第14話 鳴瀬巴美の回想(その2)

 手の届く距離にいて、僕に話しかけてくれる彼女、音町紫弦は僕を僕じゃなくさせた。

 以前まで想像の中にしかいなかった彼女は、僕に安定をもたらしてくれていたはずなのに、実際の彼女は、僕をせっせと未知なる領域へと駆り立てる。

 彼女の前でギターを弾くなんて考えられなかったのにやってみせた僕は、Dead Heatsへと加入した。

 あの時、僕の本当の人生が動き出した。

 行き着く先は、希望か絶望か。そのどちらか一方しか選べない。

 でも、本気で生きるってそういうものでしょ?



 まず、僕の錆ついていた感情の揺れ幅は、自分でも驚くほどに、大きく行ったり来たりを繰り返した。

 音町さんに僕のギターを認められた時は、うれしさのあまり興奮したし、猪原さんが「勝手にしろ」と言い残し、部屋を出ていった時は、彼に邪険にされていると感じて、不安のあまり心細くなって悲しくなった。

 けれど、音町さんが猪原さんの性格を話し、僕の気持ちを、彼の言動から引き剥がして勇気づけてくれた時は、それでまたうれしくなった。

 躁鬱ではない、この喜びと悲しみの連続はとても大切なものなのだと、僕は思いだした。

 

 慣れない苦労もあった。

 バンドの練習が大変だったのだ。

 弾けるといっても、加入したばっかりの僕は、三人の息に合わせられないことが多々あって、僕は自分のせいで演奏が止まる度、歯がゆくて、苦しくて、うつむいてしまうこともあった。

 けれど、音町さんの前で悲観的になっている暇はなかった。

 だから、僕は顔を上げるため、何度も思い返した。

 なぜ、僕は今、ギターを弾いているのかと。

 最初は音町さんに、ただ近付きたかったからだ。でも今は、彼女のバンドの一員に相応しい僕になりたい。その一心でやっている。

 僕はこうして思い返しては、悲しみを乗り越え、恍惚となり、喜びを得て、前を向いた。


 おもしろいことや嫌なこともあった。

 勉強会は怖くて楽しかった。

 何が怖かったかというと、猪原さんが天井裏に、あるDVDを隠していたことである。そのDVDは特殊な性癖のもので、僕は違和感を覚えた。タイトルには「男の娘」というキーワードがあり、広義でみれば、僕もそれに含まれてしまうのだが、彼は僕を生理的に嫌っているはずなのに、そんなDVDを持っていた。生理的に嫌われているというのは、あながち僕の誇大妄想という訳ではなく、僕みたいな人間となると、相手が自分を受け入れているか、そうでないかは一目瞭然なのだ。もちろん、彼は第一印象からして後者なのである。

 猪原さんがどういう人間なのか、僕はさらに分からなくなり、居心地の悪さを感じて嫌になった。

 楽しかったことは、もちろん音町さんと一緒に料理をしたことだ。

 料理中、僕と彼女は触れるか触れないかの距離になることが多かった。僕はドキドキが止まらなかった。彼女が僕の料理の手際を見て、「やるな~巴美。あんた立派な主婦になれるよ。いや、主夫だな。ハハハ!」と言ってくれた時は、内容はともかく、褒められたことには変わりなかったので、僕はうれしくなった。

 そして、張り切って作った料理を僕が盛り付けていた時、音町さんは後ろから僕の肩の上に顔を出し、ひょいっと料理をつまみ食いした。彼女の美しいシャープな顎が動く度、それに見惚れていると、彼女はそのまま間近で僕の顔を見て、笑顔で「うまい!」と言った。そんな彼女の笑顔を、背中に当たる彼女の肉感を、頬にかかる息とぬくもりを、可憐な顔の仔細な造形を、僕は一生忘れないであろう。

 自分の望む以上のものが与えられることなど今までなかった僕に、音町さんは「希望」を与えてくれた。叶わぬと思って、せき止めていた「希望」は、今では溢れ出し、欲望となって僕を生へと貪欲に駆り立てる。次々に生まれ出る夢想が、現実になっていくのだから無理もないだろう。

 

 僕の邪魔する奴もいた。

 勉強会を終えて中間テストまで、あと少しの日数を残すのみとなった、平日の学校の昼休み。猪原さんが2年生の教室がある階へとやってきた。

 猪原さんは、音町さんの次に校内では知名度が高く、彼女が男女分け隔てなく、全学年のほとんどの生徒達から人気者なのに対して、彼は女子生徒達からの人気が圧倒的に高かった。モテモテというやつである。

 なので、彼が僕のいる、2年生の教室へと続く廊下を歩いてきたとき、彼の来訪に気付いた僕の同学年の女子たちは、色めきたったはずである。

 姿を拝見出来ただけでうれしいといった者たちがいれば、下級生の教室に来るということは、もしや交際している人でもいるのだろうかと勘繰り、相手は誰なのか邪推する者たちもいただろう。

