学生ゴミ

早瀬 コウ

学生ゴミ

 リリリリリ!リリリリリ!


 やかましい!


 ただそれだけの感覚が、奇妙な夢の終幕に据えられた。どうやら目が覚めたらしい。見れば、ほとんど意識することなく伸ばした手の先で、目覚まし時計が組み伏せられている。


 7時。


 眠り足りない気分に時計を疑う。しかし目覚まし時計に替わって、近所の音が覚醒を促す。鳥の声、バイクの音、人の声。まぎれもない朝の音が、部屋の周りを包んでいた。


 布団を撥ね除け、声を出して勢いをつける。見もしないテレビをつけると、歯切れの良いアナウンサーの声がニュースを読み始めた。


 床の上に散らばった本をまたいでトイレへ向かう。一晩分の小便を便座に向かって解き放つ。便器の水を弾く音が自身の健康を物語る。次に洗面台で顔を洗って歯を磨く。洗面台へ吐き捨てた水が弾けて頬に当たった。改めて顔を拭き、ドライヤーを吹かす。セットする訳でもないが、少しだけ梳る。


 よし。


 ワンルームの狭い部屋に戻る。大学でもらった資料や買ったまま積まれた本が散乱していた。本棚を買う必要があることは前からわかっていたが、なかなか腰をあげることができずにいた。


 備え付けのクローゼットから適当にシャツとジーンズを取り出す。ここにも着なくなった衣服が適当に積まれていた。捨てる必要は把握していたが、これも腰を上げることができずにいた。


 バッグの中身を確認する。筆記具にノート、参考書、読んでいる途中の文庫本、携帯電話、鍵、財布、定期券。これで大丈夫だろう。朝食は大学の付近で摂ろう。


 依然小気味よい声を発するテレビを消す。各照明の消灯を確認し、玄関へ向かう。靴を履き振り返ると、部屋は主人の退場を完全な沈黙とともに見送っていた。


 部屋を出たところで、スーツを着た男が通りかかった。軽く会釈をして通り過ぎようとすると、男はどこか別の方に発されたような声をあげた。この場に我々しかいない状況でなければ、その声が僕に向けられたものだとは思わなかっただろう。実際、声は耳に入りこそすれ、男が何と言ったのかよくわからなかった。


「何か?」


 僕が応じると、男は恍けた顔でこちらを見た。聞き違いだったのかもしれない。


「すみません、何か声が聞こえた気がしたものですから」


 そう断って去ろうとすると、男はまた奇妙な声をあげてこちらの気を引いた。


「やっぱり何か用ですか?」


 再度振り向くと、男は鞄を漁っていた。


「何か行政の方ですか? そうでしたらまず身分証を……」


 こちらがそこまで言ったところで、男はバインダーに挟まった書類を探り当て、こちらに示す。


 書類の上には名刺が添えられていた。




東京都環境局 廃棄物対策部

一般廃棄物対策課 人材環境保全係


    係 長  T ・ T




「つまりゴミ関係ですか?」


 名刺を見る限り、家庭ゴミ関係の調査か何かをやっていると推測できた。


「簡単な手続きが必要でして、書類に目を通してサインを頂けますか?」


 ようやくTの言葉を聞き取ることができた。何の説明もなしに、早朝から書類に目を通してサインをくれというのは、行政仕事にしてもあまりに投げやりだった。


「急いでいるので、そこの郵便受けに挟んでおいてください。今度記入して、郵送しておきますよ」


 そう言って、ろくに書類も見ずにバインダーを押し返した。


「あいにく郵送は受け付けておりませんので。ここ数日、日中に伺ってもいらっしゃらなかったから、こうして朝に伺ったんです。期日の関係もありますので、直ちにサインをお願いします」


 Tはそういって、僕の押し返した書類を受け取らなかった。こうなれば手早く済ませよう。書類は二頁だけのようだった。フォントサイズもそう小さくない。これなら軽く目を通すのに五分とかからないだろう。


 添えられたペンを手に取り、文字を追い始める。



________________________

趣意書1−1

20XX/XX/XX

人材環境保全を目的とした人材ゴミの回収について(趣意書)

