はないちもんめ

夏野梢

序章


     1


 それは二月のある夜のことだった。

「あ、いて」

 不意に頭が割れるように痛んで、少年は目を覚ました。

 本当はすぐにでも起き上がって頭痛の原因を突き止めたかったのだが、それは物理的に不可能だった。左の側頭部に凄まじい圧力がかかっている。おかげで顔面が半分以上枕にめり込んで、息苦しいことこの上なかった。

 誰かに頭を踏まれているのだ。

 そう彼が鈍った思考で答えを探り当てた時、

「いてててて、て」

 圧迫感が遠のいて、頭を踏んづけた何者かが枕元に座り込んだ。

 薄暗いのでよくわからないが、黒ずくめの、やけに丸々とした男であった。履いていた黒い長靴を脱いで、左足の土踏まずを懸命に撫でている。ちなみに少年はまだ一言も言葉を発していない。無論、枕元の男も知り合いではなかった。

 ほんのわずか首を動かして確保した視界には、見慣れた薄暗い六畳間が広がっている。築二十年になる狭いアパートの、居間兼寝室である。押し入れ側に寝ている少年からやや離れた位置には、並んで床をのべた両親の姿があった。侵入者の気配にも起きる様子のない二人に、彼はやや呆れる。

 のんきだ。だからうちは貧乏なんだと、ぼんやり埒もない心配をした。

 そうこうするうちに、ひとしきり足をさすった男が、

「きみ、頭の鉢が堅いなぁ」

 と言って、少年を振り向いた。

 少年は答えなかった。いや、答えられなかった。

 理由は二つある。あまりに普通に話しかけられて驚いたのが一つと、近づいた男の顔に衝撃を受けたのが一つだ。とくに後者の影響は大きかった。

 年の頃は四十代後半から五十代前半。黒い山高帽を被り、黒いインバネスに身を包んだ中年男の顔は、やはり黒かった。頭髪ともみあげと頬ヒゲと口ヒゲと顎ヒゲが一つに繋がって、地顔を埋めている。十歳足らずの子供が真夜中に見ていい顔ではない。

 少年は思わず悲鳴を上げた。

 そのつもりだった。

 けれど、声は喉から外へは出ていかず、重い体は彼の意に反して小さく顎を引くだけに止まった。動けなかったのだ。

 鉛でも流したように全身が深く布団に沈んで、手足の自由がきかない。先ほどから肩口が夜気に触れて寒いのに、毛布を引き上げることさえできなかった。どこか頭が朦朧としている。空気が薄い。

「参った参った。まただよ。いかんなぁ」

 そんな少年の傍らで、太ったヒゲ男は再び黒い長靴を履いた。他人の家の、しかも室内だというのに土足で立ち上がり、「痛い」の次は「いかんいかん」を繰り返しながら、乱れた服装を整えていく。不思議なことに、どろりとした意識の中でこのヒゲ男の声だけは明瞭に少年の耳に届いていた。

 どこから取り出したのか、はち切れんばかりに膨れた黒いボストンバックを右手に提げて、ヒゲ男は改めて少年を眺め下ろした。

「きみも起きちゃったしね。寝ててくれて良かったのだぞ」

 お前が踏んづけるからだ。

 目を覚ましたことが迷惑だったかのように言われ、少年はむっとした。謝罪どころか悪びれもしないこの男は、やはり泥棒に違いないと心の中で思う。ところが。

「そりゃ誤解だ」

 思っただけで口に出していないにもかかわらず、答えは瞬時に返ってきた。

「違う違う。わしはここへ来たくて来たわけじゃない。出てしまっただけだ。不可抗力だよ不可抗力。泥棒ではありませんぞ」

 力いっぱい否定するヒゲ男のだみ声が、部屋中に響き渡る。

「だいたい、んだのはきみの家のほうではないかね? わしの体は死の匂いに敏感なのだよ。跳ぶと引き寄せられてしまう体質なのだ。仕事の時はともかく、今は休暇中なわけであるからして……きみ、わしが言ってることがわかるかね?」