 まるでアイドルなのである。

 皆、彼に注目していたのだろうが、その場にいた誰も、彼の目的を当てることは出来なかったであろう。なぜなら、彼が会いに来たのは僕であったのだから。

 彼は、僕のいる教室へと入ってきたかと思うと、一直線に僕の机の前までやって来たのだ。昼食を終えた後だった僕は、いつものように一人であったので、この時はテスト勉強をしていた。彼が僕の元へ行ったと分かるまで、教室にいた誰も、僕の存在など意識の外であり、僕も周りの喧騒をシャットアウトしていた。

 だから、気付くと僕は、教室中の皆の視線を集めてしまっていた。

「よう、鳴瀬君。ちょっと、話せるか、今」

 驚く僕の顔を前にして、猪原さんは爽やかな笑みでそういうと、右手の親指を立てて、教室の外に出るようジェスチャーをする。人気者の先輩を相手に、気の弱い僕は従うしかなかった。「はい」と返事をして立ちあがった僕は、歩きだす彼に付いていく。ポカンとする周りの者たちを見れば、いかに僕と彼の組み合わせがアンバランスなのかが過剰なほど伝わってくる。その後も、すれ違う生徒達から奇異の視線を浴びるので、僕の脳裏には、僕が犬で、彼が飼い主であるというみじめな想像が浮かび上がった。同じ人間でもこんなに違うものなのかと、僕は改めて、自分の学校での立ち位置を思い知らされる。

 だが、奇妙な組み合わせである僕達への関心も、一時的なものであった。わざわざ僕達の後を付いてくるような者はいなかった。

 周りの喧騒が薄れ始めるにつれ、僕は肥大していった劣等感がしぼうんでいくのを感じた。その代わり、緊張で心臓が早鐘を打ちだす。

 なぜ一対一で彼に呼び出されたのか、分からなかった。

 人気のない、じめじめとした階段の踊り場までやって来たころに、猪原さんはようやく足を止めた。そして、後ろにいる僕へと顔を向ける。

 教室を出てから改めて見るその顔は、恐ろしいほどに色彩をなくしていた。

 僕を見ているはずの彼の目は、人形に埋め込まれたガラス製の目玉みたいに、冷やかで見る者のあらゆる熱を吸いこんでいく。彼のこんな表情、皆がいるところでは、決して見られないだろう。そう思い、僕は確信する。

 彼は、僕を決定的に排除するつもりなのだと。

 そして、もう十分すぎるほどに、それは伝わった。

 けれど、彼はそれでも言葉で悪意を形にする。

「多分俺が言いたいことは、お前に伝わっているんだろうな。それを承知で言うが、俺達三人のDead Heatsが、次の最後のライブを終えた時、お前は俺達の前から消えろ。別にこれは、俺だけのエゴじゃない。紫弦の為でもあるし、海原の為でもあるし、お前の為でもあるんだよ。理由なんて分からなくていい。仮に俺がそれを説明したところで、盲目的になっているお前には、何も響かないだろう。理解できないだろう。

いいか、何も望むな。

俺たちに出会う前のお前に戻れ。

お前だけじゃなく、もう手遅れの奴もいるだろうが、俺は最悪だけを避けられたらいいんだ。紫弦に何も起きなければ、それでいいんだ」

 彼の目に敵意と警戒が満ちる。

「もし、自分の欲望のままに突き進んでみろ。紫弦だけじゃない。お前も破滅するぞ。お前は・・・俺達の異分子なんだよ。このままだと、何が起きるか分かったもんじゃない」

 喋り終えた彼は背をむけて立ち去っていく。

 お祭り気分に水をさされたようで、僕は悲しくなった。うまくやっているはずだったのだ。僕はまた、以前のようにふさぎこもうとする。けれど、考えてみれば、僕にとって猪原さんは別にどうでもいい存在なのだった。

 そう思うと、僕の中には怒りが込み上げてきた。

 まったく、彼は僕のことをなんだと思っているのだ。まるで、僕がバンドにいることで、彼や音町さん、海原さんを不幸にしているみたいじゃないか。猪原さんは、さっき目の前で僕の存在を拒絶したが、他の二人は違う。僕が彼らのバンドに馴染めば馴染むほど、音町さんと海原さんの2人は喜んでくれるのだ。僕の行いが間違っているはずはないのである。

 したい事をして、喜ばれて認められる。

 僕がしているのはこれで、彼が、生理的に気に食わないという理由で僕からDead Heatsを奪うことなど、もう出来はしないのだ。

 彼が去って行った方向を見つめる。

 猪原さんに僕の幸福を踏みにじる権利などあるものか。今なら言えるが、僕のこれまでの人生なぞ、無価値で退屈なものだった。でも僕はその中を生きてきた。それは今ある幸福を手にするため、果たしてきた義務とはいえないだろうか。

 誰にも邪魔などさせない。

 彼が僕から音町さんを奪うのであれば、僕が先に彼から奪ってしまえばいい。

 

 弱肉強食なのだろう、この世界は。

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