な、なんであんたが」

 抗議しようとする彼女の腕を、太一郎は強引に引いて自転車の後部へと誘導した。不満げにするのを、有無を言わせず座らせる。そうして、彼女がしぶしぶ従ったのを見届けてから、一気にペダルを踏み込んだ。

「うお?!」

 自転車が急発進し、乙女らしからぬ声を上げてのけぞった小花は、慌てて太一郎の腰にしがみついた。マンション前の道は、緩やかな下り坂になっている。おかげで猛然と走り出した自転車は、さらに加速して十字路へと突っ込んで行った。

 転倒ぎりぎりの速度で左折する際、小花は何気なく後ろを振り向いた。

 だいぶ遠くなったマンション前には、ブリーフ一丁で相変わらずお姉さん座りをしている深泥と、タキシードの黒い人影がある。小花の視線に気づいたのか、男爵が軽く笑んだ。そんな気がした。

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