 わからない。

 少年はわずかに眉を寄せた。

 今度も実際に喋ったわけではないのに、またもや相手には通じたらしい。

「子供に説明するのは難しいな。獄卒ごくそつは知ってるかね? 知らない? うむ」

 少年の反応に、ヒゲ男は太い眉をハの字に下げて思案した。ややあって、思いきったように左手の人差し指をぴっと一本立てたかと思うと、少年の鼻先を不躾に指さした。

「簡単に言うとな──きみ、もうすぐ死ぬのだよ」

「…………」

「体が動かないだろう? これだけガスが充満していれば無理もない。死因はたぶん、一酸化炭素中毒になるんじゃないかね」

「…………」

「ああ、事故ではないぞ。覚悟の自殺というやつだ。ほら、きみのご両親も薬を大量に飲んでおられる。起きないはずだ」

 ヒゲ男の太い指が、少年の顔から移動して両親の枕元にある座卓を示した。数時間前、家族三人で夕食の水炊きを囲んだ卓上には、確かに両親の茶色い湯飲みと、中身が空になった薬瓶が三本並んでいた。湯飲みの脇には、まだ白い錠剤がいくつか転がっている。うちの一錠を、ヒゲ男がつまんでぽいと口の中に入れた。

「睡眠剤だな」

 少年は無言だった。

 そもそも最初から男と会話していたつもりはない。

 頭の中が真っ白になっている。言われたことが理解できないのだ。

 なのに。

 ヒゲ男にもうじき自分が死ぬと教えられた途端、鼻は気分が悪くなるようなガス臭さを覚え、耳はどこからともなく漏れてくるシューシューという不吉な音を拾っていた。

 嘘だ、と思う。

 けれど、どうやら少年の心が読めるらしいヒゲ男に、

「嘘は言っておらんよ。わしは嘘がつけない体だ」

 とにべもなく返され、ますます頭が混乱した。

「わしも邪魔をする気はなかったのだ。心中するならするで、してもらって一向に構わんかった。きみが目覚めなければ、今頃はとっくにその出口から失礼しているところだ」

 その──と、またヒゲ男の太い指が動いて、少年の背後を指さした。

 指の先にあるのはただの押し入れであった。

 断じて玄関などではない。

 納得いかない少年をよそに、ヒゲ男は平然と話を続ける。

「でも、きみは起きてしまった。そして、わしを見てしまった。これは由々しきことだ。ピンチだ。わしにとっては大変に困ることだ」

 そのわりに、のほほんと顎ヒゲをしごく姿はさして困っている風には見えない。

「きみがここで死ぬと、おそらく獄卒どもがわしの情報を訊きにやってくる。きみは喋る。喋らされる。すると追っ手が増える。それが迷惑だ。従ってきみには、できればわしのことは黙っていてもらいたいのだよ。秘密にしておいてほしい。わかるかね?」

 矢継ぎ早にそんなことを言われても、困るのはむしろ少年のほうだ。

 思考回路が停止した彼の沈黙をどう受け取ったのか、ヒゲ男は再び人差し指を立てた。

「もちろん、ただでとは言わんさ。取引といこうじゃないか取引と」

「…………」

「もし、今夜わしに会ったことを誰にも言わないと約束してくれるなら、きみをこの場から連れ出してあげよう。そうすれば、きみも死ななくて済むし、獄卒どもも近寄って来られなくなる。まあ契約の際にはそれなりの担保を決めさせてもらうが、悪い話ではないだろう。どうだね?」