東京都環境局廃棄物対策部


このたび東京都環境局は、兼ねてより問題視されていた労働力の不法投棄への対策を講じることとなりました。この趣意書は、今後行われる不法に投棄された労働力の回収について告知するものです。都民の皆様におかれましては、ご一読の上、すすんでご協力のほどよろしくお願い申し上げます。


目的

人材環境の保全、及びそれを通じたエコで市場にやさしい都民生活の形成。


事業内容

東京都によって指定された、以下に示す各種廃棄物の回収。

(1)放置労働力【甲種】

 以前就労した過去があり、病気や怪我などやむを得ない事情がないにも関わらず、就労状態でなくなった労働力のうち、別紙2−3−1に示した手順による概算潜在労働力指数が5以下のもの。


(2)放置労働力【乙種】

 基礎就学年齢(23歳)を超えており、現在就学しておらず、また就労していない労働力のうち、別紙2−3−1に示した手順による概算潜在労働力指数が5以下のもの。


(3)潜在放置労働力【丙種】

 基礎就学年齢(23歳)未満で、現在就学中の労働力のうち、別紙2−3−2に示した概算予測労働力指数が2以下のもの。


実施日程  20XX年X月第二月曜日の回収日以降


回収に伴う回収対象の同意について

回収に際しては、原則として別紙2−2に定めた各種同意書へのサインが必要である。ただし、対象が正確な住所を持たない場合にはこの限りではない。

________________________



________________________

別紙3−3


回収同意書(丙種)



あなたの労働力としての素質を、労働力市場の現況に照らした結果、人材環境保全条例第4項に従い、あなたは人材廃棄物に指定されました。本同意書はあなたを人材廃棄物として回収し適切な処遇の下に置く、一連の行政執行に関する事前の同意を求めるものです(別紙趣意書を参考のこと)。下記の宣言をご確認の上、同意いただけましたらご署名をいただくよう、よろしくお願い申し上げます。



 記


一. わたしは、別紙趣意書を確認したうえで、行政による回収を承認します。

一. わたしは、わたし自身の概算予測労働力指数の説明を受けました。

一. わたしは、わたしの概算予測労働力指数を受け入れます。

一. わたしは、労働力の主体的行使のための諸権利を放棄します。

一. わたしは、人材廃棄物としての回収に同意します。



以上


わたしは、上記の各項目すべてに同意のうえ、回収を希望いたします。



20  年  月  日


氏名            


________________________



「嫌ですよ。こんな、めちゃくちゃな」


 一通り書類に目を通して、僕はやっとのことで声をあげた。こんな奇妙な制度が存在するなんて、全くあり得ない話だ。


「だいたい近年は少子化で、そのうち労働力は欠乏し始めるんです。それをどうしてこんな廃棄物扱いするんですか」


 自分で言っておきながら、何か的を外したことを言っているような気がした。


「そういわれましても、こちらとしましては制度を遂行することはできても、変更することはできませんからね。そういったご意見は、議員の方にして頂かないと」


 この手の反抗には慣れっこなのか、Tは一切の動揺を見せることなく平然と応答した。


「それに僕はまだ、この概算予測労働力指数とかいうものについて説明を受けていませんよ。これじゃぁサインなんてできる訳が無いじゃありませんか」


 これを言ってから、まるで自分が制度そのものを承認してしまっているように聞こえることに気づいた。相手が応じようとする前に、慌てて続きを言い足した。


「いや、そもそも説明なんて必要ありません。僕は制度それ自体を承服しかねます。ですから、この同意書にはサインすることができません」


 どうやらTは、僕の労働力についての計算結果が書かれた資料を取り出したようだった。それは鞄の中で酷く折り目がつけられていた。


「そういわれましても、はいそうですかと引き下がる訳にも参りません。大抵の方は労働力指数については自覚がおありだから説明は省略するのですが、仕方ありません。とりあえず説明をお聞きください」


 そういって、Tはひどく折れ曲がった資料を僕の持ったバインダーの上に載せた。資料の右下隅には作業着を着た人間と白衣を着た人間が描かれていて、笑顔で僕の労働力指数とかいうもの、赤く印字された1.2という数字を強調していた。


「何を見せられても、同意しませんよ」


 僕は断固とした態度をとる。あまりに動じないTに、調子が狂わされているのが自分でもわかった。


「そういう調子の方は、一般に労働力指数が下がるんですよ。社会的反抗性スコアとも呼ばれている項目がありまして……正確には協調性評価点ですね。高いほど協調性があるということになります。10点が最高なのですが、あなたの場合はこちらになりますね」


 胸元からペンを取り出したTは、資料の上部に書かれた0.3という数値を示した。


「協調性がこれだけ低いと、せっかく真っ当な知能指数をお持ちでも、最終スコアは伸びません。あ、こちらがあなたの知能指数ですね」


 ペンが示したところには、112と書かれていた。


「失礼だと思わないんですか」


 僕は説明を遮って不平を言った。Tは資料から顔を上げてこちらを少し見やってから、説明を続けた。


「今の行動を考えれば、このスコアも納得ですね。こちらに集中力のスコアと、ええと……こちらですね、行動反応性のスコアがあります。集中力については協調性と同じ評価基準ですが、行動反応性は少し違うんです。これは低すぎたり高すぎたりすると、最終スコアが下がります。つまり低すぎると何を言っても呆けていて、高すぎると何を言っても十倍返しで言い返すというわけです。あなたの場合、高すぎるようですね」


 資料の上部をよく見ると、数値が赤く書かれたものは適正外スコアだと断られていた。不愉快なことに、知能指数以外のすべての数字が赤く印字されていた。


「もういいです。別に説明を受けたところで回収には同意しませんから。お引き取りください」


 そう言って、再びバインダーをTの方に差し出した。


「ちなみにその行動でしたら、おそらくは決定力と遂行力に現れていると思います。つまりもう少しこれが高ければ、あなたの意思表示はもう少し断固としたものになっていたはずです。たとえばそのファイルをわたしに思い切り押し付けて、自分は立ち去るといった具合になっていたでしょう」


「そんなことはどうだっていいじゃないですか。むしろ穏便に済ませている僕の方が社会的に適性じゃありませんか? ああいいです。もう説明は十分です。今日のところはお引き取りくださいと言っているじゃありませんか」


 差し出したバインダーが受け取られなかったために、僕はそれを持った左手のやり場に困った。引き下がりたくもないが、出しっ放しも不格好だった。やむなく受け取ってくれという意思を再度示すために、小さく左手を弾ませた。


「困りましたね。あなた自身が不法に労働力を投棄しているという事実については、どのようにお考えなのですか。あなたは環境に対する負荷をどのように補填するとお考えなのでしょうか」


 その語気はこれまでとは明らかに異なり、威圧的だった。急に態度を変えたTに、僕は驚きを隠せなかった。


「えっ、いや……すみません。僕は自分がそういうことをしているとは考えていませんから、それで……」


 語尾がしどろもどろになったところで、相手のペースに飲まれてしまっていることに気がついた。しかしもう遅かった。Tはこうした交渉を相当数こなしてきた腕利きの役人のようだった。


「我々としては、それでもあなたを尊重して、こうやって同意を求めているんです。実際には、同意を頂けない場合には行政代執行の手段を採らざるを得ません。そういう強硬手段が採用されるほど、労働力の不法な投棄は我々の生活を脅かすものなのです」


 Tは一方的に、また高圧的にの生活を武器にして行政の権力を振りかざしていた。気づけば僕はその演説の中で、いつの間にか行政と市民生活の敵……にされていた。


「内情を言えば、こんな同意書は野党の不必要な策謀で添えられた物に過ぎません。あなたの権利が全面的に保護されると思っているなら、その考えは改めて頂きたい。実際この制度では二回目の交渉は行われず、ただ行政代執行があるのみと定められています。つまりあなたは同意の上で回収されるか、反抗因子として回収されるかの二つの選択肢しか残されていないのです」


 大声で説き伏せているにもかかわらず、周囲の歩行者達は僕らを全く無視していた。それどころか、部屋のなかで聞こえていたあらゆる街の音は、僕から遠ざかってしまっているように感じた。


「そんなことは認められません。なんなら、弁護士を呼んで頂けませんか」


 僕はなんとか声を上げて、世界の沈黙に抵抗した。Tは攻撃的な目でこちらを見つめた後、毅然と言い放った。


「ご自覚が無いようだから申し上げますが、あなたはいわゆるとして廃棄されようとしているのです。つまり行政上の身分としては、あなたは個人というよりゴミに近いのです。厳密には、先にお見せした資料の丙種放置労働力という身分しかありません。これまであなたが享受してきた人間としての特権のすべては、いまや手が届かないということです」