 だから、どうかと訊かれても困るのである。

 少年は口を開こうとした。しかし唇は動かない。吐き気がする。

「きみも死にたいのかね?」

 ヒゲ男の淡々とした声が響く。

 その時ふと、少年の脳裏に今日遊んだ幼なじみの顔が浮かんだ。

 どうしてだか、目と鼻の先の位置で昏睡している両親を思うよりも先に、いつも通りに明日も遊ぶ約束をして家の前で別れた少女を思い出した。

 このまま自分が死ねば、きっと約束を破ることになるだろう。短気な彼女のことだからまた怒るに違いない。それとも泣くだろうか。

 嫌だった。彼女に泣かれるのは嫌だと思った。

 ──死にたくない。

 深くは考えず、どちらかと言うと自分でもよくわからない理由で答えた少年の声なき声に、ヒゲ男がにんまり笑う。

「了解した」

 嬉しげな言葉に遅れて、膨れたボストンバッグが重い音をたてて開いた。



     2


 それは六月のある夜のことだった。

 八ツ目やつめ市は天獏てんばく五丁目に建つ米神鱒司こめかみますじ宅の二階に、一匹の天邪鬼が侵入した。

 名をキーという。

 その日は梅雨の中休みの蒸し暑い夜だったため、米神家の住人は窓を細く開けたまま寝入っていた。その隙を突いて彼は侵入した。目的地は二階の右端、高校二年生になる長女の部屋だ。そっと扉を開けたキーの体が、音もなく中に滑り込んだ。

 薄闇に包まれた室内は雑然としていた。

 入ってすぐの床に、白地に橙色でアラベスクの描かれた大きめのラグが敷いてある。ラグの上には、下着やジーンズ、学校の制服等が適当に置いてある……というより落としてあった。衣類を避けて進んだ先には、鞄と教科書と漫画類の物置と化した古い学習デスク。隣に置かれたガラステーブルの上は片付いていたが、掛けられたレース編みの中心には飲み物をこぼした跡があり、丸い茶色の染みが必要以上に自己主張をしていた。

 このレース編みが、以前はとても大事にされていた敷物であることを、キーはよく知っている。ゆえに、一週間の監視でこうも変わり果てことに、思わず溜め息が漏れた。

 猫背の背をさらに丸めて彼が近づいたベッドには、その染みを作った張本人が横たわっていた。

 襟ぐりの緩くなったインナーウェアに、中学時代のジャージのズボンを履き、夏掛け布団を腹に巻きつけて、仰向けに眠っている。なぜか両腕を上げた万歳ポーズで、口を半開きにしたまま時折イビキをかく様は、少なくとも、十七歳の年頃の娘がしていい格好ではない。洗ってよく乾かさずに寝たのか、マッシュルームボブの髪が爆発していた。

 すぐにでも回れ右をして帰りたい気持ちを抑え、キーは彼女の上に身を屈めた。

 わざわざ掻き分けずとも、前髪が乱れて露わになった額に右の掌を乗せる。天邪鬼特有のいびつに伸びた爪を軽く立てると、それだけで皮膚がぷつりと裂けて、赤く小さな血の玉を作った。

 途端、室内を漂っていたイビキがやむ。

 だが、彼女からそれ以上の反応はなく、キーは半ば呆れながら息を殺して、さらに身を屈めた。娘の額に顔を寄せ、皮膚から盛り上がった赤い雫を舌先で舐め取る。

 そうして出来た、針の穴にも似た傷口から、毒を吹き込むように次の言葉を囁いた。

「目を醒ませ」

 彼の声は、寂寞と苛立ちと、わずかな思慕に揺れていた。

「己を見ろ。周りを見ろ。さあ気づけ。気づいてしまえ、こ・の・鈍・感・女」

 多分に私情の入った彼の台詞は、しかし皮膚の穴を通して確実に彼女の身の内に染み渡った。それは呪いであり、また祓いでもある力だった。

 キーは娘の額に口づける。

 そうして、侵入した時と同じように、音もなく米神家を辞していった。

 長女の部屋で、束の間やんでいたイビキが再開されたのは、天邪鬼の気配が消えてからしばらく経った後のことであった。

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