 Tの目は冗談を言っているようではなかった。しばしの沈黙が僕らの間に流れたところで、僕は自分の中の恐怖心を押さえつけて、なんとか悲鳴を絞り出した。


「そんな強権が行政に与えられてたまるか!」


 口を開くことに成功すると、僕は恐怖心を制するために、不必要なまでの大声で次から次に言葉を発していた。


「僕は真っ当な人間だ! 法的な保護を求める権利がある! これは……これじゃあ憲法にも抵触する不当な行為じゃないか! 僕は……僕は! 断固として拒否する!」


 僕の怒声はあたりを一瞬騒がせたが、すぐに沈黙が訪れた。Tは僕が唾を飛ばしながら怒声を発しても、表情すら変えなかった。


 それどころか今度は何の応答も示すことなく、ただ曖昧に開かれた無気力で湿った視線を僕に向けていた。それはまるで、子供を諭そうとあえて口を開かない教師のような態度だった。


 僕は自分の中で不安が膨れ上がるのをはっきりと感じた。


 Tを睨みつける目に涙が浮かんでいるような気がした。傲然とした正しさを振りかざす相手に、僕は屈しかけていた。権威に盲従する染み付いた処世術が僕の抵抗を困難にした。それこそがTの沈黙の目的であることは理解こそできたが、それでもなお抗うのに相当な心労を伴った。


 Tは突然瞼を小さく動かし、何かに気づいたように胸ポケットに手をあてがうと、携帯電話を取り出した。「失礼」とだけ断ると、後ろを向いて左耳に携帯電話をあてがった。


 僕は大きく息を吐き、収縮しきってしまっていた全身の筋肉を弛緩させ、自分の胸を軽く叩いた。とにかく次善の策、今のこの場を逃れる術を考えるべき時だった。


 そして答えは明らかだった。


 電話が終わるまでに逃げ出してしまえば、少なくとも今日のところは逃げることができる。僕はそう考えるが早いか、なりふり構わず走り出した。


 この際家具や荷物は諦めて、今日のうちに転居して姿をくらませさえすれば、こういうふざけた制度に脅かされることもないはずだ。僕に制度のことを知らせたのが行政の最大の失敗だったのだ。


 たしかだったと記憶しているからには、都外に住所を置けばこの強権は及ばないに違いない。


 しかしまずは今のことを考えるべきだ。すぐに駅に向かって電車に乗っても大丈夫だろうか。今日の授業への出席は諦めても、単位に影響はないだろう。誰に連絡をとるのが最適だろうか。


 そうやって様々な考えが頭の中に押し寄せた。こんなにいろいろなことをいっぺんに考えるのは、アドレナリンが凄まじい量分泌されているからに違いない。そんなことまで、僕の頭を駆け巡っていた。


 二つ目の角を曲がったところで、僕は少し後ろの様子を伺った。Tは追って来てはいない。さしあたってはこの周囲の住宅街を縫うように歩いて、通学とは別の路線の駅に向かい、都心と反対方向に逃れることにしよう。もうひと走りで自由になれる。僕は運動し慣れない鈍った身体を奮い立たせた。


 狭い交差点に入ろうというところで、左の方から青いトラックがぬっと現れ、道を塞いでしまった。あまりに狙ったようなタイミングだった。そのままゆっくりと前進したトラックの荷台部分には、よく見知ったゴミ収集装置が備え付けられ、作業着の青年が一人片足で立った身体を左手で支えていた。


 僕の全身から血の気が引くのをはっきりと感じた。


 ようやく足を踏ん張って反対側に身体を翻すと、作業着の男を伴ったTが無表情に立っていた。


 とたんに膝が言うことを聞かなくなり、僕はその場に崩れ落ちた。最後の気力を振り絞った僕は、言葉にならない悲鳴をあげた。その音にこちらを振り返った老婆は、無関心な視線をすぐにはなして、Tと作業員に「おつかれさまです」と言って頭を下げた。


 作業着の男たちが僕を不格好に持ち上げ、収集車に放り込んだ。そのときに鳴ったガサッという曖昧な音は、収集車の轟音にかき消されて誰の耳にも届かなかった。

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学生ゴミ 早瀬 コウ @Kou_Hayase

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